沼津の高尾山古墳は誰の墓 | 邪馬台国の道標(みちしるべ)

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以前に「高尾山古墳と狗奴国」というテーマで紹介しましたが、東海地方以東の最古級で最大級の前方後方墳ということで、今回はそれをさらに掘り下げて、「被葬者が誰か」というテーマで迫ってみたいと思います。

 

「高尾山古墳と狗奴国」 https://ameblo.jp/yamatai-michi/entry-12471882449.html

 

その手掛かりは、やはり古事記にありました。

崇神天皇記には、四道将軍の話が記されていますが、その中で東海地方に赴いたのは、大毘古命の御子である「建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)」です。

実は、この方が高尾山古墳の被葬者ではないかという状況証拠が揃ってきました。

父である大毘古命は、第8代 孝元天皇の御子にあたりますが、母で孝元天皇の后にあたる内色許賣命には内色許男命という兄がいて、この方が穂積臣等の祖とされているので、建沼河別命は穂積氏の系統でもあることがわかります。

 

そして、高尾山古墳の墳丘部の真上には、かつて二つの神社があり、その一つが後方部にあった穂見(ほずみ)神社だったのです。

一方、大毘古命は以前にお話ししたとおり、四道将軍で北陸に派遣された後、狗奴国と熊野地方を治めていたが倭国大乱で伊邪那岐神が率いる三輪方と敵対するとお話ししました。

そして、高尾山古墳の前方部にあったもう一つの神社が、「熊野神社」で、この古墳のある場所の地名は、沼津市「東熊堂」なのです。

 

 

この古墳の築造推定年代は西暦230~250年頃で、弥生時代後期後半の卑弥呼が生きていた時代と合致します。

そして、卑弥呼=天照大御神=垂仁天皇としたので、その父 崇神天皇の時に派遣された四道将軍の一人である建沼河別命は、卑弥呼と同じ年代を生きたことが窺われます。

 

岡山県倉敷市にある楯築墳丘墓は、双方中円墳という丸い主丘の前後両方に方形の突出部のある弥生墳丘墓で、二つの四角が円を守る形になっています。

前方後円墳の四角と円は、以前に四角が海神の系統、円が天皇の系統という話をしましたが、それは少し違っていて、倭国大乱で熊野方が四角、三輪方が円ではないかと思われます。そしてこの古墳は四角と四角なのです。

つまり、父方の系統と母方の系統が両方とも熊野方に付いたということではないでしょうか。

崇神天皇(伊邪那岐神に比定)の后で建沼河別命の姉?となる御真津比賣(伊邪那美神に比定)と、その父の大毘古命のいずれも八柱の雷神と推定しており、熊野方に付いたと思われます。

そして、穂積氏の系統で倭建命の后である弟橘比売命も八柱の雷神と推定したので、熊野方に付いたことになります。

したがって、建沼河別命は、熊野方の系統と、熊野方の系統を併せ持つ方であることがわかります。

どちらの系統も、三輪方ではないので四角と四角になり、前方後方墳になったのではないかと推定されます。

 

また、地名という観点でも、沼津の「沼」と、昔の富士川の急峻な流れが由来となったとされている駿河の「河」は、実は建沼河別命の「沼」と「河」に因んで名付けられたのかも知れません。

そして、建沼河別命は阿倍臣(阿倍氏)の祖とされていますが、駿河国には安倍川餅で有名な安倍川も流れています。

 

以上を踏まえると、高尾山古墳は、世の中で噂されていたように、狗奴国にもつながりのあった「建沼河別命」の墓ではないでしょうか。