アメリカの高等教育の特徴は大学院教育であるとよく言われます。

アメリカの大学院教育の魁となったのは、19世紀の後半に創立されたJohns Hopkinsですが、それ以来、アメリカの大学院教育は多くの人に高度な教育を提供してきました。

2000年の時点で、25-64歳のアメリカ人で、修士以上の学位を持っている人は、約1400万人になります。10人に1人は最低修士号を持っている、ということになります。


http://www.higheredinfo.org/dbrowser/index.php?evel=nation&mode=data&state=0&submeasure=59


日本でいうと大学院はほんの一握りの人がいく所、というイメージがありますが、アメリカの大学院はもっと大衆化が進んでいます。日常会話などで、たまに、"I'm thinking of going back to school"、といったことが聞かれますが、学校に「戻る」、といったような感覚が一般的な人々の大学院の見方のような感じがします。日本では、こういう場合は「進学する」だと思いますが、この辺が微妙ですが、日本とアメリカの大学院の捉え方の違いを表しているような気がします。


ともあれ、今日のテーマの、アメリカの大学院が機能する理由、ですが、これは言い換えれば、なぜアメリカの大学院の大衆化(しかも質を保ちつつ)がそこまで進んだのか、ともいえると思います。


これはアメリカの労働市場の影響が大きいと思います。

別の言い方をすれば、「社会の需要があったから」となります。


日本の社会と違って、アメリカの労働市場は、専門職市場です。日本のように、新卒一斉採用みたいなものはないし、基本的に中途採用です。仕事の募集も、会社として一斉に募集するのではなく、特定のポジションに空きができたから採用するという方が一般的です。


というと、どうなるかというと、一つのポジションに対する倍率というのは非常に高くなるわけです。新卒だけでなく、幅広い年齢の人がそのポジションを狙いに来ます。これは、役職が高くなればなるほど、また、責任が増えれば増えるほど、競争は激しくなります。そして、残念ながら、アメリカ社会では自動的にどんどん昇進するということは、特に今の時代はあまりないです。


そういう状況の下、当然の心理として、人々は自分のスキルアップを個別に行うわけです。いわゆる他人との差別化というか、いかに他の競争者と差をつけるか、自分の力を磨いた分、自分がやりたいポジションを手に入れる確率は高くなります。


しかし、仕事が細分化したアメリカ社会で、他の人よりも優れた専門的な力を身につけるというのは、なかなか一人でできることではありません。世界共通というか、独学というのは、なかなかできる人はそうはいません。


そこに答える形で、アメリカの大学院というのは存在するわけです。

つまり、社会人の間に、なんとかしてキャリアアップしたい、でも自分ではどうにもできない、でも何とかしなければ、この先昇進できない(可能性が高い)、そのような需要があるわけです。だから人々は競って大学院に行くわけです。


翻って日本ではどうなのかというと、はたして社会人の人たちの間に大学院に行かなければならいという需要があるかというと、ちょっと疑問です。やはりまだまだ年功序列が幅を利かす中で、その会社の中で積み上げたキャリアを中断してまであえて大学院に行くということに対してメリットがあるのか、なんとも言えません。


アメリカの大学院、とくにプロフェッショナルスクールは、純粋に学びたい人がいくところではなく、給料をアップさせたい人が行くところです。逆に言えば、だからこそ、大学院が大衆化したといえると思います。いわば、大学院というものがアメリカ社会の文化にマッチしたともいえます。


日本では、そもそも(アメリカ型の)大学院というものが社会から必要とされているのか?

