山野ゆきよし日記
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未だ、水道の復旧していない地区にスターリンク設置

8月16日、珠洲市真浦町にスターリンク設置。

元日の地震から半年以上経つが、いまだ水道が復旧していない地区がある。ここ真浦町もその一つ。この地区では、地震前から、『「限界集落」を「現代集落」に』というキャッチフレーズのもと、さまざまな試みがなされているプロジェクトがある。

詳細は、そのHPをご覧いただきたい。
https://villagedx.com/

今回、そのプロジェクトの拠点施設にスターリンクを設置する。オンライン会議等々もやりやすくなってくるし、情報の取得が格段に向上してこよう。この地震も乗り越えて、プロジェクトがさらに進化していくことを期待したい。

実は、今でもスターリンクやWOTAの要請をときどきいただく。残念ながら、すでにその多くには応えることはできていない。

悶々としながらも、できることを続けていきたい。

かなり遅めの昼食は、道路状況の関係で、ここから迂回しながら向かった、「ココハサトマチ」。

たまたま居合わせた知人もまじえてのポーズ。こちらもできるだけ応援していきたい。







8月15日、終戦記念日

8月15日、終戦記念日。早朝、石川護国神社へ家族で参拝。先人へ心からの感謝の気持ちをもって手を合わせる。改めて、戦争の悲惨さと平和の尊さとを心に刻み込む。

実は、この石川護国神社、私の最後の市長選挙と先の知事選挙の際、いずれも、告示日に、必勝祈願祭と出陣式とをさせていただく。思い入れのある神社でもある。

近くにある金沢神社へも参拝。15日なので新しい真榊をいただこうと思ったが、まだ用意されていなかった。それとも、すでに売り切れたのか。

いずれも心から感謝の念をもって頭を下げてくる。





8月13日、能登へお墓参り

 8月13日、能登へお墓参り。

 

 ここでも何回か書いているが、私の母は羽咋市、妻の父は旧内浦町、現在の能登町の出身である。よって、毎年、8月13日もしくは14日に、能登へお墓参りに行っている。

 

 いつもお詣りしている内浦長尾の神社の鳥居は無事で何よりと思ったが、入り口のところにロープが張られくぐることはできない。鳥居の上の部分が割れていて危ないという。能登地域の鳥居が倒れているものが多い中で、奇跡のように踏ん張ってくれている。静かに頭を下げる。穏やかな海。 

 

 

 ちなみに、15日は、石川護国神社で行われる「石川県戦没者追悼平和祈願祭ならびに合同招魂祭」に参列するために金沢市を離れるわけにはいかない。市長を退任してからは、式典は失礼させていただいているが、やはり、この日に参拝は続けている。

 

 だから、能登にお墓参りに行くのは、今年お参りした13日、もしくは14日。

今日もここ「コワーキングスクエア金沢香林坊」にて

今日もここ「コワーキングスクエア金沢香林坊」にて。
https://coworkingsquarekanazawa.com/

午後から能登に入る。それまではここで仕事。夏休み中の休日ということもあるのだろう、子供向けのイベントが行われている。子供たちの歓声を聞きながらの仕事は楽しい。はかどる。

この日の「ビーバー」は、定番の「プレーン味」から。後から白エビ味もいただこうか。なくなったら、社長に言いつけよう。

ちなみに、午後の能登は、人が集まってくれているという。いろいろと声をお聞きし、今、私にできることを精一杯していく。

掛け軸「一山行尽一山青」(遠州茶道宗家 紅心 小堀宗慶宗匠 書)

 7月28日、遠州流金沢兼六支部納涼茶会へ。市長時代は、本当によくお茶会に出席していた。立場上、正客(お客さんの代表のような感じ)の席にご案内されることが多かった。最初は遠慮していたが、50歳を過ぎたくらいから、お茶の心得はなくとも、社会的にまた年齢から言っても、覚悟をして座らせていただいていた。

 

 市長退任後、お茶会へ出席する回数はめっきり減りはしたが、ここにきて、いくつかお茶会や茶事(懐石をふくめた、いわばフルメニュー)が続いている。さすがに、正客は遠慮させていただいているが、その都度、亭主(主宰者って感じかな)との会話を楽しみにしている。

 

 やや、旧聞になってしまうが、この日のお茶会の掛け軸は、ずっと気になっていた。残しておきたいと思い、ここに書く。

 

 

