やまのブログ

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HIMALAYA VASHIST BOM SHANKAR

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私の提示する神学がらみでいらっしゃった方はこの記事からお入りくだされば迷わなくてすむかもしれません

コンシャスネス トーク その2

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マントラ 第7章 名前のないうま

 

 マグロマッチョが「魔境」って言葉を使ってたのを見た時からその概念はすっと心に入った 人の個性により魔境にもいろんなのがあるだろうしそれについてああたらこうたら話しだすときりがないだろと思うんだけど その中で一つ

 すべての魔境に共通して言えそうなのがそこに陥る人は畏敬の念を知らないだろってことです
 出会ったことが無いのか 出会っていても目に入らないのかは知りませんけどね  

 


 一般的には畏敬という形容詞は大自然に対して使うことが多そうです 私にとっては初めてバシストに着いた時がそうでした 大雪が降った後でね 「ヴァホト ヴァルフ ヴァホト スペード」村の人がそう言ってた 大雪 真っ白って意味だと伝わりました 私は寒さも忘れてその光景に圧倒されてました('Д') 

 畏敬の念は大自然に対してだけじゃない 人に対して感じることもあるし 神秘体験もそうなんですよね 私は幸運?にも三つとも経験させていただきました ところがそれを言語化しようとするとめっちゃ難しい ホントに難しいんです

 原始人の域を脱し言葉を使えるようになった人類はいつの時代であってもその使う言葉は人の子として憶えたものです しかし圧倒的な畏敬の念は人の子のカテゴリーに無い でも魂が震えている 人の子は言葉に出来ない それでも語ろうとする 納得しようとする それ 宗教的なものになっていくこと必然です

 

 


 
 畏敬 それも圧倒的な畏敬の念を知覚することで原始宗教が起こる この時点でならその捉え方の「是非はともかく」心に感じた神の子の部分つまり魂が強く影響してるのは間違いない
 でもそれが語り継がれ さらに語り継がれしているうちに神格化されただろう伝聞のみを語る者ばかりになる するとその中にラプラスの悪魔に支配された語り手も現れ宗教は堕落していく 宗教全般を俯瞰して見ればそういうことでしょうかね

 少し降って個々の宗教をみると いろいろあるみたいですけどいずれにしろ個々の宗教はその語り手に影響されます   

 宗派の最初の語り手として名を残した者は望むと望まざるに関わらずその信者達からは教祖と目される 名を残しているということは言動も残しているということでもあり俯瞰して物事を見ることの出来る者なら教祖たちの人格性格をもある程度は想像できますね 別に難しいことじゃない NHKの大河ドラマがあるのも作家達が歴史上の人物像を想像出来てるからでしょ 教祖だからといって同じです
 ただしどのように想像するかは人によるでしょうけどね 

 「聖 お兄さん」って知ってます?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E2%98%86%E3%81%8A%E3%81%AB%E3%81%84%E3%81%95%E3%82%93

 漫画なんですよ ブッダとイエスが現代の東京立川に一時やってきてアパートの一室で生活してるって設定でそこでの彼らの日常が描かれてるんですけどね ブッダとイエスの人物像が秀逸 つか私好み
 作中の物語進行は当然ながら作者によるフィクションですしブッダとイエスの人物関係についても私はほとんど知らないので流してるだけなんですが ブッダやイエスが現代のあの状況に置かれたなら似た様なキャラしてんじゃないかなあと思ってるんですけどね どうでしょうか?
 (^。^)y-.。o○


 まあ でも  ここで私が語りたいのは名を残した語り手についてではないんです

 ギリシャ神話や北欧神話とか語り手(教祖)が分かんないでしょ 聖書(旧約の方ね)もそうです それからヒンドウ そして神道も語り手が分からない 語り手が特定できない

 語り手が分からない 語り手が特定できない宗教の語り手について語ってみようかなってのがこの記事の本題です 




 まず ギリシャ神話や北欧神話は私には遠すぎて分っかりませ~ん 私の中ではオリンポス12神とか聖闘士星矢につながっちゃうのです(;´・ω・) 存外それが当たってるのかもしれませんけどね (*´ω`*) いずれにしろ遠すぎてそれ以上の印象がありません 
 聖書も遠いのは同じですが ただ創世記には部分的にですが強く心に残る話がありました 以下聖書の話を中心にします

 私が10歳前後の頃でした アダムとイブがリンゴ(知恵の実)を食べて追放された話を読んで???となりました 納得できないんです 意味が分からない 同時期に因幡の白兎や海幸彦山幸彦の話を読んでましたがそれには何の疑問も感じなかったのにね だから聖書なんて呼ばれてるくせにアダムとイブのようなおかしな話がある変な本だと思った 結果として小学生だった私の心に深く残った

 私 34才の時に初めてインドに来ました そして大麻を知り神秘体験をした頃からいろいろ気づくことがありました
<<私は二度目の生を生きている>>
 月並みな言葉ですが生まれ変わったように感じたものです そしてその時にはリンゴの疑問は当たり前のように氷解してました

 リンゴは比喩です 作者は意図があってこの話を残したんだと思います アダムとイブは追放しなければならなかった 彼らは何も悪いことはしていない それでも彼らを追放しなければならなかった その理由として私には方向の違う二つの意図が考えられるんですが どっちなんだろう? 聖書の作者はどんなつもりだったんだろう?