もっとも今後そのような方向に時代は流れていくかもしれませんが、今の段階ではわからないですね。


アメリカでキャリアアップする方法について、よく考えます。

なぜ良く考えるのかというと、いろいろな理由がありますが、大きな理由は、アメリカでは、キャリアアップしないと、給料があがらない、というのが一番の理由です。といっても全くあがらないということではなく、毎年微増はします。もちろん、景気が悪い時はあがりません。


アメリカにおいて、給料が上がるとき、それは役職(=責任)が上がったときです。その時の給料のあがり方は、毎年同じポジションの人が上がる給料の額とは比べものになりません。


しかし、少なくとも僕の知る高等教育の世界では、年数によって自動的に昇進していくという年功序列システムはありません。また、給料が年齢に応じて日本のようにどんどんあがっていく、ということもありえません。例えば一つのポジションで、年収350万円ならば、そのポジションにいる限り、給料が毎年のようにどんどん増えていくということはないんですね。


また、組織内の人事異動、というのもないとは言いませんが、あまり聞かない話です。つまり、自分で何らかのアクションを起こさなければ、一生同じ仕事を繰り返しやる、ということになるわけです。もちろん途中で解雇されなければの話ですが・・・。


というわけで、人はどうするかというと、更なる高い給料を目指して、仕事を変えるわけです。そうすることによってしか給料は上がらないからです。これがアメリカの労働市場の流動性が高い理由です。


というわけで、当然のことながら、僕もキャリアアップを考えなければならないわけです。今の仕事は、すごく面白く、学ぶことが沢山ありますが、だからといってこの仕事を10年も20年もやることは考えられません。これは、僕の世代の同じような状況にある人なら考える当然の心理であって、まわりもそれは当然のことと考えています。一つの組織で10年も働いている人、というのは相当珍しいです。


というわけで、今の状況に甘んずるのではなく、さらに上を目指さなければならないのですが、さてそれをどうやっていったらいいものなのか、今から考えているわけです。


まず、確実にしなければいけないことは、書く力をつけていかなければならない、ということです。

基本的に、アメリカでは、書く力とリーダーシップは比例しているように思います。

Writingが下手なリーダーは未だかつて見たことがありません。

皆綺麗な文章を書くんですね。

やっぱり、誤字があったり、下手な文章だったりすると、見下されてしまいます。


あとは、外交力。

やはり、リーダー職になると、専門的な知識も必要ですが、それ以上に、外交力が必要となってきます。

外交力とは、相手を味方につけるという力と言いかえてもいいと思います。

自分の同僚とか、上司を見ていると、その辺の力がすごいなと、感嘆してしまうわけなのです。

そういううまい言い方があったかと、電話をそばで聞いてて思ったりすることがよくあります。

自分の場合、結局英語の力に行き着くわけですが、これは地道な努力しかないかなと思っています。


そして専門的な力。

この辺は、仕事をやるなかで身についていくかなと思っています。


いわゆる今自分が携わっている仕事は、エントリーポジションと呼ばれるものであって、それには専門的な力さえあれば良いわけなのですが、その上を目指そうと思ったら、それに先ほど紹介したプラスの力が要求されます。ここの壁を乗り越えなければ、次のステップには進めないわけですが、これを今後数年間で身に着けていかなければならない、さて、どうしたものか、と考え込まざるをえないこの頃でした。


今日もアメリカの政治に関する豆知識について紹介します。

財政年度、もしくは会計年度、という言葉をきいたことがあると思います(英語ではFiscal Year, FYとよく訳されます)が、この年度の区切り方についても、各州で変わってきます。日本は4月ー3月ですよね。


アメリカは、50州のうち、46州が7月ー6月というサイクルを採用していますが、アラバマ州とミシガン州、そして連邦政府は10月-9月というサイクル、テキサス州は、9月-8月、そしてニューヨーク州は日本と同じ4月ー3月なわけです。


また予算の立て方も州で変わっていて、1年ずつ予算の決定を行う州と、2年ごとに予算を決めていく州があります。2年ごとに予算を決めることを英語では、Biennial Budget と呼ぶのですが、現在20州がこのBiennual Budget Cycleになっています。


(詳しい情報は、National Association of State Budget Officers (NASBO)の The Fiscal Survey of Statesを参照。)


