〈御書と未来へ〉20 仏法は最高の人間尊敬の思想2022年6月1日

〈御文〉

 妙法蓮華経より外に宝塔なきなり。法華経の題目、宝塔なり。宝塔また南無妙法蓮華経なり。〈阿仏房御書(宝塔御書)、新1732・全1304〉

〈通解〉

 妙法蓮華経よりほかに宝塔はない。法華経の題目は宝塔であり、宝塔はまた南無妙法蓮華経である。

〈池田先生が贈る指針〉

 佐渡流罪から満600年に、牧口先生は有縁の新潟に誕生され、御本仏の仰せのままに死身弘法された。先生が朱線を引き大事にされたのが、この御書だ。
 創立の師父の勇気を胸に、我らも一対一の人間尊敬の対話を貫こう! 自他共の生命を最極の宝塔と林立させ、現実の社会に立正安国の宝処を築き広げるために。

〈御書と未来へ〉19 「如我等無異」の勇気即慈悲を2022年5月28日

〈御文〉

 我ら具縛の凡夫、たちまちに教主釈尊と功徳ひとし。彼の功徳を全体うけとる故なり。経に云わく「我がごとく等しくして異なることなし」等云々。〈日妙聖人御書、新1681・全1215〉

〈通解〉

 私たち煩悩に縛られた凡夫が、たちまちに教主釈尊と等しい功徳を具えるのである。それは釈尊の無量の功徳を全て受け取るからである。法華経には「一切の衆生を自分と同じ仏にして、異なることがないようにしたい(如我等無異)」とある。

〈池田先生が贈る指針〉

 全ての人を仏と同じ幸福境涯に!――この大誓願を貫く創価の師弟の信力・行力にこそ、「等しくして異なることなし」の仏力・法力が滾々と涌現するのだ。
 日蓮大聖人は「師子王の子は師子王となる」とも仰せである。平等大慧の妙法の勇気即慈悲をいよいよ発揮し、自他共に功徳を受けゆく幸の仏縁を結び広げよう!

〈信仰体験〉 信心59年の感謝と感激 夫婦でがんを乗り越えて2022年5月31日

  • 「苦しんだ分、決めた。誰も一人にさせないって」

 【東京都八王子市】「信心を始めて59年、私の心に常にあるのは『感謝』と『感激』です」。そう言うと、坂本治夫さん(84)=区主事=の表情が崩れ、ニコッと笑った。その貫禄の笑顔には、事業の失敗や病魔との闘争を制した勝利の証しが刻まれている。

「妻には感謝しかありません」と坂本さん㊨。与志子さんと二人三脚で広布に歩んでいる

「妻には感謝しかありません」と坂本さん㊨。与志子さんと二人三脚で広布に歩んでいる

 巌のような男の口から苦悶の声が漏れたのは、66歳の時だった。

 ある日、腹部に激痛が走った。冷や汗が噴き出る。病院に運ばれると、尿管結石だと分かった。その時の検査で、レントゲン写真に白い影が映り、精密検査を勧められた。

 尿管結石の治療をした後、精密検査の結果が出た。診断は「腎臓がん」。右の腎臓に腫瘍があるという。

 呆然とした。頭の中が真っ白になった。題目を唱えて、辛うじて心を落ち着かせた。

 手術当日、右腎臓と尿管、リンパ節の切除手術を行った。9時間に及んだ手術は無事に成功した。

 だが10カ月後、膀胱への転移が分かる。腫瘍の摘出を行ったが、3カ月後、さらにその翌月と手術が続いた。腫瘍が幾つもできているという。

 祈っても祈っても、“死”がちらつく。命が揺れた。“信心だけは真っすぐに頑張ってきた。なのに、なぜ、こんなにも苦しまないといけないのか?”

どんな苦難も家族で乗り越えてきた

どんな苦難も家族で乗り越えてきた

 ――21歳の時、妻・与志子さん(86)=支部副女性部長=と結婚。長女・今井治代さん(61)=支部副女性部長=を授かった。

 曲がったことは大嫌い。決めたらやり抜く。自分の人生は、己の力で切り開くものと決めてきた。そんな信念も、娘の小児ぜんそくには、なすすべがなかった。

 治したい一心で、25歳の時に家族そろって創価学会に入会。娘の体調が良くなるにつれ、一途な信心を貫いた。

 真っすぐな性格のあまり、人にだまされもした。知人に勧められ、印刷会社の代理店を立ち上げたが、経営も仕事内容もずぶの素人。うまくいくはずもなく、1年もたたずに多額の負債を抱えた。学会の先輩に「祈り抜くんだよ。全部、御本尊にお任せするんだ」と。妻も隣に座り、一緒に祈った。

 窮地を聞いた親会社が、坂本さんに仕事を回してくれた。そのおかげで負債は完済。真摯な姿が信頼され、転職も決まった。

 職場で実証を示し、定年まで勤め上げた。その後は介護関係などの仕事に就いた。信心からは一歩も引かなかった。そうした中で病魔に襲われた。

「月々日々に」の心で真剣に祈る

「月々日々に」の心で真剣に祈る

 がんに対し、医師から提案されたのは、BCGの膀胱内注入療法だった。懸念されるのは、高熱などの副作用があること。祈り、考えた末に決断した。

 治療が始まると、副作用で40度以上の高熱を発した。口内炎ができ、激痛が走った。食欲がなくなり、眠ることもできない。題目も思うように唱えられない。

 “もうやめてくれ”

