【鷹爺のつぶやき】

柳井 剛(やない つよし)の自己紹介

柳井 剛(やない つよし)です、自己紹介させて戴きます。

私は今年で82才です、

島根県津和野町大字溪村45の5地に生れ。

島根県立江津工業高等学校を卒業し、

北九州の当時の八幡製鉄所第五製鋼部転炉係に作業員として入社しました。

当時バブルの最盛期で製鉄所も次々と新工場の立ち上げが有り、私は八幡製鉄所→戸畑製鉄所→大阪堺製鉄所→千葉木更津製鉄所→千葉君津製鉄所と転勤が続きました、

創価学会入信は、戸畑ですが活動の最盛期は大阪堺~千葉木更津です、

男子部班長として戦いました、

「我こそは世界の救世主」なりと、常勝関西の真っただ中を戦って来ました、

そして千葉の木更津製鉄所で会社を辞め小さな大栄鉄工所(機械加工)なる有限会社を友と設立しました。

家内は江川食堂と言う小さな食堂(居抜き)を借り営業しました、近くの千葉江川駐屯部隊(自衛隊)のお客さんが沢山来てくれ繁盛しました。

しかし私の会社大栄鉄工所(中古旋盤5台の小さな加工修理工場)の方がバブルがはじけ次第に仕事がなくなり倒産に至りました。

そして色んな会社マツダ広島東洋工業・日産自動車下請け工場・運送会社と転々としたあげく、

家内の里、今の福岡県豊前市にたどり着いたと言う事です、

家内には最大の苦労を掛けっぱなしです、詫びのつもりで家内の親族兄弟の多いここで生涯を暮らす積りです。

昔男子部で家庭や地域会社を置き去りにした詫びです、

家内は現在、私の男子部班長当時以上の地区副白ゆり長として戦っています、

この度の任用試験も地区受験者4人の勉強会を毎晩やりきり全員合格となりました。

※ 写真は私の男子部班長の時(約50年前)の池田先生との永遠の誓いの班長撮影会(東大阪布施体育館現アリーナ)で撮ったものです、(私は最後列から2列目の向かって左から5人目です。

立っているの画像のようです

4あなた、幹一百田、すギやマ ゆウぢ、他1人

千穂ちゃんへ
「千穂ちゃん、本当にありがとう、剛叔父さん・美智子叔母ちゃん心から感謝しています。千穂ちゃんから受けた数々の、温かき支援・寄り添い・励まし、あの世に行っても永遠に忘れませんからね、千穂ちゃんから受けた大きな大きな愛の宝物は永遠にわたしたちの宝物です、本当に有難うね、莫大な大きな大きな宝物は金や札束には変えられません、これはほんの寸志としてうけとってね。すくすくと立派に育て挙げてるお子達に御馳走でもして挙げて下さい。本当に本当に有難うね。」     剛爺より


【御書本文】
日蓮が云く一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし(御義口伝巻下p758)

【通解】
一切衆生のさまざまな苦悩は、ことごとく日蓮一人の苦である。

【拙コメント】
人間の大きさとは、ある意味どこまでを自分の責任とするかによって決まるのではないでしょうか。眼の前で困っている人さえ、見ぬふりをして助けない輩も多い昨今、大聖人の哲学には、まさにこれからの人類を救うヒントが散りばめられていると感じます。

〈信仰体験〉 愛され、守られ創業70年の電器店 妻は乳がん、夫は胃がんを越え2022年5月19日

  • 「ありがとう」に光る負けない心

奈良さん㊨と夫・芳樹さんがお互いによく口にする「ありがとう」。「地域に恩返しすること、それを夫婦で一緒にできることに感謝しかないんです」と

奈良さん㊨と夫・芳樹さんがお互いによく口にする「ありがとう」。「地域に恩返しすること、それを夫婦で一緒にできることに感謝しかないんです」と

 【東京都豊島区】東武東上線の下板橋駅から程近くに、「快適な暮らしのお手伝い」との青い看板を掲げた「㈲奈良電気商会」がある。街の電器店として明年で創業70年。約10坪の店の1階部分は半分が事務スペース、もう半分に商品が丁寧に並べられている。奈良裕美さん(70)=区副女性部長=は、夫・芳樹さん(69)=副支部長=と共に、訪れる一人一人を笑顔で迎える。夫婦は地域への感謝の思いを力に変え、病や経営難を乗り越えてきた。

「おしゃべりをしていて、ポロッと出た悩みを聞き逃さず、できることをやらせていただきます」と奈良さん夫婦

「おしゃべりをしていて、ポロッと出た悩みを聞き逃さず、できることをやらせていただきます」と奈良さん夫婦

 2011年(平成23年)4月、就寝しようとして横になった奈良さんは、左胸に違和感を覚えた。触ってみると、“何か”できている。思わず、ぞっとした。

 翌日、近くの病院へ行くと、総合病院を紹介された。生体検査やMRI検査などがすぐに行われた。

 “まだ病と決まったわけじゃない。少し休めば、きっと……。だって、お店も学会活動も忙しい。こんな時に倒れるわけにはいかない!”

