〈御書の旭光を〉42 「丈夫の心」で不屈の言論を

〈御文〉 法華経を説く人は柔和忍辱衣と申して必ず衣あるべし(御衣並単衣御書、971ページ)

〈通解〉 法華経を説く人は、法華経法師品にある「柔和忍辱の衣」という衣を着るべきである。

〈池田先生が贈る指針〉

 法華経を説けば、必ず反発が生ずる。故に、柔和忍辱という最極の人間性の衣を着て戦うのだ。
 信念が強いから耐え忍べる。境涯が深いから柔軟に包める。友の心の奥底を動かすのは、正義と慈愛の言論の力だ。
 忍難弘通の大闘争を継ぐ本門の男子部よ、不屈の勇気で忍耐強く語り抜け! 時代を変える「丈夫の心」の大連帯を!

 

用語解説

【柔和忍辱の衣】

 

※ 池田先生の講義「法華経の智慧」(池田大作全集第29-31巻) 須田・斎藤・遠藤さん参加の対談方式です。


 須田 次に「柔和忍辱の心」が、如来の「衣」に譬えられているのは分かりやすいですね。衣が寒熱から身を守るように、柔和忍辱の衣があれば、難に紛動されないということです。
 池田 そう。私たちの弘教においても大切なことです。どんな圧迫があろうとも、にこやかに、悠々たる境涯でいきなさいということです。
 滅後の弘教においては、難は必然です。そこで「忍辱の心」が必要になる。耐え忍ぶ心です。耐えるといっても、退くことでも、負けることでもない。耐えて勝つのです。心は何があってもへこたれないのです。広宣流布は精神の闘争です。心が負けていては「忍辱の心」にはなりません。
 斉藤 大聖人は撰時抄で「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず」と仰せです。
 「身を随えられる」とは、難を受けて忍ぶことです。「心は随えられない」というのは、心では負けていないということです。
 池田 それが「忍辱の心」です。大聖人が佐渡に流されたのは、身をば随えられたのです。しかし、お心は「流人なれども喜悦はかりなし」との大境涯であられた。
 忍辱の心とは、最も強い心です。真の勇気があるから、耐えられるのです。勧持品(第十三章)に「忍辱の鎧」とあるのは、その強さを譬えているのでしょう。
 仏の別名を「能忍」(能く忍ぶ)という。釈尊も大聖人も「耐える人」であられた。
 遠藤 法師品では、法師が難に遭うことを強調しています。
 大聖人が身で読まれた「此の経は、如来の現に在すすら、猶お怨嫉多し。況んや滅度の後をや」(法華経三六二ページ)の文も法師品で説かれます。
 須田 法師が難に遭う理由は、法華経が難信難解の経であるからだと説かれています。難信難解だから、釈尊の在世ですら怨嫉が多かった。まして、滅後においては、さらに難が大きい、と。
 池田 「況んや滅度の後をや」──なぜ、仏の「在世」よりも「滅後」のほうが難が大きいのか。
 「滅後」とは、仏の精神が忘れられ、宗教的、思想的に混迷する時代のことです。かりに仏を崇めているようでも、肝心の「仏の精神」は忘れ去られている。仏教の「宗派」はあっても、「仏の心」は生きていない。
 「宗教のための宗教」はあっても「人間のための宗教」はない。法華経は、とくにそういう時代のために説かれた経典です。
 「仏の心」を忘れ去った時代に、「仏の心」を伝える法華経を弘めるからこそ、怨嫉が多いのです。人間性を失った時代に、人間性の回復を唱えきっていくのは大変なのです。
 須田 その意味では、何の難もないのは本当の意味で正法を弘めていないということですね。宗門などは、戦時中も現在も、何の難も受けていない。
 それに対して牧口先生以来、現在に至るまで、創価学会が難を受けきっているということは、まさに法華経を身読している姿です。学会が「仏の心」を実践しているという証明です。
 斉藤 迫害につきものなのが策謀です。釈尊の時代も、でっち上げのスキャンダルや、冤罪が絶えなかった。
 悪人たちは自分たちが殺人を犯した上、その罪を釈尊の門下にかぶせることによって、仏教教団を社会的に抹殺しようとさえしました。
 須田 大聖人の場合も、念仏者などの一派が鎌倉で殺人や放火を犯し、それを大聖入門下がやったと言いふらして、大聖人を佐渡へ流罪させました。この時も大聖人の教団があたかも危険な集団であるかのようなイメージを作りだすことによって弾圧したのです。いつの時代でも正法迫害の構図には似たものがあります。
 遠藤 だからこそ「忍辱の衣」が放せないのですね。
 池田 こんな話が残っている。
 一人のバラモンがいた。彼は、妻が仏教に帰依したことを快く思っていなかった。
 妻が、あんまり釈尊の事をたたえるので、一度、論破してやろうと行ってみたが、かえって釈尊の説法に感心し、自分も帰依する。これを苦々しく思ったのは、仲間のバラモンたち。さっそく祇園精舎へ押しかけ、口汚くののしった。
 これに対して釈尊は、どうしたか──。
 遠藤 興味深いところですね。
 池田 釈尊はバラモンの一人に尋ねた。
 「バラモンよ、あなたのところへ、友人・親戚等が、客として来訪することがあるか」
 「ある。時々、来訪する」
 「彼らを、食事を出してもてなすことがあるか」
 「ある。時々、食事を出してもてなしている」
 「もし彼らが、出された食事を受けなければ、それは誰のものになるか」
 「もし彼らが受けないならば、それは私のものになる」
 「バラモンよ、そのように私は、あなたからの讒謗ざんぼうも誹謗も非難も受け取らない。それらは、あなたのものになるのです」(「婆羅門相應」、『南伝大蔵経』12,大蔵出版、参照)
 須田 まさに「柔和忍辱」にして、相手の痛いところを突いています(笑い)。
 遠藤 「柔和忍辱の衣」を着ることによって、悪口も「心に入らなくなる」わけですね。
 斉藤 入らなくなった分、悪口は、言った人のもとに戻って、当人が苦しむ(笑い)。

 

マイ・ヒューマン・レボリューション――小説「新・人間革命」学習のために 「平和への誓い」編 | Yanaの気まぐれ (ameblo.jp)

  • 人間賛歌の世紀を開け!
  • 写真は  世界51カ国・地域のメンバーが集った第1回「世界平和会議」で、あいさつに立つ池田先生(1975年1月、グアムで)

 小説『新・人間革命』の山本伸一の激励・指導などを紹介する「My Human Revolution(マイ・ヒューマン・レボリューション)」。今回は「平和への誓い」編を掲載する。次回は第30巻<下>を28日付2面に掲載の予定。挿絵は内田健一郎。

立正安国の実現こそ仏法者の使命

 <1960年(昭和35年)5月、東北や北海道などの太平洋岸を、大津波が襲った。山本伸一は、すぐに本部で救援活動の指揮を執る。彼は「立正安国」の実現の必要性を痛感していた>
 
 「立正」とは「正を立てる」、すなわち仏法の「生命の尊厳」と「慈悲」という人道の哲理の流布であり、仏法者の宗教的使命といってよい。また、個人に即していえば、自らの慈悲の生命を開拓し、人道を規範として確立していく人間自身の革命を意味している。
 
 創造の主体である人間の生命が変革されるならば、その波動は社会に広がり、人間を取り巻くあらゆる環境に及んでいく。そして、政治に限らず、教育、文化、経済も、人類の幸福と平和のためのものとなり、「安国」すなわち「国を安んずる」ことができよう。
 
 それは、ちょうど、一本の大河の流れが、大地を潤し、沃野と化した大地に、草木が豊かに繁茂していくことに似ている。仏法は大河、人間は大地であり、草木が平和、文化にあたる。
 
