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深掘り ダルマ編

 90年代のバシストで パリワラ(家人)の一人が私にこう言ったんだ
「yama、 dharm means help」

 

 

 彼の言うにはこの村で困ったことがおきた時には主だった者が集まってどうするべきかを考える そして考えがまとまった時に「ダルム カロウ」その結果としてほとんどが助けることになる のでこの村では「dharm means help」ということです なので「ダルム」が即ち「助け」を意味するわけではありません ダルムは口語です 名詞だとダルマになります 


 

 前回のカルマ編で「お釈迦様を深掘りする カルマ編」と題したのをちょっと後悔してます なぜかってと 釈迦を専門的に勉強したことはないんです ただ釈迦について折々にどこからか入ってくる話があって それ私には役立つものばかり(同意できるものばかり)なので 分かった気になってはいるんですけどね でもあまり釈迦に寄せすぎるとボロがでることにもなりそうなので今回の題は単に「深掘りする ダルマ編」としました 

 さてダルマですが 日本では法と訳されてるようですが 法律という意味ではありません 法律には決まった文言があって官憲はそれに触れるか否かで決めてるでしょ そういうものではないんです
 冒頭の言を振り返ってください 困ったことがおきた時に人が集まりどうするべきかを考える そして「ダルム カロウ」(カロウはカルマ編で述べたカルの口語です) この意味は「結論を出そう」「判決しよう」みたいなものですね それをダルマと呼んでます

 「ダルム カロウ」は個別の案件に対する言葉ですが それは一旦置いて 一般論としての「ダルマ」はこんなところかなと思う例を箇条書きしてみます
1、自由に何かを思い考える心をあなたも私も持っている 
2、その自由な心を持つあなたも私もいずれは死ぬ
3、心にある価値観が同じ者は集まりやすい(類は友を呼ぶ)
4、水は高きより低きに流れる
5、お日様は東から昇り西に沈む
6、お月様は一定の間隔で満ち欠けを繰り返す

 1~3はちょっと意図的にww そして4以下は理数系のそれを適当に並べただけなのですが でもそこにあるのが私の考えるダルマです 
 それらのダルマはそれぞれに深掘り可能でしょうが理数系の方は特に教育を受けていない高卒の私には無理そうなので1~3の人文系に限って深掘りしてみます(なので意図的に並べた)

「1」を深掘りすると自然権思想になりますが それについては私が日本の最高裁宛てに出した文書をご覧いただけますか
 心と法の支配に関する上申書
そこでは簡潔に自然権(天賦人権)の基本構造をまとめているつもりです そしてこうも書いているでしょ
     <心は是非が分かる>
 そうなんですよ ある程度の経験を積めば人は誰でもその心に是非を見分ける力を持つようになるんです 一般に「良心」と呼ばれます

 人の言動は究極的には次の二つに分かれます 良心に従うか それとも良心以外のものに従うか そしてそこにその人の人間性(人格)が見えてくる その言動が積みあがってカルマとなります カルマについては前回の記事をご覧ください
 お釈迦様を深掘りする カルマ編
 カルマを考えるようになると「2」につながるわけです あなたも私もいずれは死ぬ 肉体は滅びるし脳内の記憶も消滅するのでしょう でも魂はどうなんだろう 輪廻とかあるんでしょうか 気になりませんか?
 心には当人の知らない潜在意識と呼ばれるものがあるようです その正体が前世のカルマであるならば そうであるなら現世で積み重ねた言動もカルマとなり来世につながることになります 輪廻が現実的になります

 魂が不滅の存在であるなら輪廻を経た後のあなたや私の魂はどこへいくんだろうか? カルマ編でも言ったように現世の肉体に縛られた私には具体的想像は難しすぎるのですが それでもおそらくは「3」がその基本構造になるのではないかと思っています 類は友を呼ぶ


 2009年の写真を貼っておきます この村でも類は友を呼んでます この日はホーリーです

 

 

 私はこれまでに7年近くを拘置所や刑務所で囚人として過ごしました その間は独居にいることが多かったのですが その私の経験で言うと人は孤独を嫌います どんな形であれ誰かと繋がっていることを望むようです ただ刑務所の独居では「類は友」ではなく「類は罵り合う」ような関係が多くありましたけどね 囚人として独居に閉じ込められてますから手は出せない ただ近接する独居の囚人たちと罵り合うことで誰かとつながってる 府中刑務所の独居ではそれがありふれた光景でした 