 当時、電器店は連日、大忙しだった。その年の7月に地上デジタル放送に完全移行するため、対応するテレビの発注や工事の依頼が殺到。予約は1カ月まで埋まっていた。

陳列できる商品はわずか。多くはカタログからの注文になっている

陳列できる商品はわずか。多くはカタログからの注文になっている

 翌月、検査結果を聞きに再び病院へ。医師から乳がんと診断された。腫瘍は3・4センチ。進行が早いがんだと告げられた。ショックは大きかった。

 6月、腫瘍とリンパ節の切除を行うと、リンパ節にも転移していたことが分かった。翌月からは半年間の抗がん剤治療。副作用で倦怠感が続き、体に力が入らなかった。

 追い打ちを掛けるように、“地デジ化”関連の仕事がなくなると店の売り上げは激減。客足も止まった。

 “なんで、こんな時に……”。不安に押しつぶされそうだった。

夫・芳樹さんの丁寧な仕事ぶりに顧客からの信頼は厚い

夫・芳樹さんの丁寧な仕事ぶりに顧客からの信頼は厚い

 ――奈良さんが芳樹さんと結婚したのは30歳の時。夫が生まれた年に義父母が創業した店は、日用品からラジオ、テレビと時代の変遷に即応してきた。

 順風満帆だったが、結婚から2年後、義父ががんで急逝。若夫婦で店を切り盛りすることに。それまで経営面には全く関わってこなかった芳樹さんだったが、2代目として店を継いでからは、慣れない社長業をこなしながら、営業にも工事にも走りに走った。また地域のイベントがあれば、役員を買って出て音響から電気関係の配線など全てやった。

 真面目で誠実な人柄に信頼が寄せられ、池袋本町通り商店会の会長や豊島区商店街連合会の副会長などを任されるまでに。

お客の相談にとことん耳を傾ける芳樹さん

お客の相談にとことん耳を傾ける芳樹さん

 奈良さんは正直、そこまでやらなくていいのではと思っていた。2人の子を養っていくためにも、「もっと仕事に集中してほしい」と頼んだこともある。

 だが芳樹さんは言う。「この店は地域に支えられている。全部、恩返しなんだ」と。夫の話は正論だが、素直になれない。そんな自分にも腹が立った。

 病はそうした時に発症した。御本尊に向かい、“ここで倒れるわけにはいかない”と決意の題目を唱える。半面、“このまま、病にも経済苦にも負けてしまうのかな”と不安もまた、込み上げてくる。

困っているお客がいれば、すぐに駆け付ける

困っているお客がいれば、すぐに駆け付ける

 ある日、芳樹さんが「今日は時間あるか?」と聞いてきた。久しぶりに、食事をしながらゆっくり話をした。

 店が明日どうなるかさえ分からないのに、夫はうれしそうに池田先生のことを話し、訪れたお客の悩みを心から心配していた。

 “夫はずっと変わらない。それが、私に足りないものなのかな”

 2駅先の池袋駅周辺は大型量販店が立ち並び、品数も豊富で値段も安価だ。それでも常連客は、奈良さんの店で購入する。「いつもお世話になっているから応援したい」と言ってくれる。

奈良さん㊥が大変な時、いつも地域の同志が支えてくれた

奈良さん㊥が大変な時、いつも地域の同志が支えてくれた

 確かに夫は、一人一人の家の造りや場所、家族構成などを分かった上で、商品のアドバイスをしていた。購入後の相談にもとことん乗る。「安心感が違う」とお客は言う。

 “私は心のどこかで『夫のお店』と思っていたのかもしれない。そうではなくて、ここは『私たち夫婦のお店』だ。私が守る場所なんだ!”

 御本尊に、強く深く誓願の題目を唱えた。力が湧いてきた。

 “必ず、信心で病を乗り越えます。そして元気になって、私たちの店を守ります!”