 日蓮仏法の本義は、「立正安国」にある。大聖人は民衆の苦悩をわが苦とされ、幸福と平和の実現のために、正法の旗を掲げ、広宣流布に立たれた。つまり、眼前に展開される現実の不幸をなくすことが、大聖人の目的であられた。それは、「立正」という宗教的使命は、「安国」という人間的・社会的使命の成就をもって完結することを示していた。そこに仏法者と、政治を含む、教育、文化、経済など、現実社会の営みとの避け難い接点がある。
 
 (中略)宗教は、人間を鍛え、人格を磨き高め、社会建設の使命に目覚めた人材を育み、輩出する土壌である。
 
 (第2巻「先駆」の章、41~43ページ)

万人の「生存の権利」守る大師子吼

 <60年11月、横浜・三ツ沢の陸上競技場で第9回男子部総会が開催された>
 
 この会場は、三年前の一九五七年(昭和三十二年)九月八日、戸田城聖の遺訓となった、歴史的な「原水爆禁止宣言」が行われた意義深き場所である。戸田は、この時、人間の“生存の権利”を守るうえから、いかなる国であれ、原子爆弾を使用するものは悪魔であり、魔ものであると宣言し、その思想を全世界に広めゆくことを青年たちに託したのであった。
 
 以来三年、青年たちは、それを自らの使命として、「原水爆禁止宣言」を何度も読み返しては語り合い、思索を重ねてきた。そのなかで彼らは、戸田の宣言が、仏法者の生き方の必然的な帰結であり、仏法には、人類が抱える、あらゆる難題を解決する原理が示されていることをつかんでいった。
 
 たとえば、仏法では、一切衆生に「仏性」があると説いていることは知っていたが、それが現代の社会にあって、いかなる意味をもつか、測りかねていた。しかし、戸田が宣言のなかで語った、「われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております」との言葉は、「仏性」という仏法の考えを、現代思想の概念として打ち立てたものであることに気づいた。「生存の権利」という考えは以前からあり、「世界人権宣言」などにも示されているが、戸田は、仏法の哲理の裏づけをもって、そこに内実を与えたといってよい。
 
 青年たちは、こうした仏法の哲理が、現代社会に深く根差していってこそ、人類の幸福と世界の平和の創造が可能になることを、次第に感じ取っていった。
 
 (第2巻「勇舞」の章、191~192ページ)

世界を「友情」と「信頼」の絆で結べ

 <61年(同36年)6月、伸一は、東京・日比谷公会堂で行われた第4回学生部総会に出席。彼は、新時代を担う若き俊英たちに大きな期待を寄せた>
 
 「さて、諸君にお願いしておきたいことは、語学を磨き、世界にたくさんの友人をつくっていただきたいということであります。日蓮大聖人の仏法が、世界に流布されていくことは歴史の必然です。ですから海外にあっては、焦って、布教をする必要はありません。それよりも、世界に大勢の友人をつくり、皆さんが、人間同士の信頼を築いていくことです。
 
 今、学会は、弘教の大波を広げていますが、それはただ教勢の拡大のために行っているのではありません。どこまでも、人びとの幸福の実現であり、世界の平和のためです。
 
 平和といっても、人間と人間の心の結びつきを抜きにしては成り立ちません。皆さんが世界の人びとと、深い友情で結ばれ、そのなかで、友人の方が、皆さんの生き方に感心し、共感していくなら、自然と仏法への理解も深まっていくものです。
 
 この課題を担うのは、語学をしっかり学んでいる人でなければ難しいので、特に、学生部の皆さんにお願いしたいんです。世界の方は、一つよろしくお願いいたします」
 
 (中略)
 
 世界を友情で結べ――さりげない言葉ではあるが、そこには、仏法者の生き方の本義がある。
 
 仏法は、人間の善性を開発し、人への思いやりと同苦の心を育む。それゆえに仏法者の行くところには、友情の香しき花が咲くのである。そして、布教も、その友情の、自然な発露にほかならない。
 
 (第4巻「青葉」の章、211~212ページ)

「地球民族主義」は人類結合の思想

 この地球上には、思想・宗教、国家、民族等々、さまざまな面で異なる人間同士が住んでいる。その差異にこだわって、人を分断、差別、排斥していく思想、生き方こそが、争いを生み、平和を破壊し、人類を不幸にする元凶であり、まさに魔性の発想といえよう。
 
 戸田が提唱した、人間は同じ地球民族であるとの「地球民族主義」の主張は、その魔性に抗する、人類結合の思想にほかならない。
 
 宗教者が返るべきは、あらゆる差異を払った「人間」「生命」という原点であり、この普遍の共通項に立脚した対話こそ、迂遠のようであるが、相互不信から相互理解へ、分断から結合へ、反目から友情へと大きく舵を切る平和創造の力となる。
 
 人類は、往々にして紛糾する事態の解決策を武力に求めてきた。(中略)しかし、武力の行使は、事態をますます泥沼化させ、怨念と憎悪を募らせたにすぎず、なんら問題の解決にはなり得なかった。
 
 一方、対話による戦争状態の打開や差別の撤廃は、人間の心を感化していく内的な生命変革の作業である。したがって、それは漸進的であり、忍耐、根気強さが求められる。ひとたび紛争や戦争が起こり、報復が繰り返され、凄惨な殺戮が恒常化すると、ともすれば、対話によって平和の道を開いていくことに無力さを感じ、あきらめと絶望を覚えてしまいがちである。実は、そこに平和への最大の関門がある。
 
 仏法の眼から見た時、その絶望の深淵に横たわっているのは、人間に宿る仏性を信じ切ることのできない根本的な生命の迷い、すなわち元品の無明にほかならない。世界の恒久平和の実現とは、見方を変えれば、人間の無明との対決である。つまり、究極的には人間を信じられるかどうかにかかっており、「信」か「不信」かの生命の対決といってよい。
 
 そこに、私たち仏法者の、平和建設への大きな使命があることを知らねばならない。
 
 (第29巻「清新」の章、319~320ページ)

世界51カ国・地域のメンバーが集った第1回「世界平和会議」で、あいさつに立つ池田先生(1975年1月、グアムで)。「全世界に妙法という平和の種を蒔いて、その尊い一生を終わってください。私もそうします」と訴えた

世界51カ国・地域のメンバーが集った第1回「世界平和会議」で、あいさつに立つ池田先生(1975年1月、グアムで)。「全世界に妙法という平和の種を蒔いて、その尊い一生を終わってください。私もそうします」と訴えた

小説「新・人間革命」第1巻より

 平和ほど、尊きものはない。
 平和ほど、幸福なものはない。
 平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない。

〈御書の旭光を〉41 諸天動かす不屈の祈りを

〈御文〉 此の度こそ・まことの御信用は・あらわれて法華経の十羅刹も守護せさせ給うべきにて候らめ(兄弟抄、1083ページ)

〈通解〉 このたびの難においてこそ、あなた方の本当の信心が表れて、法華経の会座に連なった十羅刹女も必ず守護するに違いない。

〈池田先生が贈る指針〉

 「法華経の行者」の祈りに勝るものはない。広宣流布、立正安国のために戦う我らの誓願の一念が、どれほど強いか。妙法には一切衆生の仏性を呼び顕す力がある。
 激闘の時こそ、弾けるような師子吼の題目だ。断固と魔を打ち破り、諸天を揺り動かす不屈の祈りである。
 まことの信心の底力で真金の生命の凱歌を!

