邪馬台国とヤマト王権の関連性を探って、日本のはじまりを知るためには、ヤマト王権が誕生したのがいつかを知る必要があります。
ところが、ヤマト王権の誕生時期については、まだ結論が出ていないといってよい状況だと思います。
一方、邪馬台国の存在した時期はある程度確定しています。「魏志倭人伝」の記述を信じるなら、2世紀後葉から3世紀半ばはほぼ確実です。『日本書紀』神功皇后紀が引用する「晋起居注」が語る266年の倭女王(壹与と思われる)の朝貢記事を信じるなら3世紀後半まで存在したことになります。
だから、邪馬台国とヤマト王権が何らかの関係性を持っているとしたら、「邪馬台国がどこにあったのか」ということと同程度、あるいはそれ以上にヤマト王権の誕生時期が重要になります。ヤマト王権が邪馬台国時代の前に誕生していたのか、あるいは邪馬台国以後に誕生したのかで、日本のはじまりのイメージが大きく異なってくるのです。
邪馬台国(ここでは女王国と同義として)の存在時期をひとまず200年〜280年と仮定し、邪馬台国の存在場所を畿内説と九州説に限定して図示してみると、図表1のようになります。
◆図表1 邪馬台国とヤマト王権の関係
ほかにも細かく条件を設定すれば、さまざまな図が考えられますが、大きくはこの4パターンが考えられます。
(1)ヤマト王権が先で畿内説の場合
a)ヤマト王権がその時代(200年~280年)に邪馬台国(女王国)と名乗っていたか、もしくは外部からそのように認識されていた
(2)ヤマト王権が先で九州説の場合
a)ヤマト王権と邪馬台国は無関係で、同時代に存在していた
b)九州にあった邪馬台国はヤマト王権の一部であった
c)ヤマト王権が九州に誕生した邪馬台国をその後征服した
(3)ヤマト王権が後で畿内説の場合
a)邪馬台国が継続・発展してヤマト王権となった
b)外部勢力あるいは邪馬台国内部の対抗勢力が邪馬台国を征服してヤマト王権が誕生した
(4)ヤマト王権が後で九州説の場合
a)ヤマト王権と邪馬台国は無関係で、異なる時代に存在していた
b)邪馬台国勢力が東遷あるいは東征してヤマト王権をつくった
このように、邪馬台国畿内説か九州説かだけでなく、邪馬台国とヤマト王権の先後関係によっても日本のはじまり像は大きく変わってくるのです。
私の場合は、初代天皇即位=ヤマト王権誕生が301年であり、邪馬台国熊本説ですから(4)にあてはまり、今回の著書『日本書紀「神代」の真実』で神武東征の真相を考えましたから、b)です。ぴったりとあてはまるわけではありませんが、ほぼ(4b)説ということになります。
しかし、日本全国に次々とあらわれる邪馬台国所在地論に比べて、ヤマト王権誕生年に関する議論はあまり濃厚になされていないような気がします。
私は古代史の真実に迫るには、『日本書紀』に記されている天皇の治世がいつだったのか、出来事がいつ起きたのかを実年代(西暦)と対応させた編年表を作ることが最優先事項だと感じています。それにより、日々更新される考古学的成果とのクロスチェックがスムーズに行われ、真実に近づけると思うからです。
そして、そのいちばんの資料となるのはやはり『日本書紀』だと思っています。今年は『日本書紀』成立1300年という記念すべき年ですが、コロナ禍のうちに年末が近づいています。非常に残念ですが、今後そのあたりのことがもっと議論され、解明されていくことを願わざるをえません。
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