コロナ禍の中で、地域の商店街の仲間たちと支え合っている

コロナ禍の中で、地域の商店街の仲間たちと支え合っている

 電球を買いに来た女性がいた。「ありがとうございます!」と笑顔で見送ると、「大変だと思うけど頑張ってね!」と。何気ない一言の温かさが、胸の奥にじわっと広がった。

 「病になって、自分は一人じゃないと分かったんです。そう思えたら、お客さま一人一人に心から『ありがとう』って言えるようになりました」

 病は人との向き合い方も気付かせてくれた。同じような悩みであっても、人によって捉え方は違う。だから、悩みに直面した目の前の一人が、どう考え、何を一番心配しているのか、じっと耳を傾ける。

 そうした姿に、長年、仏法対話を続けてきた友人が18年に入会した。「一番大変な時に、いつも寄り添ってくれました。その真心がうれしかった」と。

お客一人一人に真心を尽くす

お客一人一人に真心を尽くす

 「決めた戦いは 断じて勝つ! これぞ 豊島の伝統なり!」――池田先生のこの言葉を、何度も何度も読み返してきた。そのたびに心が奮い立った。

 その後、店は顧客に恵まれ、苦境を脱することができた。がんとの闘いも、放射線治療の後、ホルモン治療を。そして10年が過ぎた昨年、医師から「卒業」と告げられた。

長編詩「わが『鉄の団結』の豊島の友に贈る--永遠なれ 創価の都」

長編詩「わが『鉄の団結』の豊島の友に贈る--永遠なれ 創価の都」

 奈良さんの闘病と入れ替わるように、昨年8月、今度は芳樹さんに胃がんが見つかった。奈良さんは“私が必ず守る!”と誓った。

 芳樹さんは胃の5分の4を切除。懸念されたリンパ節への転移はなく、医師は抗がん剤治療はしなくていいと。術後、奈良さんは、夫の工事に同行し手伝うようになった。

 芳樹さんは「今では、私より顧客の側に立って、納期などを催促してくる(笑い)。何より、明るい性格だから、みんなを前向きにしてくれる。本当の意味で夫婦二人三脚になりました」とほほ笑む。

自宅兼店舗を新装することができた

自宅兼店舗を新装することができた

 本年3月、小さな電器店は、生花店と見まがうほどの祝いの花であふれた。

 道路の拡張工事で、自宅と店の一部が区画整理の対象となった。立ち退くことも考えたが、それでも“地域に恩返しがしたい”と祈ると、隣家を購入でき、その敷地と併せて自宅兼店舗を新装したのである。

 「家族にも、同志にも、お客さまにも、全てに感謝しかありません。『ありがとう』って言うたび、力が湧いてきます。『この方たちのためにも負けられない』って。その感謝の心を抱いて、どんな苦難も勝ち越えていきます」

〈いま願う―戦後77年― 信仰体験〉 満州での苦い記憶2022年5月25日

  • 「平和とは命の向き――
  •   敵をつくるのは
  •    自分の心なんです」

 【埼玉県ふじみ野市】満州国(現・中国東北部)は、日本が満州事変によってつくりあげた傀儡国家。日本から農業移民団などが送り込まれ、終戦時には約32万人の日本人がいたとされる。大谷喜久枝さん(90)=支部副女性部長=は、生後まもなくの1932年(昭和7年)ごろ、家族で満州へと渡った。幼い頃の記憶は、ハルビンでの裕福な暮らしから始まる――。

ハルビンでの卒業写真

ハルビンでの卒業写真

 旧日本海軍の将校だった父・定一さん(故人)の軍服に輝く勲章と、中国語やロシア語を駆使する姿。幼心に他の軍人との違いを誇らしく感じていた。

 庭付きの大きな屋敷に住み、中国人の使用人が何人もいた。馬車で市内を移動し、昼時になると、使用人が小学校まで温かい弁当を届けにくる時もあった。何不自由のない生活。

 弁当の味に飽きると、おかずを交換し合う友達がいた。その子は決まってパンとチーズとカルパス(ドライソーセージ)。クラスで唯一のロシア人の女の子だった。読書好きで物静かな彼女と、体は弱いが快活な大谷さん。性格は正反対だが、不思議と気が合い、いつも一緒だった。国籍の違いなど気にもしなかった。