今日は何が言いたいのかというと、このNASBOに関連したことです。といっても、この組織うんぬんについての話ではなく、アメリカって、こういった政府関連の非営利組織(以下NPO) がとにかく多い、といことです。例えば、このNASBOは各州の予算を担当する人たちが作ったNPOです。また僕の職場は、各州の高等教育のCEOに当たる人たちが作ったNPOになります。こういったNPOは数え上げればきりがありません。


この政府系NPO、政府と何が違うのかというと、単純に言えば、政府が出来ないことをやるわけです。


ここからは僕の職場の話ですが、例えば、今、ある州が、大学が使い切らなかった州からの予算を、年度末に州に返還するという法案を提出しようとしています。この州は、今までは、余った額は来年に繰り越せるというルールだったのですが、それを繰り越せないようにしようとしているわけです。


それでこの法案を作成している人がふと思ったのは、「他の州は一体どうしているんだろう?」ということでした。そういうわけで、僕の職場に、他の州はどうやっているのか調査して欲しい、という依頼が来たわけです。


政府だけでは出来ないことは沢山あります。例えば上記のことなどは、日々の業務で多忙な人には調べている余裕なんてものはありません。自分の州のことは誰よりも知っているかもしれませんが、他の州の事になったら全く分からないし、いちいち調べている時間もないわけです。


日本にはこういった政策決定に影響を与えられるNPOが少ないような気がします。政府ができることは非常に限られています。予算も足りないだろうし、人も足りなければ、時間もない。しかし、そのような中で大事な法案が作成されていくわけですね。これは少し怖いような気がします。


NPOというと地域ボランティアの集まり、というようなイメージがあるかもしれませんが、それはあくまでもNPOの一部でしかありません。NPOとは基本コンセプトは社会の向上のために存在する組織であり、その「社会」の定義は地域コミュニティであったり、国であったり、または世界レベルなんてこともあるわけです。


日本はまだまだ「お上」の社会なので、政府の権限が非常に強いです。だからこそ、政府が正しい意思決定を出来るようにするためのNPO、「政府」と「民間(企業)」の間に入ってくるNPO、が必要となってくると思います。

今日、仕事で新しい発見をしました。

先日、自分の職場が、全米50州の高等教育のCFOに簡単なアンケートを行いました。


アンケートの内容は、もし、州からの財政援助を大学が使い切らなかった時は、その余ったお金はどうなるのか?ということですが、これって州によって全く違うんですね。僕はてっきり、全て州に返還するものだとばかり思っていました。僕のいたミネソタはそうだったんです。


ところが州によっては、返還しないでもいいというところが結構あり、改めて、アメリカというのは、州によってルールが全く変わる国だということを改めて認識しました。


アメリカというのは、州によって文化や政治形態が変わってきます。日本で言う県と、アメリカの州を同じようなレベルでとらえる人が多いかもしれませんが、それだとアメリカの正しい認識は難しいように思います。


それよりも日本という国と、アメリカの一つの州の方が、似ているような気がします。そういう意味で言うと、アメリカは50個の国が集まる国、さすがにそれは言い過ぎかもしれませんが・・・。


そういう意味で、「アメリカとはこういう国だ」と言い切ってしまうことはあまりよくないのかもしれません。各州によって変わってきますので。特に教育なんかは、州によって本当に変わります。そんなこといったら、ブログの名前を変更しなきゃいけないような勢いですが・・・。(でも面倒なのでしません)


ともあれ、日本からだと、アメリカは一つの国でしかないかもしれませんが、それはあくまでも日本を基準にした見方であり、日本を基準に世界を見ている限り、その国の本質は見えてこない、そう思います。


