今日の題名は "Late Comers and Developmental Education"

一体なんのこっちゃ、と思う人がほとんどだと思いますが、

実はこれ、今週学会で発表する自分の研究の題名です。

ミネソタのコミュニティカレッジで働いていた時に行ったリサーチです。


このリサーチの内容を説明する前に、簡単な用語の説明を行うと、


Late Comers: 学期が始まってから出願を出す人たち。例えば、この秋学期が9月1日から始まったとしたら、学生は9月14日までに出願をすれば、その秋学期の授業を履修することが出来るわけです。この9月1日から14日の間に出願した人を自分のいた大学ではLate Comers (遅刻者たち) と呼んでいました。


Developmental Education: 大学に入ったはいいものの、大学レベルの授業についていけない人たちのために設けられたプログラム。基本的に高校までに習ったことをおさらいする、ということです。


過去の研究では、この Late Comers は基本的に成績が低い傾向があり、その結果途中退学しやすい、ということが分かっています。単純に言えば、途中から授業に加わるわけだから、授業についていけないわけで、最初こけたら後々までそれが響くことになるということは、ある意味予想できる範囲です。実際、僕のいたカレッジでも、その通りでした。


また一方で、Developmental Educationに関する過去の研究では、このプログラムは逆に学生の成績を上げることに役に立っているということが明らかになっています。実際に僕のいたカレッジでもそうでした。


というわけで、ここで問題になってくるのは、じゃあ、Late Comersでかつ大学の授業のレベルについていくことができないのだけど、そういう人がDevelopmental Educationを受けたらどうなるのか、ということです。やっぱり、遅れて入学したから、だめなのか。もしくは、Developmental Education は、遅れて入学した人でさえも助けることができるのか。これが自分のリサーチの焦点です。


結果は、一言で言うと、Developmental Educationは、特に数学をしっかりやれば、Late Comersの成績すら上げることができる、ということでした。これについて、一度自分のいたカレッジの首脳陣に対して、プレゼンテーションをしたのですが、この結果は大学の首脳を大いに喜ばせました。


というのはなぜかというと、大学からしたら、Late Comersというのは頭痛の種なわけです。もちろんLate Comersが教育の質を下げているなんて事は周知の事実です。故に、外部の人からすれば、単純にLate Comersをこれから認めない様にすればいいじゃないか、という話なのですが、内部関係者からしたらそうもいきません。なぜなら、新入生の約半分がなんと Late Comers なんです。約2000人の新入生が大体毎セメスター入ってくるのですが、そのうち約1000人が学期が始まってから出願してくるわけです。


そして、さらにこれが一番の問題なのですが、コミュニティカレッジは州から財政援助を受けているわけですが、この援助額は、大学の学生数によって大きく左右されます。すこしでも州からの財源を増やしたい大学からしたら、一人でも多くの学生を確保したいわけです。これが教育の質を下げるとは分かっていても、Late Comersを認めざるを得ない理由なわけです。


というわけで、今回のリサーチの結果は、Developmental Educationさえしっかりしていれば、Late Comersを受け入れてもある程度は大丈夫、ということがわかったわけです。実際、このリサーチの結果が首脳陣のDecision Makingにどこまで役に立ったか、それを知る前に僕はその仕事をやめることになりましたが、自分がやっていたInstitutional Researchというのは、本当にやりがいのある仕事でした。今の仕事も別の意味でやりがいがありますが、いつかまたやってみたい仕事の一つです。


というわけで、明日からまた3-4日ブログまた休みます。

プレゼンテーション頑張ってきます。














今日は久しぶりに Chronicle of Higher Education の記事の紹介です。


記事の題名は「ハーバードは新しい投資家を見つけるのに苦労はしているけども、基本資産は25億ドルを超える」


"Harvard Endowment Exceeds $25-Billion, Even as University Struggles to Find New Money Manager"


http://chronicle.com/daily/2005/10/2005100303n.htm  (有料です)


