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32歳 妻子癌ステージ4持ちの闘病日記とレース参戦記

2020.6.17 夫は永眠しました。
妻です。自分自身が前に進む為にも、敢えてこのブログで吐き出させて貰います。思いはとても、複雑です。


時系列が少しバラバラになるけれど、この記事では上の子が産まれて~1歳前後の時の話しをしようと思います。

「根っ子にある部分」という記事でも軽く触れましたが、私は結婚をして地元を離れ、知らない土地へと行きました。
実家も離れ、友達とも離れ、知り合いも誰も居ない中、私が頼れるのは夫だけでした。
この知らない土地で、友達も誰も居ない中での子育ては、想像以上に大変でした。
それが、初めての子育てであれば尚更。


私は里帰り出産を希望していたので、産前産後を合わせたら、4~5ヶ月位実家に居ました。
本当は1ヶ月検診が終わったら自宅に戻る予定で居たのですが、その事を助産師さんに話したら、車での移動距離が長いと赤ちゃんに負担が掛かるから、生後2ヶ月経つまでは自宅に戻るのを待った方が良いと言われ、帰る予定が少し長引きました。

産まれてからの上の子は、吸う力が弱かったのか、それとも直ぐにお腹いっぱいになってしまうのか、ミルクを飲む量が少なかった。
私は混合でやっていて、先ずは母乳をあげてからミルクをあげていた。
お腹が空いて泣くけれど、咥えると直ぐに寝てしまう。
寝てしまったら口元を刺激して起こしてあげてという指導を受けていたので、その通りにやって行ってた。
出産し、退院して実家に戻り、毎日これで良いのか、私のやり方であっているのか、ミルクの量は足りているのか、不安で心配だった。
そして1ヶ月検診の時、私は更に不安になった。

「体重が余り増えていない」と言われたから。

検査をしてみた方が良いと言われ、こども病院を紹介され、両親に一緒に付いて来て貰った。
検査をした結果は、特に異常は無く、甲状腺を刺激するホルモンの数値が少し高いのが気になるけど、でもそこまで気にする必要も無いとの事だった。
里帰りで帰って来てる事も話し、自宅に戻ったらそちらの病院で見て貰えるようにと、小児医療センターへ紹介状を書いて貰った。

自宅に戻り、紹介状を持って医療センターに掛かった。
そこでも検査をして貰ったけど、特に異常は無くて、経過観察をして行く事になった。
ここから1歳までは、月一ペースでの通院でした。

何もかもが初めてで、右も左も、前も後ろも分からない。
何が正解で何が不正解なのかも分からず、毎日不安と心配で心がいっぱいだった。
月齢が上がるごとに、ミルクの量も増えてはいる。
身長体重も、緩やかではあるけれど伸びてはいる。
それでも、次病院に行った時「増えてなかったらどうしよう」「何か異常が見付かったらどうしよう」「診察では先生に何て言われるだろう」、そう思うと、病院に行く日はとても怖くて仕方なかった。

当時住んでいた家から病院までは、歩いても行ける距離にあった。
私は基本、病院へは一人で行っていた。
夫に「仕事を休んで付いて来て欲しい」とは、中々言えなかったから。
でも、病院に行くと周りは殆どと言って良いほど付き添いあり。
祖父母が付き添っていたり、夫婦一緒に来ていたり。
そんな中私は、誰の付き添いも無くいつも一人。
一人で行き、一人で先生の話しを聞き、例え何を言われたとしても、その言葉を受け止めて子供と一緒に家に帰らなければならない。

これが、どんなに怖かったことか。


私は、不安や心配な気持ちを、夫に話して来なかった訳ではない。
不安で心配で堪らない事、病院に行くのが怖い事、先生の話を聞くのが怖い事、全部話してた。
でもいつも夫から聞く言葉は「大丈夫でしょ」や「大丈夫だと思うけどね」でした。
夫は夫なりに、私を励まそうとしてくれてたのかもしれない。
でも私には、それはとても冷たく映った。







同居してから約一年、夫の癌が分かってから4ヶ月が経った去年の6月の事。
私は今までで一番、思い切った行動に出ました。
こうでもしないと、夫にも義母にも、私の大変さと私の気持ちは、何も分からないと思ったから。

それは、私の父の一言から始まりました。


親子の間に挟まれながら2人に振り回されてばかりの日々に、プラスして2人の子供の子育て。
そして、夫は癌になった。
見付かった時にはもう既に転移していて、ステージ4だった。
夫も夫で、きっと、自分の事だけで手一杯だったのかもしれない。
けれど私にも、精神的に全く余裕は無く、自分の家なのに落ち着ける場所も無い。
そのしんどさについて、夫にまた話しを持ち掛けた。
言わなきゃ何も伝わらないと思ったから。