「一山行尽一山青」(いっさん いきつくせば いっさんあおし)、と読む。

 

 唐の詩人、羅鄴(らぎょう)の詠んだ「行次(こうじ)」と題する詩の一節から。前の句から続く。

 

『終日長程復短程 (終日 長程 復た短程)

 一山行尽一山青 (一山行き尽せば 一山青し)』

 

 一日中、長い距離を進んでは休み、短い距離を行っては休み、やっと一山越えたと思ったら、そこにはまた新たな山が青々とそびえていた、と言う意味。

 

 学びの道において、絶えず新たな課題を持って、限りなく究め続けなければならないという教え。

 

 書かれたのは、遠州茶道宗家 紅心 小堀宗慶宗匠、12世お家元。渡された際のエピソードもお聞きする。ここでは書かないが、これがまたよかった。

 

 

 お茶会、茶道では、いろいろな学びもある。やはり、金沢、すこぶる魅力的なまちだ。

愛知県一宮市で講演

 8月6日、愛知県一宮市で講演。能登半島地震への取り組みについてというテーマ。これまでも何回か行っている勉強会ということだが、過去最高の申し込みという。

 

 

 能登半島地震というまだ生々しい記憶が残っているテーマということ及び通信事業者がどのような支援を行ってきたのかを、自分事として、関心を持たれている方が多い。加えて、私の経歴。それらが相まってのことではないかとの主催者の分析。多分そうだろう。

 

 最後は、例によって、ぜひに、能登にお越しいただきたいと切に訴える。経験則から言って、実は、この呼びかけは効果が大きい。これまでも何人もの方が、その後、メール、はがき等で訪問されたことを報告してくれる。うまく日が合えば、私が同行したことも。

打ち上げは、愛知県名産、から揚げ手羽先のお店。味噌漬けなんとかという奴も美味しかった。

 

 

 主催者のお一人が、昨日、山野さんのSNSを拝見していると、出張の際は、地酒にこだわっておられるということが分かった、今回は、そんな店ではなかったので、次回お越しいただいたら、地酒にこだわったお店に、とおっしゃっていただく。いや、こだわっていません、能登に行くとお約束いただければ、それで十分ですと申し上げる。

今日8月6日、「全日本高校生WASHOKUグランプリ」決勝大会

 夏休みに入って、金沢市主催のうれしい行事がいくつか続く。そのうち、私が格段の思い入れを持っているものを二つ。

 文化都市金沢の将来を担っていく若い有為な人材を育てたいと単純なことを考える。もとより、語彙力も想像力も貧困な私である。職員に助けられながら実現に向け努力を重ねる。

 2013年、「和食」がユネスコの無形文化遺産に登録をされる。京料理、加賀料理と人口に膾炙されるように、地域名と「料理」という言葉が合わさって違和感を覚えることがないのは、京都と金沢くらいであろう(他の都市の方には失礼!)。

 であるならば、「和食甲子園」と銘打って、高校生たちに、和食のコンテストを行って、金沢の地から発信してはいかがか。

 市担当職員はもちろん、関係者と協議を進め、いかにも金沢らしいと着々と準備がすすめられる。ただ、「和食甲子園」とはあまりにも発想がチープすぎると名称却下され、「全日本高校生WASHOKUグランプリ」と題して、全国大会が開催される。

 

 

 こんなことができるとするならば、金沢市か京都市しかなかろう。金沢市が先にやってしまう。

 ちなみに、第一回大会でグランプリに輝いた長野県の高校生2人組のうちの一人は、その後、金沢市の料亭に就職し、和食料理人として修行をスタートさせたという。

 実は、その決勝大会が、ライブ配信されている。これは、以前はやった、「料理の鉄人」をイメージしたもの。なかなかいい。ぜひ、ご覧ください。


 もう一つ。

 文化都市金沢を代表、象徴するのが茶道であろう。金沢ほど、まちなかにお茶室が多く存在している都市も少ないのではないか。

 ということで、「茶道甲子園」をできないか。こんなことができるとするならば、金沢市以外では、京都市か松江市しかあるまい。金沢市が先にやってしまおう。

 調べたところ、高校で、茶道部のある学校は少なく、大学を対象に切り替えて実施する。「全国学生大茶会として行われる。コロナ禍でも工夫して行う。

 



  ボツなったものも一つ。

 