アメリカの大学というのは、ほぼほとんどの大学が、自分たちの資産を運用しています。もっともその規模は大学によって全く変わってくるのですが、その基本資産の規模が大学の財政力の一つの目安になるわけです。


アメリカの大学の中で、一番大きな基本資産を保持しているのが、ハーバード大学で、記事の題名にもあるように、25億ドル(2兆7500億円くらい)で、ダントツトップです。その次に来るのがイェール大学で、こちらは約15億ドル(1兆6500億円くらい)で、その後に、University of Texas System、プリンストン大学と続きます。これくらいの大学になると、自分たちで投資会社をつくり、投資家を雇って、彼らに運用をさせているわけです。しかし、ほとんどの大学は、外部の投資会社と契約して運用を任せる、という形をとっています。


そして今回の記事の話ですが、ハーバードが所有する投資会社の話なのですが、今年初頭、この会社の社長を含む役員5人がそろって辞任するという事件がありました。記事によると、この会社の社長は凄腕の人のようで、1990年に来た当時4.7億ドル(今の通貨で5200億円くらい)だったのを、15年で5倍以上にしたそうです。


では、一体何が問題になったのかというと、それは彼らの給料にある、とこの記事では分析しています。2003年に、この会社の役員6人でなんとボーナスが100億円を越えました。これに対して、一部の卒業生たちから、そのようなお金があるなら学生の奨学金拡充に使うべきだといったような、痛烈な非難が起こり、結果的に85億円にまで下がるという出来事があったそうです。


しかし、この異常なまでの給料の高さは、投資家たちの間では、それでも市場価格以下になってしまうんだそうです。例えば、昨年一番稼いだ投資家は約35億円を稼ぎました。こういう人たちと比べたら、ハーバードの投資家たちは、割りに合わない仕事をしている、ということになるんだそうです。そういうわけで、このハーバードの投資家たちは、こういった市場感覚からしたらわけがわからない大学内外からの批判に嫌気が差し、自分たちで新たな投資会社を作ることにしたわけです。ちなみに後任は、今現在見つかっていません。


というわけで、この話皆さんどう思うでしょうか?


「投資家たちはなんてけしからん奴らなんだ!教育というものを全く分かってない!」と思う人もいれば、「その気持ちわかるなー」という人もいるでしょう。実際内部の細かい話は分かりません。


これがアメリカの大学の現実の一側面を表しているような気がします。アメリカの大学の職員全てが、教育に関する理解があるかというと必ずしもそうではありません。とくにFinanceに関わる人の間では、教育なんか全く興味ないなんて人が少なくありません。自分の仕事でいかに結果を出すか、そしてそれが大学の発展に繋がるのであって、大事なのは以下に自分の仕事で結果を出すこと、なわけです。


こういう人たちをまとめていくアメリカの大学ってやっぱり懐が大きいよな、と思った今日の記事でした。





今回は、前回の話の続きです。実際、アメリカの高等教育プログラムはどのような内容なのかを、自分の経験に基づいてお話しようと思います。もちろん、自分の経験が元となっているので、これがアメリカ全体をあらわすとは言い切れません。しかし、狭い世界なので、いろいろな人に会う中で彼らの大学のプログラムの話をしましたが、あまり各大学間で大差ないかなとは思います。


まず必修科目ですが、まず大体の大学がアメリカ高等教育史を必修としているところが多そうです。ここではその名の通り、アメリカの大学がどのように発展してきたかを学びます。この授業は非常に様々啓発を受ける授業でした。大学の存在意義など、基本的なことを確認する上で非常に有意義なクラスでした。


あとは、どこの大学もほとんどといっていいくらい、高等教育政策の授業を教えます。僕はこのクラスが自分にとってのベスト授業でした。教えてくれた人は、当時ミネソタ州の州の高等教育のトップに当たる、Executive Directorにあたる人が、僕が後々務めることになる、Midwestern HIgher Education Compact、で政策研究のDirectorとタッグを組んで、担当してくれました。さすが現場にいる人だけ合って、めちゃくちゃ勉強になりました。この授業が今思えば、今の自分の仕事に繋がっているわけです。でも、今から当時を振り返ってみると、何にも分かってなかったなーと若干恥ずかしくなります。