これは、人間関係にもいえますよね。

自分の基準のみで相手を判断しようとすると、それは相手を見誤ることになることが多々あります。

相手の立場にたったとき、初めて見えてくることってかなりあります。

そしてこうするためには様々な経験値が必要になってくるわけですが、やっぱり人間苦労しないと、物事の本質を見抜く力というのはつかないですね・・・。


今日の仕事でのささいな発見から、様々なことに思いをめぐらせた一日でした。


最近、ある映画を見ました。

The Emperor's Clubという、Kevin Kline主演の映画で、2-3年前に公開された映画です。

日本名は、「卒業の朝」だと思います。


内容は、アメリカの全寮制の私立高校、いわゆるBoarding Schoolを舞台にした、歴史の教員と、その学生たちをめぐる話です。Boarding Schoolというと、Dead Poet Society(今を生きる)という映画を思い出しますが、この映画はまた一味違った内容です。こういう学園系の映画はいわゆる感動させる系のものが多いのですが、この映画はそういうわけでもなく、結構面白いところをついているかもしれません。アメリカのエリート教育というもの、もしくは指導者を育てる、ということに興味のある人は見てもいいかもしれないです。もっともこのEmperor's Clubは70年代が舞台設定になっているので、今とは違うかもしれませんが。


この映画を見る限り、アメリカのエリート教育って、結構徹底してます。Boading School というのものは、全寮制のところが多いみたいのですが、規律がとにかく厳しく、そしてやたら勉強させられるようです。教師はPh.Dを持っている人が多かったり、最低修士、なんていうところもあるようです。


ともあれ、この映画、何が一番印象に残ったかというと、卒業生のその後なわけです。連邦政府の上院議員や、超一流大学の教授、大企業の社長、と社会のいわゆる指導者階級にどんどん人を送り込んでいるわけです。(親のおかげ、というのもあるかもしれませんが。)もちろん、この映画はフィクションなので、事実ではありませんが、しかし事実はこれに近いものがあるのだろうと推測できます。


自分が思うに、指導者というのは、口でいくら学生に「指導者に育つんだ」といっても無理だと思います。やはり、それに伴ったカリキュラム、プログラムが必要であり、「実践」の部分が大事になってきます。Boading School はこの実践の部分が徹底しているのかなと、個人的には思います。


これを別の言葉に置き換えるならば、「ミッション」もしくは「建学の精神」だけでは学生は育たない、ということになるように思います。どんなに崇高な目的を掲げようとも、それを実践する手段がなければ、それこそ絵に描いた餅になるわけです。


また、仮にそれを実践する手段があったとしても、それを実践する人がそのミッションをしっかり理解していなければ、その効力は激減します。


いわゆる伸びている組織というのは、この辺のチェック機能がしっかりしているように思います。ミッションの確認、そしてミッションを現実化する手段の効率性、そしてミッションがしっかり浸透するような組織形態になっているか等、こういうところに常に気を配るトップがいる組織で働く人は、やりがいがあるだろうなと思います。自分が前働いていたコミュニティカレッジでは、こういう確認作業ををよくやってました。今月、自分の職場でも、組織のミッションはじめ、組織そのものの確認作業を皆で行うことになっています。


こういうものは、トップがしっかりしていないと、まず機能しません。

どうせ働くなら、こういうトップがしっかりしているところで働きたいと思います。

そういうところで働くと、自分の才能というのはどんどん開発されていくんですよね。


Boading Schoolから、随分話がそれてしまいましたが、今日は、ふと思ったことを書いてみました。


General Collegeは、数々の実績を打ち立てて来たのにもかかわらず、閉鎖することとなってしまいました。昨日はその決定がなされるまでの話をしました。この決定はある意味トップダウン的な典型的なアメリカ型の意思決定でした。しかし、その一方で見逃せないのは、今回に限って世論がGeneral Collegeの擁護にほとんど回らなかったという事実です。事実、今回のGeneral Collegeの閉鎖の決定にかかった時間はわずか1ヶ月であり、あっという間に決まってしまったという観があります。なぜ世論は、General Collegeの擁護に回らなかったのか、今日はそれについての話です。


現在、アメリカの高等教育を理解する上での一つの重要なキーワード、それはAccountability (説明責任)です。大学や政府など、公金が使われている機関では、いかに効率的に税金が使われているか、それを説明するだけでなく、それらの公的機関は納税者を納得させる使い方をしなければならないわけです。これは、アメリカの財政が逼迫している時ほど厳しくなります。これは高等教育についてもそうであって、政府はいかにお金の無駄をなくすか、ということに血眼になります。