 魂の世界ではもっと自由にいろんな世界が現れそうです 肉体を持った現世でならばいわゆる上流階級と下層階級が物質世界の中で共に在存することで成り立っていますが魂の世界にはカルマ以外は持ち込めない 即物的な上流も下層もないでしょうから 類の種類によっては「類は下僕を求め敵対する」ことになるのかな? 刑務所の独居のようにつながれているわけじゃないので悪い想像をすれば地獄の阿鼻叫喚を呈するところもあるかもしれない
 もちろん魂がどんな類にあるかによってはですよ ホントのところは私には分かりかねますが それでも「当たらずとも遠からず」のようには思っています

 そしてもう一つ是非とも言っておきたいことがあるんです
 何らかの理由で勘違いしてる人っていますよね
 
 最近与党の選対委員長になった小渕優子氏にこんなニュースがありました
「法に反することはない」 政治資金めぐる週刊誌報道受け
 その報道によると政治資金の流れに不審があった 7年間で1400万円をファミリー企業に使っていた 対して小淵氏は法(法律)に反することはしていない 道義的責任は? の問いにも 「まったくない」と答えたようなのですが

 小淵氏は自分の立場をどのように理解してるんだろう? 勘違いしてはいないだろうか? とても気になります 

 何となれば 小淵氏は選対委員長である以前に立法部の議員です 立法部と言えば法律を制定するところです 法律はなぜあるの? 法律は何を基準に制定してるの?

 法律は現代社会の状況を見て 人が倫理的に正しく言動するように作ってるはずです 社会状況の変動に伴って法律も変化していくでしょうし 法律の制定が追い付いていない部分もあるでしょう 自分のファミリー企業にお金を回すって倫理的にどうなの? その説明をするのが筋のはずですが「法(法律)に反することはしていない」ってそれは立法部にいる議員として無責任極まりない

 小淵氏については政治家の例として出しました 政治家って職業柄目立つんですよね 当然です 国民の生活に直接影響するんですから 良くも悪くもいろいろ報道される いろんな政治家がいるようですが 私が彼らに究極的に問いたいのは次のこと

 あなたは何のために政治やってるの? 誰のために政治をやってるの?

 その答えによってはカルマの方向が180度変わります

 強いて比べるなら恨みが積み重なって人を殺してしまい犯罪者となってしまった人と 利権のために国民に不便を強いる政治家とでは後者の方がカルマの結果は重く残る

 なぜとなれば恨みによる犯罪行為は個人的な事です 当人には大問題であり自分のしたことをどう捉えるかはその後の人生に非常に重要ですがその行為が影響を与えたのは被害者とその周辺だけでありしかも相手から受けた言動による恨みが行為の動機であるなら是非は100対0ではない(その具体的なところは閻魔様に聞いてね) 第三者には関わりないことでそこには問題が残りません 

 でも政治家の公的な行いはすべての国民に関わります 国民一人分の恨み(あるいは感謝)はたいしたことなくても合わせると大変な量になります  
 まあ だから良いことを成していく政治家は良いカルマを積むとともに民衆からの尊敬を集めていくことになるわけですが

 と ここまで述べたところで一つの結論として断言したいことがあります
 魂が最後に行き着くのは
  どのようなカルマを積んだのかによる因果応報
   これこそが魂にとっての究極のダルマです

自分のしていることをたまには振り返るのがいいかと思います
 誰のためでもなく自分自身のために

 

最後にバシストでのメーラーの写真を貼ってこの記事を終わります

 この人達にとっては「dharm means help」

 

 

 

 

 

 

 

 

お釈迦様を深掘りする カルマ編

 お釈迦様は人生を修行の場と考えていたと聞き及びます 今回はお釈迦様のその考えを私なりに深堀してみようかと思うのです

 

 まず 人生を修行の場と考える と いうことは 本番はこの人生の後にあるってことですね 現世 来世 そして前世という言葉に思い至ります 人生は一回こっきりではなく続いているものなんだろうか? 確かな事は私には分かりませんが、、(おそらくはどなた様にも分からないかな)

 私にも分かるのは「心」はその人生に一回きりのものらしいこと なぜかって? 前世の記憶がないからですよ

 「我思うゆえに我あり」と心にある自我はこの人生の中で培われてゆくのでしょうね だとしても心には当人にもよく分からない領域があるのも広く知られてます いわゆる潜在意識とか深層の意識とか呼ばれるそれです

 では潜在意識とは何だろう? すぐに思い浮かぶのは言葉を憶える以前の赤ちゃんから幼児時代の記憶です それなら言葉としては記憶に残るはずもないので十分にあり得ます
 でもそれだけでは説明がつかないものがある デジャヴって知ってます?