 

用語解説

【十羅刹女】

法華経陀羅尼品第26で、法華経を受持する者を守ることを誓った10人の羅刹女。羅刹はサンスクリットのラークシャサの音写で、人の血肉を食うとされる悪鬼だが、毘沙門天王の配下として北方を守護するともいわれる。羅刹女はラークシャサの女性形ラークシャシーの訳で、女性の羅刹のこと。

 

【島根神楽・十羅刹女】

石見神楽『十羅刹女』(松原神楽社中) God-Entertainment - YouTube

 

※ 悪鬼神との長時間の戦いの舞です、後半のクライマックスだけでも見て頂ければ迫力を味会えると思います。

 

【十羅刹女の舞】の由来

 

江戸時代中期の邑智郡~那賀郡の大元神楽の曲目の中には「十羅」の名があることから、もともと石見地方ではメジャーな曲目であったことは想像できます。

羅刹は仏教用語で鬼、羅刹女は鬼女という意味です。古代インドではこの羅刹女が仏法に帰依し、仏法の守護神になったという伝説があり、神仏習合の時代にあっては日ノ御碕大明神は十羅刹女の仮の姿であるという信仰があったそうです。
しかし、明治初年の神仏分離令により仏教色の強い神社が廃止される中で、神楽もまた同じように仏教色の強い曲目は演じられることが少なくなり、明治以降の台本等から削除されていました。

石見神楽では十羅刹女は須佐之男命の末娘という設定になっていますが、須佐之男命の末娘は須勢理姫で、大国主命と結婚したとあるので、これは後からとってつけた設定ではないかと思われます。

そもそもこの話しは、日ノ御碕大明神が、ムクリコクリという鬼の国王が攻めてきとのを十羅刹女と三十番神を引き連れて追い払うという筋書きであったようですが、現在では十羅刹女が、異国から船に乗って攻めてきた「彦羽根」という鬼女を退治するという内容になっています。


またこの神楽は石見地方意外にも台本が残っている神楽で、出雲、隠岐をはじめ、備後の「延宝八年神楽能本」には「十羅節女」、「ノウノ本」には「十ラセツキナツキ(十羅刹杵築)」として残っています。

日御碕神社にはこの神楽能の筋書きとなる縁起が伝わっています。
「大社町史」で井上寛司氏は応永二七年の「日御碕社造営勧進記」にあるものとし、それについて見解を示していますが、それがとても面白いものです。

この話しが鎌倉時代の猛虎襲来をもとに創作したもので、杵築大社の支配から脱却し勢力拡大をはかる日御碕神社が「応永の外寇」による緊迫した対外状況の中、海と国家の安泰を願う神社としてこの縁起を打ち出した。
またこの勧進記には足利義持の署名もあり新しい神徳を持つ神社としての地位を中央で認められた。
十五世紀末には既に祭神が須佐之男命、天照大御神になっているが、それ以前の祭神は十羅刹女であった、とあります。

 

 



 

 

 

 

〈スマイル自分らしく 信仰体験〉 次男の大田原症候群 「この子の笑顔をありがとう」 | Yanaの (ameblo.jp)

‣ 暖仁(中央下)は、お風呂が大好き。湯船に入ると、気持ちよさそうに「あー」とおじさんみたいな声を出す(笑)。夫(中央上)は暖仁にスマホの画面を見せながらゲーム。敵にやられて「うわー!」と叫ぶと、暖仁がケタケタ笑う。お兄ちゃんの悠希(左端)がトロンボーンを吹くと、ニコニコ。私たち家族の中心には、いつも暖仁の笑顔が輝いている

 「大田原症候群」。日本に患者が100人未満の指定難病と知って、小野美由紀さん(46)=広島市安佐南区、地区女性部長=は言葉を失った。
  
 2007年(平成19年)、生まれたばかりの次男・暖仁さんに告げられた診断。この病は脳の障がいなどから起きる重症のてんかんで、腕や足がピクッと動く発作、全身のけいれん、意識消失などを引き起こす。生後3カ月以内に発症し、有効な治療法は確立されていない。
  
 暖仁さんは脳性まひ、慢性呼吸不全などの合併症も併発した。現実を受け止められず、泣き伏す小野さん。その涙をぬぐい、笑顔に変えてくれたものは何だったのか。

幼い頃の暖仁さん(ご家族提供)

幼い頃の暖仁さん(ご家族提供)

「重症のてんかん」と診断されて

 暖仁は生後2日目に熱を出して、けいれんが止まらなくなった。
 お医者さんの診断は「大田原症候群」。難治性のてんかんで「これから先、お子さんは、立つことも、座ることもできません」と言われた。
  
 “うちの子が難病……”。目の前で寝ている暖仁を見ていても、半分夢の中にいるようだった。
 それでも暖仁の「発作」を目の当たりにするたび現実に引き戻されていく。
 暖仁の手足が「ペダル」をこぐように動き、全身がこわばり、10秒くらい呼吸が止まる。こんな発作が1時間に3回くらい起きていた。
  
 小さい小さい鼻の穴からマーゲンチューブを入れ、胃までつないだ。ミルクを飲んだ暖仁がむせて吐き出すたびに、チューブが口から出てきてしまう。何度も入れ直すのが、かわいそうで……。
 “元気に産んであげたかった。ごめんね”。ベッドの傍らで、何度も涙がこぼれ落ちた。

「よく分かるよ」 先輩の励まし

 私は、暖仁に付きっ切りになり、病院に寝泊まりするようになった。だから当時まだ1歳だったお兄ちゃんの悠希には、とっても寂しい思いをさせてしまったと思う。
  
 毎朝、夫が出勤前に悠希を保育園に預けて、夕方になったら、私がいったん病院を抜けてお迎えに行く。
 家でお風呂に入れて、ご飯を食べさせたら母に悠希を託して、私はまた暖仁の病院に戻る。「ママ……」。寂しそうな悠希の声を聞くたび、胸がかきむしられた。
  
 お兄ちゃんのそばにもいてあげたい。苦しい思いを抱えたまま病院に戻ると、小さな体を震わせて、発作に耐える暖仁の姿が……。
 私は悠希も暖仁も抱き締めてあげられない。涙をこらえ、暖仁の顔をなでた。「はるくん、お母さんだよ。分かる?」

幼い頃、お兄ちゃん㊧と

幼い頃、お兄ちゃん㊧と

 日に日に、母親としての自信がなくなっていく。一方で、「命を守る責任」は重くなっていった。
 看護師さんから医療ケアの仕方を習う。暖仁の鼻にチューブを入れる時、怖くて足がガタガタ震えた。
  
 一時退院すると、ますます不安が募り目が離せなくなった。
 夜中に200回を超える発作が出たり、40度の熱が下がらず呼吸が乱れたりして、そのたび救急に駆け込んだ。
 入退院を繰り返し、暖仁が1歳になる頃、地区女性部長が私に手紙をくださった。そこには「はるくんと同じようなお子さんを育てられた方がいるから、ぜひ会ってほしい」とつづられていた。
  
 数日後、一人の女性部の先輩が、病院の面会室に来てくださった。私が何を話しても「よく分かるよ」と共感してくれる。「たんの吸引があるから、目が離せんじゃろ」。同じような経験をしてこられた先輩の言葉は、とても心強かった。

大好きなお父さん(耕志さん)と(ご家族提供)

大好きなお父さん(耕志さん)と(ご家族提供)

はるくんは私のボーイフレンド

 先輩は言った。「どこにいても、何をしてても、“ぶつぶつ”とお題目をあげていきんちゃい。それを続ければ必ず変われるけぇ」
 その言葉を聞いた時、ずっと真っ暗だった私の心に光が差した。“それなら、どんなに忙しくても続けていける!”
 病室にいる時は、暖仁の顔をなでながら祈り、保育園に迎えに行く時は、悠希を思い車の中でお題目。“暖仁の入院が減りますように”“悠希に保育園で楽しいことがいっぱいありますように”
  
