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心地よい縁側で安らぐ親子。福田さん㊧は父・義視さん㊥、母・きみさんを慈しむ
離れて暮らす高齢の親を、子が家に呼び寄せて介護する場合、同居家族との関係も気になるだろう。茨城県つくば市の福田美鈴さん(73)=県副女性部長=は、10年前、東京・豊島区の両親を自宅に招き入れた。今年、父は100歳、母は99歳を迎える。体調は一時期より格段に良い。“人生の総仕上げ”を応援するように寄り添う福田さん。最大の理解者である夫・耕二さん(73)=副県長=との二人三脚で――。
住めば都の広い家
三重から上京した父<多田義視さん=副支部長>は紳士服を仕立て上げる職人として働き、母<きみさん=支部副女性部長>も内職にいそしんだ。
一家の入会は私が7歳の頃。幼いながら、家計が苦しいことは感じてた。けれど入会後、母が愚痴一つ言わず父を支えるようになって、私は驚いた。
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私には妹<中島真知子さん(67)=支部副女性部長>がいて、結婚後も親と暮らしたのは妹だった。私は夫の仕事がアメリカ駐在になって渡米したの。
そして40年前、帰国した私たち夫婦は、広布の会場にもできる“広い家”に憧れて茨城へ。職場が都内にある夫は、遠距離通勤になったけど「苦じゃないよ」って言ってくれた。
2004年(平成16年)には、近所の“広い駐車場”付きの古家を購入。車が25台も止まり、家に80人の同志がにぎやかに集うこともあった。
この頃、娘の第1子が誕生。父母は東京から初孫を見に来た。その夜だ。「ドスン!」って。母が廊下で転んで大腿骨を骨折。入退院を経て、つえを突きながら東京へ帰っていった。
その東京では、新潟・長岡市に住んでた義弟の両親が、上京して同居することに。冬の雪下ろしが体力的に難しく、新潟県中越沖地震(2007年)など災害への不安もあったみたい。
両家の4人の父母と暮らすために、妹夫婦は半年ほどかけて自宅を新築。その間、両親がわが家に泊まったの。母の一言が印象的だった。
「昔、こういう家に住みたかった」
今年で築40年くらい。農家が住んでた、縁側のある昔ながらの家だ。
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妹夫婦は将来の親の介護も見据え、エレベーター付きの3階建てに建て直してた。本当にえらいと思う。
でも、お互い高齢の親同士の同居。育った環境が違えば、合わないことの一つや二つは誰にでもある。大人だから、気を使わないわけじゃないけど、気を使い過ぎるのもどうかな?って。
夫や妹たちと相談して、11年に父母をわが家に呼び寄せることにした。父は寡黙だから何も言わなかったけど、母は「都落ちだ」って。私からしたら“住めば都”なんだけどね。
「信仰を貫くこと」
90歳近くの親にとって、住み慣れた地を離れる不安はあったと思う。そんな父母のために同志が訪れ、わが家で“ミニ座談会”などを開いてくれた。その心遣いには今も感謝してる。
私の親への関わり方に戸惑ってたのは夫かな。同居には賛同したものの、イライラする時もあったみたい。
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今、本人に聞くと「ロング・ロング・タイム・アゴーで、フォゴットです(大昔のことで忘れました)」って、変な英語で笑い飛ばすけど、私は当然の感情だったと思うの。義父母を迎え入れてくれただけで、ありがたい。
13年には夫が脳梗塞で10日間、入院した。このピンチを家族は題目で乗り越えようと、皆の合計で毎日10時間の唱題に挑戦。私が3時間、娘と息子たちで2時間、父母は二人で5時間だ。一家団結の祈り。幸いにも、夫は軽い後遺症で済み、元気に退院した。
![父母の日常。この距離で互いに元気かどうかを気に掛ける](https://shimen.seikyoonline.com/image/S01/20210808/E8891FEF13529A75A27ED35B500F4F83/D4D1927CCE2F46C1208012F672557A6925C2E42A6013FC1DBAC1F37B9B410600_L.jpg)
父母の日常。この距離で互いに元気かどうかを気に掛ける
私は母の姿を通して信心を学んだ。だから本人の確信が揺らいでるような場面を見ると、特につらかった。
それは、母がベッドから落ちて足を骨折した後のこと。在宅療養となり、寝たきりで要介護5に。母は毎日、弱音を吐いた。「私は宿業が深いんだ。死んだ方がいいんだ」って。
私は耳を疑い、涙と怒りを抑えて励ました。「60年も信心してきたんだから、ばあちゃんは必ず治るよ」って。
そして夢中になって介護した。私の体はストレスで帯状疱疹に。妹から異変を指摘されるまで気付かなかった。
介護用ベッドの横にお守り御本尊を御安置すると、母は「ベッドから降りられるように」って自ら目標を定めて祈った。すると翌年は要介護3にまで回復。ベッドから車いすに移れるようになり、目標を達成した。すごい!