 だが当時、日本人の大人たちが醸す“自分たちが一番偉い”という空気は、気付かぬうちに少女の心をむしばんでいく。

 ある日、自宅庭のブランコで、見知らぬ中国人の子どもたちが遊んでいた。途端に激しい怒りが体中を巡り、「これは、あなたが使っていいものじゃないの!」。叫びながら追い立てた。

 1945年(昭和20年)8月15日。13歳のこの日、優雅な生活は突如終わりを迎えた。敗戦を告げる玉音放送を校庭で聞いた。次第に街の様子が、これまでと違ってくるのに気付く。虐げられてきた中国人の鋭い目つきが刺さる。立場は一瞬にして変わった。

 父は、家族の目の前で後ろ手に縛られ、散々殴られた後、連れて行かれた。使用人も、どこかへ消えた。外を歩けば、つばを吐きかけられ、石が飛んでくる。家財道具も皆、見知らぬ男たちに持っていかれ、母と3歳上の姉、10歳と5歳の妹と5人で、隠れるように暮らした。

 翌46年。突然、父が帰ってきた。解放されたのか逃げてきたのか、伸び放題のひげに、げっそりとこけた頰。体に巻き付けたボロ布からのぞく手足は、棒きれのように細かった。かつての威厳に満ちた姿は見る影もない。

 程なくして、やっとの思いで葫蘆島港から乗った引き揚げ船。8月の蒸し暑い時期。船内では、栄養失調でバタバタと人が死に、海に捨てられた遺体の数だけ汽笛が鳴った。見れば自分の体もシラミだらけ。命からがら博多へ。船を下りると、「消毒だ」と、いきなり白い粉(殺虫剤のDDT)を頭から掛けられた。惨めな気持ちでいっぱいだった。

共に暮らす長男・清英さん㊧=地区部長=と、その妻・咲子さん㊨=支部女性部長

共に暮らす長男・清英さん㊧=地区部長=と、その妻・咲子さん㊨=支部女性部長

 父の実家がある新潟県の湯沢に身を寄せた。苦しい生活が続く。20歳になると、手に職を付けようと単身で横浜に移り、美容院に住み込みで働いた。先輩に教科書を借り、独学で美容師免許を取得した。

 創価学会との出合いは24歳の時。久しぶりに両親の顔を見ようと新潟に帰ると、病に伏していた父が入会していた。

 「この信心はすごい」と、しきりに話す父に、家族はあきれ顔で苦笑した。

 しかし、尊敬する父のあまりの熱心さに興味がわき、学会の書籍を借りた。何度も目に留まる「宿命」の文字が心を引き付ける。

 病弱な体に経済苦。自分ではどうにもできない現実を転換できるのならと、58年、自ら入会。懸命に題目を唱え抜き、折伏に歩いた。

 忘れ得ぬ原点がある。同志に誘われて参加した、池田先生の第3代会長就任式。場外のスピーカーの下で、師の烈々たる師子吼を聞いた。体の芯から熱いものが込み上がる。

 “一生、先生についていこう”。あふれ出る感動とともに誓いを立てた。より一層、学会活動に励み、母と3人の姉妹も入会に導いた。

 気付けば美容師としての技術も向上し、72年には埼玉県の上福岡に、自分の店を構えるまでになっていた。

どこに行くのも常に一緒だった夫・優介さん

どこに行くのも常に一緒だった夫・優介さん

 夫・優介さん(故人)と結婚し、店の経営も軌道に乗った81年。偶然出会ったハルビン時代の同窓生から、あのロシア人の子の話を聞いた。彼女は、ソ連(当時)のノボシビルスクで大学教授をしていた。

 連絡先を調べ、文通が始まった。空白の時間を埋めるように、思い出話に花を咲かせ、戦後の苦悩をいたわり合う。そんな手紙のやりとりが50回を超えた頃、「ソ連で日本の美容技術を紹介してほしい」との話が。

 ハルビンで結んだ国籍を超えた友情。一方で、人を狂わせ、引き裂いていく無慈悲な戦争の悲惨さ。どちらも、同じ人間の心から生まれると知ったからこそ、できることがある気がした。

 90年(平成2年)。終戦以来、実に45年ぶりに友人との再会を果たした。互いに薄く刻まれたしわと、ちらつき始めた白い髪。しかし、思わず抱き合った頰の温かさに、変わらぬ友情を感じた。

 ソ連での“美容ショー”は、互いの文化を織り交ぜた、大谷さんオリジナルのデザインのスライド上映から。特に好評だったのは、着物の着付けや、現地のロシア人をモデルにしたヘアメークショー。三つ編みに、花をさして飾った。