 想像したよりずっと早く、結果が表れた。祈り始めて3カ月後、暖仁の発作が減り、家で過ごせる時間が増えていった。
 何よりうれしかったのは、暖仁が生まれて初めて笑顔を見せてくれたこと。ベッドの上で、“ニコニコ”って。私は両手で暖仁のこぼれそうなほっぺたを包んだ。「はるくん、うれしいの? お母さんもうれしいよ」。涙があふれて止まらない。“御本尊様、この子の笑顔をありがとうございます” 

 私は確信した。“母親の私にできることは、信心に励み、息子たちに生命力を送ってあげることなんだ”と。
 悠希も笑顔にできるようにと、私はますますお題目に励んだ。
 多宝会の先輩が「はるくんは、私のボーイフレンドじゃけぇ」って。毎週一緒にお題目をあげ、暖仁に声を掛け続けてくださった。
  
 私の夫は未入会だけど、学会活動に理解を示し支えてくれた。「一家で一人、立派な信心をしていけば、家族全員を救うことができる」との池田先生の指針を胸に、時には暖仁も連れて、会合や家庭訪問に駆けた。
 どんどん元気になっていく暖仁。2歳になって、夫の了解をもらい、学会に入会することもできた。笑顔の数はますます増えていった。

節分の豆まき。鬼役はお兄ちゃん

節分の豆まき。鬼役はお兄ちゃん

笑ってくれる それだけで幸せ

 暖仁は小学5年生の時に胃ろうの手術をした。これでマーゲンチューブを外すことができ、誤嚥を起こすことが少なくなった。
 主治医・訪問医の先生をはじめ、訪問看護、訪問リハビリ、ヘルパーさん。優しい皆さんに囲まれて、この2年、入院は一度もしていない。今、中学3年生。最近は特別支援学校のオンライン授業で、私と一緒にトマトの観察日記を付けたり、カスタネットを鳴らしたりして楽しんでる。
  
 悠希もまた、弟思いの優しいお兄ちゃんに育ってくれた。中学1年の時の不登校を乗り越えて、部活推薦で高校進学を果たすことができた。
 中学卒業の日、悠希はこんな手紙を書いてくれた。「俺はいつだって、はるくんを忘れたことはないよ。言葉は話せなくても、体もちょっとしか動かせなくても、はるくんは俺のたった一人の弟。俺を見て、俺の話を聞いて、笑ってくれる。それだけで、みんな幸せだから」と。 

暖仁さんの足型で作った絵。「元気」の書はお母さんが手を添えて

暖仁さんの足型で作った絵。「元気」の書はお母さんが手を添えて

 今、悠希は高校1年生。授業料は全額免除の“特待生”として学んでいる。吹奏楽部では大好きなトロンボーンを吹いて、夏休みも楽しそうに部活に打ち込んでた。
  
 私たち家族が今、こんなに笑っていられるのは、たくさんの「支え」があったから。
 少しでも恩返しがしたくて、私は町内会などの地域活動にも積極的に取り組んできた。今は町内の「花いっぱい運動」の代表として町に花壇を増やしている。
  
 これからも、息子たちが地域の皆さんから愛され、育んでいただけるように、私と夫も愛する地域のために力を尽くしていきたい。

暖仁(中央下)は、お風呂が大好き。湯船に入ると、気持ちよさそうに「あー」とおじさんみたいな声を出す(笑)。夫(中央上)は暖仁にスマホの画面を見せながらゲーム。敵にやられて「うわー!」と叫ぶと、暖仁がケタケタ笑う。お兄ちゃんの悠希(左端)がトロンボーンを吹くと、ニコニコ。私たち家族の中心には、いつも暖仁の笑顔が輝いている

暖仁(中央下)は、お風呂が大好き。湯船に入ると、気持ちよさそうに「あー」とおじさんみたいな声を出す(笑)。夫(中央上)は暖仁にスマホの画面を見せながらゲーム。敵にやられて「うわー!」と叫ぶと、暖仁がケタケタ笑う。お兄ちゃんの悠希(左端)がトロンボーンを吹くと、ニコニコ。私たち家族の中心には、いつも暖仁の笑顔が輝いている

お母さんに手を添えられ、暖仁さんが書いた「友」

お母さんに手を添えられ、暖仁さんが書いた「友」

〈One and Only~かけがえのない命~ 信仰体験〉 身長123センチ。自分が好きです。 | Yanaの (ameblo.jp)

  • すみませんばかりの人生はやめた
  • 堂々とありがとうを伝えていく
  • 「たとえ早い旅立ちだったとしても、生きる姿勢に最後まで感動させられて。見送った後にも、その方から影響を受けている人が大勢いる。自分もそうありたいと思います」

 埼玉県川口市の松田恭子さん(51)=副白ゆり長=の身長は123センチ。都内のオフィス街で働き、通勤電車や街中で視線を感じない日はありません。昔は嫌な思いをしました。

 「明るいよね」「すごいね」。そんな言葉を掛けられる時、“小さな体なのに”という意味も含まれている。そう感じて、外見を変えたいと思ってきました。今の心向きは違います。人と関わることで、ありのままの自分に自信が持てました。

  

 小学校低学年の頃の運動会。徒競走で順番が回ってきた。教員に誘導されたスタート位置は、他の児童とは違った。ゴールまでの中間地点。
 
 松田さんは身長が低く、手足が短い。確かにみんなと走れば、ダントツで最下位になる。だからといって、「うれしい気持ちにはなれなかった」。
 
 スタートの合図が鳴ると、最後まで先頭を走り続けた。教員の方を見ると複雑な顔。友達の表情も。“こんな1位は偽物だよ”。にぎやかな運動場で孤独だった。

 病院に検査入院をしたのは小学3年の時だ。背が伸びる未来を期待した。2週間が過ぎて残ったのは落胆だけ。手だてはなかった。
 
 中学校の制服は、特注で作ってもらった。容姿を気にしていないと言ったら、うそになる。いじめの対象にもなり、嫌われないように生きてきた。
 
 ずっと引っかかってきた感覚がある。高校生になり、マラソンを走り切った後の出来事が象徴的だ。

  

2年前に脳出血を起こし、つえを使うようになった。使命感を深め、「また人の気持ちが分かるようになりました」と

2年前に脳出血を起こし、つえを使うようになった。使命感を深め、「また人の気持ちが分かるようになりました」と

 教員からこうねぎらわれた。「松田さん、頑張ったよね」。周りは口々に「私たちだって頑張ったよ!」。すると「でも、松田さんは頑張ったんだよ」と。
 
 何かを成し遂げても、ほめられ方に嫌気が差す。知らず知らずのうちに相手の心にあるフィルターが、透けて見える。“その体で”という同情が入った「頑張ったね」にしか聞こえなかった。
 
 「どんどんひねくれました。だって、私にはどうしようもないし、望んでもいない。背が伸びて、普通になることが、目指すべきゴールになったんです」
 
 現実は、視線を浴びない日はない。好奇心に満ちた子どもの声が刺さる。「あの子、小さい」「なんで小さいんだろう」。いつまでも幼く見られることも嫌で、聞こえないふりをした。
 
 胸をえぐられるのは子どもたちの親の反応だ。「見ちゃダメ」。子どもを見つけたり、視線を感じたりすると、子どもからは遠ざかり、電車では車両を移った。

  

 駅では、切符を買うにも手が届かず、優しそうな人を探して頼む。社会人になると書類などを取ってもらう際に相手の仕事を止める。そのたび、もっと体を小さくして「すみません」と頭を下げた。惨めだった。
 