効率的なお金の使い方をするためには、効率的な組織が必要になります。州の高等教育においては、それは無駄なプログラムをなくす、ということに置き換えられます。Program Duplicationという言葉があるのですが、一般的に州政府はこれを排除する方向に向かっています。各州には、Chief Academic Officerという人がいて、この人が州の高等教育で無駄なプログラムはないかということをチェックするわけです。


General Collegeはまさに、このProgram Duplication に引っかかってしまったわけです。


ミネソタのPublic の高等教育システムは次の3つから成り立ちます。


1. University of Minnesota

2. Minnesota State University

3. Community College


1は、僕が通っていたミネソタ大学で、いわゆる研究型大学といわれるものです。2番目のMinnesota State Universityは、大学院もありますがどちらかというと、研究よりも学部教育重視の大学です。そして2年制のコミュニティカレッジとなります。


そして州の高等教育を担当する人から見れば、これらの大学システムの機能は次のように認識されます。


1.University of Minnesota (研究、大学院教育)

2.Minnesota State University (学部教育)

3.Community College (高校と大学の橋渡し)


そしてGeneral Collegeはといえば、その機能は間違いなく3のCommunity College的な役割を果たすわけですが、しかし、それが1のUniversity of Minnesota で行われてしまっているわけであり、それが問題だったわけです。


もちろんGeneral College と Community College はミッションは似ていても、その中身はかなり異なります。Community Collegeの教授はteachingが重視されて、研究をあまり求められませんが、General Collegeの教授たちはTeaching に加えて研究を行わなければなりません。General Collegeの研究も実は全国的に有名であり、Developmental Education の研究に関しては全米トップクラスの質を誇ります。General Collegeにおいては、教育とは研究の実践の場であり、教育で得た現場の知恵を研究に役立てるという、教育と研究の相互間でのフィードバックが行われていました。これはCommunity Collegeでレベルではできることではありません。しかし、州の高等教育の効率化という観点から見た時、それでもGeneral CollegeはCommunity Collegeと同類にしか映らなかったわけです。そして、残念ながら、世間も同じような認識をしました。


皆General Collegeは素晴らしいというけども、現在の経済状況では仕方がない、というのが今回の世論であり、一面から言えば、経済の論理に、教育の理想が屈した形といえます。財政の効率化という大号令のもと、それに添う全ての意思決定は正当化され、それに反するものは、その質の内容に関わらず消えていってしまっている。今回のGeneral Collegeの一件は、アメリカ教育界の現実を象徴しているような気がします。果たして、本当にそれでいいのか、疑問に思わざるを得ない、今回のGeneral Collegeの閉鎖でした。







ノーベル賞受賞者を輩出するなど、輝かしい歴史を残してきたGeneral Collegeですが、今年の6月、理事会によって閉鎖が決定されました。今日はその決定に至るまでの話です。


この話は直接的には、昨年の夏にまで遡ります。


昨年の夏、ミネソタ大学の学長が、ミネソタ大学を世界でTop3に入るPublic University するという意思を表明し、そのための改革に乗り出しました。彼は教授とスタッフからなる特別調査委員会を2つつくり、それぞれに大学のAdministrationについての改革案、そしてもう一つには大学の学部の再編についての改革案を提出するよう命じました。そして委員会は今年の4月にその改革案を学長に提出し、学長はそれを自身の改革案として5月に理事会に提出しました。この改革案は全部で31の提案がありましたが、その中の一つに、General Collegeの閉鎖が盛り込まれていたわけです。


General College閉鎖の一番の理由、それは、General Collegeが大学の質を下げているということでした。彼らが特に気にしたのは、US News and World Report  で毎年行われる大学ランキングでどのような順位に入るかということであり、この順位を上げるためには、General Collegeに入ってくるような学生を受け入れることは出来ないということでした。


