富岡アルプスと上野三碑など | 降っても晴れても

降っても晴れても

山に登ったり走ったり、東へ西へ・・・

群馬の山です。

西上州の山に登るために下仁田ICへ向かう時、右手に見える山々が神成九連峰である。通称は富岡アルプス(ここは富岡市)。今までに数限りなく見ているはずだが、なんとなくその場だけで終わってしまう。

今回はちょっと気が向いたので、そこへ登ってみます。おまけもいろいろあります。

 

P8南壁

東西に細長~いコースなので、北を右にしてあります。

電子地形図25000(国土地理院)を加工して作成した。(令和元年手続改正により申請適用外)

注:この地形図のスケールは編集されています。距離を参照される場合は元のスケールで確認してください。

 

【2024年3月15日(金)】 神成山九連峰・富岡アルプス~上野三碑~玉村宿

宮崎公園駐車場8:10~龍王山8:55-00~吾妻山9:55~新堀神社10:10~駐車場10:55

 

神成山九連峰・富岡アルプス

これが案内図です。縦走しても片道1時間40分! 帰りは麓の里道を歩いて戻る。とても良く整備されたハイキングコースです。

宮崎公園の駐車場は住宅地の中で、やや分かりづらい。10台ほど、土日は満車必至です。上信電鉄神農原駅からでも十分に周回でき、南蛇井駅に抜けるワンウェイも可。

では出発します。

 

西中学校の右手から登山道に入る。手作りの案内標識がたくさんあるので、迷うことはなさそう。「日本一きれい」というのはゴミが落ちてないことらしい。ところが一つ落ちていたので家内が拾おうとしたら、ティッシュだったのでさすがにやめたそうだ。

 

まもなく道脇に馬頭観音石仏あり。

その先の斜面には不動明王と二童子の丸彫像があった。急斜面で、転げ落ちそうだ。

 

等高線を見てもたいした登りはなくて、散策路のような感じ。少し起伏のある散歩をしてる気分です。

 

標高300m圏内の尾根なのに、視界が開けてご当地アルプス気分。足かけ何十年も西上州の岩山・ヤブ・沢に通ってきて、初めてこんな端っこのアルプスを歩くのです。

 

これは途中のどのへんだったか、御嶽座王大権現の石碑があった。御嶽信仰とも関わりが深いのだろうか。

 

登山口から30分くらいで、尾根筋から外れた一峰に着いた。この先もだいたいこんな雰囲気の、木立の中の小ピークです。

西の展望。ひと目で分かるのは鹿岳と四ッ又山だ。山肌には西上州らしからぬ雪が残っている。麓の民家は話し声が聞こえそうなほど近い。

 

今立ってる所が本丸跡で、昔は一峰なんて呼ばずに物見台と言った。郭跡地は山野草が保護されて、つわものどもが夢の跡となっている。

 

そしてまもなく龍王山山頂。今日は平日だから、すれ違う人もごくわずか。春が来れば、そうもいかないだろう。

 

縦走路を離れて北へ枝尾根をたどると、石碑の林立するピークに到達する。三笠山刀利天とか、御嶽三座神。明らかに御嶽信仰の山なのでした。

絹笠大神を見つけた。蚕神です。

 

また縦走路へ戻ります。言う事無しの快適な尾根をゆく。

 

四峰に着くと、ミニ自然博物館という箱があった。ちょっとした飾り物が並べてある。

五峰には石祠と、文政10年の灯籠があった。頻繁に休憩するほどは歩いてないので、どんどん進みます。今日はこんな縦走にはうってつけの天気。

 

次々と峰を越えて、八峰に到着。この岩コブの向こうは岩壁となって切れ落ちてます。高距50mほど。それが冒頭に掲げたP8南壁(仮称)です。

こんな休憩スポットもありました。

 

八峰からひと登りで吾妻山に着いた。標高328m。

とまあ、こんな感じの富岡アルプスです。

西上州奥地の山々が一望のもと。右手の岩峰が気にかかる。

 

下山にかかります。

尾根の途中に何かある。鳥居跡だそうで。

 

下り着いた所が新堀神社でした。ここが西登山口になっている。

 

あとはのんびりと山際の道を歩いて戻ります。道端には庚申塔や道祖神が随所で見られた。このへんが姫街道の道筋だったのかもしれない。

神成山周辺の岩壁はピンポイントでしか見られないので、よく左上に目を向けていかねばなりません。

宇芸神社の石灯籠。

変わり文字の庚申塔。駐車場に戻ったら満車の一歩手前となっていて驚いた。

 

 

上野三碑

次は上信電鉄に沿って東へ走っていく(車で)。高崎市の一番南のエリアに入ると上野(こうずけ)三碑が点在しています。飛鳥・奈良時代の石碑で、地方行政のことや豪族の婚姻の事柄が刻まれているという。ユネスコ「世界の記憶」に登録されている。

7年ぶりに巡ってみることにした。まずここが多胡碑で、この収蔵庫に展示されている。

こういう内容であることをタゴピーが解説しています。

 

収蔵庫内の実物はガラスで見えづらいので、そばに建つこちらでレプリカを鑑賞します。ちなみにここには三碑その他のレプリカが揃っている。

 

これが多胡碑。

すごく感銘を受けるわけではないけれど、こんな歴史があったということで。

 

次は移動して、山上碑へ。これは実物の写真です。豪族が家系を証明するというような内容。

収蔵庫の隣りは山上古墳で、横穴式石室もある。実はここまで登る階段が長くて、とても大変だった。富岡アルプスで足が疲れたせいか?

 

3つ目は金井沢碑。豪族の一族が仏教の教えで結びついて繁栄を願う、という内容。なかなか現代感覚ではピンとこないものだが、それが上野三碑の性格です。これも実物写真。

 

道中で偶然出会った双体道祖神。

 

 

玉村宿

上野三碑を巡り終えて午後になって、本日の第三部は日光例幣使街道玉村宿です。

江戸時代に朝廷から東照宮へ例幣使が派遣された。中山道経由で倉賀野宿まで来たら、この街道に入って日光をめざした。玉村町は高崎・前橋・伊勢崎に囲まれた小さな町で、日光例幣使街道の宿場としては数少ない面影を残している。

玉村八幡宮に参拝して、町歩きに出発。

 

和泉屋(井田酒造)。玉村宿は慶応4年の大火であらかた焼けてしまったが、この家は大火を免れた。酒造の煙突が今も敷地に残っている。

 

原本屋商店(右)と大澤屋紙店。

大澤屋紙店はけっこうな歴史を感じさせる。

 

その隣りに案内板が立っている。もうだいぶ前にこの街道を走り旅したときは、一泊二日を2回延べ四日かかった。街道的な風景が薄いゆえ、それなりに大変だった。

こちらが2011年の記録。

 

 

まち歩きマップを片手に歩いても、古いものは数少ない。慶応の大火ではないが、平成・令和の取り壊しで消えていったものもある。更地とかアパートに変貌している。

 

まちなか交流館の手前に赤レンガの建物を見つけた。何も表示がないし、入口もわからない。恐る恐る覗き込んでみた。マップをよく見たら、桐生信用金庫の赤レンガ倉庫だった。

敷地の奥にあった扉。大正14年の建築。隣地ぎりぎりにアパートが建ってしまったので、再活用も難しそうだ。扉がじっと眠っているようだった。

 

これにて群馬の小さな旅の一日目は終わりです。明日は雪のある山へ。

つづく