そして、あとは、統計の授業をとにかく取りました。これはマスターレベルでは人によりますが、Ph.Dではほぼ必修となります。全部で3つ取りました。この授業は、今リサーチという仕事をする上でとてもいきています。もっとも、統計というのを本当の意味で理解するようになったのは、コミュニティカレッジでInstitutional Researchをするようになってからですが。


また、Evaluationの授業を二つ取りました。一つはアンケートやインタビュー、Focus Groupのやり方、もう一つはCost Analysisというものです。ぶっちゃけ、子供だましのような授業でした。当たり前のことを言っているだけであって、統計の授業だけで充分だったようなきがします。Cost Analysisはあまり実用的ではないし、またもう一つの授業、いわゆるこれはQualitative Analysisといわれるのですが、1セメスターもかけて教えるものでもないと思います。コミュニティカレッジで、Qualitative Analysisを色々やりましたが、実際に実践する中でこういうスキルは自然と身につくものであると僕は実感しています。


この統計とEvaluation、これらの授業はMethodologyといわれて、どちらかを取らなければなりません。大学によっては両方必要、となるかもしれませんが。これらのスキルは、論文を書く上で必要になってきます。


これら上記の授業以外は、選択科目でした。例えば、学生の心理的発達に関する授業や、大学に入ってみたはいいけども、授業についていけない人のためのプログラムについてのクラス、組織論みたいなクラスもあります。


以上、ざっと僕がマスターで取った授業を中心に述べてみました。一言で言えば、総論的なことをざっと学ぶのがミネソタ大学の高等教育プログラムでした。はたしてこのプログラムを卒業すれば大学運営のプロが育つといえるでしょうか?

しかし、見方を変えれば、授業のみで大学運営のプロを育てようなんて方が甘いですよね。学生には責任もないし、職場で見られるような意思決定をする必要もない。また組織内の人間関係を読む、なんてことも必要ありません。そのようないわば「甘やかされた」環境で、プロが育つというのは無理な話ではないでしょうか。


僕はプロというのは、一つの道に徹し切った人にのみ贈られる称号だと思っています。一つの道に10年、15年、20年と徹する中で身につけた力、経験、洞察力というものというのは、簡単に崩れることはありません。そしてそういったものは学校に2-3年いたくらいでは教えられない、そう思うわけです。


しばらくぶりの更新ですいません。

ただ、言い訳をすると、本当は昨日ブログ書いたのですが、終了直前になって全て消えてしまい、完全にやる気をなくしてしまった、っという事情があります、ということでいつも見てくださる方、申し訳ありませんでした。


それで昨日は何について書いたのかというと、表題にもある通り、大学アドミニストレーター養成大学院、についてでした。アメリカの大学アドミニストレーター養成大学院をモデルにしたのか、最近日本で流行りはじめてますよね。というわけで、今日はアメリカにおける大学アドミニストレーター養成大学院の話をします。


結論から言うと、僕の意見では、アメリカには、大学アドミニストレーター養成大学院は、ほとんど存在しません。0とは言いませんが、限りなく0に近いです。


そんなことはない、アメリカにもHigher Educationという学問があって、その大学院のプログラムがあるじゃないか、と言う人もいるかと思います。もちろんそれはそれで間違いではありません。しかし、そのプログラムで学ぶことと、大学アドミニストレーターとしてのスキルアップは実際あまり関係ありません。やはり、教育学部の一専攻といった見方をした方が、実際のイメージをつかみ易いと思います。