 街中で、障がい者を見掛けると距離を取った。いつしか、“普通”への気持ちに固執した。一緒だと思われたくなかった。
 
 20歳のある日、そんな松田さんに一人の女性が声を掛けた。会館で車いすを使っていた彼女は「自由グループって知ってる?」と。障がいがある友の集い。初めて存在を知った。会合に何度か参加すると――。
 
 「明るいというか、障がいを互いにちゃかしているんです。自虐的な感じではなくて。それは、自分の障がいを受け止めて、認めているから。だから相手を認め切っていて、根底に尊敬がある。人間が持つ強さを感じました」

  

同居する母・浩子さん㊧と。体のことで特別扱いをせず、ずっと信じてきてくれた母がいたから、松田さんの明るい人生がある

同居する母・浩子さん㊧と。体のことで特別扱いをせず、ずっと信じてきてくれた母がいたから、松田さんの明るい人生がある

 役員として会合の受付を担った時のこと。まだ名前も知らない一人一人の姿や表情が、鮮烈に心に残った。

 何時間も前から準備をして、施設からボランティアと一緒に移動してきた人。重度の障がいがある2人の子を連れた母。
 
 自分で受付に名前を書けない人もいた。心を込めて代筆した。対応するうちに胸に浮かんだのは、「はせ参じる」という言葉。学会活動の素晴らしさを目の当たりにする思いだった。
 
 「私は、この体から変わることに縛られて、ずっと自分を認められませんでした。同志と触れ合うことで、“私はこれでいいんだ”と思えるようになったんです。すると、“これから”が楽しみになって。ようやく前に進めた気がしました」

 人への信頼、尊敬、自分を大切にする気持ち……つらい青春に削ぎ落としてきた感情を取り戻す場所。それが、創価学会だった。
 
 2004年(平成16年)、松田さんは総東京女子部(当時)の自由グループの責任者として出発する。会合の日は、土砂降りの雨。

  

 首から下が動かせないメンバーが雨具で全身を覆って、介助者と会館に来てくれた。自分にはまだ、自信なんてなかった。それでも決意を深め、寄り添う日々が始まる。
 
 障がいの現実には、それぞれが感じている重みがある。他人には知りえない苦しみだってある。分かっているつもりで接しても、時に戸惑った。
 
 「どう声を掛けたらいいのか分からないんです。きれいごとにしかならない気がして。相手が苦しみを抱えていたら、何かゴールが見えるようにしようとしていたのかもしれません」
 
 相談すると、気持ちが楽になった。
 「先輩から『黙っちゃうのはダメだよ。みんな何かを求めているんだから。一緒に生きようとする心を伝えること。いいことを言おうとしなくていい。松田さんの言葉でいいんだよ』と言われて。先輩は、いるだけで楽しくなっちゃう人。こっちが暗くなっていても笑顔にさせてくれる人。私もそういう存在になろうって」

  

 メンバーに渡す手紙。最後に書く名前は、こう記すようになった。「チビスケきょうこ」。“人生を楽しんで、私の体を最大限に生かしていこう”。そんな思いを詰め込んだ。

 御書には「桜梅桃李の己々の当体を改めずして」(新1090・全784)とある。“私もあなたも、ありのままの姿が尊くて、輝いていける”。そう伝えたかった。
 
 05年、松田さんは自由グループの代表として、池田先生が出席した全国青年部幹部会へ。師との出会いを刻む際には、決めていたことがある。

 女子部メンバーとの集合写真、名簿を携え、皆と共にいる思いで参加しようと。席の近くには、耳の聞こえない友、目の見えない友も。誇りに感じた。
 
 責任者として歩んだ10年。多くの出会いがあり、別れもあった。
 「たとえ早い旅立ちだったとしても、生きる姿勢に最後まで感動させられて。見送った後にも、その方から影響を受けている人が大勢いる。自分もそうありたいと思います」

  

 仕事はリストラを経験。現在は通信販売の会社に勤める。「すみません」ばかりの人生は、とっくに捨てた。

 「『すみません』よりも堂々と『ありがとう』を伝えたい。自然と思うようになりました。昔は申し訳ない気持ちばかりでしたが、感謝が前面に出るようになったこと。学会活動での変化ですね。気持ちはいつも、“チビスケきょうこ”ここにあり!です(笑い)」

 今も変わらず、周囲の目を感じる。かといって、何とも思わない。
 「道で子どもから体のことを聞かれると、『話すと長いよ』とか言って、返しています」と笑う。つい先日は、「あのおばさん、なんで小さいの」という声が聞こえてきた。

 「昔は“あの子”が多かったのに、“おばさん”って言葉が気になっちゃったよ」と同僚に話すと、「事実じゃん」と返ってきた。「そうだけどさー」と笑い合った。

  

松田恭子さん 1971年(昭和46年)生まれ、入会。小学生の時、低身長症と診断された。幼少から歌が大好きで、自由グループの「合唱団流星」(総東京)ではテレビ番組に出演。現在は「オーロラ合唱団」(総埼玉)の一員。「出会ったその場で相手を魅了するような生き方」を目指す。総埼玉自由グループの女性部責任者。

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小説「新・人間革命」に学ぶ 番外編 第1巻~第5巻㊤ | Yanaの (ameblo.jp)

  • 連載〈世界広布の大道〉
  • 写真 “精鋭10万”が集った第10回男子部総会(1961年11月5日、東京・国立競技場で)

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第1巻から第5巻の「番外編㊤」。池田先生の代表的な事績を紹介する。

①第3代会長就任

第3代会長に就任した池田先生(1960年5月3日、東京・両国の日大講堂で)

第3代会長に就任した池田先生(1960年5月3日、東京・両国の日大講堂で)

 1960年(昭和35年)5月3日、東京・両国の日大講堂で行われた第3代会長就任式。恩師・戸田先生の遺影が見守る中、不二の弟子は、世界広布の黎明を開く前進を開始した。
 この日、64年(同39年)の恩師の七回忌を目指して、学会は300万世帯の達成を掲げた。

②初の海外平和旅

ニューヨークの国連本部を訪問(1960年10月14日)

ニューヨークの国連本部を訪問(1960年10月14日)

 1960年(昭和35年)10月2日、池田先生は、上着の内ポケットに恩師の写真を納め、初の海外訪問へ旅立った。24日間でアメリカ、カナダ、ブラジルの3カ国9都市を訪れた。
 76年(同51年)、10月2日が「世界平和の日」と制定された。

③東洋広布の夜明け

インド・ブッダガヤの地に、「東洋広布」の石碑などを埋納(1961年2月4日)

インド・ブッダガヤの地に、「東洋広布」の石碑などを埋納(1961年2月4日)

 1961年(昭和36年)2月4日、インド訪問中の池田先生は、釈尊成道の地であるブッダガヤを訪れ、「東洋広布」の石碑などを埋納した。
 日蓮大聖人が予言された「仏法西還」、戸田先生が「アジアの民に 日をぞ送らん」と詠んだ遺命の実現への一歩をしるした。

④欧州への第一歩

ブランデンブルク門を視察(1961年10月8日)

ブランデンブルク門を視察(1961年10月8日)

 1961年(昭和36年)10月、池田先生は欧州広布の第一歩をしるした。
 20日間で9カ国を訪問。西ドイツ(当時)では、東西冷戦の分断の象徴であるブランデンブルク門の前に立った。

⑤大阪事件の無罪判決

大阪地裁に向かう直前、婦人部の友と言葉を交わす(1962年1月25日)

大阪地裁に向かう直前、婦人部の友と言葉を交わす(1962年1月25日)