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三代会長有縁の地である豊島で、母の信心は磨かれてきた。1973年(昭和48年)の5月5日。「区の日」の淵源となった池田先生との記念撮影には、両親と共に私も参加した。
「勇気ある信仰を貫くことです」
あの時の先生の指導を、母は今なお実践しているのだと強く感じた。
夫が“副伴走者”に
母に比べ元気な父だったけど、2019年(令和元年)に肺炎を患った。本人いわく、人生で初めての入院。母の動揺は、それを物語っていた。
私は医師から「生きて帰してあげられないかもしれません」って言われ、祈りに祈った。認知症にならないようにと願い、見舞いには毎日通った。
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これも父の信心なんだろう。1カ月後には無事に退院した。要介護3って認定されたけど、やがて家の中でも車いすを乗りこなすように。朝夕は必ず御本尊に、黙々と題目をあげてる。
移動の際、車いすを何度もぶつけて壁が剝げてしまった部分もあるけど、私は尊敬のまなざしで見守ってきた。
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しかし、母の精神的に不安定な状態が、半年も続くとは思わなかった。母は文句や愚痴が多くなり、私の不満は膨らんでいった。
「もっと感謝しなきゃダメだよ」
私は模造紙に母が感謝すべきことを幾つも書いて、見えるように貼った。
「家族が守ってくれてる」「医師や看護師が家に来てくれる」……。
読み返してみると、それらは“私が感謝すべきことだ!”って感じたの。だから、すぐ破って捨てた(笑い)。
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母は「こんな姿を人に見られたら、信心してるのになぜ?って思われないか」って、心配してたことがある。
脳裏に浮かんだのは、20年前、東京牧口記念会館で行われた総茨城の会合で、先生が紹介された長編詩「広宣の大鷲よ 永遠に勝ちゆけ!」の一節。御義口伝の「久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり」(御書759ページ)を拝し、つづられている。「ありのままの姿で/最高の自分自身を発揮させよ」って。
「ばあちゃん、ありのままでいいんだよ」。心から言えるようになると、母の表情は穏やかになってきた。
![夫・耕二さん㊨と](https://shimen.seikyoonline.com/image/S01/20210808/E8891FEF13529A75A27ED35B500F4F83/C7F1EF6BFB34A64DF0AC30D93356925425C2E42A6013FC1DBAC1F37B9B410600_L.jpg)
夫・耕二さん㊨と
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昨年から、わが家の朝ご飯は、夫が作ってくれてる。「家族だから支え合うんだ」って。私が親の“伴走者”なら、夫は“副伴走者”だ。夫の作る卵焼きは、母の大好物になってる。
毎朝、自分の部屋で食事をする母。食べ終わると、夫がいないのを知ってか知らずか、ほほ笑みながら言った。
「こんなに広い家に住めて、功徳を山ほど頂きました。全部、池田先生のおかげです」って。
それでこそ、私の母だ。
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