〈いま願う―戦後77年― 信仰体験〉 満州での苦い記憶2022年5月25日

  • 「平和とは命の向き――
  •   敵をつくるのは
  •    自分の心なんです」

 【埼玉県ふじみ野市】満州国(現・中国東北部)は、日本が満州事変によってつくりあげた傀儡国家。日本から農業移民団などが送り込まれ、終戦時には約32万人の日本人がいたとされる。大谷喜久枝さん(90)=支部副女性部長=は、生後まもなくの1932年(昭和7年)ごろ、家族で満州へと渡った。幼い頃の記憶は、ハルビンでの裕福な暮らしから始まる――。

ハルビンでの卒業写真

ハルビンでの卒業写真

 旧日本海軍の将校だった父・定一さん(故人)の軍服に輝く勲章と、中国語やロシア語を駆使する姿。幼心に他の軍人との違いを誇らしく感じていた。

 庭付きの大きな屋敷に住み、中国人の使用人が何人もいた。馬車で市内を移動し、昼時になると、使用人が小学校まで温かい弁当を届けにくる時もあった。何不自由のない生活。

 弁当の味に飽きると、おかずを交換し合う友達がいた。その子は決まってパンとチーズとカルパス(ドライソーセージ)。クラスで唯一のロシア人の女の子だった。読書好きで物静かな彼女と、体は弱いが快活な大谷さん。性格は正反対だが、不思議と気が合い、いつも一緒だった。国籍の違いなど気にもしなかった。

 だが当時、日本人の大人たちが醸す“自分たちが一番偉い”という空気は、気付かぬうちに少女の心をむしばんでいく。

 ある日、自宅庭のブランコで、見知らぬ中国人の子どもたちが遊んでいた。途端に激しい怒りが体中を巡り、「これは、あなたが使っていいものじゃないの!」。叫びながら追い立てた。

 1945年(昭和20年)8月15日。13歳のこの日、優雅な生活は突如終わりを迎えた。敗戦を告げる玉音放送を校庭で聞いた。次第に街の様子が、これまでと違ってくるのに気付く。虐げられてきた中国人の鋭い目つきが刺さる。立場は一瞬にして変わった。

 父は、家族の目の前で後ろ手に縛られ、散々殴られた後、連れて行かれた。使用人も、どこかへ消えた。外を歩けば、つばを吐きかけられ、石が飛んでくる。家財道具も皆、見知らぬ男たちに持っていかれ、母と3歳上の姉、10歳と5歳の妹と5人で、隠れるように暮らした。

 翌46年。突然、父が帰ってきた。解放されたのか逃げてきたのか、伸び放題のひげに、げっそりとこけた頰。体に巻き付けたボロ布からのぞく手足は、棒きれのように細かった。かつての威厳に満ちた姿は見る影もない。

 程なくして、やっとの思いで葫蘆島港から乗った引き揚げ船。8月の蒸し暑い時期。船内では、栄養失調でバタバタと人が死に、海に捨てられた遺体の数だけ汽笛が鳴った。見れば自分の体もシラミだらけ。命からがら博多へ。船を下りると、「消毒だ」と、いきなり白い粉(殺虫剤のDDT)を頭から掛けられた。惨めな気持ちでいっぱいだった。

共に暮らす長男・清英さん㊧=地区部長=と、その妻・咲子さん㊨=支部女性部長

共に暮らす長男・清英さん㊧=地区部長=と、その妻・咲子さん㊨=支部女性部長

 父の実家がある新潟県の湯沢に身を寄せた。苦しい生活が続く。20歳になると、手に職を付けようと単身で横浜に移り、美容院に住み込みで働いた。先輩に教科書を借り、独学で美容師免許を取得した。

