邪馬台国と日本書紀の界隈

邪馬台国熊本説にもとづく邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、一から始める日本書紀研究について
ぼちぼちと綴っていきたいと思います。


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 邪馬台国畿内説が、近年かなりの勢いで定着しようとしています。

 一昨日(11月6日)にも、纒向(まきむく)で3基の方形周溝墓発見という報道がなされました。多くのメディアは、「邪馬台国の有力候補地である奈良県桜井市の纒向遺跡にあるメクリ1号墳の近くで3基の方形周溝墓が新たに見つかった」という論調で、早くも邪馬台国との関連を匂わせる報道をしています。

 さまざまな邪馬台国関係の講演会や勉強会に参加すると、一般の人々の認識の中では九州説の方が優勢だと感じられるのですが、考古学の世界やマスコミ方面では、纒向が女王卑弥呼の都のあった邪馬台国になりつつあります。それに関して、私にはずーっと心に引っかかっている本質的な疑問があります。

 

 『日本書紀』には、纒向には第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)の珠城宮(たまきのみや)や第12代景行天皇(けいこうてんのう)の日代宮(ひしろのみや)が造られたと書かれています。そして、その伝承地には「垂仁天皇纒向珠城宮跡」「景行天皇纒向日代宮跡」という石標が建っています。桜井市のホームページには「垂仁天皇纒向珠城宮跡」の石標は昭和45年(1970年)9月に建立されたと記されています。遅くともその頃には、纒向に珠城宮や日代宮があったという認識が現地にあったことがわかります。

 

 では、そのような地で古代の大きな遺跡が発掘されたとしたら…。

 普通の思考回路であれば、「珠城宮か日代宮では」と考えるのではないでしょうか。すぐ近くには倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓であると伝わる箸墓古墳(はしはかこふん)もあります。倭迹々日百襲姫命は第10代天皇である崇神天皇(すじんてんのう)紀で、大物主神(おおものぬしのかみ)の妻となったとされる姫です。崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)跡も纒向のすぐ南にあります。まさに、この一帯はヤマト王権発祥の地であると考えられる最重要地域なのです。

 

【箸墓古墳】全長270メートル超の前方後円墳。後円部の径が約150メートルあり、畿内説によると、それが「魏志倭人伝」の記す卑弥呼の墓の「径百余歩」に合うとされます。倭迹々日百襲姫命の墓だと伝わってきた箸墓古墳は、果たして卑弥呼の墓になってしまうのでしょうか。

 

 それがなぜ邪馬台国になっているのでしょうか。そこが私にはどうしても納得できないのです。私は纒向遺跡の研究史については詳しくありませんが、まずは天皇の宮を想定した研究を進めるのが本筋ではないかと思うのです。それが、結果として否定されたとしたら、次に、日本のどこにあったかわからない邪馬台国の存在を仮定してみるというのが順序ではないでしょうか(実際そういう研究の流れがあったとしたら、この意見は撤回します)。

 しかし、現実には「天皇の宮」を放置しながら、「邪馬台国」ばかりを意図的に前面に出しているようにみえます。それもややフライング気味にです。纒向遺跡の年代観についても、今や2世紀末にまでさかのぼりそうな勢いです。それにつられて、古墳の築造年代も古くなる一方です。

 

 その根拠には、放射性炭素C14年代法という科学的測定の結果が用いられています。科学的測定結果といわれると、客観的で人為的な操作が一切入らないように思いがちです。説得力も抜群です。

 ところが、その科学的測定結果をもとに導かれた纒向の想定年代に対しては、とても多くの反論や疑問が提出されています。その多くは、測定結果から実年代を導く過程において意図的な判断がなされたのではないかというようなものです。つまり、測定結果からは例えば248年とか318年というようなピンポイントでの実年代を得ることは不可能で、240年〜320年などというような幅のある年代しか得られません。それを、240年だとみれば邪馬台国時代になりますが、320年だとみれば垂仁天皇の時代(私見です)になるということなのです(この数字はあくまで例として用いたもので、研究発表された数字とは関係ありません)。ですが、このような反論はスルーされ、纒向と邪馬台国とを関連づける発表やイベントが次々と行われ、日々定説化が進行しているように思われます。

 

 さて、ここで少し考えてほしいのですが、邪馬台国化の進む奈良県や桜井市の現状を認めざると得ないとすれば、いったい今後の展開はどのようになっていくのでしょうか。

 邪馬台国が纒向一帯にあったとしましょう。すると、「魏志倭人伝」の記述から、近畿地方はもちろん中国地方、四国地方、九州地方をカバーする巨大な女王国が想定されます。そして、266年に晋に朝貢した女王が卑弥呼を継いだ壹与(いよ)だとすると、少なくともその時点までは邪馬台国が存続したことになります。

 一方、『日本書紀』『古事記』の語るヤマト王権発祥の地も、間違いなく纒向一帯だと考えられています。「記紀」は具体的な地名を記しながら、神武東征やヤマトにおける王権の伸張について語っています。その伝承との整合性をどのようにつけていくのでしょうか。

 

 邪馬台国がそのままヤマト王権の母体となった? 九州地方にいた神武勢力が反乱を起こしてヤマトに攻め込み女王勢力を滅ぼしてヤマト王権を築いた? それとも、邪馬台国は東海地方にあった狗奴国(くなこく)に滅ぼされ、その狗奴国を神武勢力が征圧してヤマト王権を打ち立てた? 

 いろいろなストーリーが思い描けますが、いずれにしても苦しい筋書きばかりです。神武天皇、崇神天皇が築いたヤマト王権誕生期の記述から読み取れる権力および地域的なサイズ感が、畿内説の想定する女王国のサイズ感に比べてあまりにも小さすぎるのです。女王国が築き上げた近畿地方から九州地方に至る巨大な版図およびネットワークをいったんリセットして、小国分立の時代に設定し直さない限り「記紀」の物語は成立しないように思われます。それとも、いっそ「記紀」はまったく架空の話であると切り捨てるか……。

 

 このように考えてくると、まずはヤマト王権の誕生を考古学的見地、文献学的見地の両面から研究し、ある程度の年代観を確立するのが先決で、研究の流れとしてもスマートだと思うのですがいかがでしょうか。「纒向は邪馬台国」という結論を急ぐと、畿内の年代観を歪めかねないと思っています。そして、一度確立されてしまった年代観を修正するのは、大変な作業になるのではないでしょうか。だからこそ、ぜひ先にヤマト王権を考えてほしいと思います。そして、その方が「記紀」を研究するにしても、「邪馬台国」を研究するにしても、より説得力のある結論が得られると思うのです。

 

▼▽▼邪馬台国論をお考えの方にぜひお読みいただきたい記事です

邪馬台国は文献上の存在である!

文献解釈上、邪馬台国畿内説が成立しない決定的な理由〈1〉~〈3〉

 

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拙著『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)

 

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