 1957年(昭和32年)7月3日、池田先生(当時、青年部の室長)は、大阪の参院補欠選挙の選挙違反という事実無根の容疑で不当逮捕された。15日間に及ぶ獄中闘争の後、7月17日に出獄した。
 4年半にわたる法廷審理を経て、62年(同37年)1月25日、大阪地裁の無罪判決が出た。検察は控訴を断念し、同年2月8日、無罪が確定した。

沖縄・ひめゆりの塔を訪れ、追善の題目を送る池田先生(1960年7月18日)

沖縄・ひめゆりの塔を訪れ、追善の題目を送る池田先生(1960年7月18日)

“精鋭10万”が集った第10回男子部総会(1961年11月5日、東京・国立競技場で)

“精鋭10万”が集った第10回男子部総会(1961年11月5日、東京・国立競技場で)

 【題字のイラスト】間瀬健治

〈御書の旭光を〉40 普賢の声で未来を晴らせ

〈御文〉 今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は普賢菩薩の守護なり(御義口伝、780ページ)

〈通解〉 今、日蓮とその弟子のように、南無妙法蓮華経と唱える者は、普賢菩薩の守護を受けることができるのである。

〈池田先生が贈る指針〉

 「普く賢い」知性こそ世界広宣流布の推進力である。混迷の世に、尊き創価の賢者は仏法即社会の連帯を築き、安心と希望を広げている。
 先頭を走るのが男女学生部だ。試練の中で学び鍛えゆく価値創造の英知は、新時代を開く光となる。若き普賢の声で快活に友情を広げ、地域と地球の未来を晴らしてくれ給え!

 

用語解説

【普賢菩薩」

普賢はサンスクリットのサマンタバドラの訳。「あらゆる点で優れている」の意で、仏のもつ優れた特性(特に実践面)を人格化した菩薩。仏像などでは、白象に乗った姿で釈尊の向かって右に配される。法華経では普賢菩薩勧発品第28で登場し、法華経の修行者を守護する誓いを立てる(法華経665㌻以下)。

「信心即生活」――現実を離れて仏法はない

日本では一般に、信仰とは日常生活から離れた特別な世界の事柄であると考えたり、日常の生活の中でも信仰の時間と生活の時間とは別なものであると捉えたりする傾向があります。

しかし、日蓮仏法においては、信仰と生活とは、切り離して捉えるものではありません。ゆえに創価学会では、「信心即生活」「生活即信心」と指導しています。

御書には「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」(1295ページ)とあります。この「御みやづかい」とは、主君などに仕えることですが、今日の私たちの立場にあてはめれば、なすべきこと、果たすべき役割であり、職業・仕事・生活にあたります。

したがって、この御文は、日々の生活がそのまま仏道修行の場であり、信心を根本とした自身の生き方を示す場であることを教えられているのです。

生活の場で直面するさまざまな課題に対して、御本尊への唱題を根本に真剣な努力を重ねていった時に、その現実との戦いそのものが、私たちの仏界の生命を涌現させる機縁となり、自身の生命変革の舞台ともなるのです。

また、信心で開拓した生命力、豊かな境涯を土台にして、生活の場に勇んで出ていった時、生活そのものも、おのずから変革されていきます。家庭でも、地域でも、あるいは職場でも、どこにいても信頼される人間として勝利していけるのです。

〈御書の旭光を〉39 わが愛する郷土を寂光土に

〈御文〉 法華経修行の者の所住の処を浄土と思う可し何ぞ煩しく他処を求めんや(守護国家論、72ページ)

〈通解〉 法華経を修行する者が住んでいる所を浄土と思うべきである。どうして、わずらわしく、ほかの所に浄土を求めることがあろうか。

〈池田先生が贈る指針〉

 この娑婆世界を寂光土に変えることこそ、仏の大願である。苦悩の人間と社会に寄り添うことが仏法の本義であり、立正安国の根本精神なのだ。
 今、世界の地涌の同志が「我此土安穏」の祈りと貢献を続けている。
 地球を包む妙法の音声に、諸天も必ず応える。わが「所住の処」から「天下の静謐」を開きゆくのだ。

 

用語解説

【娑婆世界】

娑婆はサンスクリットのサハーの音写で「堪忍[かんにん]」などと訳される。迷いと苦難に満ちていて、それを堪[た]え忍ばなければならない世界、すなわちわれわれが住むこの現実世界のこと。

 

【立正安国】

第1回 「子どもと学ぶ 日蓮大聖人の御生涯「誕生から立宗宣言へ」 - YouTube

第2回 「子どもと学ぶ 日蓮大聖人の御生涯「『立正安国論』提出」 - YouTube

第3回 「子どもと学ぶ 日蓮大聖人の御生涯「良観との祈雨の勝負」 - YouTube

第4回 「子どもと学ぶ 日蓮大聖人の御生涯「竜の口の法難」 - YouTube

第5回 「子どもと学ぶ 日蓮大聖人の御生涯」 佐渡流罪(上) - YouTube

第6回  「子どもと学ぶ 日蓮大聖人の御生涯」佐渡流罪(下) - YouTube

第7回 「子どもと学ぶ 日蓮大聖人の御生涯」 熱原の法難」 - YouTube

 

〈御書の旭光を〉39 わが愛する郷土を寂光土に

〈御文〉 法華経修行の者の所住の処を浄土と思う可し何ぞ煩しく他処を求めんや(守護国家論、72ページ)

〈通解〉 法華経を修行する者が住んでいる所を浄土と思うべきである。どうして、わずらわしく、ほかの所に浄土を求めることがあろうか。

〈池田先生が贈る指針〉

 この娑婆世界を寂光土に変えることこそ、仏の大願である。苦悩の人間と社会に寄り添うことが仏法の本義であり、立正安国の根本精神なのだ。
 今、世界の地涌の同志が「我此土安穏」の祈りと貢献を続けている。
 地球を包む妙法の音声に、諸天も必ず応える。わが「所住の処」から「天下の静謐」を開きゆくのだ。

 

用語解説

【娑婆世界】

娑婆はサンスクリットのサハーの音写で「堪忍[かんにん]」などと訳される。迷いと苦難に満ちていて、それを堪[た]え忍ばなければならない世界、すなわちわれわれが住むこの現実世界のこと。

 

【立正安国】

第1回 子どもと学ぶ 日蓮大聖人の御生涯 「誕生から立宗宣言へ」 - YouTube

第2回 子どもと学ぶ 日蓮大聖人の御生涯 「『立正安国論』提出」 - YouTube

第3回 子どもと学ぶ 日蓮大聖人の御生涯 「良観との祈雨の勝負」 - YouTube

第4回 子どもと学ぶ 日蓮大聖人の御生涯 「竜の口の法難」 - YouTube

第5回 子どもと学ぶ 日蓮大聖人の御生涯」 佐渡流罪(上) - YouTube

 

小説「新・人間革命」に学ぶ 第30巻〈下〉 基礎資料編 | Yanaの (ameblo.jp)

  • 連載〈世界広布の大道〉
  • 写真 大分・竹田の岡城址で、同志と「荒城の月」を合唱(81年12月)

イラスト・間瀬健治

イラスト・間瀬健治

 今回の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」は第30巻<下>の「基礎資料編」。各章のあらすじ等を紹介する。挿絵は内田健一郎。

【物語の時期】1981年(昭和56年)6月16日~2001年(平成13年)11月12日

「暁鐘」の章(後半)

