絹の道③蔵の本庄宿の裏道より | 降っても晴れても

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山に登ったり走ったり、東へ西へ・・・

上武絹の道の二日目です。

今日の予定は本庄宿の街道歩きから、絹産業遺産群を拾いながら富岡製糸場まで。途中でいろんなことがあるでしょう。

 

今日も蔵の壁が輝いている

 

【2024年2月3日】  

本庄宿7:20-9:35==渋沢栄一記念館=田島弥兵衛住宅=競進社=高山社跡13:00まで~~

 

本庄宿に入ります。『本庄 KU蔵RA 地図』というA3版の地図がある。これによると旧中山道本庄駅入口交差点から、千代田3丁目交差点までの間に蔵の世界が広がっている。6年前に走った時に、本庄レンガ倉庫でもらった地図である。それをまた引っ張り出してきた。

駅近くの駐車場から中山道に合流していく。地図の蔵マークをチェックしながら。

 

裏道に多数の蔵が存在する町を周回で巡るにはコツがあって、中山道を中心にして

往路は右側を凸凸凸とめぐり、

復路は反対を凹凹凹とめぐる。 意味がわかるでしょうか?

早朝の町歩きは入場時間制限もないし、朝日の演出に意外性があって楽しい。

 

蔵の多くは土蔵なので、外壁が剥がれたりして老朽化している。直したものがまた古びていたり、完全にリフォームされていたり。どれも興味深い景観である。

地図には築年代も書いてあって(よくぞ調べた!)参考になります。

 

本庄駅入口交差点から数棟を訪ね歩いて、北側の愛宕神社へ。古墳の上に建っている。

天然記念物の大ケヤキの根元に庚申塔がある。

 

凸凸と進んでいけば、本庄宿の標柱あり。

 

また裏へ。蔵ではないですが、飯塚医院の昭和レトロ。6年前にも確かに見ました。

その界隈には井戸がある。明治初期から昭和初期まで、11家族が使っていたという。前回自分で地図に書き込んでおいたので、容易に見つかった。

 

旧本庄警察署の前に田村本陣の門、中山道から移設されていた。持ち主がもうじゃまで、壊したかったのでしょうか。

本庄警察署は、明治16年の建築。

 

裏から表へ出る途中で。古い屋根の形が、ちらりと見える。

 

安政3年建築の美容院。内装はきれいにしてるのでしょう。

山車が入ってると思われます。

 

武州本庄七福神というのもあって、安養院は毘沙門天がいた。今日は特には廻りません。

 

中山道を右側廻りで歩いていく。写真を撮るには建物の反対側からがいい感じだ。

 

中澤医院は大正15年の建築で、今は閉院でしょうか。

 

市立図書館の西側一帯は大きな見どころになっている。ここ本庄・宮本は旅籠穀屋があった場所で、明治末期には酒問屋の小森商店が経営するようになった。そして平成22年に閉店して、新しいスポットに再生された。

 

一の蔵は設計事務所。

二の蔵はカフェ。

三の蔵は行政書士。

 

ここは菓子屋さんにしたほうが入りやすいわ。

 

そうやって西の外れの金鑚(かなさな)神社までやってきました。灯籠台座の獅子が面白い。

 

本庄宿の総鎮守で歴史がある。

拝殿には金色の狛犬がいた。

 

御神木の影が太い。

 

向かいのかぶとや店舗前に常夜灯跡があった。ここから復路は凹凹に巡っていきます。

 

大正期のレンガ壁に沿っていく。

 

一歩裏道に踏み込めば、廃色が濃く漂っている。この界隈はほぼ明治期の蔵で占められている。

後はもう壊れていく運命か。

 

じっくり見ながら歩いてきたらもう9時で、旧本庄商業銀行煉瓦倉庫(本庄レンガ倉庫)の開館時間となった。

ここは明治29年の建築で、本庄商業銀行が融資の担保として大量の繭を保管した。繭にも旬があるだろうから、ある程度回転(入替え)させたのだろうか。融資先は絹産業関連が多かったということだろうか?(担保物がないと困るよね)

 

中を見学していきましょう。

このへんの農家では小正月に、削り花(ニワトコの木)を神棚に供えた。そして養蚕祈願をしたそうだ。花数を16段にすると縁起が良い。なぜなら蚕の足が16本あったから。

 

レンガの組積構造は、イギリス積みです。レンガの長手と小口を一段ごとに表に見せている。フランス積みというバリエーションもある。

東京駅はどうだったかというと、なんと小口だけを表に見せる小口積みだった。長手面が全部壁内に入るので、構造的に強いのかもしれない。

 

あとはほとんど余韻です。見るものは見尽くして。

駅へと続く町並みのカーブ。表看板の奥には、古い家の形が垣間見えていた。

本庄宿はこれにて終了。凹凸で約5km、2時間ちょっとの蔵町歩きでした。

 

続いて昨日のやり残しを廻ります。一旦深谷市へ戻って、渋沢栄一記念館へ。新しい万札の肖像です。深谷市の英雄、ちょっと興味が湧いてきました。ここは行って見て、損はないです。

 

次に田島弥平旧宅へ行きます。ここは伊勢崎市の飛び地で、利根川よりも南の本庄・深谷にくっついている。駐車場から現地までの間に桑畑が広がっていた。

田島弥平氏は幕末から明治にかけて、養蚕技法の「清涼育」を開発した。蚕の飼育には空気の循環が大切と考え、二階建て+櫓の気抜き窓というスタイルを編み出す。

これは桑場だった棟。

こちらが主屋で、現在も住んでます。住んでるけれど、国指定史跡。

 

次は再び前進して、本庄児玉の競進社へ。こちらも蚕飼育法の改良を行って、「一派温暖育」という。換気と温湿度を人為的に管理するために、床下に炉を設けた。そして技術の伝習所を創設して普及に努めたという。

これが「かいこだな」。

繭から糸を紡いでます。

二階と天井の様子。たいへん勉強になります。

 

周辺巡りの最後は藤岡市に入って、高山社跡です。ここは解体して復元工事中だった。ここでは高山長五郎が「清温育」を確立した。全国各地から生徒を集めて教育にも励んだという。

以上の三ヶ所は蚕・繭が富岡製糸場にたどり着く前の、養蚕工程の発展を担ってきたわけです。今まで何も知りませんでした、、、

 

これにて今日も午前中終了。いろんな場所で絹産業が顔をのぞかせてました。

午後へとつづく