 その様子は、当時の地元紙でも紹介され、思わぬ反響を呼んだ。
 2年後、今度は友人を日本へ招待した。埼玉で行われた婦人部(当時)の合唱祭に一緒に参加。帰国後に寄せられた手紙には、「教えていただいた、題目を唱えています。勇気が湧いて素晴らしい」と書いてあった。

 相手を思う真心は、あらゆる壁をやすやすと越えていく。師に教わった平和への道に、少しでも連なることができた気がした。

美容ショーで上映した和洋折衷のデザイン

美容ショーで上映した和洋折衷のデザイン

 今年、卒寿を迎えた大谷さんには、もう一つの顔がある。スリランカ人留学生から長年、「埼玉のママ」との愛称で慕われてきた。

 思いがけず親しくなった一人のスリランカ人をきっかけに、同国の留学生が自然と大谷さんの元に集まるように。言葉も文化も違う異国の地で、親身になってくれる大谷さんは、留学生にとって“日本の母”となった。

 その後、NPO法人「日本、スリランカ、文化友好の会21」を発足させ専務理事に。日本で使われなくなった救急車を、スリランカに届ける事業にも尽力した。今も、かつての留学生が、会いに来てくれるという。

 「こちらから心を開いていくの。そうすれば、誰とでも仲良くなれるはずだから」

 ふと胸によぎるのは満州でのこと。

 「今も、ブランコに乗っていた幼い中国人のことが忘れられない。なんであんな態度をとったのかしら。私の中にも人を見下す怖い命があるんだって気付いた。肌の色とか国籍とか、そんなことよりも、敵をつくるのは、自分の心なんだと思います」

 戦火の中で、傷つけられた人々の怒りを見た。信心と巡り合い、心を磨くすべを得た。師を思い、対話で広布の道を切り開いた。「いまだこりず候」(新1435・全1056)の御文を常に胸に抱く大谷さんは、これまで100人を超える友を入会に導いてきた。

 「平和とは命の向き。どちらの方に向いているか。全ての人に、相手を慈しむ仏界の生命は必ずあるんですもの」。そう優しくほほ笑むまなざしの奥に、確信の強さがにじむ。

〈ターニングポイント 信仰体験〉 入社1年目の君へ2022年5月12日

  • 今いる場所でベストを――。想像もしなかった結果が待っているから

 2019年(令和元年)――。只野幸一は焦っていた。

 世界有数の外資系IT企業の営業職として働き始めて1年。研修期間を終え、いよいよ独り立ちしたものの、結果が思うように出ない。

 お客を前に、懸命に自社製品の良さを語るも、手応えはさっぱり。それどころか、どうも話がかみ合わない。初めこそ“負けるもんか”と意気込み、自分で自分を鼓舞していたが、次第にお客の元へ向かう足が重くなる。

 “これまでの努力は、何だったんだ”。自分のふがいなさが悔しかった。

 創価大学を卒業して現在の会社に就職した。すぐに広島県の営業所へ。当初は新しい環境になじめず困惑したり、同僚たちの優秀さに自信を失いかけたりもあった。

 それでも創大出身の誇りを胸に食らいつき、気付けば全国トップの成績で研修を終えることができた。自信はあった。期待も背負っている。“それなのに”――。

 研修と実践では、こうも違うのか。自分のやり方が全く通用しない現実に、焦りだけが募っていく。空回りしているのが自分でも分かった。

 つい自分を卑下してしまう弱い命が顔をのぞかせる。「僕には営業は向いてない」。実家の岡山にいる母・里恵さん=圏女性部長=に電話をかけた。母は黙って話を聞いてくれ、「祈ってるよ」と。叱るでなく、諭すでもなく、ただ一言が心に染みた。

 机にしまってあった聖教新聞の切り抜きに手を伸ばす。創価大学の卒業式に寄せられた池田先生のメッセージ。苦しい時、何度も奮い立たせてくれた幸一の原点だ。

 「『さあ、何でも来い!』と一念を定めた青春の魂は、試練の中で、生命の器を大きく広げ、やがて偉大な民衆への貢献を果たせるのであります」

いつも手元に置く卒業式の紙面。池田先生への誓いや両親、学友への感謝を思い出させてくれる

いつも手元に置く卒業式の紙面。池田先生への誓いや両親、学友への感謝を思い出させてくれる

 朝の真剣な唱題から始めた。会社に向かう道中でも、心の中で題目を唱える。始業の1時間前には出勤し、その日の準備をしながら、出社してくる人に元気にあいさつ。それが今の自分にできるベストな気がした。