 1981年(昭和56年)6月16日、山本伸一の平和旅は、フランスからアメリカへ。ニューヨーク会館やホイットマンの生家などを訪問。20日の日米親善交歓会では、伸一がつくった詩「我が愛するアメリカの地涌の若人に贈る」が発表される。
 21日、カナダのトロントへ。翌日のカナダ広布20周年記念総会では、一人立つことの大切さを訴える。滞在中、文化交歓会に臨み、トロント会館等を訪問。再びアメリカへ。
 28日にはシカゴで盛大に開催された第1回世界平和文化祭に出席。また7月1日、世界芸術文化アカデミーは、伸一に「桂冠詩人」の称号授与を決定する。
 伸一は8日に帰国。間断なき激闘によって、世界広布の新章節の旭日が昇り始め、“凱歌の時代”の暁鐘は、高らかに鳴り渡った。

「勝ち鬨」の章

 山本伸一は7月、結成30周年記念の青年部総会に祝電を送るなど、新時代を担う青年の育成に力を注ぐ。18日、会長の十条潔が急逝し、第5代会長に秋月英介が就任する。
 11月、伸一は四国を訪れ、10日の「香川の日」記念幹部会で「もう一度、指揮を執らせていただきます!」と宣言。本格的な反転攻勢が開始される。また、四国男子部の要請を受け、二十数回にわたって新愛唱歌に筆を入れる。14日、男子部の「紅の歌」が完成する。
 12月8日、大分指導を開始。宗門事件の震源地・別府を訪れたあと、大分平和会館へ。10日、伸一は、夜の県青年部幹部会で詩「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」を発表するために全精魂を注いで口述。直前まで推敲を重ね、21世紀への新たな指針が、大分の地から全国に発信される。
 伸一は12日、宗門事件で苦しんできた大分県竹田へ。岡城の本丸跡に集った友と写真撮影し、「荒城の月」を大合唱する。その後、熊本に移り、阿蘇の白菊講堂を初訪問。15日、熊本文化会館での自由勤行会に参加した友と、会館近くの公園で記念撮影し、「田原坂」を高らかに合唱する。
 1982年(昭和57年)1月10日には、宗門から激しい迫害を受けてきた秋田へ。伸一は秋田でも自由勤行会を開催する。雪の降りしきる中、秋田文化会館前の公園に記念撮影のために集った同志と共に、「人間革命の歌」を熱唱。民衆勝利の宣言ともいうべき「勝ち鬨」が轟く。

「誓願」の章

 3月22日、山本伸一は第1回関西青年平和文化祭に出席。その後、平和文化祭は、中部、さらには全国各地で行われていくことになる。6月には、国連本部で「現代世界の核の脅威」展を開催するなど、本格的な平和運動が展開されていく。1983年(昭和58年)8月には、伸一に「国連平和賞」が贈られる。
 84年2月、ブラジルを訪問した伸一は、大文化祭等に出席し、ペルーへ。87年2月にはドミニカ共和国、パナマも訪れる。また、各国首脳と対話を重ね、90年(平成2年)7月の第5次訪ソでは、ゴルバチョフ大統領と会談。10月には、アフリカ民族会議のマンデラ副議長を聖教新聞社に迎え、会見する。さらに、世界の指導者、識者、また、国内をはじめ、世界各地の創価の同志に次々と詩を詠み、贈る。
 日顕ら宗門は、伸一と会員を離間し、学会を破壊しようとする陰謀を実行に移す。伸一がベートーベンの「第九」をドイツ語でも歌おうと提案したこと等を、外道礼讃、謗法と批判。12月末、宗規改正を理由に、伸一や学会首脳幹部らの法華講総講頭・大講頭の資格を剝奪する。
 さらに、学会の組織を切り崩そうと、「檀徒づくり」を公式方針として打ち出し、「破和合僧」の大重罪を犯す。また、信徒蔑視、教条主義、権威主義を露骨にし、日蓮大聖人の仏法の教義と精神から大きく逸脱していった。
 宗門は91年11月28日付で、学会本部に「創価学会破門通告書」を送る。その日は、広宣流布の前進を妨げ、“日顕宗”と化した宗門からの“魂の独立記念日”となった。
 伸一は、92年、アジア、欧州等を訪問。翌年には、北・南米を回り、“人権の母”ローザ・パークスやブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁らと対談する。また、アルゼンチン、パラグアイ、チリを初訪問。95年にはネパール、96年にはキューバを訪問し、国家評議会のカストロ議長と会見。次の訪問国・コスタリカで、歴訪は54カ国・地域になった。
 2001年5月3日には、待望のアメリカ創価大学が開学する。
 11月、創立記念日を祝賀し、男子部・女子部結成50周年記念の意義を込めた本部幹部会で伸一は、「創価の三代の師弟の魂」を受け継ぐよう、後継の青年たちに託す。学会は新世紀を迎え、第2の「七つの鐘」に向かい、地涌の大前進を開始していく。

【山本伸一の海外訪問】1981年1~3月、5~7月

メキシコ

未来部員に励ましを送る池田先生(1981年3月、メキシコ市で)

未来部員に励ましを送る池田先生(1981年3月、メキシコ市で)

ブルガリア

ブルガリアの名門・ソフィア大学で記念講演を行う(81年5月)

ブルガリアの名門・ソフィア大学で記念講演を行う(81年5月)

アメリカ

米ロングアイランドにある詩人ホイットマンの生家を訪問(81年6月)

米ロングアイランドにある詩人ホイットマンの生家を訪問(81年6月)

カナダ

世界的に有名なカナダのナイアガラの滝を見学(81年6月)

世界的に有名なカナダのナイアガラの滝を見学(81年6月)

【師弟の「勝ち鬨」】

香川・四国研修道場を訪問(1981年11月)。この四国指導の折、「紅の歌」が誕生した

香川・四国研修道場を訪問(1981年11月)。この四国指導の折、「紅の歌」が誕生した

大分・竹田の岡城址で、同志と「荒城の月」を合唱(81年12月)

大分・竹田の岡城址で、同志と「荒城の月」を合唱(81年12月)

雪に包まれる秋田を訪れ、路上で何度も車を止め、友を激励(82年1月)

雪に包まれる秋田を訪れ、路上で何度も車を止め、友を激励(82年1月)

82年3月の第1回関西青年平和文化祭(大阪・長居陸上競技場〈当時〉で)

82年3月の第1回関西青年平和文化祭(大阪・長居陸上競技場〈当時〉で)

【世界平和への貢献】

国連平和賞を受賞し、明石事務次長(当時)から感謝状とメダルが贈られた(1983年8月、都内で)

国連平和賞を受賞し、明石事務次長(当時)から感謝状とメダルが贈られた(1983年8月、都内で)

「核兵器──現代世界の脅威」展の開幕式に出席(87年5月、ソ連のモスクワで)

「核兵器──現代世界の脅威」展の開幕式に出席(87年5月、ソ連のモスクワで)

【識者との語らい】

ゴルバチョフ氏と和やかに語らう(1993年4月、東京・八王子市の創価大学で)

ゴルバチョフ氏と和やかに語らう(1993年4月、東京・八王子市の創価大学で)

キューバのフィデル・カストロ国家評議会議長(当時)を表敬訪問(96年6月)

キューバのフィデル・カストロ国家評議会議長(当時)を表敬訪問(96年6月)

〈スマイル自分らしく 信仰体験〉「大好きな調布で」 娘と歩む誓いの道 | Yanaの (ameblo.jp)

・ 私の悩み…次女の鎖肛(直腸肛門奇形)

 東京都調布市の渡瀬明美さん(36)=白ゆり長=は、夫・朋宣さん(51)=壮年部員=を折伏して結婚。長女・胡桃さん(6)=小学1年=を授かり、順風満帆な日々を送っていた。
 だが、2019年(平成31年)4月、出産した次女・優月ちゃん(2)が「低位鎖肛(直腸肛門奇形)」と診断される。

