2023年の大晦日は北国街道小諸宿を歩き巡った。くるみそばで腹を満たして懐古園を散歩して、次は海野(うんの)宿です。海野宿は理屈抜きで古い町並みがすばらしい。
又の名を善光寺街道とも言うが、信州善光寺みたいな究極の人混みもここでは無縁だ。
では、午後の海野宿へ。
格子戸と白壁の卯建が眩しい
北国街道・善光寺街道は軽井沢の追分で中山道と分かれて、善光寺をめざしていく。最初の宿場が小諸宿、そして田中宿・海野宿・上田宿と続いていく。
この地は奈良時代から海野郷として開けて、海野氏が支配していた。そして義仲と共に平家討伐のために挙兵して京都へ上ったのである。
宿場としては寛永2年(1625)の開設。東西の枡形の間は六町650mで、一直線の宿場町が軒を連ねている。日本の道百選&重伝建保存地区でもある。現在は東御市になる。
それで、ここを訪れるのも2度目だが随分ご無沙汰してしまった。家内は、よく覚えてないとのこと。
朝の小諸宿の重たい曇り空も消えて、青空が広がってきた。
まず東の枡形に白鳥神社が鎮座する。海野氏・真田氏の氏神として崇敬されている。樹齢700年のケヤキが圧倒的に聳え立っている。社叢全体が天然記念物とのこと。
根張りも物凄いです。深山を探し回ってもこれだけのものはない。
社殿の横に、恵比寿大黒天が祀られていた。
街道を見渡します。ここは若狭鯖街道の熊川宿に似ている。木曽路の宿場とも雰囲気は違う。表通りに電柱・電線がないのも特徴です。
入口の右手。
媒(なかだち)地蔵尊の入口が右に見えますね。歩いてる人は全然いない。
東の枡形を振り返る。
昔ながらの家並み風景が続いていく。海野宿は伝馬(人馬継立)を主たる任務としていたので、商売の看板などはない。なので賑やかさはなくて、今は静けささえ漂っている。
平入りで、妻壁・卯建とのコントラストが美しい。
海野宿資料館です。海野宿の建築的特徴がいくつか見られる。
二階部分は出桁造りで、奥に見える出窓は海野格子と呼ばれる。長短交互に組まれた格子。なぜそういうものが生まれたのでしょうか。
この建物の卯建は半端でなく立派である。善光寺参りの旅人も、これを見上げながら歩いただろう。
北国街道の文字の上に、何か怪しい文字が入っている。
真ん中を流れる一本の水路も特徴です。
馬の塩舐め石があった。塩の道だったら、背負っている塩を牛に舐めさせることもできただろうに。
路地は細い。
二階の上にちょこんと乗っかっているのは小屋根で、気抜きという。明治時代には養蚕・製糸業が盛んになった。蚕の飼育には煙出しの気抜きが必要だった。
明治元年には18軒で養蚕をしていて、一万枚以上の種紙を売り出していたそうだ。
気抜きの見える風景。
蔦屋は英語教室になっていた。
蔵の交錯した面白い景観です。
珍しく重厚な蔵の妻側を見せた景観と、妻。なまこ壁付き。
西の枡形の手前で家並みも尽きてきたので、往路を戻ります。海野宿めぐりはここまで。
宿へ入るにはもう少し時間があるので、東部湯の丸ICの近辺をうろつくことにした。
上田宿とか、その他細かいところはいつかまた機会があるでしょう。
西宮公民館にある西町の市神。町の繁栄を願ったもので、高遠石工が彫った。ありきたりの石祠と違って、重厚かつ精巧だ。垂木や木鼻の獅子も彫り出されている。
道の向かいには道祖神が祀られていた。年末年始でなければ、飾り物がなくて気づかなかっただろう。
次のスポットへ向かう途中、路傍で見つけた双体道祖神の傑作。安曇野や群馬の趣がある。「道祖神の嫁入り」とか「道祖神盗み」の風習を思わせる。
こちらは薄い浮き彫りにしたもの。
次は長命寺大日堂・百体観音堂へ。不動明王がぽつりと。
百体観音堂のきらびやかな世界です。
境内には西国三十三観音霊場もあった。
これらもみな高遠石工の作品であろう。
路傍の馬頭観音とは、まず風格や気品が違っている。
西国の巡礼路を思い起こさせてくれます。
境内の斜面には十三仏石碑もあった。
少し下っていったところには地蔵だろうか。ばらばらになってしまった体を組み合わせて置かれている。目と口のようなものが印象的だ。
今年もこれで終わりですわ。平穏な一年間なんて、あり得ないですね。
善光寺街道とはひとまずさよならして、信州中野までやって来ました。
本来ならば冬山三昧のはずだった。飯縄山・斑尾山・高社山・関田山脈などなど。
でも今回は風雪に会いに行くのはやめて、穏やかに新年を迎えることにします。よく登り、よく歩いた2023年でした。
2024年も皆様にとって良い年でありますように。
2024年へつづく