お釈迦様を深掘りする カルマ編 | やまのブログ

お釈迦様を深掘りする カルマ編

 お釈迦様は人生を修行の場と考えていたと聞き及びます 今回はお釈迦様のその考えを私なりに深堀してみようかと思うのです

 

 まず 人生を修行の場と考える と いうことは 本番はこの人生の後にあるってことですね 現世 来世 そして前世という言葉に思い至ります 人生は一回こっきりではなく続いているものなんだろうか? 確かな事は私には分かりませんが、、(おそらくはどなた様にも分からないかな)

 私にも分かるのは「心」はその人生に一回きりのものらしいこと なぜかって? 前世の記憶がないからですよ

 「我思うゆえに我あり」と心にある自我はこの人生の中で培われてゆくのでしょうね だとしても心には当人にもよく分からない領域があるのも広く知られてます いわゆる潜在意識とか深層の意識とか呼ばれるそれです

 では潜在意識とは何だろう? すぐに思い浮かぶのは言葉を憶える以前の赤ちゃんから幼児時代の記憶です それなら言葉としては記憶に残るはずもないので十分にあり得ます
 でもそれだけでは説明がつかないものがある デジャヴって知ってます?

 初めて来た場所なのに 初めて会った人なのに 初めてだと思えない 知ってる場所 知ってる人だと感じる 湧き上がるこの思いは何だろう どうしてだろう これがデジャヴ(既視感)

 「デジャヴは過去における似たような体験と比べて起こる脳内の錯覚だ」という説があります (違う❢) と当人は思っていても他者にそれを論理的に説明するのは困難です 特に場所に対してのデジャヴは自分でも錯覚かもと思ってしまいそう
 でも人に対して感じるデジャヴ それも相手と自分が共にそれを感じているようなら錯覚とは思えない 思わない 前世からの縁 出会うべくして出会った運命としか思えないですよね 他者に対する論理的説明が困難なのは変わりませんけどね

 他者に説明困難 自らの心のうちにありながら不可解な部分 これがおそらくは前世から引き継いだもの いわゆるカルマなのかと私は考えています(なので前世があるんだろうなと思ってます)
 ちなみに私にとってカルマを想起させた最も強いデジャヴはヒマラヤの村とそこに住む家族でした 30年前の写真を貼っておきます


 
 お釈迦様の話に戻しますが 人生を修行の場と考えるなら では 現世で何を修行する? 修行は何のため? 

 修行が何のためであるか と考えるなら お釈迦様のそれは永遠の世界へいくための修行、、、ということだと思われます
 なぜとなれば お釈迦様は輪廻を回避したかったらしいのです 

 インドで聞いたのですが 人は輪廻転生を繰り返すことでその魂のレベルをあげていくのだそうです(注 逆に堕ちてくこともあるかな) インド人は一般にそのように考えているみたいです
 けれどお釈迦様は輪廻で再びこの世に転生してくるのを避け 永遠の世界に定住することをめざしていたそうです お釈迦様のその望みは かなったのでしょうかね

 現世の縛りを受けている我らには永遠の世界を具体的には想像できないのですが 肉体はいつか滅ぶと知ればおそらく永遠の世界は魂の世界だろうとは思われます

 お釈迦様の修行の目的地がそれであるとして では次に 心と魂の関係を考察します
 心と魂が同一のものとは考えにくいのですが まったく関係ないものだとも思われません おそらく密接に関係している

 デジャヴの話をしましたがそれを感じ取るのが魂の領域なのかと思われます 心にはその記憶がない にもかかわらず強く心を揺さぶる そうですね 言い方としては 魂に揺さぶられて心が現実を後追いする そんな感じかな その因となるのがカルマというところかな 

 人は死んだら終わりです あの世には地位も権力もお金も持ってゆくことはできません 唯一持っていけるのがカルマです

 では そのカルマって何なのだ? 
  それを簡潔に言えば「個別の魂に付随する思い」です


 カルマってインドの言葉ですが日本語で言うと「業」 カルマのカルは動詞で英語でいうならDOです 日本語だと行う カルを名詞にするとカルナになるのですがそれがカルマとなると時を超える様です 現世で行っていることが来世につながる また現世で行っていることは前世で行っていたからそうなってる みたいなね
 カルマはその人が生業(なりわい)のようにやっている(やっていた)ことの結果です 栗本薫(中島梓)という作家が「私は語り部なのだ」って記してたことがあるのですが私は彼女のファンだったこともありすごく共感したのを憶えてます もう当たり前のようにいろんなことを語る それは小説になったりエッセイになったり評論になったり「語り部」って言葉がこれほど似合う人を知らない おそらく前世でも来世でもそのカルマは彼女の人生に影響してるだろうと思います

 カルマには方向性の違いがあります 分かりやすくいえば善いカルマ悪いカルマですが 善悪はその人の価値観によるので決めつけはしたくないのですが方向として違いがあるのは確かです  