実際、例えば大学のFinanceの仕事をする人を採るならば、Higher Educationの学位がある人よりも、 ビジネスの世界で会計をやっていた人や、MBAを持っている人を採用するし、Academic Affairのトップならば、やはりHigher Educationの学位がある人よりも、一癖も二癖もある教授陣をうまくまとめられるような教授として実績を残した人をとるわけです。またStudent Affairならば、心理学のバックグラウンドがある人、という感じです。


アメリカの大学のアドミニストレーターはプロの集団の集まりだとよく言いますが、それは彼らの学位のおかげではなく、様々なバックグラウンドをもったスペシャリストたちが集まるからだといえます。彼らは自分の経験を通してスペシャリストになったわけです。例えば、僕が在籍していたミネソタ大学の首脳陣では、Higher Educationのバックグラウンドを持つ人など、皆無に近かったような気がします。


ようするにアメリカの大学というのは、大学の内外問わず人材を集めることに力を注ぐわけです。ここが僕は日本の大学とアメリカの大学の差なのではないか、と思います。


大学というものは、非常に複雑な組織です。

このような複雑な組織で力を発揮するのは、大学の一般的な知識を持ったジェネラリストではなく、大学の一機能を知り尽くしたスペシャリストであるということはいうまでもありません。そして、アメリカのHigher Education のプログラムは、スペシャリストを育てているのではなく、結果としてジェネラリストを育てているわけです。それが、僕がアメリカには大学アドミニストレーター養成大学院がほとんど存在しないと最初に言った理由になります。




すいません。昨日書くと宣言しておきながら、見事にサボってしまいました。

というわけで、今日は先日紹介したEconomistの記事を読んで思ったことを書こうと思います。


基本的な記事の内容はは、ヨーロッパの立場から、アメリカの大学を見て、ということなのですが、ヨーロッパの大学の状況が良く伝わってくる内容だと思います。そして、ヨーロッパがどうすれば、ハーバードのような、世界規模の大学をつくれるのだろうか、という視点でアメリカの大学システムを分析しています。


というわけで、今日のテーマは、「日本も世界規模の大学がつくれるのか」というのを自分なりに考えて見たいと思います。


自分にとって世界規模の大学の条件の一つは、「世界中から人材が集まる場所」だと思っています。いわば、大学にいながら世界を実感できる、そんなところが世界規模の大学の条件の一つように思います。


結論から言うと、んー、難しい、って思ってしまうのが正直なところです。

やっぱりアメリカの大学とかを見ると、そういうことよく考えるわけです。

今後自分の考えがどう変わるかは分かりませんが、今の段階では、無理かなと思います。


そう思う一番の理由は、日本は他の国の人からしたら住みづらい場所、というのが挙げられます。英語の壁もあるし、それ以前に日本という国が外国人を受け入れられる状況にないと思います。これは社会のシステムというよりも、一般世間の精神性といったほうがいいかもしれません。


だから、僕が思うのは、日本の大学に世界規模の大学を無理してつくらなくてもいいんじゃない、ということです。ある意味社会的な基礎の部分が、そういった世界規模の大学の場所としてふさわしくないわけなので、政策レベルの話で何とかできるものではありません。また、教育の目標は、単純に言えば人材を輩出することであるから、世界規模の大学を日本に持つことが、人材輩出の必要条件なのか、というと必ずとはいいきれません。


そういうわけで、僕の提案は、逆に、今の世の中の流れを利用するということです。その方が、コスト的にも楽だし、現実的かなという気がします。今、世界の学問の中心がアメリカ・イギリスなら、それを利用する。具体的に言えば、アメリカ・イギリスの大学院で日本の学生を育ててもらう。アメリカの大学教育の最大の特徴は、大学院教育であって、ここが日本にはないものです。


したがって、現在の教育システムを、6・3・3・4プラスアメリカの大学院、という風にとらえて、教育の最後の部分をアメリカに肩代わりしてもらう、ということにしてしまう。そして日本の大学はそれを全面的に支援し、以下に多くの学生をアメリカの大学院に送れるか、ということに勝負感を持つわけです。いわゆる予備校が、東大何人!というところで競い合っているようなものです。


