~原始仏典 スッタニパータ 第3章 第12節 ”二種の観察” より~


幸せな師(ブッダ) は 次のように説かれた。


756 見よ ”神々” 並びに ”世人” は・・・ 

    ”非我なるもの” を ”我” と 思いなし・・・ 

    ”名称と形態(人間としての個体)” に ”執着” している。

    (かれらは)これこそが ”真理” であると 考えている。

    (”執着” することが ”正しい” と 考えること)



757 (愚者が) 或るものを ああだろう こうだろうと 考えても・・・

    そのものは (やがて) それとは ”異なったもの” となる。

    その愚者の その考えは ”虚妄(きょもう・偽り)” なのである。

    ”過ぎ去るもの” は ”虚妄” なのであるから。



758 ”安らぎ(ニルヴァーナのこと) は ”虚妄ならざるもの” である。

    諸々の聖者は それを ”真理” であると 知る。

    彼らは ”真理” を 悟るがゆえに・・・

    ”快(快楽)” を むさぼることなく ”平安” に 帰しているのである。


 


こんにちは わんわん


前回の記事では 原始仏典スッタニパータの 内容において・・・


”想い(名称と形態・人間の執着の対象)” を 知り尽くして・・・

”(人生の)激流” を 渡れ・・・


という 一節があると ご紹介しました。メモ




そして ここに登場する ”想い” という言葉が・・・

なぜ ”名称と形態” を 意味するのか?

それについて よくわからないと 思われた方々も 多いようです。

これについては 私が ”巻末の注釈” によって 補足しつつ ご紹介しましたが・・・

今回の記事では その内容について 改めて 考えて参ります。

そして その内容は ブッダの教えを 正確に 理解する上でも・・・

大変に 重要であるとも 考えられるからです。星




まず ”想い(おもい)” という言葉は・・・

仏教における ”五蘊(ごうん)” の ひとつの言葉を 意味しています。

そして ”五蘊(ごうん)” というのは・・・

人間を構成する ”五つの要素” を 意味しています。

それが ブッダの教えにも 登場した ”色・受・想・行・識” の ことでした。クローバー



色とは・・・”人間の肉体” のことであり ”目に見えるもの” を 示しています。 

受とは・・・外部からの 刺激を受けて ”感覚する” 心の働きのことです。

想とは・・・感覚に基づいて ”考える” という 心の働きのことです。星

行とは・・・人間の ”行為” を 生み出すような 心の働きのことです。

識とは・・・以上のことを統一して ”識別をする” 心の働きのことです。




では ”想い” である ”想” というのは・・・

私たちが 内面的に ”考えること” であると 理解できます。

そして 私たちが この世界のことを ”考える” というのは・・・

さまざまな ”物質の名称” や ”物質の形態” を 認識することが 基本となります。

そうでないと 私たちは すべてのものの ”区別” が つかなくなり・・・

頭の中が ”大混乱” するだけであり・・・

その結果 ”考える” ことが ”不可能” と なるからです。ショック!




それで 私たちは この世界の すべてものを・・・

”名称(なまえ)” や ”形態(かたち)” で ”区別” しているのです。

注釈では ”名称” とは  私たちの ”内面的な精神” を 意味しており・・・

”形態” とは 私たちの ”外面的な身体” を 意味しています。

しかし その ”区別” というのは・・・

私たちが ”人間” だからこそ・・・

ある意味 ”特殊” に 行なっていると 言えるのです。目




それを わかりやすく 考えますと・・・

たとえば 私たち個人の ”名前” や ”体の部位” などの ”名称” や・・・

周囲にある ”さまざまな物” や ”自然界の生物” の ”名称” などは・・・

”他の動物(野生動物)” も 同じように 使っているわけではありません。

かれらには ”言葉という概念” すらも ないからです。クマ パンダ ブタ



この ”名称” については 原始仏典の 別の個所にも 登場します。

それが 第3章 第9節に 登場する部分です。


601 草や木にも ”種類の区別” が あることを知れ。
  
    しかし かれらは ”われらは 草である” とか・・・

    ”われらは 木である” とか 言い張ることはない。


611 身を受けた 生きものの間では それぞれ ”区別” が あるが・・・

    人間のあいだでは この区別は 存在しない。

    人間のあいだで ”区別表示” が 説かれるのは・・・

    ただ ”名称” によるのみ。



つまり それぞれの生物では ”区別” が 存在しても・・・

それは すべての生物で ”共通するものではない” わけです。

そして ”名称” で あらゆるものを ”区別” しているのは・・・

”人間だけである” ということが 示されているわけです。得意げ



   
さらには ”形態” の ”良し悪し” という 考え方・・・

つまり ”かっこいい” とか ”かっこ悪い” とか・・・

”美しい” とか ”醜い” とかの・・・

相対的な ”価値判断” を しているのも・・・

それらは すべて ”人間だけのもの” なのです。ラブラブ!