 男子部の会合にも積極的に参加した。そこには「社会で実証を」と、もがきながら戦う仲間がいた。彼らのひたむきな姿を見て思う。

 “学会活動に励む姿勢は、仕事への取り組み方に通じている”。悩みが解決したわけではない。それでも前に進む勇気をもらった。

「本当に人に恵まれてきました」と只野さん。いつも男子部の仲間に勇気をもらっているという

「本当に人に恵まれてきました」と只野さん。いつも男子部の仲間に勇気をもらっているという

 「その国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」(新1953・全1467)。会社社長として社会の第一線で活躍する壮年部の先輩が教えてくれた御文。

 「只野君が広島に来たのも何かの縁だ。ここに君だけの使命が必ずあるんだよ」

 思えば、どこか周囲と比較し、環境のせいにしていた気がする。“自分の可能性を信じて、精いっぱいやろう。何でも来いだ!”。そう腹を決めた瞬間、仕事への恐怖心が消えた。

 祈り方にも変化が表れた。御祈念項目が、より具体的に、より細かく焦点が絞られていく。数が増えるにつれ、祈りが深まるのを実感した。

 仕事の光明はある日、ふいに訪れた。事業部長と一緒に営業先へ行った帰りのこと。

 部長が、「只野、自分の言葉で話してるか」と。

 ハッとした。気持ちばかりが焦り、どこかで聞いた言葉を並べ立てている自分が目に浮かぶ。そこには相手に寄り添う気持ちが欠けていた。

「部署異動で広島弁から英語に変わりました(笑い)」と只野さん。“人のため”を胸に、さらなる飛躍を誓う

「部署異動で広島弁から英語に変わりました(笑い)」と只野さん。“人のため”を胸に、さらなる飛躍を誓う

 それからは、営業先の企業理念から、ここ数年の業績や経営計画、さらには業界全体のことに至るまで調べ上げた。どうしたらお客のためになるのかを、とことん追求した。

 すると、それまで思うようにかみ合わなかった会話が、弾むようになった。「必ず御社に貢献できます!」。扱う人の側に立った、徹底した事前の準備が、自分の言葉に自信を持たせてくれる。

 そして2年目の終わりに、飛び込みで訪れた新規の会社で、大口の案件が形になった。御祈念帳を見返すと、全て願った通りの結果だった。

 それからは営業成績を順調に伸ばしていった。「只野さんなら信用できる」「よく考えてくれてるね」。お客の反応が目に見えて変わっていった。そして3年目、最年少で社長賞に輝くことができた。

 昨年、広島から東京の本社に異動となり、新たな職場で奮闘している。

 広島を離れる時、取引先の社長が「只野君は息子みたいなもんだ」と言って、盛大に送り出してくれた。

 今年の入社式。5年目を迎えた幸一は、何百人という新入社員を前に、代表であいさつに立った。

 「やりたくない仕事や、理想と違う現実もあるかもしれません。ただ自分自身の可能性を信じ、今いる場所でベストを尽くすことを心掛けてみてください。いつしか、努力の先に想像もしなかった結果が待っていると、私は確信しています」

家族への思い

 幸一の心には、常に家族への感謝がある。父・孝幸さん(64)=副圏長、母・里恵さん、弟・正幸さん(25)=男子部員。壁にぶつかるたび、いつも寄り添い、背中を押してくれた。

父・孝幸さんと母・里恵さん(本人提供)

父・孝幸さんと母・里恵さん(本人提供)

 創価大学は両親の夢だった。幼い頃から、池田先生のこと、創大のことをうれしそうに話す姿に、自然と信心の偉大さを学んだ。

 母は入学式で「人生最高の一日だったよ」と言ってくれた。その笑顔は今も忘れない。親孝行の人生を誓った。

弟・正幸さん㊨と只野さん(本人提供)

弟・正幸さん㊨と只野さん(本人提供)

 関西創価学園から医学部へと進学した弟は、この春から夢だった医師としての道を歩み始めた。照れくさくて言葉にはしないが、頑張る弟に兄として何度、力をもらったか分からない。

 支えてくれた全ての人への恩返し。これが幸一の前進の原動力。

 ただの・こういち 1995年(平成7年)生まれ、入会。岡山県出身。東京都文京区在住。創価大学を卒業後、世界的な大手外資系IT企業に営業職として就職。3年目には最年少で社長賞に輝いた。男子地区副リーダー。

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