 折れそうになる心を支えてくれたのは、妻だった。冷えた手ぬぐいを用意し、うなされている時は手を握り、題目を唱えては、一緒に耐えてくれた。

 “そうだ、家族のためにも負けられない! 絶対に生きるんだ”

 4度の手術を終えると、腫瘍は二つにまで減っていた。それも摘出手術で全て取り切り、がんを越えた。

 「人間の命には生き抜こうとする力があるんです。それを湧き立たせてくれるのが信心。そのことを強く実感しました」

「父はいつも題目、題目、題目って。だから、信心を人生の根幹にできました」と長女・治代さん。いつもそばで両親を支えている

「父はいつも題目、題目、題目って。だから、信心を人生の根幹にできました」と長女・治代さん。いつもそばで両親を支えている

 介護関係の会社に勤務していた2013年(平成25年)。利用者を車で送った帰り道、信号無視の車に横から激突された。車は横転し、後方部にポールが突き刺さる事故だったものの、幸い大きなけがはなかった。

 だが、しばらくして、体に力が入らなくなった。妻との会話も続かない。表情も消えた。うつ症状だった。

 “どうにかしたい”。そう思っても、あらがう心がしぼんでいく。御本尊の前に座っても、声が出なかった。

 そんな時、救ってくれたのは、同志の祈りだった。会館や座談会で友と会うと、題目の熱がひしひしと伝わってくる。冷え切った心をじわじわと温めてくれた。薄紙を剝ぐように、笑顔を取り戻した。

「池田先生は『毎日、毎日が、新しい出発であり、勝利の日々であってこそ、人間革命も、人生の大勝利もあることを知ってください』と。昨日がどうかではなくて、常に、今の信心が大事」

「池田先生は『毎日、毎日が、新しい出発であり、勝利の日々であってこそ、人間革命も、人生の大勝利もあることを知ってください』と。昨日がどうかではなくて、常に、今の信心が大事」

 闘病の中で、肉薄してきた池田先生の言葉があった。

 「病気をした人は、その分、人のことを思いやれる。慈愛が深まる。病気は、いろいろなことを教えてくれる。死を見つめたり、生きる意味を考えたり、人生のかけがえのなさが見えてくるものだ」

 苦しんできた分、坂本さんは縁した人を孤独にしないと決めた。悩んでいる友がいれば話を聞き、その人以上に祈る。近くに住む人は小まめに訪れ、遠方の友には電話をして、近況を語り合う。

 「一人でいると、不安なことばかり考えてしまう。気軽に話を聞いてくれる人がいれば心が楽になる。だから私は、身近な人の、そういう一人になろうと」

 ある1人暮らしの同志は目を真っ赤にしながら語る。「坂本さんはどんな時も気に掛けてくれて。コロナ禍で会えない時期があっても、自分は一人じゃないと思えました」

一人をどこまでも大切にする。「それを池田先生が教えてくださった」と坂本さん㊧

一人をどこまでも大切にする。「それを池田先生が教えてくださった」と坂本さん㊧

 6年前、今度は与志子さんが胃がんと診断された。入院する妻のもとへ毎日通った。帰宅すると、祈りに力を込めた。

 “これからも夫婦で弟子の道を貫きます!”

 与志子さんは手術で胃の4分の3を切除。術後の経過は順調だった。

 昨年7月、坂本さんは胆のう炎が重症化し、一時は予断を許さない事態に。乗り越えてからは、ますます祈りに徹する日々だ。

 「不安で祈れない時もある。僕もそうだった。人のために祈ると、漫然とした祈りはできない。だから、祈らせていただいて感謝なんです。そして“池田先生の弟子として広布のために戦わせください”って本気で祈る。そうすると、先生の言葉を全部、命で感じることができる。感激です。そうしたら、どんなことがあっても負けるわけがないんです」

家族で話すと笑いが止まらない

家族で話すと笑いが止まらない

【鷹爺のつぶやき】

井上眞一様からの温かきコメント。

柳井剛様 

初めての連絡、失礼致します。

お元気になられての復帰を心よりお待ちしております🙇

貴方の毎日規則正しい早朝の投稿を見て感動を頂き、発心の毎日をスタートさせて頂いておりました。妻と共に。

以前の柳井さんの投稿「鷹爺のつぶやき」のファンでもありました。

柳井さんの若き日の奮闘、特にお母様の番犬時代の事、アルコール依存から脱却し「サンジカン」(3時間題目の事)、男子部時代に30数件の折伏等を成し、日本一の実績をあげられた事に感服しました。