 初めて来た場所なのに 初めて会った人なのに 初めてだと思えない 知ってる場所 知ってる人だと感じる 湧き上がるこの思いは何だろう どうしてだろう これがデジャヴ(既視感)

 「デジャヴは過去における似たような体験と比べて起こる脳内の錯覚だ」という説があります (違う❢) と当人は思っていても他者にそれを論理的に説明するのは困難です 特に場所に対してのデジャヴは自分でも錯覚かもと思ってしまいそう
 でも人に対して感じるデジャヴ それも相手と自分が共にそれを感じているようなら錯覚とは思えない 思わない 前世からの縁 出会うべくして出会った運命としか思えないですよね 他者に対する論理的説明が困難なのは変わりませんけどね

 他者に説明困難 自らの心のうちにありながら不可解な部分 これがおそらくは前世から引き継いだもの いわゆるカルマなのかと私は考えています(なので前世があるんだろうなと思ってます)
 ちなみに私にとってカルマを想起させた最も強いデジャヴはヒマラヤの村とそこに住む家族でした 30年前の写真を貼っておきます


 
 お釈迦様の話に戻しますが 人生を修行の場と考えるなら では 現世で何を修行する? 修行は何のため? 

 修行が何のためであるか と考えるなら お釈迦様のそれは永遠の世界へいくための修行、、、ということだと思われます
 なぜとなれば お釈迦様は輪廻を回避したかったらしいのです 

 インドで聞いたのですが 人は輪廻転生を繰り返すことでその魂のレベルをあげていくのだそうです(注 逆に堕ちてくこともあるかな) インド人は一般にそのように考えているみたいです
 けれどお釈迦様は輪廻で再びこの世に転生してくるのを避け 永遠の世界に定住することをめざしていたそうです お釈迦様のその望みは かなったのでしょうかね

 現世の縛りを受けている我らには永遠の世界を具体的には想像できないのですが 肉体はいつか滅ぶと知ればおそらく永遠の世界は魂の世界だろうとは思われます

 お釈迦様の修行の目的地がそれであるとして では次に 心と魂の関係を考察します
 心と魂が同一のものとは考えにくいのですが まったく関係ないものだとも思われません おそらく密接に関係している

 デジャヴの話をしましたがそれを感じ取るのが魂の領域なのかと思われます 心にはその記憶がない にもかかわらず強く心を揺さぶる そうですね 言い方としては 魂に揺さぶられて心が現実を後追いする そんな感じかな その因となるのがカルマというところかな 

 人は死んだら終わりです あの世には地位も権力もお金も持ってゆくことはできません 唯一持っていけるのがカルマです

 では そのカルマって何なのだ? 
  それを簡潔に言えば「個別の魂に付随する思い」です


 カルマってインドの言葉ですが日本語で言うと「業」 カルマのカルは動詞で英語でいうならDOです 日本語だと行う カルを名詞にするとカルナになるのですがそれがカルマとなると時を超える様です 現世で行っていることが来世につながる また現世で行っていることは前世で行っていたからそうなってる みたいなね
 カルマはその人が生業(なりわい)のようにやっている(やっていた)ことの結果です 栗本薫(中島梓)という作家が「私は語り部なのだ」って記してたことがあるのですが私は彼女のファンだったこともありすごく共感したのを憶えてます もう当たり前のようにいろんなことを語る それは小説になったりエッセイになったり評論になったり「語り部」って言葉がこれほど似合う人を知らない おそらく前世でも来世でもそのカルマは彼女の人生に影響してるだろうと思います

 カルマには方向性の違いがあります 分かりやすくいえば善いカルマ悪いカルマですが 善悪はその人の価値観によるので決めつけはしたくないのですが方向として違いがあるのは確かです  

 方向性の違いを説明するのに有名人で対照的な二人がいるので例にしてみようと思います
 一人は1974年から経団連の会長やってた土光敏夫さん もう一人はパソナの会長だった竹中平蔵さん 時代は少しずれますがどちらも経営者として成功したと言える人です でもそのやり方が違ってる 価値観が違うんだろうけれど私には真逆に見えます

 竹中平蔵さんについてはリアルタイムでこの文を読んでらっしゃる方なら誰もがご存じでしょうが 派遣会社で成功した人ですね こういうのがありました
「正社員をなくしましょう」
「クビに出来ない社員なんて怖くて雇えませんよ」のような言葉も見たことがあります 経営者としての本音なんだろうなと思います そして私が感心したのはこの言葉
「成功者の足を引っ張るな」
 そこには竹中平蔵氏の価値観が集約されてる気がします 彼の成功者としての自負心を感じます 彼のその思いはまず間違いなくカルマとなり来世に影響するでしょうね

 対照的なのが土光敏夫さん
「役員は10倍働け 俺はそれ以上働く」
土光さんは率先垂範するタイプだったようです 社員にもそれなりに厳しかったようですがそれよりなにより自分に厳しい 土光さんはミスター合理化とも呼ばれていたようで通勤も電車やバスだったと聞くのですが私がなにより驚くのはこの人経済を動かしながらも稼いだお金を自分の生活に充てていなかったらしいんですよ 私生活がすごく質素だったと聞きます いったい何のために商売してたんだ?
土光敏夫wikpedia
  