 創価学会との出合いは24歳の時。久しぶりに両親の顔を見ようと新潟に帰ると、病に伏していた父が入会していた。

 「この信心はすごい」と、しきりに話す父に、家族はあきれ顔で苦笑した。

 しかし、尊敬する父のあまりの熱心さに興味がわき、学会の書籍を借りた。何度も目に留まる「宿命」の文字が心を引き付ける。

 病弱な体に経済苦。自分ではどうにもできない現実を転換できるのならと、58年、自ら入会。懸命に題目を唱え抜き、折伏に歩いた。

 忘れ得ぬ原点がある。同志に誘われて参加した、池田先生の第3代会長就任式。場外のスピーカーの下で、師の烈々たる師子吼を聞いた。体の芯から熱いものが込み上がる。

 “一生、先生についていこう”。あふれ出る感動とともに誓いを立てた。より一層、学会活動に励み、母と3人の姉妹も入会に導いた。

 気付けば美容師としての技術も向上し、72年には埼玉県の上福岡に、自分の店を構えるまでになっていた。

どこに行くのも常に一緒だった夫・優介さん

どこに行くのも常に一緒だった夫・優介さん

 夫・優介さん(故人)と結婚し、店の経営も軌道に乗った81年。偶然出会ったハルビン時代の同窓生から、あのロシア人の子の話を聞いた。彼女は、ソ連(当時)のノボシビルスクで大学教授をしていた。

 連絡先を調べ、文通が始まった。空白の時間を埋めるように、思い出話に花を咲かせ、戦後の苦悩をいたわり合う。そんな手紙のやりとりが50回を超えた頃、「ソ連で日本の美容技術を紹介してほしい」との話が。

 ハルビンで結んだ国籍を超えた友情。一方で、人を狂わせ、引き裂いていく無慈悲な戦争の悲惨さ。どちらも、同じ人間の心から生まれると知ったからこそ、できることがある気がした。

 90年(平成2年)。終戦以来、実に45年ぶりに友人との再会を果たした。互いに薄く刻まれたしわと、ちらつき始めた白い髪。しかし、思わず抱き合った頰の温かさに、変わらぬ友情を感じた。

 ソ連での“美容ショー”は、互いの文化を織り交ぜた、大谷さんオリジナルのデザインのスライド上映から。特に好評だったのは、着物の着付けや、現地のロシア人をモデルにしたヘアメークショー。三つ編みに、花をさして飾った。

 その様子は、当時の地元紙でも紹介され、思わぬ反響を呼んだ。
 2年後、今度は友人を日本へ招待した。埼玉で行われた婦人部(当時)の合唱祭に一緒に参加。帰国後に寄せられた手紙には、「教えていただいた、題目を唱えています。勇気が湧いて素晴らしい」と書いてあった。

 相手を思う真心は、あらゆる壁をやすやすと越えていく。師に教わった平和への道に、少しでも連なることができた気がした。

美容ショーで上映した和洋折衷のデザイン

美容ショーで上映した和洋折衷のデザイン

 今年、卒寿を迎えた大谷さんには、もう一つの顔がある。スリランカ人留学生から長年、「埼玉のママ」との愛称で慕われてきた。

 思いがけず親しくなった一人のスリランカ人をきっかけに、同国の留学生が自然と大谷さんの元に集まるように。言葉も文化も違う異国の地で、親身になってくれる大谷さんは、留学生にとって“日本の母”となった。

 その後、NPO法人「日本、スリランカ、文化友好の会21」を発足させ専務理事に。日本で使われなくなった救急車を、スリランカに届ける事業にも尽力した。今も、かつての留学生が、会いに来てくれるという。

 「こちらから心を開いていくの。そうすれば、誰とでも仲良くなれるはずだから」

 ふと胸によぎるのは満州でのこと。

 「今も、ブランコに乗っていた幼い中国人のことが忘れられない。なんであんな態度をとったのかしら。私の中にも人を見下す怖い命があるんだって気付いた。肌の色とか国籍とか、そんなことよりも、敵をつくるのは、自分の心なんだと思います」

 戦火の中で、傷つけられた人々の怒りを見た。信心と巡り合い、心を磨くすべを得た。師を思い、対話で広布の道を切り開いた。「いまだこりず候」(新1435・全1056)の御文を常に胸に抱く大谷さんは、これまで100人を超える友を入会に導いてきた。

 「平和とは命の向き。どちらの方に向いているか。全ての人に、相手を慈しむ仏界の生命は必ずあるんですもの」。そう優しくほほ笑むまなざしの奥に、確信の強さがにじむ。