しかし、柳井さんの文面からは威張ったり、愚痴ったり、博識をひけらかすような言葉は一切見当たらず、常に謙虚な姿勢です。

逆に、誰に対しても「地涌の菩薩」として接する姿に、柳井さんの人柄が忍ばれます。

「人の振る舞い」のあり方を身をもって我々後輩に教えてくれているように感じます。

「みんなで座談会」も最近は暗い(苦しい)話題が散見される中、柳井さん達の前向きな投稿に「私も頑張ろう❗」と発心させて頂いております。ありがとうございます🙇

お元気になられることを真剣に祈らせて頂きます🙏

(長文失礼しました

「鷹爺のつぶやき」

皆様おはようございます。

最近体調が思わしくありません、テレビや PC 集中すると頭痛が有ります、臭覚が殆ど無くなりました、またまた入院する事と成りました。

よって「みんなで座談会」の投稿をしばらく止めさせていただきます。

コメントやいいねはこのまま続けさせてください。

管理人様には大変お世話になりっぱなしで、恩も返せず本当に申し訳ありません。

グループの皆様、歓喜の中の大歓喜を共有させて戴きより大きな功徳を戴きました、幸福を沢山戴きました、これからもよろしくお願いします。

 

写真 私の一番大好きな薔薇 コンラッドヘンケルです。

 

〈伴走者~わたしと介護~ 信仰体験〉 親を呼び寄せる | Yanaの (ameblo.jp)

  • ありのままの姿で。家族だから支え合う

心地よい縁側で安らぐ親子。福田さん㊧は父・義視さん㊥、母・きみさんを慈しむ

心地よい縁側で安らぐ親子。福田さん㊧は父・義視さん㊥、母・きみさんを慈しむ

 離れて暮らす高齢の親を、子が家に呼び寄せて介護する場合、同居家族との関係も気になるだろう。茨城県つくば市の福田美鈴さん(73)=県副女性部長=は、10年前、東京・豊島区の両親を自宅に招き入れた。今年、父は100歳、母は99歳を迎える。体調は一時期より格段に良い。“人生の総仕上げ”を応援するように寄り添う福田さん。最大の理解者である夫・耕二さん(73)=副県長=との二人三脚で――。
 
 

住めば都の広い家

 三重から上京した父<多田義視さん=副支部長>は紳士服を仕立て上げる職人として働き、母<きみさん=支部副女性部長>も内職にいそしんだ。
 一家の入会は私が7歳の頃。幼いながら、家計が苦しいことは感じてた。けれど入会後、母が愚痴一つ言わず父を支えるようになって、私は驚いた。

 私には妹<中島真知子さん(67)=支部副女性部長>がいて、結婚後も親と暮らしたのは妹だった。私は夫の仕事がアメリカ駐在になって渡米したの。
 そして40年前、帰国した私たち夫婦は、広布の会場にもできる“広い家”に憧れて茨城へ。職場が都内にある夫は、遠距離通勤になったけど「苦じゃないよ」って言ってくれた。
 2004年(平成16年)には、近所の“広い駐車場”付きの古家を購入。車が25台も止まり、家に80人の同志がにぎやかに集うこともあった。
 この頃、娘の第1子が誕生。父母は東京から初孫を見に来た。その夜だ。「ドスン!」って。母が廊下で転んで大腿骨を骨折。入退院を経て、つえを突きながら東京へ帰っていった。
 その東京では、新潟・長岡市に住んでた義弟の両親が、上京して同居することに。冬の雪下ろしが体力的に難しく、新潟県中越沖地震(2007年)など災害への不安もあったみたい。
 両家の4人の父母と暮らすために、妹夫婦は半年ほどかけて自宅を新築。その間、両親がわが家に泊まったの。母の一言が印象的だった。
 「昔、こういう家に住みたかった」
 今年で築40年くらい。農家が住んでた、縁側のある昔ながらの家だ。

 妹夫婦は将来の親の介護も見据え、エレベーター付きの3階建てに建て直してた。本当にえらいと思う。
 でも、お互い高齢の親同士の同居。育った環境が違えば、合わないことの一つや二つは誰にでもある。大人だから、気を使わないわけじゃないけど、気を使い過ぎるのもどうかな?って。
 夫や妹たちと相談して、11年に父母をわが家に呼び寄せることにした。父は寡黙だから何も言わなかったけど、母は「都落ちだ」って。私からしたら“住めば都”なんだけどね。
 
 

「信仰を貫くこと」

 90歳近くの親にとって、住み慣れた地を離れる不安はあったと思う。そんな父母のために同志が訪れ、わが家で“ミニ座談会”などを開いてくれた。その心遣いには今も感謝してる。
 私の親への関わり方に戸惑ってたのは夫かな。同居には賛同したものの、イライラする時もあったみたい。

 今、本人に聞くと「ロング・ロング・タイム・アゴーで、フォゴットです(大昔のことで忘れました)」って、変な英語で笑い飛ばすけど、私は当然の感情だったと思うの。義父母を迎え入れてくれただけで、ありがたい。
 13年には夫が脳梗塞で10日間、入院した。このピンチを家族は題目で乗り越えようと、皆の合計で毎日10時間の唱題に挑戦。私が3時間、娘と息子たちで2時間、父母は二人で5時間だ。一家団結の祈り。幸いにも、夫は軽い後遺症で済み、元気に退院した。