 方向性の違いを説明するのに有名人で対照的な二人がいるので例にしてみようと思います
 一人は1974年から経団連の会長やってた土光敏夫さん もう一人はパソナの会長だった竹中平蔵さん 時代は少しずれますがどちらも経営者として成功したと言える人です でもそのやり方が違ってる 価値観が違うんだろうけれど私には真逆に見えます

 竹中平蔵さんについてはリアルタイムでこの文を読んでらっしゃる方なら誰もがご存じでしょうが 派遣会社で成功した人ですね こういうのがありました
「正社員をなくしましょう」
「クビに出来ない社員なんて怖くて雇えませんよ」のような言葉も見たことがあります 経営者としての本音なんだろうなと思います そして私が感心したのはこの言葉
「成功者の足を引っ張るな」
 そこには竹中平蔵氏の価値観が集約されてる気がします 彼の成功者としての自負心を感じます 彼のその思いはまず間違いなくカルマとなり来世に影響するでしょうね

 対照的なのが土光敏夫さん
「役員は10倍働け 俺はそれ以上働く」
土光さんは率先垂範するタイプだったようです 社員にもそれなりに厳しかったようですがそれよりなにより自分に厳しい 土光さんはミスター合理化とも呼ばれていたようで通勤も電車やバスだったと聞くのですが私がなにより驚くのはこの人経済を動かしながらも稼いだお金を自分の生活に充てていなかったらしいんですよ 私生活がすごく質素だったと聞きます いったい何のために商売してたんだ?
土光敏夫wikpedia
  

 私個人的には土光さんに興味を惹かれるのですが 一般論として考えればたいていの人は竹中さんのようになりたいんだろうなと思ってしまいます (人を使ってうまい汁吸ってるじゃないですか 人からは嫌われるかもですがそんなの成功者で特権階級となった竹中さんにしてみればゴミみたいなもんだと思いません?)
それより土光さんですよ (どういうつもりなんだと思いませんか? 経営者ですよ 商売してるんですよ なのにその儲けを享受してないじゃないですか 成功者で大金持ちであるはずの人がなんでそんな庶民のような生活するの?)

 これは私の想像ですが土光さんはその前世で苦労してたんだろなって気がする でも当の本人は苦労と思ってない なぜならふさわしい見返りがあったから その見返りってお金じゃなく大事な人との信頼関係 その人間関係がとても満足できるものだった その前世の思いがカルマとなって土光さんを動かしていたんじゃないかって気がする すいません 私がそう思うだけで他の根拠はないです それ私が理想と考えるカルマなのでそう思いたいだけなのかもしれません


 ちょっと不吉な話をします 植松聖を憶えてますか?
相模原障害者施設殺傷事件
 植松は障碍者を殺しまくりました それも確固たる意思を以て
 そう確固たる意思を持ってたんですよね 優生思想とか呼ばれてるようですが軽く検索して調べたのですが彼のその考え方は周りからはかなり浮いていたようで彼は育った環境からその思想に至ったとは考えられないので 前世からのカルマが影響しているかと
 おそらく前世の環境ではカルマとなる元の思いは当たり前に受け入れられてた(だからこそカルマとなり残った) ところが植松の現世の環境は前世の思想を受け入れるものではなかった しかし植松のカルマによりもたらされた思いは妄想となりどんどん膨らんで その結果 障碍者を殺しまくるまでにいたったのかと、、、

 ちなみに植松の前世のカルマは竹中平蔵氏の現世のカルマと似たものだったのではないかと思うのです
 竹中氏は彼なりに努力したんだろうと思うのです だからその地位にいたった その過程で彼を嫌う人がたくさん現れたとしてもそれは彼にとっては人種が違う 勉強のできない頭の悪い人達だった 「貧しさをエンジョイすればいい」 竹中氏にとってはそれで終わり 特権階級となった彼の周りには似たような価値観の人が集まる そこで彼は十分以上に認められる 自分を疑う理由は微塵もない だから確固とした自負心が生まれる それは強いカルマとなり来世につながる

 問題は死後の世界にはカルマ以外はなにももってけないこと どのような能力のもとにどんな環境に転生するかは 神のみぞ知る なので、、、

 考えようによっては輪廻転生は自分を見直す機会としてあるのかもしれません 植松聡のことを考えると彼に足りないのは障碍者に対する理解(具体的には自分に思惟する心があるように障碍者にもそれがあることを分かってない コミュニケーションに難があるのを理由にしてね)でしょう それを糺すもっとも単純な方法は障碍者に転生することでしょうか そこで彼が自分をどう思い考えるのか それによっては魂のレベルが変化するかもしれません かもしれないというだけです 最終的には本人次第でしょうが 潜在意識の中で葛藤がおこるかな と想像されます 

 ぶっちゃけるとカルマが潜在意識になるんだろうと思ってます 「人生山あり谷あり」なんて言葉ありますけど もしそれを魂レベルで見るなら何十倍何百倍のスケールでそう見えるだろう気がします

 優性思想の欠点は人を即物的にしか見ない為 心の構造が全く理解できてないことでしょう このことについては次回「お釈迦様を深掘りする ダルマ編」でやってみるつもりです それでは