私の悩み…次女の鎖肛(直腸肛門奇形)

 東京都調布市の渡瀬明美さん(36)=白ゆり長=は、夫・朋宣さん(51)=壮年部員=を折伏して結婚。長女・胡桃さん(6)=小学1年=を授かり、順風満帆な日々を送っていた。
 だが、2019年(平成31年)4月、出産した次女・優月ちゃん(2)が「低位鎖肛(直腸肛門奇形)」と診断される。
  
 生まれつき正常な位置に肛門がなく、膣に接して瘻孔(管状の穴)が開いていて、そこから便が出ている状態だった。
 瘻孔を拡張しながら手術を行うため、長期の入院と治療が余儀なくされる。
 出産の喜びから一転、不安が心を覆う。渡瀬さんは、この試練といかに向き合い、闘ってきたのか。

カーテンを閉め 一人泣いた日

 「お尻の穴が見つかりません」。お医者さんの言葉に、がく然とした。
 優月は、生まれつき正しい位置に肛門がなくて、おしっことほぼ同じ所から、うんちが出ていた。
  
 初めて聞いた「鎖肛」という診断。スマホで調べても、不安になることしか出てこなくて。
 「赤ちゃんの数千人に一人くらいの割合で発生する病気」。それを知った時は、本当にショックだった。
 なんで、ちゃんと産んであげられなかったんだろう。自分を責めて、一晩中泣いて……。
  
 翌朝、優月は医療センターへ移ることになった。保育器のまま運ばれていく優月。会えたのは、ほんのわずか。見送った後、泣き崩れる私を夫が抱きかかえてくれた。
 授乳の時間になると、同室のお母さんたちが呼ばれていく。私の名前は呼ばれない。分かっていても、苦しくて……。カーテンを閉め切り、声を抑えて泣いてた。

使命のある子 負けない子

 出産の4日後、優月と離れ離れのまま、私だけが退院を迎えた。
 医療センターにいる優月に会いに行くと、お医者さんが「優月ちゃん、おっぱい飲みたいって口をパクパク開けてます。食欲があって、とっても元気ですよ」って。搾乳し、届けた母乳をいっぱい飲んでくれた。
  
 ブジーという棒のような医療器具で瘻孔を広げる。一日も早く優月が退院できるように、私も一生懸命、ブジーの使い方を習った。
 この頃の優月の瘻孔は、目に見えないほど小さくて。ブジーを持つと手が震えた。
 “痛くないように”。差し込む所がずれて、赤く腫れてしまうこともあった。
 “ごめんね”。怖さに耐えながら、一押し一押し、心の中でお題目を唱えた。1カ月後には穴がしっかり見えるまでに広がって、無事に退院できた。

 優月は毎日、ミルクをいっぱい飲んで、私の不慣れなブジーにも耐えてくれた。
 生後4カ月の頃には体重が5キロを超えて、肛門をつくる手術を受けられることになった。
 手術の日、夫と待合室に入った。心臓の音が聞こえるくらい、不安で胸が苦しくなる。
 そんな時だった。私の携帯電話に、次々とメッセージが届いた。「今、みんなで祈ってるからね! 優月ちゃんは使命のある子だから。絶対負けないよ!」。そうメールをくださった女性部の先輩がいた。
 「お題目なら任せなさい。大丈夫だよ。安心して」と励ましてくださった多宝会の先輩もいた。
 その祈りに、その言葉に、どれほど勇気をもらっただろう。夫と二人、感謝の涙があふれる。
 皆さんのお題目に包まれて、優月は3時間半の手術に耐え抜いた。「よく頑張ったね!」。小さな頭をなでながら、何度も何度も声を掛けた。

嘆くことなく 恐れることなく

 ほっとしたのもつかの間、手術の2週間後、優月は感染症にかかってしまった。
 3週間の絶食。水も飲めなくて瘦せていく。唇がカサカサになって、頰がこけていく。胸が張り裂けそうだった。
 私が不安そうな顔をしてるからか、長女の胡桃も心のバランスを崩して、保育園で泣くことが増えていった。“このままじゃ、私は娘たちを守れない……”
  
 祈ろうと思っても声が出なくて、涙ばかりあふれる。
 そんな時、女性部の先輩が会いに来てくださった。「明美ちゃん、顔を見に来たよ」。家のポストに、手紙が届いている日もあった。〈一緒に祈るからね〉
 “私は一人じゃないんだ”。うれしくて、手紙をそっと抱き締めた。

 先輩が「大白蓮華」に載った池田先生の言葉を教えてくださった。
 「『このやまひは仏の御はからひか』(御書1480ページ)と受け止める信心が肝要なのです。偉大な妙法を持つ人が宿命を打開できないはずがありません。嘆くことはありません。恐れることもありません」
 ハッとした。これまでの私は娘の病気を「悲運なこと」と嘆いてばかりいた。でも、そうじゃないんだ。優月はこの病に打ち勝つことを誓い願って、生まれてきたんだ。
  
 そう思えた瞬間から、私の祈りは一変した。“娘たちの使命は、私が必ず守ります!”。
 心が響き合うように、これまで自分から祈ることのなかった夫が、すすんで私の隣に座り、一緒にお題目をあげてくれるようになった。
 胡桃も〈ゆづきのびょうきがなおりますように〉と書いて「なんみょう」するように。その時、私は気付いた。“優月が、私たち家族を一つにしてくれた。一家和楽の信心に導いてくれたんだ”
 病院で闘う優月へ、感謝があふれた。

大好きな調布 誓いの道を

 優月にはその後も、感染症との闘いが続いた。新型コロナの影響で面会時間が減ると、その分、心配も増えていった。
 でもある日、同室のお母さんが「優月ちゃんがいつもニコニコ笑顔を見せてくれて、本当に癒やされるんです」って声を掛けてくださって。
 “この子は何て強いんだろう。私がそばにいない時も笑っていて、周りを明るくしてたんだ”
  
 優月はいつも私に「祈る目標」をくれた。意志の弱い私を、御本尊様の前に導いてくれた。
 そして、祈った通りに一つ一つ、ハードルを越えていく姿を見せてくれた。“また乗り越えたよ、また勝ったよ”って笑いかけてくれるたび、私は信心の確信を深めさせてもらった。

 今年、2歳になった優月。感染症も治り、すっかり元気になった。今では、お姉ちゃんよりご飯を食べている。
 毎日、ブジーと浣腸をしながら、自力でうんちが出せるように、練習も頑張ってる。
 お医者さんからは「小学校低学年までは、肛門の筋力が弱いから、便が漏れてしまう可能性もあります」と言われた。
 これからも、試練はあるだろう。でも私は揺るがない。命の底から言い切れる。「たとえ、どんな困難があっても、私が一家の太陽となって家族の笑顔を守り抜く」と。
  
 今、娘たちを連れて、地域を歩きながら「勇気の対話」を広げてる。
 大好きな調布。大好きな同志の皆さん。家族で信心に励みながら、一人でも多くの人に、優月の体験を伝えていきたい。
 それが、支えてくださる全ての人たちへの恩返し。師匠にお応えする誓いの道――。

学会の座談会には毎回家族4人で参加している。胡桃(左端)も、優月(右から2人目)も、調布の同志の皆さんのことが大好き。私がオンラインの会合に参加していると、必ず顔を出しにくる。家族で同じ目標をもてる。4人で一緒に祈れる。そんな今が、一番幸せ

学会の座談会には毎回家族4人で参加している。胡桃(左端)も、優月(右から2人目)も、調布の同志の皆さんのことが大好き。私がオンラインの会合に参加していると、必ず顔を出しにくる。家族で同じ目標をもてる。4人で一緒に祈れる。そんな今が、一番幸せ