 ところで聖書が描かれたのとほぼ同時代に場所は遠く離れていたけれどソクラテスやブッダがいたでしょ その両者タイプは違えどどちらも非常に理性的かつ論理的
 その両者と比べると聖書は言っちゃ悪いけど稚拙でしょ どこにも論理が見えない 理性も感じない 一方的なもの言いで説得力もない でも、、、、、そこには作者の企みがあったのかもしれない そう思うのですよ

 聖書の作者(一人とは限りませんが)は後世に私のような者から「稚拙」と言われることも承知のうえであのような形にしたのかもしれない と思うのです  



 聖書がこの世に現れたのが2500年ほど前でしょ その500年後にイエスが現れた 私 これがめっちゃ面白いと思ってます

 イエスは価値観でその世界の人達と対立したでしょ 
 
 その世界での律法学者が説く価値観は聖書に基づくものだった 対してイエスの説く価値観は自分自身に基づくものです

 ちょっとラフな分け方に思われるかもだけど核心はそういうことになります どっちも聖書を敬ってはいるんだよね では 聖書の作者はどっちの味方をすると思います?

 ひたすら聖書につき従い疑うことをしない忠実な下僕か それともこの先どうすればよいかを考える自立した個性か
 聖書の作者はどちらを我が子とすると思いますか?




 
 唐突ですが 現在の大麻問題をご存じの方へのサジェスチョンです 大麻擁護派はイエスと同じ構図で争っています
 法律に依拠して義を語る者 対して自分の意思判断で義を語る者
 基盤を他者に委ねる者と自らに求める者 その両者の争いになるんです 

リチャード・バックもその作中人物に言わせておりましたね
「キリストが何を言いたかったか そんなの簡単だよ そう 私は神の子です でもそれはあなたも同じなんだ」
(^。^)y-.。o○

 ま それはいいんですが 再びアダムとイブの話です 

 聖書の作者はアダムとイブの話で何を伝えたかったのか? 言葉を何も疑わずに素直に捉えるなら
<<儂の言うことを聞け 守れん奴は出ていけ>>
ってことですが それ 本心ですかね??

 小学生だった私は納得しなかった あなたは納得するの?

  こちらの意思を認めない そんな奴をあなた 主だ 神だ と崇めるの? ん?



 

 聖書の作者が私の想像どうりの人物ならばイエスこそが待ち望んだ人だったと思うんだよね でも 磔にされちゃった

 それで あれ? て思っちゃった

 これカインとアベルみたいだ

 聖書の作者はある程度予見してたのかな? 

 


 60代の半ばを過ぎた今の私が旧約全体を眺めて気になるのは微妙に神道と似た構造をもっていそうでそれが現実につながっていること 少なくとも熱心な信者はそう思いたがっているようです 出エジプト記選ばれし民のユダヤ教と現人神万世一系の神道ということなんでしょ、、、 ちなみに私は出エジプト記をまともに読んだことがありません それはユダヤ教を信じる人の大半が神道を知らないだろうことと同じ理由です 遠いのです 

 そんな旧約聖書からは遠い私でもアダムとイブの話は心に残った それはこの部分がとても暗示的だったからです こう問われてるようなものでした
 <お前にこの意味が分かるか?>

 私がその意味に「言語的に納得」し それを「自覚」したのはインドでした そこは暗示的なお話の宝庫です それがヒンドウです 以下ヒンドウの話を中心にします

 

 


 

 世界を創ったのはブラフマーだ だがそのブラフマーはビシュヌが創っていた ブラフマーとビシュヌはお互いに自分が世界の創造主だと譲らない 創造主の地位を巡って争っていたところにブラフマーにもビシュヌにも憶えのない一本の柱があった なんだ?これは? 二人でその柱を調べていると中からシバが現れた シバは始めからここにいた そして三者は了解しトリムルティ(三位一体)が形成された
 と これはヒンドウの宇宙想像の話です 

 何がなんだか分かんないでしょ 私も当初はそうでした にもかかわらず 非常に示唆的で何かを暗示しているように見える これはどういう意味だ? 私は考え始めました

 もちろんブラフマーもビシュヌもシバも比喩です どころか柱も比喩だし宇宙想像も比喩です それは何を意味してるんだろうか? 考えるって楽しいんですよね 私は夢中になっていました(*‘∀‘)

 自己責任で私の結論だけを述べておきます
 トリムルティは自身の統合を意味します そこから真のその人自身が始まるんです ヒンドウの人達はそれを「おうむ」と呼んでいるんだと私は解釈しています
 om nama shiva yaa Hari om shiva om

 

 

 


 結論の言葉だけ憶えてもダメですよ 大事なのは言葉じゃなく言葉が指し示すそれです
 自分自身で思考し行動して真の自分を掴むこと 日本語では「悟り」ヒンディでは「サマディ」と言うみたいですね ところで

 ところでですね 私には大の苦手としている分野があるんです 記録を探し知識として憶え またさらに記録を探し、、、を繰り返して知識を貯めることなんですけど まあ 分かりやすく言えば勉強です 私 勉強は苦手なんです( ^)o(^ ) 

 でも世の中には私などとは違って勉強が苦にならなくて知識をいっぱい貯めてく人もいますよね そういう人で宗教知識に詳しくてなおかつ「自立した思考力」を持つ方がいれば是非教えてほしいことがあります
 マハーバーラタやラーマーヤナにシバやクリシュナは出てくるの? トリムルティ(三位一体)の話なんて最初からあった、、、わけじゃないよね? いつ頃どのあたりの人達が言いだしたの? 個人まで特定できるの? そもそもヒンドウが生まれたのはいつ頃? 現代のヒンドウと比べてどうなの? ねえ ヒンドウって動いてない? ゆっくりゆっくりだろうけどね まるで生きてるみたいじゃない? 

