今、職業訓練を受けています。
工場管理技術科ということで総勢30名ぐらいなのですが、毎日、先生が講義してくれます。
今、学んでいるのは「電気」についてです。
3ヶ月で「第二種電気工事士」を受験し合格するレベルにまで鍛えていただけるとのことなのですが、若い人はともかく、私たち中年にはかなり難解な理論が講義されます。
目的は「第二種電気工事士」の合格。
理論が少々わからなくても、実技ができれば合格できるらしいのですが、私の隣に座っている男性。
年齢は私より少し上ぐらいでしょうか。
その方が、少し前からよく「ため息」をつくのです。
講義中でも、何かと独り言をする方なのですが、今日は、ある実習ではっきりと私に:
「理屈がわからんから、全然わからん!」
確かに私もわからないことだらけです。
一つ一つの理論はまだわかる。
でも、そんな理論が次から次へと出てきて、何が何だかわからなくなるのです。
私は目標を「試験に合格すること」においていますから、100%わかろうとせず、問題を解くコツのようなものを習得しようとしているのですが、一般の人。特に真面目な人はこんなことは嫌なのでしょうね。
ふと思ったのです。
「これって日本人が中国語を学ぶ時と同じ。」
会話するために中国語を学ぶのですが、どうしても理論が気になる。
理論が理解できなければ前に進めない。
これは真面目な人、優秀な人、優等生ほどこれまでの学習経験から、『理屈の理解』に重点を置くようです。
でも、もともと言葉というものは例外の多いモノ。
理屈はあとからつけているモノ。
理論を学びそれを会話に応用するのならまだしも、「この中国語は理論が間違っている」などど思うようになると「中国語研究者」になってしまいます。
いい加減はちょうど良い加減。
「お風呂の湯加減はどうですか?」
「はい、ちょうど良い加減です。」
の『よい加減』です。
気になるでしょうが、時には「それはそれ」として前に進むのも重要かも知れません。