 

 
しかし 私たちは 日常生活において・・・

”名称” や ”形態” による ”価値判断” を 繰り返しており・・・

それに ”執着する” ことを 繰り返しています。

それが 私たちを ”人間” に ”縛りつける” ことになるのです。

それが 私たちを ”苦しめる原因” であると ブッダは 説いていたのです。しょぼん




さらに この第12節で ブッダは 何を 言っていたのか? 

それは ”非我なるもの” を ”我” と みなす という意味は・・・

”我” とは ”自分自身の本質” を 意味しており・・・

”自分の魂(アートマン)” を 意味しています。

それが どこのあるのか? といえば・・・

私たちの多くは ”自分の肉体” に 存在すると 考えるわけです。マッチョ




しかし その ”自分の肉体” というのは・・・

実際は ”非我なるもの” つまり ”自分ではないもの” と ブッダは 説いています。

それは なぜか? というのは・・・

私たちの 肉体が ”どのように 成立しているのか?” を 考えると わかってきます。

それが ”原子・素粒子” という ”構成要素” です。水



 

現在 私たちは ”自分の肉体” によって 生きています。

しかし 私たちは いずれ ”死” を 迎えます。

そのとき 私たちの肉体は どうなるのか?

それは 無数の ”原子・素粒子” へ ”分解” されることになります。

つまり 私たちの ”肉体” というのは・・・

この宇宙の中の ”原子・素粒子” を ”借り受けている” に 過ぎないのです。目





No.757にも 示されているように・・・

”或るものを ああだろう こうだろうと 考えても・・・

 そのものは (やがて) それとは ”異なったもの” となる” というのは・・・



すべての物質は ”時間の経過” によって・・・時計

すべてが ”原子・素粒子” に ”分解される” ことになり・・・

それらの ”原子・素粒子” は やがて ”他の物質” に ”再構成” されます。

それで ”異なったもの” に ”変化する” ことになるのです。

つまり ブッダは そのような ”宇宙の原理” を 示していたと 考えられます。星

 


そして ブッダが 示していたように・・・

私たちが ”目の前のもの” に ”執着する” というのは・・・

それは ”愚者(愚か者)” の 考え方なのです。

”目の前のもの” は やがて ”別のもの” に ”移り変わる” のであり・・・

結局 それらは ”偽りのもの” に なってしまいます。

つまり 私たちが そのような ”無意味なもの” や  ”無価値なもの” に・・・

この人生で ”執着する” ということは あってはならないのです。ショック!





では この世界においての・・・

”偽りでないもの” とは いったい 何なのか?

それが ブッダの説く ”安らぎ” なのであり・・・

いわゆる ”ニルヴァーナ(nibbana・涅槃寂静)” なのです。
 
そこに 到達するために 私たちは 何を すべきなのか?

それが 私たちにとっての ”快楽” を ”むさぼらない” ことなのです。目





つまり 私たちにとっての ”目の前の快楽” というのは・・・ラブラブ

”偽りのもの” であり ”無意味なもの” であり ”無価値なもの” なのです。

つまり 私たちが 毎日 ”無意味なもの” や ”無価値なもの” を・・・

必死になって ”追求” しているから・・・

やがて それが 自分自身の人生 そのものを・・・

”無意味” に ”無価値” に 導くことになると 考えられ・・・

その結果 ”苦しみに満ちた人生” を 招くことになると 考えられます。しょぼん





さらには それが ”死後の来世” へ 影響することになり・・・

そこでも 私たちは ”苦しみに満ちた人生” が 待っていることが 考えられるのです。

仏教の開祖であった ゴータマ・ブッダは そのことを 人類に 警告していたようです。雷





このように ブッダが 説いていた その教えの内容を 考えますと・・・

私たちが ”人間” であることから ”解脱(げだつ)” すること・・・

つまり ”人間” であることから ”卒業” すること というのは・・・

”そう簡単なことではない” ことが わかってきます。ガーン





しかし 私たちが 今後の人生で ”偽りのもの” ではない・・・

この世界での ”本物の価値” としての ”真理” を 追究することが・・・

私たち自身を ”救うための方法” であることを 知ることができます。

この ”努力のプロセス” こそが・・・

私たちのような ”世俗に生きる者” にとっても 重要になると 考えられます。目






私たちは 今後も ずっと ”偽りのもの” に 目を奪われて・・・

人生を ”無意味” に ”無価値” に してしまい・・・

自分自身を ”永遠に苦しめる” ことは したくないですね。ニコニコ











(※)”般若心経の内容① ~空とは~” の 記事は こちらです星


   ”自分の体も 借り物である” の 記事は こちらです星


   ”原子・素粒子に 魂(たましい)がある” の 記事は こちらです星