 私個人的には土光さんに興味を惹かれるのですが 一般論として考えればたいていの人は竹中さんのようになりたいんだろうなと思ってしまいます (人を使ってうまい汁吸ってるじゃないですか 人からは嫌われるかもですがそんなの成功者で特権階級となった竹中さんにしてみればゴミみたいなもんだと思いません?)
それより土光さんですよ (どういうつもりなんだと思いませんか? 経営者ですよ 商売してるんですよ なのにその儲けを享受してないじゃないですか 成功者で大金持ちであるはずの人がなんでそんな庶民のような生活するの?)

 これは私の想像ですが土光さんはその前世で苦労してたんだろなって気がする でも当の本人は苦労と思ってない なぜならふさわしい見返りがあったから その見返りってお金じゃなく大事な人との信頼関係 その人間関係がとても満足できるものだった その前世の思いがカルマとなって土光さんを動かしていたんじゃないかって気がする すいません 私がそう思うだけで他の根拠はないです それ私が理想と考えるカルマなのでそう思いたいだけなのかもしれません


 ちょっと不吉な話をします 植松聖を憶えてますか?
相模原障害者施設殺傷事件
 植松は障碍者を殺しまくりました それも確固たる意思を以て
 そう確固たる意思を持ってたんですよね 優生思想とか呼ばれてるようですが軽く検索して調べたのですが彼のその考え方は周りからはかなり浮いていたようで彼は育った環境からその思想に至ったとは考えられないので 前世からのカルマが影響しているかと
 おそらく前世の環境ではカルマとなる元の思いは当たり前に受け入れられてた(だからこそカルマとなり残った) ところが植松の現世の環境は前世の思想を受け入れるものではなかった しかし植松のカルマによりもたらされた思いは妄想となりどんどん膨らんで その結果 障碍者を殺しまくるまでにいたったのかと、、、

 ちなみに植松の前世のカルマは竹中平蔵氏の現世のカルマと似たものだったのではないかと思うのです
 竹中氏は彼なりに努力したんだろうと思うのです だからその地位にいたった その過程で彼を嫌う人がたくさん現れたとしてもそれは彼にとっては人種が違う 勉強のできない頭の悪い人達だった 「貧しさをエンジョイすればいい」 竹中氏にとってはそれで終わり 特権階級となった彼の周りには似たような価値観の人が集まる そこで彼は十分以上に認められる 自分を疑う理由は微塵もない だから確固とした自負心が生まれる それは強いカルマとなり来世につながる

 問題は死後の世界にはカルマ以外はなにももってけないこと どのような能力のもとにどんな環境に転生するかは 神のみぞ知る なので、、、

 考えようによっては輪廻転生は自分を見直す機会としてあるのかもしれません 植松聡のことを考えると彼に足りないのは障碍者に対する理解(具体的には自分に思惟する心があるように障碍者にもそれがあることを分かってない コミュニケーションに難があるのを理由にしてね)でしょう それを糺すもっとも単純な方法は障碍者に転生することでしょうか そこで彼が自分をどう思い考えるのか それによっては魂のレベルが変化するかもしれません かもしれないというだけです 最終的には本人次第でしょうが 潜在意識の中で葛藤がおこるかな と想像されます 

 ぶっちゃけるとカルマが潜在意識になるんだろうと思ってます 「人生山あり谷あり」なんて言葉ありますけど もしそれを魂レベルで見るなら何十倍何百倍のスケールでそう見えるだろう気がします

 優性思想の欠点は人を即物的にしか見ない為 心の構造が全く理解できてないことでしょう このことについては次回「お釈迦様を深掘りする ダルマ編」でやってみるつもりです それでは

 

 

最高裁 人の支配を行う

 最高裁からの決定が届きました 上記の画像がそれです
私の上告は棄却されました その理由としてこうあります

「民事事件について最高裁判所に上告することが赦されるのは民事訴訟法312条1項又は2項所定の場合に限られるところ、本件上告の理由は、明らかに上記各項に規定する事由に該当しない。」

ちなみに民事訴訟法312条はこれです
 

 

 


 最高裁に上告するのは憲法がらみの案件なんですよね 私もこれで刑事と民事合わせて4回目の上告なのでそれは知ってました 
 そもそも本件訴訟は私の人権主張を無視した法令適用に対して憲法違反をいうものです 最高裁はそれが分からなかった? そんなはずありませんよね つまり 認めたくなかったんでしょう 私の主張を 天賦人権を

 

私の主張(心と法の支配に関する上申書)に対する応えがこれであるなら最高裁は故意に人の支配を行ったと考えざるを得ません とても残念です