父母の日常。この距離で互いに元気かどうかを気に掛ける

父母の日常。この距離で互いに元気かどうかを気に掛ける

 私は母の姿を通して信心を学んだ。だから本人の確信が揺らいでるような場面を見ると、特につらかった。
 それは、母がベッドから落ちて足を骨折した後のこと。在宅療養となり、寝たきりで要介護5に。母は毎日、弱音を吐いた。「私は宿業が深いんだ。死んだ方がいいんだ」って。
 私は耳を疑い、涙と怒りを抑えて励ました。「60年も信心してきたんだから、ばあちゃんは必ず治るよ」って。
 そして夢中になって介護した。私の体はストレスで帯状疱疹に。妹から異変を指摘されるまで気付かなかった。
 介護用ベッドの横にお守り御本尊を御安置すると、母は「ベッドから降りられるように」って自ら目標を定めて祈った。すると翌年は要介護3にまで回復。ベッドから車いすに移れるようになり、目標を達成した。すごい!

 三代会長有縁の地である豊島で、母の信心は磨かれてきた。1973年(昭和48年)の5月5日。「区の日」の淵源となった池田先生との記念撮影には、両親と共に私も参加した。
 「勇気ある信仰を貫くことです」
 あの時の先生の指導を、母は今なお実践しているのだと強く感じた。
 
 

夫が“副伴走者”に

 母に比べ元気な父だったけど、2019年(令和元年)に肺炎を患った。本人いわく、人生で初めての入院。母の動揺は、それを物語っていた。
 私は医師から「生きて帰してあげられないかもしれません」って言われ、祈りに祈った。認知症にならないようにと願い、見舞いには毎日通った。

 これも父の信心なんだろう。1カ月後には無事に退院した。要介護3って認定されたけど、やがて家の中でも車いすを乗りこなすように。朝夕は必ず御本尊に、黙々と題目をあげてる。
 移動の際、車いすを何度もぶつけて壁が剝げてしまった部分もあるけど、私は尊敬のまなざしで見守ってきた。

 しかし、母の精神的に不安定な状態が、半年も続くとは思わなかった。母は文句や愚痴が多くなり、私の不満は膨らんでいった。
 「もっと感謝しなきゃダメだよ」
 私は模造紙に母が感謝すべきことを幾つも書いて、見えるように貼った。
 「家族が守ってくれてる」「医師や看護師が家に来てくれる」……。
 読み返してみると、それらは“私が感謝すべきことだ!”って感じたの。だから、すぐ破って捨てた(笑い)。

 母は「こんな姿を人に見られたら、信心してるのになぜ?って思われないか」って、心配してたことがある。
 脳裏に浮かんだのは、20年前、東京牧口記念会館で行われた総茨城の会合で、先生が紹介された長編詩「広宣の大鷲よ 永遠に勝ちゆけ!」の一節。御義口伝の「久遠とははたらかさず・つくろわず・もとの儘と云う義なり」(御書759ページ)を拝し、つづられている。「ありのままの姿で/最高の自分自身を発揮させよ」って。
 「ばあちゃん、ありのままでいいんだよ」。心から言えるようになると、母の表情は穏やかになってきた。

夫・耕二さん㊨と

夫・耕二さん㊨と

 昨年から、わが家の朝ご飯は、夫が作ってくれてる。「家族だから支え合うんだ」って。私が親の“伴走者”なら、夫は“副伴走者”だ。夫の作る卵焼きは、母の大好物になってる。
 毎朝、自分の部屋で食事をする母。食べ終わると、夫がいないのを知ってか知らずか、ほほ笑みながら言った。
 「こんなに広い家に住めて、功徳を山ほど頂きました。全部、池田先生のおかげです」って。
 それでこそ、私の母だ。

小説「新・人間革命」に学ぶ 第30巻〈下〉 基礎資料編2021年7月7日 | Yanaの (ameblo.jp)

  • 連載〈世界広布の大道〉
  • 写真 世界的に有名なカナダのナイアガラの滝を婦人と見学(81年6月)

イラスト・間瀬健治

イラスト・間瀬健治

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第30巻<下>の「基礎資料編」。各章のあらすじ等を紹介する。挿絵は内田健一郎。

【物語の時期】1981年(昭和56年)6月16日~2001年(平成13年)11月12日

「暁鐘」の章(後半)

 1981年(昭和56年)6月16日、山本伸一の平和旅は、フランスからアメリカへ。ニューヨーク会館やホイットマンの生家などを訪問。20日の日米親善交歓会では、伸一がつくった詩「我が愛するアメリカの地涌の若人に贈る」が発表される。
 21日、カナダのトロントへ。翌日のカナダ広布20周年記念総会では、一人立つことの大切さを訴える。滞在中、文化交歓会に臨み、トロント会館等を訪問。再びアメリカへ。
 28日にはシカゴで盛大に開催された第1回世界平和文化祭に出席。また7月1日、世界芸術文化アカデミーは、伸一に「桂冠詩人」の称号授与を決定する。
 伸一は8日に帰国。間断なき激闘によって、世界広布の新章節の旭日が昇り始め、“凱歌の時代”の暁鐘は、高らかに鳴り渡った。

