◎パターナリズム

「民衆は愚かな存在でどうしようもない。

どうしようもない存在だから優れた存在(親である)である我々が指導しなければならない。」


こういった思想を「パターナリズム」(親としての国家)という。

分かり易い例は、少し前、小宮山洋子議員というバカ女がタバコ税増税に言及したとき「国民の健康を考えて」云々とほざいていたが、これなどは代表的なパターナリズムである。

↓参照
http://matome.naver.jp/odai/2131521050700676201

つまり国民、特に喫煙家はアホで自分で健康管理すら出来ないから「親である私」たちが制限してあげると云うこと。

まったく大きなお世話だ。

また最近では森雅子少子化相が

「日本の男性の育児への参加時間は1日39分と、先進国で最低レベルだ」と指摘したうえで「家事育児をしない男性をゼロにするための政策に予算をつける」

と発言していたが、我が国のバカな男どもは子育ても出来ないから「親である私」たちが指導してあげるということだ。

http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS0100N_R00C13A9PE8000/


まったく「憲法軽視発言」なんだが?

こんなバカな女を「大臣」にするのが、これまたバカな総理大臣であるパターナリスト安倍である。

「憲法」がなんのためにあるのかまったく知らないのに改正しようとしてるマヌケである。

そもそも我が国の政党でパターナリズムにならない政党はない。

さて、パターナリズムと云えば自称保守や右翼らがよく絶賛する「教育勅語」

明治以降の体制は「アジアは一つ!」とか抜かして、日鮮同祖論やそれに基づく同化政策、八紘一宇、大東亜共栄圏、五族協和等々、また戦後は日中友好、日韓友好等々、さらに最近では東アジア共同体など

「日本国政府」=明治朝廷

は多文化共生政策を推し進め、それは現代まで続いている。

そして我々の血税は湯水のごとく外国人のために垂れ流されている。

↓参照
・外国人優遇の体制
http://ameblo.jp/yamabushitaiken/entry-11148426239.html

戦前、「国の為に死ねば神になれる」と云う我が国の歴史や思想どこを探しても見つからない官製のカルト宗教を作り、「一君万民」つまり「天皇のもとにすべての人は皆平等」とかいって外国人でも安易に「日本人」になれるようにした。

何のカルト宗教だ?

あぁ?