 私にはその辺のところが確かには分からないのです マハーバーラタもラーマーヤナも読んだことが無い 私の知識としてのヒンドウはインドの歩き方(旅のガイドブック)にちょこっと載ってたエピソード(トリムルティの話もそこからです)とインドのポストカードやポスターを除いて すべて人からの口伝えです

 私が覚えたヒンドウは口伝が中心なんですよ デリーやバラナシ プーリーそしてヒマラヤで、、、どれもみな暗示的でした インドではデヴァやデヴィが何気ない顔で現れる 今にして思えば運命だったのかと感じてしまいます
 でもその口伝内容は描きません 秘密ということではないのですがプライベート色が強く私の生き方と関連してくるのでいずれ描ける時がくれば ということで、、、

 そういうことで私はしっかりした根拠を示さないままに自分の内心だけで言ってしまいますが ヒンドウ生きて成長しています
 その言葉の正否については宗教知識に長けた人の応えを待ちたい コメント欄 もしくはツイッター等で御教えいただければ幸いです よろしくお願いします ( ^^) _旦~~

 ヒンドウは生きて成長していると私自身は確信しているのでそのまま自説を続けます その成長はヒンドウの人達が認めることによって起きたんですね これ とってもとっても大事なポイントだと思いますよ 

 ヒンドウの成長はヒンドウの人達が認めることで成り立っている 大事なことなのでもう一度述べました
 
 なぜそうなる? 

 主体性が強いからです 主体性が強いので個々にはバラバラに独立しています 個々にはバラバラでありながら 本当に重要なところでは同意する 魂に近い問題になればなるほどに一つになる

 つづめて言えばヒンドウ教徒の人達は信者でありながら導き手にもなるってことなんですけどね

 もっと言えばヒンドウ教の作者はヒンドウ教徒だってことです
 UMA PARLBATHY ANANDA MA KAARI DORUGA NAM MAMO

 

 

 



 ヒンドウは人に主体性を強く求める宗教です この辺 神道とは対極にあるように見えてしまうのです 以下神道の話を入れていきます 





 私は小学生の時に因幡の白兎と海幸彦山幸彦の話を読みましたが 何とも思いませんでした
 中学生頃に黄泉の国やら天岩戸やらを知った時もふ~んで終わりました
 高校生頃に古事記日本書紀それに稗田阿礼などの名を憶えた時も特に興味は惹かれなかった

 現人神やら皇室なんてものも自分にはまったく関係ない話だった 知識として頭にあっても心には残らなかった いや 違う 一点を除いて何も残らなかった 

 一点だけ心に残ることがあったんだよね

 ローティーンの頃 田舎のお婆ちゃん家に居た時 TVで皇室の映像が流れてた 内容は憶えてない 興味なかった ただその時大人たちと一緒に見ていた一つ下の従妹の言葉だけが記憶に残っている

 「この人達 可哀想だよ いくら偉い人かなんか知らないけど 一人でどこにもいけないじゃない あたしなら 嫌だな」





 小学生だったぼくが因幡の白兎の話になんとも思わなかったのは興味を引かれなかったからです でもね 誤解しないでほしいんだけど 意味が分からなかったわけじゃないよ
 え~とね 小学生時から国語だけは得意だったの 勉強としては苦手だったけど物語は好きだったからいっぱい読んでた だから「ここで作者が伝えたかったことは何か」みたいな問題は自然に分かった そのレベルでなら因幡の白兎も分かったよ でも興味を引かれなかった ぼくにはつまらなかった

 小学生だったその時のぼくが面白いと夢中になっていたのは鉄腕アトムやストップ!兄ちゃん そして紫電改の鷹 中学生のぼくが引き込まれていたのは火の鳥やカムイ伝 そしてあしたのジョー 高校生のぼくはブラックジャックや愛と誠 その他いっぱい いっぱい

 今これを描いてる私は66歳 小学生時には分からなかった(つか考えなかった)ことも今は分かります

 ぼくはアトムや矢吹丈に感情移入していてその展開される物語に感動していたんです でも因幡の白兎には感情移入出来るキャラクターがいなかった 物語に感動もしなかった

 白兎は小学生時のぼくにとってはイソップみたいなものでした ふ~ん そうだろね だから? って感じでした 兎と亀の話とかカチカチ山等と同様です ぼくはかわいげのない子供だったかもしれません

 白兎やイソップのような話は人を誘導するには効果的だと思われます おそらくは無意識のうちにも人の心に規範をもたらす つまり洗脳効果がある 洗脳って言葉に目くじら立てるなら「導く」でもいい 社会が望む人間に導ける 社会が考える正義や善悪を植え付けられる 社会道徳というものです それはきっと必要なことなのでしょう でもやっぱり面白くない 鉄腕アトム等で見た感動がないからです 