・同居というのは少なからず気を使うということ
・そしてまた、ストレスにもなるということ
・親子の間に私を挟まないで欲しいこと

簡単にまとめると、この3つを夫に話しました。
そこで夫から返って来たのは「自分だけストレスがあると思って」でした。

夫はバイクが好きでした。
バイクが大好きで、一番のストレス発散になっていたと思います。
そのバイクを辞めろとも、バイクに行くなとも、今まで一度だって言った事はなかったです。
夫が癌になってからも、一度だって言った事はない。
好きな事を辞めろと言う権利は私には無いし、それを奪う権利も無いと思ってたから。
好きな事をするのが、一番のストレス発散になるだろうと思ってたから。

もし私が「自分だけストレスを抱えている」と思っていたら、バイク辞めろ行くなと言っていたと思います。
そうじゃないからこそ何も言わなかったのに、夫にはその辺の事は何も解って貰えてなかったみたい。

もうどうしようもなくなって、夜コッソリと家を抜け出し、泣きながら母に電話をした。
その時はもう夜も遅かったし、電話で話すだけ話して気持ちを落ち着かせて電話を切ったんだけど…
次の日だったかな…?(定かではない)

父が「子供たちを置いて、一人で帰って来なさい」と言った。
そうでもしないと、夫も義母も、私の大変さは何も分からないからと。

凄く悩みました。
今まで実家に帰る時は子供たちも連れて行ってたし、子供たち置いて一人で帰るなんて、どう考えても無理だと。
でも父は、良いから帰って来なさいと。

その日は確か日曜日で、義母は仕事で居なくて、夫も子供たちを連れて出掛けていたので、家には誰も居なかった。
父は、敢えて何も伝えずに出て来なさいと言った。

私は考えて考えて、その日一日ずっと悩んで考えた結果、子供たちには悪いけれど、一人実家に帰る事を決めた。
そして、最悪離婚する事も考えた。

 

一時期、事情があり、夫の母親と同居をしていました。
私たちが夫の母を呼び寄せる形で、約一年同居していました。
夫の癌が分かったのは、同居をしている時でした。

前の記事でも話した通り、夫と母親の関係は良いものではない。
全てを知らなくても仲が悪い事は分かっていたので、一緒に暮らす以上なるべくなら波風を立てたくない、平穏で居たいという思いから、かなりの気を使いました。
夫は必ずと言っていいほど母である義母を悪者にするので、私はなるべく義母を庇う方向で居ました。
親子だから尚更言いたい事は言うし、言い方もまたキツくなる。
流石に義母を庇いきれない時もあったけども(義母もまた難ありなので)。

特に義母が面倒臭かったのは、親子の間に必ず私を挟んで来る事だった。
なので必ず義母は私にも連絡を寄越し、私からも伝えてくれと言った。

何に対してもなんだけど、親子間でしっかりやってくれれば私は間に入らなくても済むのに、それが出来ないから私はいつも間に挟まれて2人に振り回されてた。
良く、嫁姑問題に夫が挟まれるという話は聞くけれど、親子問題に嫁が挟まれるなんて話は聞いた事が無いって思った。


同居して分かったのは、義母は口だけの人間という事だった。
そしてまた、口だけは上手い。
でも中身は信用も無い、嘘だらけ。

同居して行く中で、私が義母に段々「ああ…」って思い始めたのは、上の子に義母が「今日、ばあばと一緒にお風呂に入ろうか!」と言った時があって、上の子が暫く悩んだ後「うん、おばあちゃんと入る!」と言ったので、私もそこでちょっと期待を抱いた。(あ、お風呂入れてくれるんだ…!って。)
そして、お風呂が沸いて上の子が「おばあちゃん、お風呂入ろう!」と言ったら、「いいから、ママと入りなさい!」と言った。
その時はそこまで気にしなかったけど、こういう事がその後何回もあり「ああ、この人は口だけなんだな」と思った。

そういう口だけの人っていうのが分かり、夫が癌になって口では凄い心配してる感じで言うけれど、口で言う割には行動に現れてないし、終いには癌が分かってからの夫の生活や行動を見て、私に「もう諦めたのかしらね…?」と言う。
そこで私も言い返す事が出来れば良かったんだけどハッキリとは言い返せなくて、「そんな事はないと思いますよ」とだけ返して。

でも、私が思うのは、そもそも諦めていたら辛い抗がん剤治療は受けないと思うし、諦めていないからこそ出来る治療を受ける事に決めたと思うの。
一緒に住んでいて、ましてや自分の息子で、この人は一体息子の何を見ているんだろう?と、同じ〝母親〟として、全く理解出来なかった。