「勝ち鬨」の章

 山本伸一は7月、結成30周年記念の青年部総会に祝電を送るなど、新時代を担う青年の育成に力を注ぐ。18日、会長の十条潔が急逝し、第5代会長に秋月英介が就任する。
 11月、伸一は四国を訪れ、10日の「香川の日」記念幹部会で「もう一度、指揮を執らせていただきます!」と宣言。本格的な反転攻勢が開始される。また、四国男子部の要請を受け、二十数回にわたって新愛唱歌に筆を入れる。14日、男子部の「紅の歌」が完成する。
 12月8日、大分指導を開始。宗門事件の震源地・別府を訪れたあと、大分平和会館へ。10日、伸一は、夜の県青年部幹部会で詩「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」を発表するために全精魂を注いで口述。直前まで推敲を重ね、21世紀への新たな指針が、大分の地から全国に発信される。
 伸一は12日、宗門事件で苦しんできた大分県竹田へ。岡城の本丸跡に集った友と写真撮影し、「荒城の月」を大合唱する。その後、熊本に移り、阿蘇の白菊講堂を初訪問。15日、熊本文化会館での自由勤行会に参加した友と、会館近くの公園で記念撮影し、「田原坂」を高らかに合唱する。
 1982年(昭和57年)1月10日には、宗門から激しい迫害を受けてきた秋田へ。伸一は秋田でも自由勤行会を開催する。雪の降りしきる中、秋田文化会館前の公園に記念撮影のために集った同志と共に、「人間革命の歌」を熱唱。民衆勝利の宣言ともいうべき「勝ち鬨」が轟く。

「誓願」の章

 3月22日、山本伸一は第1回関西青年平和文化祭に出席。その後、平和文化祭は、中部、さらには全国各地で行われていくことになる。6月には、国連本部で「現代世界の核の脅威」展を開催するなど、本格的な平和運動が展開されていく。1983年(昭和58年)8月には、伸一に「国連平和賞」が贈られる。
 84年2月、ブラジルを訪問した伸一は、大文化祭等に出席し、ペルーへ。87年2月にはドミニカ共和国、パナマも訪れる。また、各国首脳と対話を重ね、90年(平成2年)7月の第5次訪ソでは、ゴルバチョフ大統領と会談。10月には、アフリカ民族会議のマンデラ副議長を聖教新聞社に迎え、会見する。さらに、世界の指導者、識者、また、国内をはじめ、世界各地の創価の同志に次々と詩を詠み、贈る。
 日顕ら宗門は、伸一と会員を離間し、学会を破壊しようとする陰謀を実行に移す。伸一がベートーベンの「第九」をドイツ語でも歌おうと提案したこと等を、外道礼讃、謗法と批判。12月末、宗規改正を理由に、伸一や学会首脳幹部らの法華講総講頭・大講頭の資格を剝奪する。
 さらに、学会の組織を切り崩そうと、「檀徒づくり」を公式方針として打ち出し、「破和合僧」の大重罪を犯す。また、信徒蔑視、教条主義、権威主義を露骨にし、日蓮大聖人の仏法の教義と精神から大きく逸脱していった。
 宗門は91年11月28日付で、学会本部に「創価学会破門通告書」を送る。その日は、広宣流布の前進を妨げ、“日顕宗”と化した宗門からの“魂の独立記念日”となった。
 伸一は、92年、アジア、欧州等を訪問。翌年には、北・南米を回り、“人権の母”ローザ・パークスやブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁らと対談する。また、アルゼンチン、パラグアイ、チリを初訪問。95年にはネパール、96年にはキューバを訪問し、国家評議会のカストロ議長と会見。次の訪問国・コスタリカで、歴訪は54カ国・地域になった。
 2001年5月3日には、待望のアメリカ創価大学が開学する。
 11月、創立記念日を祝賀し、男子部・女子部結成50周年記念の意義を込めた本部幹部会で伸一は、「創価の三代の師弟の魂」を受け継ぐよう、後継の青年たちに託す。学会は新世紀を迎え、第2の「七つの鐘」に向かい、地涌の大前進を開始していく。

【山本伸一の海外訪問】1981年1~3月、5~7月

メキシコ

未来部員に励ましを送る池田先生(1981年3月、メキシコ市で)

未来部員に励ましを送る池田先生(1981年3月、メキシコ市で)

ブルガリア

ブルガリアの名門・ソフィア大学で記念講演を行う(81年5月)

ブルガリアの名門・ソフィア大学で記念講演を行う(81年5月)

アメリカ

米ロングアイランドにある詩人ホイットマンの生家を訪問(81年6月)

米ロングアイランドにある詩人ホイットマンの生家を訪問(81年6月)

カナダ

世界的に有名なカナダのナイアガラの滝を見学(81年6月)

世界的に有名なカナダのナイアガラの滝を見学(81年6月)

【師弟の「勝ち鬨」】

香川・四国研修道場を訪問(1981年11月)。この四国指導の折、「紅の歌」が誕生した

香川・四国研修道場を訪問(1981年11月)。この四国指導の折、「紅の歌」が誕生した

大分・竹田の岡城址で、同志と「荒城の月」を合唱(81年12月)