 鉄腕アトムが作り話だってことは小学生のぼくでも分かってました それは現実ではない もちろんぼくはアトムじゃない 空は飛べないしお尻からマシンガンも出ない でもぼくはアトムに感情移入する アトムの心に共鳴してたんですよね 

 

 


 
 記紀については高校の時に習ったのかな 名前が面白くて稗田阿礼だけ憶えてた 後にインドに来て「世界と自分」に興味を持ちだして今こんな文章を描くようになってあらためて 神道の作者について考えだした

 神道の作者について考えるために まずは記紀の構造について考える

 記紀は神話の部分と伝承の部分に分かれる 継ぎ目がどこなのかはよく知らない グラデーションなんだろうけど 聖書と同じく神話と伝承で成り立っていることに違いはない 

 神話というのは妄想による作り話であり現実に起こった事実をそのまま記しているのではない と私は捉えます でもそうと知って見るならそれは嘘ではないのです 鉄腕アトム等と同じ構造になります 

 対して伝承というのは昔あったことを人づてに伝えていくことで 事象を書物に残すのではなく人の記憶に残すと言うことですね しかし そうなると そこには当然伝承者の主観がはいる 稗田阿礼ってどんな人だったんでしょうね 

 稗田阿礼は記紀の伝承者ということになってますが神話の部分もそうなのかな? 記紀以前にイザナミやらアマテラスなんてのに通じる話あった? むしろ阿礼が自分で創作したって可能性はない? ことによると稗田阿礼は聖書の作者と並ぶ食わせ者かもしれない

 


 
 イザナギがイザナミを追って黄泉の国へ行く話 興味深いです 死後の世界は誰も知らない この話は妄想の賜物でしょう  でもこういう話って信じたくなってしまう気持ちは分かります 未知に対しては疑心暗鬼になってしまうのが自然だろうと思います 黄泉の国は分けの分からないとても怖いところだった 怖くてたまらない イザナギは逃げ帰った
 子供だったぼくはこの話に共感しなかった 気持ち悪いとは思っても特に怖いとは思わないし面白くもなかった でも今66歳の私は少年時代のぼくとは違い興味深くて面白いと思ってます 共感しないのは66歳の私も少年のぼくと同じなんですけどね

 イザナギはイザナミが死んじゃったことを悲しんで黄泉の国まで追いかけってったんですよね でも体の崩れかけたイザナミを見て逃げ帰っちゃった
 <なんで そこで逃げるの?>
イザナギのイザナミへの思いってそんなもんだったの? それだけ怖かったってことなんだろうけど ぼくも私も共感はしない

 

 



 少し話が跳びます 日本には怨霊信仰というのがあるようですね 例えば菅原道真 学問の神様らしいです 噂では群を抜いた優れものだったのになんか知らんが京から失脚させられたらしい 左遷されたまま死んじゃったと聞いてます その後京にすごい雷が落ちて 雷神じゃ 道真の祟りじゃ 京の権力者達は震えあがって雷神を鎮めるために神社だかを作って祭りだした ということらしいのですが(あってます?) だとすると当時の権力者たちの人物レベルが知れますね

 話を戻しますが 黄泉の国から逃げ帰ったイザナギは禊をした その結果あらわれたのがアマテラスとツキヨミそしてスサノオ この辺までは純粋な妄想でしょう 嫌いじゃありません         
 でもニニギの天孫降臨があって妄想は妄想のままでは終わらなくなった 終われなくなった

 



 記紀によるとアマテラスの孫が天界からこの地上世界に降りてきたんですよ で 完全な妄想から現実世界に移行してくることになった あった事実を語り継いでいく形です 私はまるで信用していませんが完全な作り話かというとあながち、、、 なんにしろ現代に天皇が存在してますからね 記紀によると神武よりこの方万世一系で現在の今上陛下がおられることになる さて、、、、

 ということは 当の陛下や皇室の方達から見れば記紀は自分達のルーツを描いてる書物ってことになる 気になるでしょうね

 でも これ 皇室とは縁もゆかりもない私達にも他人事ですまないんですよ 私は父母世代から聞いてるんですが 天皇陛下万歳!で死んでった人達がたくさんいるんですよね
 塀の中で歴史本を読んでた時にも徳川幕府が崩壊したのも薩長が錦の御旗を手にしたことが大きいって風に書いてました 天皇を味方にしたものが正義 さあ お国のために って感じですね

 なんでこうなったんだろう? 気にならない? これ 是非の問題以前に日本人のアイディンティティの問題だよ 他人事じゃないよ 

 史実としてどうなのか? という問題は私程度の知識量ではたいして語れませんので この辺は学者さん達にまかせるとしても

 高卒の知識量がせいぜいの私でも知っているのは記紀をつくらせたのは天皇家だってこと 天武天皇の頃でしたっけ?