富国強兵政策のもと思想統制の為に新しい歴史観である新「皇国史観」を創り、政府主導のもとに新興宗教を創り国教とした。

それが「国家神道」である。

そのため「学校制度」をつくり、この「一君万民」思想を国民に刷り込んだ。

それが「教育勅語」。

つまり教育勅語と云う和製中華思想バリバリの教義を「信じる」と言えばすぐに日本人になれるようにしたのである。


◎漫画「はだしのゲン」

そもそも自称保守だの右翼だのが有難がってる教育勅語なんぞ明治以前には無い。

もちろん各家庭で教育勅語を子供に教えるだのと言ったことは反対しない。

それはその家庭の自由だ。

しかし、これを国家に対して要求し、また国家が国民にそれを強要する愚に対して反対してるのである。

政治思想的な「自由主義」とは「国家からの自由」というのがポイントである。

つまり国家から制限、強制されないことを「自由」と定義する。

従って「教育勅語」を義務化したら当然パターナリズムである。

ある特定のものを「強制」され自由に教育することを「制限」されるからである。

そこに「教育勅語」が素晴らしいとか、愚劣であるとかいった中身はまったく関係ない。

私は江戸型リバタリアンなのでこのパターナリズムって傲慢な考え方が大っ嫌いである。


最近、漫画「はだしのゲン」が話題になったが、「はだしのゲン」といったイデオロギー色の強いものは学校側が自主規制すべきな話。

ましてや学校や日教組が「はだしのゲン」を教材として取り入れるなんて以ての外である。

善悪の是非を判断する知識が少ない子供を洗脳することになる。

同じように小学校で「靖国神社参拝」、「遊就館見学」する話があったがこんなのもダメである。

ましてや小学校で「教育勅語」をやらせるなんて以ての外だ。

善悪の是非を判断する知識が少ない子供を洗脳することになる。

しかし、それぞれの親たちがどのような教育をするかは「自由」である。

「はだしのゲン」を毎日読ませ、日本は悪い国って教育をしようが、「教育勅語」を毎日読ませ、日本は良い国って教育しようが、そこに国家が介入すべきではない。

そもそも私が学校制度反対派なのはこういったことにつながっている。

↓参照
・隷従からの解放
http://ameblo.jp/yamabushitaiken/entry-10859373676.html

そこらへんは国民の自由な意思、自発性、自制的秩序に任せるべきである。

「寺子屋」であれば先生によってイデオロギーがまちまちである。

寺子屋とは今で云えば塾だが、その先生のイデオロギーが気に入らなければ塾を変えれば良いだけ。

つまりそれぞれの親たちの考えに近い塾を選べるということ。

それが「学制」となるとそうはいかない。

学校内でどんな教育されてるか分かったもんじゃない。

しかも寺子屋は国家(幕府)に強制(義務化)されて出来たもんじゃなく庶民の自由な意思、自発性、自制的秩序によって出来たものである。

そこが素晴らしいのである。

つまり一般庶民はパターナリズム的政策によるよりほっといたほうが良いってことだ。

↓ちなみに「はだしのゲン」は左翼らが大っ嫌いで、自称保守や右翼らが大好きなアホー太郎さんイチオシらしいが^^
http://www.47news.jp/CN/200704/CN2007042901000192.html


◎不自然な思いあがり

さて、そんな愚かな傾向に対して老子は紀元前に警鐘を鳴らしている。


「大道廃れて仁義あり、

知恵出でて大偽有り。

六親和せずして孝慈有り、

国家昏乱して忠臣有り。」by老子


である。

以下、陽碍山さんから素晴らしい意訳を抜粋する。

<抜粋開始>

人間は「大道が廃れる」と、自分自身が自分の考えで作り出した道徳的価値判断により、他人を裁き世の中を裁こうとする。

仁義の尊ばれる時、それは世の乱れた時である。
 
人間に仁や義を強要したり、あるいは道徳的に教育しようとしたり、また道徳的に他人をさばこうとしたりする思想や行動は、すべて人間本来の自然をみずからの手で破壊することにすぎない。

あるいはさらに敵対者を作り、争乱を起すこととなる。

人間にはなにほどかの道徳が必要であろう。

しかし道徳に絶対的な権威を与えることは、従って他人に道徳を強要することは、やはり人間が自分自身を自分の手で破壊する行為であろう。

この関係を老子は「大道廃れて仁義あり」と逆説的な言い方をして表現した。

たしかに人間と人間の歴史が時たま演ずる不自然な思いあがりを指摘した点で、この言葉は真理である。

<抜粋終了>


国家が個人の道徳・思想・信条・信仰まで統制したのが「大日本帝国」である。

そう、こんなものは「不自然な思いあがり」にすぎない。

その結果どうなったか?

当時アジア最強の軍隊を壊滅させ、海外の国富を悉く失い、我が国土を焼け野原にされ、核弾頭二発落とされるまで戦争を止めず、三百万人の国民を死なせた。

にもかかわらず「勝ったのは日本!^^」とか抜かしてる輩がいるが、私からしたら愛国心の意味を勘違いしてると言わざるを得ない。

残った日本兵は実に立派である。

プロパガンダにすぎなかった「アジア解放」を「崇高な理念」と信じて戦ったのだから。

が、その残った日本兵を「脱走兵」扱いして処罰し、軍人恩給や遺族年金を払わなかった日本国政府が「アジア解放の戦いだった」などという事は許されん。

「アジア解放」が功績であるなら、その功績は命をかけた「現地に残って戦った日本兵」たちのものであり、日本国政府がその功績を盗んではならない。

以上、見てきたように「教育勅語の本質」とはパターナリズム以外の何物でもなく、パターナリズムとは右翼左翼の生みの親である「合理的設計主義」(理性万能主義)であり、「保守主義」と真っ向から対立するものなのである。

↓の「◎西洋思想的見解」を参照
・明治朝廷とフランケンシュタイン
http://ameblo.jp/yamabushitaiken/entry-11017828123.html


◎先人の言葉

昭和20年4月7日、戦艦大和の艦上でこのような言葉が発せられたそうだ。

「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。俺達はその先駆けとなるのだ」by臼淵磐大尉


臼淵大尉が自らの生命を掛けて先駆けになってくれたのに、それから60年数年も経ってもまだ目覚めないのか?

また、最初の特攻隊である第一神風特別攻撃隊敷島隊隊長の関行男大尉は
 
「報道班員、日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら体当たりせずとも敵空母の飛行甲板に50番を命中させる自信がある。ぼくは天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKAのために行くんだ。命令とあらばやむをえまい。日本が敗けたら、KAがアメ公に強姦されるかもしれない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだすばらしいだろう!」

と仰ったそうだ。

自称保守や自称愛国者や右翼らは、こういった事実を、こういった優秀な先人たちから何一つ学ぼうとしない。

彼らが想い守ろうとした未来の人たちである我々は、いったい進歩してると言えるだろうか?