大分・竹田の岡城址で、同志と「荒城の月」を合唱(81年12月)

雪に包まれる秋田を訪れ、路上で何度も車を止め、友を激励(82年1月)

雪に包まれる秋田を訪れ、路上で何度も車を止め、友を激励(82年1月)

82年3月の第1回関西青年平和文化祭(大阪・長居陸上競技場〈当時〉で)

82年3月の第1回関西青年平和文化祭(大阪・長居陸上競技場〈当時〉で)

【世界平和への貢献】

国連平和賞を受賞し、明石事務次長(当時)から感謝状とメダルが贈られた(1983年8月、都内で)

国連平和賞を受賞し、明石事務次長(当時)から感謝状とメダルが贈られた(1983年8月、都内で)

「核兵器──現代世界の脅威」展の開幕式に出席(87年5月、ソ連のモスクワで)

「核兵器──現代世界の脅威」展の開幕式に出席(87年5月、ソ連のモスクワで)

【識者との語らい】

ゴルバチョフ氏と和やかに語らう(1993年4月、東京・八王子市の創価大学で)

ゴルバチョフ氏と和やかに語らう(1993年4月、東京・八王子市の創価大学で)

キューバのフィデル・カストロ国家評議会議長(当時)を表敬訪問(96年6月)

キューバのフィデル・カストロ国家評議会議長(当時)を表敬訪問(96年6月)

〈御書の旭光を〉43 生命の幸の宮殿を共々に

〈御文〉 此の世の中の男女僧尼は嫌うべからず法華経を持たせ給う人は一切衆生のしうとこそ仏は御らん候らめ(四条金吾殿女房御返事、1134ページ)

〈通解〉 この世の中で法華経を持つ人は、男女・僧尼を問わず、一切衆生の主に当たると、仏はご覧になっているであろう。

〈池田先生が贈る指針〉

 妙法を行ずる生命は、あらゆる差異を超えて尊極であり、一切衆生に幸福を広げる存在だ。
 とりわけ女子部のすがすがしい振る舞いが、縁する人々と社会に、どれほど希望の光を送ることか。悩みも苦労も、未来を照らす福徳となる。世界一、誇り高い、歓喜と充実の青春である。
 明るく励まし合い、生命の幸の宮殿を共々に!

〈信仰体験〉 掌蹠膿疱症と17年闘った社会福祉士 2022年5月18日 できることは必ずある! | Yanaの (ameblo.jp)

  • できることは必ずある!
  • 写真 痛くて上げられなかった腕が、今はここまで上がるように。「今度は僕が病気で悩むメンバーのために」

痛くて上げられなかった腕が、今はここまで上がるように。「今度は僕が病気で悩むメンバーのために」と

痛くて上げられなかった腕が、今はここまで上がるように。「今度は僕が病気で悩むメンバーのために」と

 【兵庫県明石市】木幡隆志さん(40)=区男子部主任部長(本部長兼任)=が向かう仏壇の経机には、本紙の切り抜きが1枚、置かれている。そこにつづられているのは祈禱抄の一節。「法華経の行者の祈りのかなわぬことはあるべからず」(新592・全1352)。長きにわたる病苦の渦中、ずっと自分に言い聞かせてきた。

自転車でさっそうと高齢者宅へ向かう

自転車でさっそうと高齢者宅へ向かう

 高齢者の生活を支える地域包括支援センター。木幡さんは、社会福祉士として相談支援に従事する。
 「観光先で困ったら、観光案内所に行きますよね。分かりやすくいえば、地域包括支援センターは“福祉の観光案内所”です」
 センターには月に約700件の相談がある。内容も多岐にわたる。
 ある日は「うちのおじいちゃん、歩けないんです」との相談。手すりを設置すれば歩けるようになるのか、それとも車いすが必要なのか。訪問しなければ分からないことが多い。
 高齢者や家族の了承を得て、高齢者宅へ。自転車をこいで、軽快に路地を抜ける。
 “そういえば、かつて病気の症状がひどかった時は、自転車なんて乗れなかったな”。そう思い返しながら。
 * 
 2003年(平成15年)、大学で介護福祉士と社会福祉士の資格を取り、卒業後、特別養護老人ホームに入職した。

 その頃から、手の皮がむける症状が出始めた。はじめは“職場で手指消毒をする機会が多いから、その影響かな”と思っていた。
 母も似たような症状に。母が通う病院に行くと、「掌蹠膿疱症」と診断された。手のひらなどに、うみのたまった水ぶくれ(膿疱)が次々にできる。無菌性のため、他人に感染することはない。
 医師からは「完治は難しい。対症療法しかない」と告げられた。
 しかし、次第に手荒れはひどくなり、25歳の頃には手袋をして隠すように。
 “信心で乗り越えるんだ!”と決意し、唱題に励んだ。創価班大学校(当時)時代には、ぜんそくで悩む友人を入会に導いた。
 広布の活動に全力投球するなか、手袋に気付いた女性部員に話し掛けられた。病気のことを伝えると、「大阪にいい病院がある」と教えてくれた。
 1時間以上かけて行った大阪の病院で、「10年はかかるけど、治りますよ」と。
 治らないと諦めていた病気が治る!――それがうれしくて、10年という期間は気にならなかった。