 

 



 ところで「火の鳥ヤマト編」を読んだ私はそこに歴史書を残そうとしている二人の族長がいたのを憶えています 一方の族長は事実を後世に残すために もう一方の族長は自分を偉く見せるために書を残そうとしてました 歴史書を残す動機としてはどちらもありそうですよね 「火の鳥」はフィクションではあっても人間の真実を描いている

 では現実世界の天武天皇が記紀を編纂する動機はどっちだったんだろう? それを知るためにちょっと当時の考察をしてみる

 まず事実関係 天武天皇 即位前の大海人皇子ですね 大友の皇子を倒して即位したんでしたね 大友の皇子は天智天皇(中大兄皇子)の息子 中大兄皇子は大海人皇子の腹違いの兄ということでしたっけ この兄弟には額田王を巡る三角関係の噂もあったようですが確かなことは分からないにしろ兄弟間の確執が息子を巻き込んだ殺し合いになったってことでいいのかな
 
 中大兄に大海人と言えば「大化の改新」の中心人物じゃないですか 当時絶大な権力をもっていた蘇我入鹿を暗殺して政権を一新したんですね そこから元号が始まり また「天皇」という称号を使いだした

 で その暗殺された入鹿は大悪人のように言われてますがホントなの?

 父の蝦夷から地位を譲られた入鹿が権力を持っていたのはその通りでしょうがそれを悪いことに使ってたの? 自分だけが贅沢して民を虐待するとか 地位を盾にした尊大な奴だったとか? 入鹿はどんな悪党だったの?

 





「日出処の天子 日没する処の天子に送る つつがなきや」

 話がちょい外れますが日本史を眺めて私が一番感情移入出来るのは厩戸皇子なんですよ 私の知る限りではこの国で初めて魂の言葉を残せた人物だと思ってる 「聖 お兄さん」のようにイエスがこの時代の王室に生まれていたらきっと厩戸みたいになっていたとも思ってるんだけどね どう思います?
 
 厩戸は摂政として一七条憲法も作ってたようですから社会のことを考えてたんですね 「和を以て貴しとなす」が基本だったんでしょうか 
 私はそんな厩戸皇子に共鳴しています  もちろん 私には厩戸のような才も能力もないし王室なんてめんどくさそうなそうな立場にもいたことがないのでホントのところは分からない それでも見ていると彼を応援したくなる 感情移入しちゃってます

 そんな私なので入鹿の最後に納得できなくてね 蘇我氏は厩戸の盟友みたいなものでしょ 価値観や考え方が近い 私とインドのパリワラみたいなものかなと想像したりするんです するとね 厩戸亡き後 そんなすぐに蘇我氏は悪者になっちゃったの? 素直に信じられない 汚名着せられて殺されちゃったんじゃないのかって疑ってしまいます 個人的には日本史で一番知りたいところです 詳しい人いたら 是非教えてほしい 

 



 そうそう大化の改心後の世界ね 先に言ったように争いばっかやってる 引けない争いもあるのは分かるつもりだけど親族間の争いばっかだし つまりは権力争いだ それホントに必要だったの? 和を以て貴しとなすはどこいった?

私ね 中大兄は現代でいうなら元総理の**みたいなものかなってイメージしてるの 中臣鎌足は現代で例えるなら****じゃないのか思ってたりします あくまで私の印象で根拠はありません ただそうイメージすると腑に落ちる 「神輿は軽くてパーがいい」って言葉あるけど実利をとるなら実に賢い言葉だと思いますよ 嫌いですけど☻ 

 時代が落ち着いたら結局は藤原時代じゃないですか 鎌足の子孫たち 我が世の春ですね でも道真の怨霊に震えあがってるところをみると人としては奴らロクなモノじゃなさそうです

 と いうことで私は記紀の編纂者たちについてはかなり疑わしい目で見ています 客観的事実はそっちのけで自分達に都合のいいことばっかり書いてんじゃないかってね 

 だってさ 要するに事実としては

 大化の改心後の王族は自らに「天皇」の称号を付与しさらには天孫降臨万世一系の下に自らを神格化したってことです

 「魔境」に堕ちた典型だと思うんだ

 



 当人は得意満面だったのかもですが 馬鹿なことをしましたね さらに周りがそれを助長し利用しまくった それが続いた結果 天から賦与された大事なものを自ら封じることになってしまった

 「天賦人権」って知ってますか?

 生きとし生けるものすべては生きているんだよ 進次郎構文と同じで恥ずかしいんだけど それが真実 「生きている」ことが天から賦与された権利 それは自然権
 生きとし生けるものすべては例外なく生きる権利を持っている でも生きとし生けるものは同じではない 強いものもいれば弱いものもいる 賢いものもいれば愚かなものもいる
 その中でそれぞれの業が生まれていくんだよ 種の業が生まれさらに個としての業も生まれてゆく

 人間は個としての業を生み確固とした自分 他の誰でもない「私」になるんだ 「私」という個の意思を持つことで選択の幅がぐっと増える
 騙し合い蹴落とし合い殺し合いして生きるのも 気づかい合い笑い合い助け合いして生きるのも 自分で選ぶことが出来るんだ これが天賦人権 持って生まれた権利

 ところが魔境に堕ちてしまうと選択肢が見えなくなってしまうんだよね 

 

命niha kagiriga aru omaemo izure 死nu keredo魂ha sinanai 業wo kakaete samayoi tudukeru dousuru?

最終戦争nimukauka samayoi tudukeruka?