US News and World Reportがランキングを決める際、様々な指数が考慮されるのですが、その中の一つに、大学がどのような学生を受け入れているか、ということがあります。これは例えば共通テストである、SATやACTの平均スコア、また学生の卒業率、そして中退率、などが挙げられます。当然のことながら、General Collegeの学生は、平均スコアと卒業率は他よりも低く、中退率はかなり高くなってしまうわけです。例えば、ミネソタ大学の他のカレッジの新入生は、2年目には約86%戻ってくるのに対して、General Collegeはこれが75%にまで落ち込みます。また、ACTの平均スコアは、ミネソタ大学の平均で25、しかしGemeral Collegeは19になります。


今回の提案は、このように「ミネソタ大学の教育の質を下げている」General Collegeを、カレッジから降格して、学部(Department) にし、College of Education のもとに併合するというものでした。これに伴い、予算はこれまでの25%、スタッフもそれに伴って解雇されることになります。但し、教授だけはテニュア があるために解雇をすることは出来ません。一方、学生たちは一体どうなるのか。大学トップのアドミニストレーター達は、彼らはコミュニティカレッジに行けばよい、と述べています。


そして、この改革案は6月、11対1という圧倒的大差で理事会で可決され、正式にGeneral Collegeの閉鎖が決定しました。


今回の一連の話、表面だけを追うと今述べたような話なのですが、関係者の間では様々な憶測が飛び交っています。例えば、今回の改革案が成立するにあたって、General Collegeの関係者は誰一人として関わることを許されませんでした。General CollegeのトップのDeanさえ、改革案を見せられたのが、大学から正式に発表される1日前でした。


また、理事会での圧倒的多数での可決も、不思議の一つです。実は、General Collegeの閉鎖の話題が出たのは今に始まったことではなく、過去にこれまで何度となく、General Collegeの閉鎖が理事会の議題に上ったことがありましたが、しかしその度に理事会はその案を退けてきました。


舞台裏では一体何が起こったのか、または時代そのものが変わったのか、それは部外者には知る由もありません。政治的なものが絡んでいる、という噂もあります。おそらく両方であろう、と個人的には思います。


本当にこの決定が正しかったのか、今の時点ではわかりません。ミネソタ大学は約2000億円の予算があり、General Collegeにはそのうち約10億円しか配分されません。それでも世界Top3を目指すならば、仕方のない決定だったのかもしれません。


しかし、ミネソタ大学はただの大学ではなく、Land Grant University なわけです。州の発展のために、様々な人に教育を提供することを求められているわけで、General Collegeはそのミッションを忠実に守ってきたわけです。今回のこの理事会の決定は、そのミッションはもはやミネソタ大学にとっては不必要ということを意味します。


そもそもTop3の大学とは一体何を意味するのか。

ミネソタ大学は一つの大事なコアを失ってしまった、そう思わずにはいられません。

シリーズGeneral College、今日で3回目ですが、今日はGeneral Collegeがどのようにしてミネソタ大学に作られるようになったのか、その過程の話をしようと思います。今回の話は、先日紹介した本:"The General College Vision: Integrating Intellectual Growth, Multicultural Perspectives, and Student Development"を基にしています。


General Collegeの創立に影響を与えたものとして大体3つの思想があります。


1.Thomas Jefferson の学生の視点にたった教育

2.Land Grant University の「大学とは社会に貢献するためにある」という思想

3.John Dewey の「教育とは学生の無限の可能性を引き出すことにある」という思想


1のThomas Jeffersonの思想とは、先日 のブログでも若干触れましたが、一言で言うと、学生が学びたいものを大学は提供する義務がある、ということになります。彼はUniversity of Virginiaの創立を通して、実際に役に立つ、生きた学問を学生に教えることを試みました。そして彼はそういった教育に需要があると確信もしていたました。この、学生本位の教育、は後に様々設立されていく大学に影響を与えていくわけですが、General Collegeもその一つに入ります。


