奈良県桜井市のフォーラムで再認識した卑弥呼朝貢の「景初二年説」! | 邪馬台国と日本書紀の界隈

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邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

 10月末に東京都千代田区のよみうりホールで、奈良県桜井市が主催する纒向学研究センターのフォーラム『「卑弥呼」発見!』が開催されたので聴きにいきました。

 

フォーラム資料「親魏倭王卑弥呼に制詔す」‐卑弥呼の外交‐

 

 今年のテーマは「卑弥呼の外交」というもので、4名の先生方が講演され、その後に纒向学研究センター所長の寺澤薫氏をコーディネーターとしてディスカッションが行われました。

 当然のことながら、邪馬台国畿内説を前提とした議論だったわけですが、その中で「卑弥呼の遣使は景初二年か、三年か?」ということが話題にのぼりました。日本考古学協会会員で俳優の苅谷俊介氏は明確に「景初二年説」を述べられましたが、全体としては「景初三年説」が有力という雰囲気でした。

 

 私は以前「邪馬台国・卑弥呼の遣使は景初二年?景初三年?〈1〉〈2〉」で書いたように「景初二年説」ですので、その立場でみなさんのお話を聴いていました。そして、改めて思ったのは、特に畿内説の場合は「景初三年説」は時間的に厳しいのではないかということです。誰かの意見への反論というわけではないのですが、次のようなことを漠然と考えていました。

 

 まず、卑弥呼の朝貢を考える前提条件です。

 

(1)「六月」に難升米(なしめ)一行が帯方郡に到着する

「魏志倭人伝」は、景初二年(238年)六月に倭の女王が大夫の難升米らを帯方郡に送って天子に朝献することを求めたと明記しています。この景初二年が、『梁書』や『日本書紀』所引の『魏志』では景初三年となっていることから本論争が起こっているのですが、どちらの年であったとしても「六月」であることは間違いないでしょう。

(2)皇帝宛の上表文を携えていた

正始元年(240年)に来倭して卑弥呼に印綬や下賜品を届けた梯儁(ていしゅん)一行に対して、「倭王」が感謝の上表文を返していることから、当時の都には文字を理解し書ける人がいたことは確かです。フォーラム当日も、柳田康雄氏が伊都国からの石硯の出土に言及され、文字文化の普及を想定されていました。そうであるなら、当然、難升米たちは男女10人の生口と斑布2匹2丈の献上品とともに、卑弥呼から皇帝宛の上表文を携えていたと考えられます。魏の明帝が亡くなるのは景初三年正月ですから、景初二年なら明帝宛の上表文ですが、景初三年なら少帝宛の上表文となるはずです。

 

 以上を前提とするなら、はたして現実的に考えて、少帝宛の上表文を携えた難升米ら一行が、景初三年六月に帯方郡へ到着することができるのでしょうか。

 再度確認しますが、魏の明帝が洛陽で亡くなるのは景初三年一月(239年1月)です。その報が帯方郡に伝わるのにかなりの日数を要したと思われます。洛陽から帯方郡までは約5,000里程度です。これは明らかに当時の魏の尺度に基づくものですから、1里435メートルとすると2,175キロメートルも離れていることになります。東京・大阪間が約500キロメートルですから2往復分です。江戸時代の飛脚は片道5日程度で行ったともいわれていますし、馬を飛ばせばさらに早くなるとは思いますが、それは街道・宿場も整備された後の時代の話です。また、帯方郡などの地方に皇帝崩御の報のみをいち早く知らせる必要性が認められるかというと、疑問を感じます。やはり正式は報は、その後の体制がきっちり確立されてから伝えられるのではないでしょうか。

 私は古代中国および魏の駅伝制や情報伝達手段について詳しくありませんので、憶測でしかありませんが、ざっくりと1日に100里(43・5キロメートル)進んだと仮定すると、悪天候や休息を考慮して2か月近くかかるのではないでしょうか。そうすると、明帝崩御の報が帯方郡に届くのは早くても二月下旬から三月になってしまいます。

 

 当時、帯方郡に倭の役人か倭に通じた人が常駐していたと仮定して、彼らがすぐに畿内(現在の奈良県)にいる女王卑弥呼のもとへ使者を送ったとしても、細心の注意が求められる対馬海峡を渡り、当時航行にはかなりの困難があったと考えられる瀬戸内海を東進して畿内にたどり着くにはさらに多くの時間が必要だったでしょう。六月に難升米らが帯方郡に到着するというイメージが、私にはどうしても描けないのです。「魏志倭人伝」には、不彌国から邪馬台国までは「水行二十日」「水行十日陸行一月」の合計2か月かかると記されています。当然、情報伝達の使者は最速で動いたと考えられますが、それが卑弥呼のもとにもたらされて以降の、献上品の用意や使節の準備、そして献上品を携えた一行の移動速度などを考えると、六月に難升米たちが帯方郡に着くのは不可能ではないでしょうか。

 

 私が設定した前提条件からは外れますが、難升米らは魏が公孫氏を滅ぼしたことに対する皇帝への遣使であり、畿内を出発した時点では明帝崩御の事実を知らず、景初三年六月に帯方郡に到着後にそれを知り、弔問に切り替えたという説もあります。しかし、明帝への朝貢が目的である一行が明帝の崩御を知れば、その時点で任務を中断して卑弥呼から新たな指示を仰ぐと思いますし、喪に服している魏の帯方太守が難升米らを洛陽に送り届けることはあり得ないと思われます。

 

 私が景初二年説をとる理由は、「邪馬台国・卑弥呼の遣使は景初二年?景初三年?〈1〉〈2〉」で書いたようにさまざまにあるわけですが、とりわけ「邪馬台国畿内説」の立場から「卑弥呼の景初三年朝貢」は設定しづらいのではないかと考えさせられた桜井市のフォーラムでした。

 

▼▽▼邪馬台国論をお考えの方にぜひお読みいただきたい記事です

邪馬台国は文献上の存在である!

文献解釈上、邪馬台国畿内説が成立しない決定的な理由〈1〉~〈3〉

 

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