 

 

 

 

 

 

マントラ第6章の3 心の構造

 8月9月とボランティア名目で障碍者達を見ていて 早い時期から親近感、、、のようなもの、、、を感じていた のだが それが引っかかっていた なんだろう? 分かるようで分からない 分かる ようで 分からない 引っかかっていた



 好奇心からボランティアを始めた私は とりあえず嫌われちゃまずいと無理のない範囲でにこやかに努めていた それは私なりの処世術 本来の私はクール 見も知らない相手には好意も嫌悪もない 思いは相手を知ることによって生じ当面の距離感が決まっていく 
 ボランティアを始めた目的は障碍者それも重篤な彼らを観察すること どんな人達なんだ? 彼らを知ることで障害者への基本的な知見が得られると考えていた しかし見る前に嫌われちゃまずい だから刺激しないように
 <大丈夫 敵じゃないよ> 
そんな姿勢で彼らを見ていた 

 施設職員の障碍者へのケアはしっかり行われているように見えた 概ね良好だと思う 障碍者といってもその障害の状態は一人一人違っている 全く動けない者から動き回る者まで様々だ そしてコミュニケーションがどこまでできるのか一人一人が違うんだ 私的にはここ大事なとこかなと思ってる 対して職員はそれぞれの障碍に応じて対応しているように見えた(他のことは特に興味ないのでよく知らない) 通りすがりの一市民としては不満は感じていない あくまで通りすがりの一市民としてだけれど合格点でいいと思う
 でもそれじゃない そういうことじゃないのは分かっていた 私が感じている「親近感のようなもの」はそことは違う じゃ私は何に対して感じているのか 分かるようで分からない もどかしかった

 これはなんだろう?どうしてだろう?と考えてた バシストと似てる気がした でも何が似てるんだろう? 見た目じゃない 外見や言動にパリワラ達と似たところがあるとは思えない ではなんなのだ? 分からない 分かるようで分からない 何だ? なぜ私はこのように感じるんだろ? ずっと引っかかったままだった 



 10月になりボランティア期間も終わり そのバシストに帰って何もしない何も考えないものぐさの私に戻った

 ピザ食べたいな 「ピザカエガ?」 孫世代のパリワラに言った その結果あれよあれよの間にピザパーティになった 私はまったく動いていない そもそもピザ屋がどこにあるのか知らない いくらなのかどんなピザがあるのかも知らない すべては子供たちが動いてくれた 私はお金を出しただけ
 そろそろ洗濯しなきゃいけないな 全自動の洗濯機があるけど湧き水を使っているため終わるのに4~5時間かかる 温泉で手洗いなら30分ぐらいか、、、 で手洗いしようと 息子世代の嫁さんにバケツどこにある?と聞いた 嫁さんから洗濯機に入れとくからと示されたので汚れものを渡した 3,4時間後に庭にあるトイレに行ったついでに洗濯機を見た え? 何も入ってなかった 「ヤマ!」 同世代のパリワラが呼びかけ指さしたところに洗い終わった私のシャツやパンツが干されていた 私が何もしないままに洗濯は終わっていた 
 肩掛けを買おうと思った しかし私は織物に目が肥えているわけではない 偽物つかまされちゃかなわん 信頼できる店を選ばねば、、、 「ミー ショール チャイエー」 妹世代の婿に言った 後はすべて彼が手配してくれ私は美人店員(直観だけど彼女はセールスマン時代の私に通じると感じた 駆け引きはするけれど嘘はつかない)を前に選ぶだけになった おまけに身内価格にもなった
 バシストに居る時はほとんどこんな調子で進むため 特にすることのない私はものぐさになる つか それが地なんだろうな


 ものぐさな私は一日の大半をぼ~と過ごしている しかし 体はものぐさでも心は忙しく動き回っている いや むしろ体を使ってしなければいけないことがほとんどないために心が自由に動き回れると言うべきか
 心の中では思いが妄想となり駆けずり周っている 私の心は一定方向を持たない 瞑想中の私は迷走する心をぼ~と見ていた そして気づいた

 あの施設での職員と障碍者のコミュニケーションはバシストでのパリワラと私のそれに似ている
 

 バシストに居つくようになって3年目の頃 階下にネパール人の夫婦が部屋を借りた その奥さんが聾唖だった 私はその奥さんと顔を合わせても会釈以上のことは出来なかった でも当時10代後半だったパリワラがその奥さんと身振り手振りを使ってコミュニケーションしていた それがとてもスムーズに意思疎通出来ているようでちょっと驚いた それはまるで手話のようにも見えたが両者とも手話など知っているはずがなかった そして10代のパリワラが傍にいた私に言った
「ヤマ ナンディ セイム トウ ユウ」 

 ??? ナンディというのはその奥さんなんだけど 彼女がどうして私と一緒なのか どこが似てるのか 言葉の意味が分からなかった でも今は分かる、、、つもりでいる 

 パリワラとナンディは言葉ではないところでコミュニケーションしてたんだ そしてそれ 私とパリワラ達もそうだった 

 パリワラとナンディは同じ宗教を深く信じている 生活環境が似ている 常識が似ている だからナンディが用意しているものを見て 今日はあれをつくるの? それにはこれをしてもおいしいよ とかを身振り手振りを使ってコミュニケーションしていたんだろう
 私にその真似は出来ない 育った環境が違い過ぎる ヒマラヤの常識なんてまったく知らない 社会的な共通項がない 結果的にはそれがよかったのだと思っている 私はシンプルになっていた 社会常識以前の私が顔を出していた 

 私は片言のヒンディと片言の英語それに片言の日本語を使ってパリワラ達とコミュニケーションしていた それはナンディとパリワラが身振り手振りを使ってコミュニケーションするのと同じだった 分かるかな?