2番目のLand Grant Unviersity は昨日のブログにある通りで、大学とは社会に貢献するためにあるという思想です。General Collegeは、その中でも特に、大学に本来いくことができない貧しい人たちの為に大学教育を施すことによって、州の発展に貢献していこうという強い使命感があります。これはまさにLand Grant University の思想から来ているわけです。


Thomas Jeffersonは学生の為の教育という、教育における根本精神、そしてLand Grant Universityは社会貢献という使命感をGeneral Collegeに与えました。しかし、実際果たしてこのようなことが可能なのか。貧困階級からくる学生というのは傾向として、きちんとした初等・中等教育を受けていないわけです。このような学生たちに果たして高等教育を教えることなどできるのだろうか。しかし、この問いかけに対して、イエスと答えているのがJohn Dewey の「教育とは学生の無限の可能性を引き出すことにある」という思想でした。そしてJohn Deweyは、それが実際に実現可能であると述べるだけではなく、その理論も示したわけです。


この3つの思想を融合させ、実際の形に実現させたのが、ミネソタ大学の5代目の学長Lotus Coffmanです。彼はGeneral Collegeのような学校こそ、本来あるべき教育の姿であると考えていました。そしてGenral Collegeは、1932年に貧しい人たちのため、本来大学にいけないような人たちのためにミネソタ大学の1カレッジとして創立されました。


以来70年あまりが過ぎましたが、その間、数え切れない多くの学生を育ててきました。その中でももっとも有名な人物が、1970年にノーベル平和賞を受賞したNorman E. Borlaug でしょう。彼は、のちにGeneral Collegeなくして今の自分はなかった、というコメントを残していますが、彼を筆頭に、General Collegeは多くの人材を社会に送り出していったわけです。


世界の大学を見渡したとき、高邁な理想を掲げている大学はそれこそ星の数ほどあります。しかし、それを実践している大学となるとそれは限りなく少なくなるように思うのは自分だけではないと思います。それは、一面から言えば口だけの大学が多い、ということにもなりますが、別の視点から見れば、それは理想を現実に近づけるということがいかに難しいかということの証拠だともいえます。


つまり、大学の理念がその大学を偉大にするのではなく、実際にその大学が何を成し遂げたか、そしてどのような卒業生を輩出したかがその大学を偉大にするということになります。


しかし、そういった理想を実現させる大学こそ大学と呼ぶにふさわしい、僕はそう思います。





今年の6月、ミネソタ大学の理事会は、General Collegeの閉鎖を決定しました。

それについては、明日の話とします。



というわけで前回からの続きです。

なぜGeneral Collegeが、本来ならミネソタ大学に入れないような学生を受け入れているのか。

それは、ミネソタ大学のミッションと密接なつながりがあるという話をしました。

今日はそれについての話です。


アメリカには Land Grant University といわれる大学があります。1862年に、Morrill Act という連邦法によって定められた一部の州立大学のことを指します。この法律はアメリカの産業・農業をさらに発展させるための役割を担う大学を発展させるという目的のもと定められました。具体的には、この法は各州に、連邦議会に送っている上院議員の数×30,000エーカーの土地を大学に与え、さらにその後もその大学に対して財政支援をするということを命じています。


このLand Grant Universityのミッション、それはその大学がある州の発展に貢献すること、これに尽きるわけですが、その貢献する方法は、大まかに3つに分かれます。


①教育

②研究

③コミュニティへの貢献


このMorrill Actは、アメリカ高等教育の歴史を変えたといわれるくらいの効果がありました。これによって、大学の財政は安定するようになり、また、同時にこのMorrill Actは、州立大学に実用的な学問、当時で言えば農業、医療、技術系を教えることを定めています。これによって、州立大学は実際に州の産業を担う人材を育成する機関となっていったわけです。これは、これまでと違った学生を多大学にくひきつけるようになり、学生数はその後劇的に増えていきました。


というわけで前置きが長くなりましたが、ミネソタ大学は、このMorrill Act によって定められたLand Grant University なわけです。つまり、ミネソタ大学は、州の発展に貢献することを定めつけられています。