職場や男子部で元気に活動できるようになった陰には、信心強盛な両親の支えがあった

職場や男子部で元気に活動できるようになった陰には、信心強盛な両親の支えがあった

 だが喜んだのもつかの間、新たに「掌蹠膿疱症性関節炎」との診断。肋骨と鎖骨が癒着し、肋骨の軟骨が石灰化しているという。
 「薬を変えることになります。最初は症状が悪く出ることを覚悟してください」との医師の言葉通り、気絶しそうになるほどの痛みが襲ってきた。
 呼吸をするだけで、胸から肩を剣山でなで回されているような激痛が走る。体をひねっても痛く、腕も肩から上には上げられない。
 手のひらや足の裏の、皮がむけた箇所に触れただけで、耐えられない痛みを感じるようになり、物を持ったり、歩いたりもできなかった。
 痛み止めの薬を飲み、何とか仕事を乗り切ると、帰宅してからは、ほぼ寝たきりという毎日に。
 心配した男子部の友が何度も来てくれた。しかし“僕の気持ちなんて誰も分からない”と拒絶し、置かれた手紙からも目を背けた。

苦しい時に励まし続けてくれた先輩たちと共に訪問・激励へ

苦しい時に励まし続けてくれた先輩たちと共に訪問・激励へ

 あっという間に1年が過ぎると、“このまま信心から離れ続けたら、自分がダメになってしまう”という思いが日に日に強まっていく。
 痛む体を押して、男子部の先輩に相談に行った。
 「声を出しても、手を合わせても痛い。すねの皮がめくれていて正座も痛いし、勤行・唱題ができません」
 先輩は「声を出さなくても、胸中で唱えられるじゃないか。座れなくても、寝ながら祈れるじゃないか」と。
 “そうか。できることから始めればいいんだ”
 言われた通りに勤行・唱題に励み始めた。祈るほどに、体が痛くて仕事以外は外に出ることを避けていた自分が、“男子部のみんなと会いたい”と、進んで会合に参加するように。
 学会活動に取り組むと、“生きている”という実感が湧いた。

座談会で笑顔の語らい。今の自分があるのは、学会の同志の心遣いがあったからこそ

座談会で笑顔の語らい。今の自分があるのは、学会の同志の心遣いがあったからこそ

 15年前から現在の職場に。病気のことも配慮してくれ、現在まで勤め続けられている。
 周囲の温かい協力もあって、治療も奏功し、少しずつ痛みが治まっていく。皮膚を守るために着けていた手袋も、6年ぶりに外すことができた。
 32歳で結婚。未入会の妻は「信仰を頑張っている姿が輝いて見える」と言ってくれた。
 腕もだいぶ動くように。創価班の任務で、誘導棒を振って車を案内できることがうれしい。
 池田先生はつづっている。
 〈経済苦や病苦などの宿命と悪戦苦闘しながらも、同志は絶対に負けなかった。労苦の中で信心の体験をつかみ、それを生き生きと語っていった。その姿には、「負けじ魂」が輝いていた〉
 この言葉に触れるたび、“僕も負けたらあかんねや”と奮い立つ。

病気のため、創価班の任務に就けない期間があった。感謝と喜びを胸に毎回の任務に臨む

病気のため、創価班の任務に就けない期間があった。感謝と喜びを胸に毎回の任務に臨む

 発症から17年たった2020年、血液検査の結果を見た医師が「治っています。もう薬は飲まなくていいですよ」と。あまりにも突然で驚いた。
 かつて治療を始めたばかりの頃、医師から「骨が70代の高齢者と同じ。転んだら折れる危険がある」と言われていた。
 今振り返ると、“病気になったことで、高齢者の痛みやしんどさが少しでも分かる相談員になれた”と心の底から思う。
 * 
 高齢者の支援にあっては、「何でもしてあげるのが良い社会福祉士ではない」と木幡さんは思う。相手の力を上手に引き出すことこそ大切だと感じているからだ。訪問先で、その人は何ができるのかを探り、周囲の支援者も含めた“動ける力”を見いだしていく。
 “どんな状況でも、できることは必ずある!”
 その確信が木幡さんを突き動かしている。

マイ・ヒューマン・レボリューション――小説「新・人間革命」学習のために 「東京凱歌」編(上) | Yanaの (ameblo.jp)

  • 師弟の月・7月へ前進!
  • “創価の本陣”から希望の光を!

 今回の「My Human Revolution(マイ・ヒューマン・レボリューション)」は、「東京凱歌」編(上)を掲載する。小説『新・人間革命』の山本伸一の東京各地への激励・指導などを紹介する。次回の「東京凱歌」編(下)は26日付2面に掲載の予定。挿絵は内田健一郎。

“創価の本陣”から希望の光を!