  記号論に通じるものだろう 記号論は言葉と言葉の指し示す物の別を知覚することから始まるようだけれど 私が知覚したのは言葉と言葉を発する物の別 私とパリワラ達にとっては言葉はただの道具にすぎず伝わったのは心の思いだったってこと 
 幸いにもお互いのそれは相性も悪くなかったようでそれがずっと続いている だから今の私達の関係になってる 
 そんな私がバシストでぼ~と妄想している自分を見ていたら これ あの施設での職員と障碍者の交流も同じじゃね と思いだしたんだ


 

 

 


 重度の知的障碍者に社会的処世術は持ちえない(当たりだよね) 加えてあの施設の知障者には自閉症を併せ持つ者が多いようで言葉による会話が成り立たない
 でも言葉を投げかけること等による交流は行われている
 
 知障者であれ自閉症であれ感じる思いは持っている 自らの内に閉じこもっているなら表に現さないだろうけど それでも交流を続けていればそれなりのことは分かる(感じる)ようになる 
 つまりここの重度の知障者は日常的に何らかの思いを発しているってことです 対する私達がそれをどう受け止めるかはその人次第でしょうけれどね

 12月に入った頃だったかトイレ近くの通路にソッポ君(いつもソッポを向いていて目を合わさない彼なのでここではそう呼ぶ)が座り込んでた その前を通って更衣室に入った後廊下で声がする 
「ヤマサキサン   ヤマサキサン」」
 棒読みだった ソッポ君の声だろうが感情が見えない  扉を開けて顔を出したらソッポ君の傍に居た職員のチビマルコちゃん(もちろん仮名)が言った
「すいません 山﨑さんのこと 憶えちゃって、、」
いえいえ どういたしましてって感じです つか ちょっとうれしい (憶えてくれてたんだ)
 後日通路のソファにソッポ君が座っていた アッチャーと小声をかけて通り過ぎる私

 「ミナイデ ミナイデ」

とソッポ君 私は振り返りにっこり笑い心の中でこういった  ('ω')ノ
 (ベーだ お前の言うことなんか聞いてやんないよおだ)
 

 さて ところでマントラ第4章 を覚えてくれていますか 以下はそこに示した概念を交えて話していきます ちょっと難しくなりますが ごめん
 まず 重度の知障者は私の言う「神の子」にあたるのですが 分かりますか?

 いまさらですが 神の子とは赤ちゃん 牛 猫 鳥 花 その他命ある者すべてを指します 対する人の子は唯一成長した人類だけ つまり私達 その私達も赤ちゃんから始まっている

 赤ちゃんは少しづつ成長する過程で神の子から人の子になるわけです どういう人の子になるかは魂の個性とその環境との関係で決まっていくでしょうが その始まりとなるのが言葉です

 言葉なんですよね

 私達が考えるのは言葉を使ってでしょ どのような「思考」をするのかは人によって違いますが たとえ右翼でも左翼でもオタでもフェミでもその思考は言葉によるでしょ 言葉が無ければ人の子としての私やあなたは無いんです 
 我 思う ゆえに我あり の我も言葉以前には無いのです でも赤ちゃん見てください そこに存在しているでしょう 泣いたり笑ったり喜怒哀楽を示しているでしょう それが神の子 


 神の子から人の子に替わっていく際にはいろんな色があるでしょうね 個別の内容は分かるはずもありませんが一般論として言えば神の子は人の言葉を憶えることで情報量がぐんと増える 乳児は魂の思いだけで世界とコミュニケーションする それが幼児 園児 小学生中学生、、最初はごく身近な環境だけが世界のすべてだった 自分の経験が世界のすべてだった それが言葉を憶えることで行ったこともない世界の出来事を知り 会ったこともない人の思いにも共感する さらには時を超えた過去世界の出来事も知る 遠い昔の人の知恵に驚いたりもする 当然それらの世界も自身に影響を与える 成長につれ世界は広くなっている 知り得た内容は自身の経験よりも他者からもたらされたものが圧倒的に多くなる そう だから我々は人類の子なんですよ 分かるよね?

 重度の知障者は人の子に成らずにずっと神の子であり続けているってことです
 結果 彼らはこの社会で人の子達の試金石になった 分かるかな?

 私がしているのは体ではなく心の話ですよ 分かってるよね私達の体にはDNAとか親から身体的に受け継いだものがあるんだろうけどそっちじゃない 心の話
 
 言葉を憶えて以来の私達の心は人類の影響を受けてる 人類の中には親も含まれますがその親も人類の影響を受けてるしね 私達は環境は違うだろうけれど社会に揉まれいろんなものを学んで今の自分があるってことでは一緒でしょ これが心の構造です



 人の子としての個性は千差万別 人の数だけあるでしょう いろんな人がいる でも 元を糺せばみんな神の子 
 自覚しているかどうかはともかく人の心の奥底(無意識乃至潜在意識の領分)には神の子がいる 神の子のコミュニケーションは言葉ではない まだ言葉を憶える前はもちろん 憶えて間もないころは言語によるコミュニケーションより内なる思いの方が強い それは共感や反感の形で表われる 成長した人間集団すなわち一般社会ではそれが良心と呼ばれるものにつながるのだと思われます

