高尾山古墳の周辺① | 邪馬台国の道標(みちしるべ)

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まだ色々と困難な状況が続いていたり、日々起きる事件は決して良いことばかりではないのですが、とは言えもうすぐゴールデンウィークということで、旅行やレジャーなどを計画されている方も多いかも知れませんね。

筆者は当面慎ましやかな生活を送る予定なので、まずは、地元に目を向け、地元の遺跡を再調査してみることにしました。

 

以前に「沼津の高尾山古墳は誰の墓」というテーマで紹介した高尾山古墳は、東海地方以東の最古級で最大級の前方後方墳で、その被葬者は「倭建命(建内宿禰にも比定)」ではないかという仮説を提示させていただきました。

 

 

一般的に、最も年代の古い古墳の近くにある古墳は、最も古い古墳の被葬者の一族や子孫が葬られている可能性が高いと思われるので、その周辺の古墳や神社、地名などを調べれば関係する一族の手掛かりが掴めるのではないかと予想されます。

実は高尾山古墳の周辺にも以下のように多くの古墳が点在していることがわかり、今回はそれらの情報も含めて再検証してみたいと思います。

 

 

景行天皇紀に辛未(かのとひつじ)の年(191年)に皇位に着かれその二年に皇后を迎え大碓命と小碓命がお生まれになったとされており、倭建命の東征の最後に記されているように白鳥になって飛んでいくなどの描写や、大鳥大社の主祭神であるなど、倭建命は鳥に関係されていると思われるので、倭建命の誕生年は皇后を迎えられた翌年の三年に生まれたとして癸酉(みずのととり)の年(193年)に比定します。

 

ちなみに卑弥呼の没年は西暦248年とされており、魏志倭人伝の卑弥呼の記述に「年巳長大」とあるので、巳年生まれの年を計算すると、即位年が巳年なのか、生まれ年が巳年なのか不明ですが、その後に長大(十分な大人)と記されているので、丁巳(ひのとみ)の年(177年)に生まれ、癸巳(みずのとみ)の年(213年)に36歳で即位し、 248年に71歳で亡くなられたとすると、いずれにも該当するので辻褄が合います。

(なお、私事で恐縮ですが、筆者の母親も71歳でこの世を去りました。)

 

倭建命の実父の大毘古命は大国主命にも比定し、神話における大国主命と伊邪那岐神に対して天皇記の開化天皇と崇神天皇の対応順が逆転していると以前にお話しました。

しかし、高尾山古墳周辺を調べていくと、「子ノ神古墳」という名の古墳があり、現在では廃れてしまったようですが昔流行った大黒天を祀る甲子信仰が、大黒天に比定した大国主命の誕生を祝い祀る信仰とすれば、大国主命の誕生年が甲子(きのえね)の年(124年)と考えられないでしょうか。もしかすると、「子(ね)」は「根(ね)」に通じるため出雲国を「根の国」と称したのかも知れません。

それが本当だとすると、開化天皇=大国主命=大毘古命、崇神天皇=伊邪那岐神となり、神話と天皇記の登場順は正しいということになります。

(今後再検証を踏まえて記事の訂正を検討します。)

 

そして、子ノ神古墳の他にも、以下のように倭建命に関係の深い被葬者と思われる古墳が点在しています。

神明塚古墳の「神明」とは天照大御神を指す言葉であり、天照大御神の古墳ではないかと思われます。

長塚古墳は、「長塚(ながつか)」が「那賀塚」から変遷したものと考えると、那賀川(なかがわ)などの地名から類推して長=那賀=仲となり、被葬者は「仲(なか)」が示す仲哀天皇ではないかと予想されます。

 

高尾山古墳:

弥生時代後期(3世紀中頃)の築造

前方後方墳、全長62m 穂見(ほずみ)神社・熊野神社 推定被葬者:倭建命

 

子ノ神古墳:

古墳時代前期(4世紀頃)の築造

前方後円墳、全長48m 子ノ神社 推定被葬者:大国主命

 

神明塚古墳:

古墳時代前期(3世紀後半)の築造

前方後円墳、全長54m 神明宮 推定被葬者:天照大御神

 

長塚古墳:

古墳時代中期末(6世紀前半)の築造

前方後円墳、全長55m 推定被葬者:火遠理命

 

高尾山古墳の北東近くに位置する門池公園の門池(かどいけ)とは、朝廷(みかど)別王、御門の神などに通ずる「門(かど)」に比定した倭建命ゆかりの池と考えられ、さらに、隣の三島市にも、「御門(みかど)」という地名があるのです。

 

また、山の神=大山津見神とすると、山の神を祀る「山神社」が長泉町の原分古墳を始めその界隈に多数存在し、三嶋大社は祭神としてまず大山津見神を祀り、後に事代主神も合祀されました。

 

 

また、5km程西に向かうと、富士市には山の神古墳と、庚申塚古墳、そして、もう少し内陸部に向かうと富士宮市の富士山本宮浅間大社に類する浅間古墳があります。

 

甲子信仰と同様、今は廃れてしまったようですが、庚申信仰というのがかつてあったようで、これも「庚申(かのえさる)」の年(180年)に誕生された方を祝い祀る信仰とすれば、この年代に適合するのは邇邇芸命か須佐之男命になりそうですが、以前にお話したように東国の統治者として比定した倭建命(建内宿禰)とその御子仲哀天皇(火遠理命)にとって縁の深い須佐之男命か、あるいは、浅間古墳の被葬者を浅間大社の祭神である木花之佐久夜毘賣(沼河比賣)と同じとすればその夫の邇邇芸命、もしくはその両者の古墳ではないかと推察します。古墳の形状が「双方中方墳」という特異な形状であることも、二人の被葬者を一つの古墳に埋葬したことを物語っているのかも知れません。

 

というわけで、周辺の古墳や地名などを調査した結果、高尾山古墳の被葬者はやはり倭建命ではないかという確信を得ました。