もちろん、こんな夢物語のような話が実現するわけはないですが、どこかの私立大学一つでいいから、こういうことをやってくれたら、日本の大学ももっと面白くなるんじゃないかなと思います。





















最近、Economist という英国系の雑誌に、アメリカの大学に関する特集が組まれていました。高等教育のバックグラウンドを持ってない人が書いたせいか、若干表現に極端な部分がありますが、よくアメリカの大学事情を描いていていると思います。全部で7つの記事からなっています。


http://www.economist.com/surveys/showsurvey.cfm?issue=20050910


僕も全ての記事を読んだわけではないのですが、要するに、この記事では、“Global University”という観点から、アメリカの大学はそうなってきているという話で、その理由を様々な観点から述べている、というような感じです。


今日明日でじっくり記事を読んで、明日のブログで、この記事の感想を書くことにします。今日は簡単ですがこの辺で。



今まで、マクロ的にアメリカの大学史を見てきましたが、今日は一人の個人に焦点を当てて見ようと思います。


その人の名は、Thoma Jefferson 、独立宣言起草者・第3代アメリカ合衆国大統領として日本でも有名な人物です。アメリカの歴史は彼を抜きにしては語れないように、アメリカ大学史においても彼は重要な役割を果たしています。


独立宣言起草者・第3代アメリカ合衆国大統領という肩書きは日本でも有名かもしれませんが、日本でそこまで知られていない事実は、彼はUniversity of Virginia (以下UVA)の創立者だということです。1820年頃に出来た同大学は、アメリカにおける最初の州立大学として、アメリカの大学のその後の流れをつくりました。


ただ、誤解を招きやすいのは、UVAが創立される以前にも、州立大学は存在していたではないか、ということです。例えば、North Carolina, Georgia, Ohioなどにはすでに州によってたてられた大学は存在していていました。しかし、これらの大学は現在のPublic Universityの形とは程遠い、むしろ私立に近い大学形態でした。政府は拠出金を出していましたが、運営は民間に委託されて、公的機関ではなかったわけです。また拠出金といっても、税金の投入が始まったのは、多くの州では南北戦争以降になります。そういう意味で、州政府も大学に対してなかなかいいたいことがいえなかった状況でした。

アメリカ建国から19世紀初頭の大学教育は、大学というよりも、高校といったほうがそのイメージに近く、また先日のブログで紹介したように、各大学も未だに根強く聖職者教育を行っていたので、大学では実社会で役に立つような教育をしていないという批判が起こっていた時代でした。

そのような時代背景の中、Jeffersonは一貫して、Public University の重要性を主張していました。彼は、国の草創期にあたって、私立大学だけでは国の発展を担うことはできないと考えていたわけです。国の発展のためには、国が必要とする人材が必要であり、その人材を養成する教育機関、すなわち政府の管理下にある州立大学が必要であると考えていました。それは、当時の教育は、宗教の一教義の価値観に支配されている側面があったことがあげられます。故に彼は、宗教にしばられない、質の高い教育を市民に提供する大学が必要であると考え、そのために、教会ではなく、州政府によって運営される大学が必要だと考えたわけです。


まず、最初の彼の試みは、彼の母校である、William and Maryを州立大学にしてしまおうということでした。そして、彼はそこで理想的な教育を行うことを描いていました。しかし、彼の意思に反して、この試みは失敗します。しかしそれから40年ほど経過した1818年、大統領を引退した彼はバージニア州で、州立大学設立の法案を通過させ、彼の長年の夢はついに実現されることになります。


彼は場所選びから自分で行い、建物のデザインも考え、カリキュラム立案、そして教授選び等にも加わったりと、まさに全精力を込めて、大学の建設に取り組みました。また一方で、政府に圧力を欠け、財政の確保にも取り組み、まさにJeffersonが手作りで作り上げた大学がUVAなわけです。