(ちなみにアメリカのLand Grant Unviersity の一覧はこちら)

http://www.nasulgc.org/About_Nasulgc/members_land_grant.htm


そして、そのミネソタ大学の中にあるGeneral Collegeは、このLand Grant Universityとしてのミッション、特に教育という部分でのミッションを果たすために1932年に当時の学長であった、Lotus Coffman によって創立されました。


General Collegeを語る上で、Land Grant Universityという概念を欠かすわけにはいきません。しかし、それではなぜ、General Collegeは、普通の大学のように、学力のある学生を受け入れるのではなく、あえて学力が大学レベルに至っていない学生たちを受け入れることに焦点を当ててきたのか。これはアメリカ高等教育史に残る一つの壮大な実験とも言えるものだと、僕は個人的に思うのですが、それは明日説明することにします。













今さっきカンファレンスから帰ってきました。

すいません。久しぶりの更新となってしまいました。


自分の参加したカンファレンスは、Minnesota Association for Developmental Education (以下MNADE)というミネソタのローカルなカンファレンスで、参加者は大体80人くらいの小さなものです。どちらかというと教授が多く参加したカンファレンスでした。


そのカンファレンスの中で最近出版された一つの本が紹介されました。


タイトルは、"The General College Vision: Integrating Intellectual Growth, Multicultural Perspectives, and Student Development" 


General Collegeは、ミネソタ大学にある10いくつあるカレッジの一つで、ミネソタ大学の中でかなり異色なカレッジとして、アメリカ高等教育界の中で知られています。


本は全部で25章からなっていて、General Collegeの歴史、教育理念、実践など、様々な観点から、General Collegeというものを述べています。著者はGeneral Collegeで働く教授、スタッフ、大学院、そして一部の学部生がそれぞれの章を担当してこの本は書かれました。


このGeneral College、何が異色なのかというと、主に次の点が挙げられます。


①他のカレッジが全て4年生なのに対して、このGeneral Collegeだけ2年制である。

②他のカレッジは学位を授与することが出来るのに、General Collegeだけは授与出来ない。

③本来ならばミネソタ大学に入ることができない人たちを受け入れている。


特にこの3番目の理由が、General Collegeをしてミネソタ大学の中で異色の大学といわれる一番の理由にしています。


アメリカには、Developmental Education、もしくはRemedial Educationと呼ばれるプログラムがあります。これは一言で言うと、高校を卒業して、大学に入ったはいいものの、大学の授業のレベルについていけない学生たちのためにつくられたプログラムで、このプログラムに入った学生は、個人の学力に応じて、様々な授業をとらなければいいけません。


基本的に学生の基礎学力は、数学、English Reading、そしてEnglish Writing の3つで判断され、学生は入学前にAssessment Test を受け、Developmental Education が必要かどうか判断されます。もし必要と判断されたら、学生は定められたプログラムを取り終えるまでは、大学レベルの授業をとることが出来ません。


しかしここでポイントなのは、Developmental Educationは、出願したら全員入れるというシステムを採用しているCommunity Collegeで本来見られる話であって、ミネソタ大学のような研究大学でこのようなプログラムを行うカレッジを持っている大学は他に存在しない、ということです。実際ミネソタ大学くらいのレベルになれば、出願者が定員より多いので、大学の授業についていけない学生を取る必要などないわけです。しかし、このGeneral Collegeというのは、あえて、学力が低い学生を入学させ続けてきたわけです。


このGeneral Collegeのミッション、それは、本来ミネソタ大学でに入ることができないような学生を2年間、General Collegeで育て、ミネソタ大学の他のカレッジや、他の4年制大学に編入させるということにあります。General Collgeは、Community Collegeで行われているDevelopmental Education Program を進化させた形といえるかもしれません。


General Collegeがこのようなミッションを持っている理由は、ミネソタ大学のミッションと深く関わっています。それは明日に回すことにします。