  9月に行われる「金沢 JAZZ STREET」に合わせて、「ジャズ甲子園」をできないか。これは、同様な趣旨を持って先行しているものがいくつかあり、あきらめる。ただ、若い人材を育成していきたいとの思いから、その年代を対象にワークショップを開催、充実している。

宮崎市で餃子

  7月31日、講演終了後、仲間と「お疲れさん会」。二次会で、餃子屋に行かないのではないかと思い、「お疲れさん会」前に、餃子専門店に連れて行ってもらう。食べものは餃子のみ。美味しかった。満足してお疲れさん会に足を運ぶ。

 

 

 総務省発表の家庭における餃子年間消費金額なるものがある。今年の発表は、浜松市が一位、二位が宮崎市、三位が宇都宮市。ここ数年は、この3都市が一位を争っている。

 

 今週月曜日に、宇都宮市に仕事で行ったので、昼食に餃子をいただく。木曜日には宮崎市で餃子でビールを飲む。

宮崎市で能登復興支援を呼びかける

 7月31日、宮崎市内において「デンサン 自治体DX推進フェア2024」で基調講演。この類のテーマだと金沢市の事例にみる自治体DXの進め方の話をすることが多いのだが、今回は、私を含めた関係者の思いで、能登半島地震対応に特化した話をする。

 

 演題は「能登半島地震におけるソフトバンクのデジタル支援」、今回は、前市長ネット和0区による支援には触れていない。

 

 

 宮崎県庁をはじめ、宮崎県内のすべての自治体のDX担当者が出席されたという。もちろん、県内業界関係者も。最前列で熱心にお聴きいただいた方たちは、ある自治体の社会福祉協議会の職員の方だという。だからか!会場全体から前のめりにお聴きくださる空気感を感じる。楽しかった。

 

 質疑応答を含めて一時間。やはり、最後は、能登へお越しくださることを強くお願いする。そのことが、能登の力強い復興支援になる、と。途中、胸が詰まり、声がとどまってしまった瞬間も。そこは反省だな。

 

 講演後、会場内でラジオの生放送にも出演、夕方の地元テレビニュースにも出たという。だから、ここでも、主催やタイトル名も出す。これからも、このテーマの講演は積極的に受けていきたい。能登を発信していく

 

「海の日」の由来を話してくる

 7月21日、勝兵塾金沢支部で講演。アパグループの元谷外志雄会長が主宰する勉強会「勝兵塾」、私は市長時代から、声をかけていただき、何回か出席。

 

 この日は、一週間遅れではあったが、「海の日」の由来から始まり、祝日の意味の大切さを出席者とともに共有させていただく。

 

 

 祝日「海の日」、簡単に時系列に沿って整理していく。

 

 平成8(1996)年、祝日法の改正により、7月20日が「海の日」として祝日とされる。

 

 平成15(2003)年、天下の悪法である、いわゆる「ハッピィマンデイ法」により、7月の第三月曜日が「海の日」とされる。

 

 そもそも、なぜ、祝日「海の日」を設けるに際し、『7月20日』が選定されたのか。

 

 明治9(1876)年、明治天皇が明治丸で東北地方巡幸の際に青森から函館経由で横浜へ海路で戻られた。その明治天皇の横浜御帰着の日が7月20日であった。
 

 そのことをもって、昭和16(1941)年、当時の逓信大臣村田省蔵の提唱で、その7月20日が「海の記念日」と制定された。


 そして、その「海の記念日」をもって、平成8年から7月20日が「海の日」と決められた。

 

 「7月20日」の意味を持つ明治9年から、65年の時を経て、昭和16年に、その日が「海の記念日」とされることになった。

 

 さらに、「海の記念日」から祝日「海の日」になるのに、55年を要することになる。

 

 つまり、「7月20日」のことが起こり、祝日「海の日」になるのに、なんと、120年もの時間を要したことになる。

 

 その経緯、出来事、私の思いを話をする。実は、このことは、2003年7月21日の、私のブログ「海の日」にまとめてある。そのことをできるだけ簡潔に申し上げる。ご興味のある方はぜひにリンクから入って読んでほしい。なかなかいいことが書いてある。

 

 この話、好評だったようで、懇親会でも何人もの方から声を掛けられる。よかったよかった。

 

 日本人として祝日の意義は大切にしたいし、その意識をあいまいにさせようとする、ハッピィマンデイ法が天下の悪法と私が考える所以である。

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