UVAは「彼の老年期の子供」といわれるほど、彼にとって大事な存在で、彼は80数歳という高齢にもかかわらず、開校された後も毎日のように彼の愛馬に乗って、キャンパスを訪れたようです。その彼を、当時の学生は、「背の高い、威厳のある、質素なしかし綺麗な服を着た老紳士」が毎日のようにキャンパスに来ていた、というように記憶しているそうです。また、彼は多くの教授を彼の家に招き、夕食をともにしたりもしました。そして彼は晩年を大学の発展のために奉仕し、1826年に亡くなります。


UVAは後のアメリカにおける州立大学のモデルとなりました。今では州立の4年制の大学は全米で657ありますが、その淵源はまさに19世紀前半に一人の老紳士によって創立されたUVAにあるわけです。




先日まで4回にわたってアメリカ大学史を簡単に紹介してきましたが、今日は少し別の話をしたいと思います。


現在、アメリカの大学の質は世界一といわれ、学問の拠点は間違いなくアメリカにあります。一方日本といえば、一部の理系は世界水準を誇りますが、しかし全体的にはアメリカとの差は大きく開いてしまっています。一体この差はなぜ生まれてしまったのか?


アメリカの大学の大きな特徴の一つとして、それは国ができるより先にできた、ということがあげられます。先日も紹介したように、1776年の独立前にすでに9の大学が存在していました。また、独立以降次々と新しい州が増えていきましたが、州として認められるには、大学がなければなりませんでした。


また、当時のアメリカは、合衆国以上に自分たちの住んでいるコミュニティに対して強い帰属意識を持っていました(ある意味今もそうかもしれません)。移民たちの集まりである彼らのコミュニティは、彼らの手によっていわば0から発展させていかなければならず、彼らはそのために知恵を振り絞ったわけです。その切実な状況から、教育、とくに高等教育の社会の発展における重要性を認識せざるを得なかったわけです。いわば、彼らは生き残っていくために、教育が必要不可欠と考えたわけです。


大学というのは、そのコミュニティの発展のために、地域の人が協力しあってできていったわけで、地域に点在する彼らにとっては、国の発展というのは2の次のような話であり、連邦政府なんていうのはそれこそよそ者扱いだったわけです。また、当時は鉄道もまだまだ不十分な状況で、アメリカが国として独立したとしても、コミュニティ同士の連携もままならない時代でした。各コミュニティには独自の文化があり、アメリカ独立以降、その独自性はさらに強まっていきます。


一方日本では、帝国大学という言葉に象徴されるように、国が主導で教育システムの構築が行われてきました。そして明治期に日本政府が参考にしたのは当時学問の中心地であったヨーロッパ、特にドイツ型の大学システムを取り入れます。ヨーロッパのケースを参考にしながら、日本政府は全国に国立大学をつくり、富国強兵のために、日本という国家の発展のために大学をつくりました。国の面積がそこまで大きくなかったということも、国主導で教育改革を行うことが出来た理由の一つだと思います。


日本の大学とアメリカの大学。どちらも大学のルーツは同じ時期のヨーロッパにあるわけですが、なぜ現在ここまで差が出てきてしまったのか。


それはアメリカと違って日本の大学には形だけが持ち込まれ、その根底に流れる精神性は日本の民衆レベルで根付かなかった、ということにその根本的な理由があるように思います。民衆が理解する前に、国でさっさと整備されてしまったわけです。たしかに形は整いましたが、その本来意味するところは民衆の間には浸透しませんでした。


しかしアメリカでは、民衆レベルで教育の重要さが認識され、人々は、自分たちのそれぞれの思いを大学に託し、民衆たちによって大学がつくられていきました。大学は彼らにとって未来そのものだったわけです。


実にこの大学に込められた思い、これが今のアメリカの大学と日本の大学の違いを生んだのである、といえばそれは言い過ぎになるでしょうか?




