由緒書きによれば、最初当寺は天台宗普照寺と称していたという。
文明の頃(1469-1486)、当寺の住職であった善永は、越前吉崎にいた蓮如上人を幾たびも訪ね、その教化を受けた。そして、長享一揆などを経た後、1489年に一念発起して真宗に転じ、乗円寺と改称した。なお、長享一揆とは、加賀の一向一揆が守護大名・冨樫政親を破った戦いのことである。
二代・永乗は越前の永正一揆、四代・恵秀は大坂石山合戦に参加した。戦功は著しく、本願寺より四藤紋など幾多の恩賞を拝領している。
1584年に金沢の材木町に移ったが、1659年に小立野に転居した。この頃、いくつかの真宗大谷派の寺院が材木町から小立野に移っている。
1697年に本堂を再建するも、1802年にその本堂より出火、焼失した。
1909年には、金沢大学医学部附属病院の拡張のために寺地を摂取されたが、大正時代の1912年に現在地に移り、本堂を再建されたという。
さて、四代・恵秀が参加した石山合戦は、言わずと知れた織田信長と浄土真宗の本願寺勢力との戦いである。石山合戦の終結後、各地の一向一揆は勢力を失った。
現在金沢は前田家の加賀百万石の城下町として知られているが、それ以前は一向一揆が勢力を持った「百姓の持ちたる国」であった。当寺の歴史は、加賀前田家が支配する以前の加賀の様子を垣間見せてくれるのである。