 でも世間で起こる出来事を見てると (こいつ 良心ないのかな) と思いたくなる事件とかありますよね ラプラスの悪魔に乗っ取られてるんでしょうけれど その状態でこの世に生を受けたわけではなし 赤ちゃんの頃があったはず ラプラスに乗っ取られる前の彼ないし彼女はどんなだったんだろうと考えてしまいます 推測できることはあるのですが根拠が自分の思惟だけなので語りません 語れません ただ
 ただ幼児教育が大事というのは本当だと思いますよ でも最初の教育は知識じゃありません 最初の教育は子供の共感をたくさんたくさん引き出すことです ほとんどの親御さんは無意識にやってるでしょうけどね

 それでも最終責任は自分自身です たとえどんな育ち方をしようと他者に責任転嫁は出来ません 成人したあなたは人の子 人類の子ですから たとえどれほど酷い親に育てられようと人の子として目覚めてからはいろんな価値観に触れてるはずでしょう どんな生き方をするかを選ぶチャンスはあったはずです 
 ちなみに私は手塚治虫に救われたように思っています アトムに出会ってから私にある種の感情が目覚めた 私は共感しまくりでしたwww

 心の構造が分かればラプラスの悪魔に囚われてた人も自分の再検証が楽になりますよ もちろん再検証するしないはあなたの自由ですけど
 ただ自分の心を再検証して確かめるとどういう生き方をするかをもう一度選べるようになります 自分の意思で

 次に身障者の話をします 参考になれば幸いです 
 

 

 障碍者には重度の身体障害はあるが知能には問題のない人達もたくさんいますね こういう身障者達は基本的には亜衣さんや英知専務と同様だと思われます 心の構造は身障者も健常者も変わりませんが私が出会った限りではピュアな人が多い
 それは自分が他者とは違うと自他の別を早い時期に知るからだろうと考えています 社会常識や世間の価値観を知り人の子としての処世術を身につけるより前に自分のことを自覚するとその自分が深く心に刻まれる するとラプラスの悪魔に囚われにくくなる 

 ボランティア中に私が見たエピソードを二つほど描きます
 足の悪いお姉さんがいる 他の障害を併せ持っているのかは私には分かりませんが職員の言葉は理解し頷いている(無口な女性だった)このお姉さん基本的には椅子に座っているのだが移動の際には2本の松葉杖を使って移動している 足はあるのだけれどほとんど役に立っていない 地下の大ホールへ行く際には階段を上り下りする 必ず職員が傍についているのだがその言葉にやや冷たさを感じなくもない(ちょっと顔の怖いおじさんなのでそう感じるのかもしれない) そもそもなぜエレベーターを使わない なぜ車椅子を使わない 隣接する高齢者施設でなら考えられない指導だ、、 でもここは高齢者施設じゃない この松葉さんはまだ若い 腰から下は不自由かもしれないが上半身は自由にうごく 少しの間だったけどまじかで見ていた私にはこの松葉さんと顔怖職員はお互いに暗黙の了解をしていると感じるようになった 
<無理はしない させない でも出来そうなことはやらせる やる>
 彼らの言葉にしない会話 多分そんなもんだと思う 勘だけど ホントのところは知らんけど

 電動車椅子の松ちゃん(仮名)というお兄さんがいる 明るく元気なお兄さんなんだよね 自由時間には1階のフロアを動き回ってる 玄関で待っている送迎バスの運ちゃんたちとよく駄弁っている この松ちゃん車椅子に乗ってるところから分かるように足が悪い というか使い物にならない、、健常者の私が見慣れている足とは違う それは手も同じ この松ちゃんは電動車椅子がなければ手足をバタバタする以外にまったく動けない その松ちゃんが実習課題としてちっちゃな星や花のシールを台紙に張り付ける作業をしていた 健常者なら2歳児レベルの作業だろう 松ちゃんは私といろいろくっちゃべりながら作業してたんだけど作業しながらこんなことを言った
「障碍者だからって何も出来ないわけじゃないんだ 俺たちみたいな障碍者にも出来ることはあるんだって示したいんだ」

 他人と競争してるんじゃない 自分と勝負してるんだって事がその言葉から分かります 自分を生きてるって事でもあります あなた分かるかな?


 
 ところで英知専務は温厚な人なんだけどそれでもやっぱり気に食わない人がいるらしい 仕事帰りの都電で英知専務と一緒になった時ぼやいていた お袋さんがTVで障碍者のX氏を見ていて同じ障碍者なのに立派な人がいると自分サゲで言われたんだって 専務のぼやきはよりによってなんであんなXみたいな奴と自分を比べてくれんだってことでした(*´Д`) 
 専務は障碍者福祉に関わる仕事をしている そして自身も障碍者であることからその界隈の話を知っているようで X氏についていろいろ話していたけれど要するにX氏は人の善意を自分に利用するタイプの人らしかった 聞いていた私はそういう人は健常者にも時々見かける そう言うと専務はこう応えた
「でもなあ 障碍者で友達がいない奴ってよっぽどなんだよ」

 その辺の話は私には確かには分からないけど想像はつく 多分障碍者は共感能力に長じている だから彼らは理屈よりも自身の感性で人を見分けている おそらく当たっている

 その英知専務は松ちゃんとも親しい で その専務に松ちゃんも一緒に飯でも食べにいかないかと誘われてる その時は社会的地位や外見を全く度外視した食事会になると確信している

 


 

生まれたばかりの子羊と庭の情景

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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