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(昨日からの続き・・・昨日のブログはこちら


1819年のDartmouth Case の決着によって、政府は一切私立大学の内政に手出しをしてはいけないということが法律によって明らかになり、この時代頃から現在のアメリカの私立大学の原型ができてき始めます。そしてアメリカ各地に点在している私立大学も、いよいよその独自性を強めていきます。


しかし、その一方で、旧来の私立大学は、新たな試練にぶつかります。独立してしばらくたったアメリカ社会は、未だに聖職者養成学校と等しい状態の大学に対して不満を抱き始め、例えば、当時全く使われていなかったラテン語の習得が依然として大学教育の根幹にあったり、もっと社会に役に立つような学問を学生に教えるべきだという世論ができはじめました。その流れの中で、実用的な学問を教える大学がちらほらでき始め、それに押されるような形で旧来の大学でもScienceを教えるようになりました。この技術系の学校は、いわゆるTechnical Institute といわれるものですが、18 62年のMITの創立によってさらにその発展の加速度を増していくようになります。


また、この頃増え始めたのが、植民地時代にできた大学より宗教色の強い宗教系大学です。植民地時代の大学は、PublicとPrivateのはざまに苦しんでいたということもあり、独自の宗教教育を完全に打ち出すことが出来ずにいたわけです。各大学は、自分たちの大学を健全に運営するためにも、不本意ながら別の教義を信じる人たちと協力しながら大学の運営をしなければなりませんでした。しかしDartmouth Case 以降、政府の干渉の恐れがなくなったということで、各地の教団は次々と自分たちの大学をつくっていきました。


この1800年-1850年という時代は、アメリカの歴史において、もっとも複雑な時代であったように思います。アメリカがハード面とソフト面両方にわたってインフラを一つ一つ整備していく中で、建国の息吹に燃える革新の人たちと、過去の遺産を守ろうとする保守派がぶつかり合い、どっちも相譲らなかった、一面から言えばそんな不安定な時代といえます。昨日紹介したDartmouth College の勝利は、保守派の勝利であり、Technical Instituteの発展は、革新派の勝利といえます。また、Practical な学問が求められる中で、宗教系の学校が次々とつくられているわけです。


しかしこの時代に、アメリカの大学の多様性は一気に広がり、アメリカの大学教育は大きく拡大しました。自分たちのコミュニティに大学をもつことが、一つの社会現象になった時代でもありました。人々は競って大学をつくり、中には財源が脆弱なのにもかかわらず設立してしまい、後につぶれてしまったり、また大学とはいっても内容が伴わない、中学や高校のレベルとなんら変わりはない、といったような大学が勃興した時代でもありました。一説では、1900年の段階で少なくとも25%の大学は高校と全く変わらない、とも言われています。


しかしアメリカ大学史におけるこの時代の重要性とは、実にこの社会の複雑性だったように思います。この時期に革新派と保守派がぶつかり合いながら新しいものをつくり上げ、そしてそれは社会の多様性を強めていきました。この多様性は現代のアメリカの大学の重要な特徴の一つでもあり、そしてその根源はこの不安定な時代に遡るわけです。


この歴史が語る教訓、様々あると思います。



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数日振りの更新です。

いつも見ていてくださる方、更新が止まってしまってすいませんでした。

今日からまたしっかりと毎日更新していきたいと思っています。


というわけで、前回の続きで、アメリカにおける私立大学の成立過程についての話です。19世紀の初頭まで、アメリカではPublicとPrivateの区別がなされてなかったという話をしました。


今日の話の舞台は、アメリカニューハンプシャー州にある、Dartmouth College. 植民地時代にできた9つの大学のうちのひとつで、現在のIvy Leagueの一つでもある大学です。


この大学の際立った特徴としては、イギリス国王から許可をもらってできた大学だということです。1769年に Eleazar Wheelock という人によって創立されました。彼は創立者として、大学の建設に力を注ぎました。そして彼は自分が世を去る前に、自分の息子に大学の学長を譲ります。