第28巻「大道」の章より

第28巻「大道」の章より

 学会本部を擁する新宿区は、いわば、創価学会の本陣である。
 
 (中略)
 
 伸一は、新宿を、本陣にふさわしい世界一の団結を誇る、最も強力で理想的な組織にしなければならないと、深く心に誓っていた。
 
 希薄化した人間関係など、新宿のかかえる問題は、都市化が進む現代社会を象徴する課題といえた。それは、やがて、東京中に、さらには、全国の都市に広がる問題にちがいない。
 
 だからこそ、新宿の同志が、その困難をはね返し、見事な広宣流布の黄金城を築き上げることができれば、未来に燦然たる希望の光を送り、堂々たる全国模範の道を切り開くことになるのだ。
 
 (第16巻「入魂」の章、35~36ページ)

苦闘の分だけ勝利の歓喜は絶大

 <1973年(昭和48年)3月31日、町田など第2東京本部のメンバーとの語らいで>
 
 「いかに年齢を重ねようが、苦闘がなければ精神は空疎です。自分の幸福のため、充実のために、自ら戦いを起こすことです。そして、自身の挑戦のドラマをつくるんです」(中略)
 
 「苦闘するということは、自身の人間革命の大舞台に立ったということなんです。それを乗り越え、勝利した時の喜び、爽快感は、何よりも、誰よりも大きい。人は苦労して戦い抜いた分だけ、幸福になる権利がある。
 
 では、また、お会いしましょう。地元の皆さんに、『町田、頑張れ! 町田、勝ちまくれ!』と、お伝えください」
 
 (第17巻「本陣」の章、95ページ)

広布の大願に生き抜く師子たれ

 <73年(同48年)4月22日、墨田の青年たちとの語らいで>
 
 「墨田は、私が心血を注いだ、燦然たる民衆城です。そして、私が第三代会長に就任し、新しき広宣流布へ旅立ったのも、この墨田の日大講堂です」
 
 (中略)
 
 「皆さんは、使命深くして、歴代会長が魂魄をとどめた広布誓願の天地である、誉れの墨田に集っていることを忘れないでいただきたい。
 
 大聖人は『願くは我が弟子等・大願ををこせ』(御書1561ページ)と仰せです。
 
 皆さんも、広宣流布の大願に生き抜く師子であってください。私の心は、常に皆さんと共にあります。断じて勝とうよ」
 
 (第17巻「民衆城」の章、282~283ページ)

正法流布の使命忘れず活路開け

 <不況下の73年(同48年)11月23日に行われた品川区幹部総会で>
 
 「どうか、この激動に足をすくわれることなく、むしろ、今こそ、信心の功徳というものを、見事に、堂々と示し切っていただきたい。それが、私の願いであり、祈りであります」(中略)
 
 伸一は、品川のメンバーに、祈るような思いで語っていった。
 
 「この社会的な経済危機を乗り越える道は、結局、正法の流布以外にありません。その使命を担っているのが、皆さんであります。(中略)大事なことはどこまでも唱題第一に、広宣流布の使命を断じて忘れることなく、智慧を絞り、活路を開くために努力し抜いていくことなのであります」
 
 (第18巻「前進」の章、271~275ページ)

苦悩に負けない心を磨き鍛える

 <1977年(昭和52年)2月1日、村山など第2東京本部の女性の代表が集った勤行会で>
 
 「人は、老いも、病気も、死も避けることはできない。
 
 では、だから、不幸になるのかというと、決してそうではありません。病や老いなどの苦悩はあっても、それに打ちのめされない、負けない心、強い心、広い心、豊かな心を培っていけばいいんです。それができるのが、信心なんです。そこに『現世安隠、後生善処』への道が開かれるんです。
 
 仮に、年老いて体が不自由になったとしても、自らの心を磨き、鍛え、広宣流布の使命に生き抜こうとする人には、充実があり、日々、湧きいずる歓喜があります」
 
 (第24巻「人間教育」の章、208ページ)

御本尊への確信こそ幹部の要件

 <77年(同52年)1月29日、江東など4区の大ブロック担当員勤行会で>
 
 「戸田先生は、大確信をもって、よく、こう言われておりました。
 
 『朝晩の勤行を励行し、懸命に唱題し、折伏を行っていくならば、人間革命できないわけがない。幸福にならないわけがない』(中略)
 
 大ブロック担当員の皆さんは、必ず幸せになってください。また、大ブロックの人たちを、一人も残らず、幸せにしていってください。皆さんは、その幸福責任者なんです」
 
 伸一は、(中略)仏法への大確信を打ち込んでおきたかった。広宣流布を推進する幹部としての第一の要件は、信心への、御本尊への、絶対の確信であるからだ。
 
 (第24巻「人間教育」の章、197~198ページ)

1983年(昭和58年)、池田先生は東京に縁するすべての友の人生勝利を願い「東京凱歌」と認(したた)めた。この年、先生は東京の各地を次々と訪れ、会えなかった同志にも伝言を託し、固い絆を結んでいる

1983年(昭和58年)、池田先生は東京に縁するすべての友の人生勝利を願い「東京凱歌」と認(したた)めた。この年、先生は東京の各地を次々と訪れ、会えなかった同志にも伝言を託し、固い絆を結んでいる