ところがこの息子である、ジョンは、軍人出身で、当時の学長として必要とされた学問や素養が全くない人で、地元の教会や、大学の教授たちと衝突しては問題を次々に起こし、彼は父親から引き継いだ権力を徐々に失い、そのパワーは大学の理事会へと移行していきました。


この状況に苛立ったジョンは失った権力を取り戻すべく、州政府へ理事会を訴えました。それに憤慨した理事会は、その対抗策として、ジョンを学長職から罷免しました。


州政府もこの大学内の権力闘争に参加しました。政府としては、州の管理下にある大学をなんとかつくりたいという願望を長い間抱いてきていたということもあり、今回のこのDartmouthの紛争を利用して、州立大学にしてしまおうと企てたわけです。その結果、州政府はDartmouth Collegeを改編して、Dartmouth University にするという法案を成立させてしまいます。


しかし、これを実行に移すためには、理事会の承認が必要でした。そこで、州政府は理事の人数を拡大し、新しい人は、ジョンに好意的な人たちを理事に据え、半数以上がジョンの支持者になるようにし、無理やり、理事会の承認をとってしまいました。新しい理事会は、ジョンをDartmouth University の学長に選び、州政府とジョンのもくろみは達成されたかのように見えました。


ところが、もともとの理事たちはこのような州政府の横暴を黙って見過ごすわけはありませんでした。彼らはもともとのDartmouth CollegeをDartmouth University から分離させ、2つの大学行政がしばらく続く、という時期がしばらく続きました。もちろん、このまま事が平和に終わるなんて事はありえなく、一体どっちの大学がDartmouthを名乗るのかというところで当然議論が起こり、この問題は裁判所で争われることになりました。


この裁判の争点は、50年ほど前にDartmouthが創立された際にイギリス王室から獲得した許可が、果たしてPublicなものなのか、それともアメリカが独立してしまった以上、単なるPrivateな契約なのか、ということでした。


すなわち、もしこれがPublicなものならば、州政府はそれを修正する権利があり、州政府が理事会を操作したり、勝手にDartmouth Universityをつくってしまうということは、法的に問題なし、ということになります。


しかし、もしこれが植民地時代に取り交わされた私的な契約で、州政府とは全く関係がない、という話になるのなら、州政府の介入は憲法違反になり、Dartmouth Collegeの勝利になるわけです。


第1戦、ニューハンプシャー州の裁判所は、Dartmouth University に軍配をあげます。Dartmouth Collegeはもちろん控訴、勝負は連邦裁判所へと持ち込まれます。そしてこれが、アメリカ高等教育界における、最初の連邦レベルの裁判、そして介入となります。そして連邦裁判所は、州の判決を退け、50年前の許可書は私的な契約であるとして、Dartmouth Collegeの勝利となります。


この裁判は、アメリカの私立大学という定義を確立しました。実は、Dartmouthだけでなく、他の大学、ハーバードや、イェール、プリンストンなど、他の植民地時代につくられた大学も、Dartmouthと同じようなジレンマ(PublicなのかPrivateなのかということ)を抱えていたわけです。これら他の大学では、Dartmouthのように裁判沙汰にならなかっただけであったので、このDartmouthの裁判は、当時のアメリカ高等教育関係者にとっては重大な判決だったわけです。もし、Dartmouth Univerisityが勝っていたら、今のアメリカの大学の形は全く違うものになっていたかも知れなく、ハーバードや、イェールもPublicとなっていたのかもしれません。


また、この判決は大学、特に私立と政府との関係にも影響を与えました。これによって、政府は、私立大学内の行政に関与することを完全に禁じられたわけです。学問の自由という観点から見ても、この判決は重要なものになりました。一方、州政府の方も、この裁判を逆手に取り、その後Publicではないという理由で、私立大学への援助金を減らし、19世紀中ごろまでには、州政府から私立大学への援助はなくなってしまいます。州立大学が各地でつくられるのもちょうどこの頃になります。



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