京都さんぽ その4 | やまちゃん1のブログ

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三大遊郭 とは、江戸の吉原・京都の島原・大坂の新町である


江戸の吉原は、浮世絵、歌舞伎、落語、俳諧、狂歌、ファッション、出版、祭礼、茶の湯、香、書、相撲などの様々な江戸文化のゆりかごだった




吉原で生まれた蔦屋重三郎は、喜多川歌麿、東洲斎写楽を世に出したことで名高い

酒井抱一は、生涯吉原通いを続け、

吉原の花魁を身請けして妻にした


江戸の元禄文化(1688〜1763)、化政文化(1793〜1829)は、“吉原”と密接な関係にあったといえる


一方、島原の成立は1641年で、寛永文化(1624〜44)にあたるが、本阿弥光悦、俵屋宗達、後水尾天皇、徳川和子、八条宮智仁親王、小堀遠州、板倉勝重など寛永文化のキーパーソンと島原は交わらないようだ

しかし、江戸時代中期には島原俳壇など文芸サロンが形成されていた



寛永文化サロンは、京都所司代屋敷、鹿苑寺、仙洞御所など平安、室町時代からの伝統的な場所に形成され、新興の江戸における、新吉原の文化サロンとは趣が異なりますね


それにしても、上級町衆と公家、皇室、武家との身分を超えた文化的交流は京都ならではですね



寛永文化について



島原の絶頂は元禄時代といわれているが、立地の悪さから次第に寂れ、程なく町中の祇園などの花街におされていく…





島原が再び脚光をあびるのは、勤王の志士、新選組の出入りが活発になる幕末であった




久坂玄瑞の碑



角屋外観


『島原と角屋  
島原は、江戸期以来の公許の花街(歌舞音曲を伴う遊宴の町)として発展してきた町です。官命により、寛永18年(1641)に島原の前身である六条三筋町から現在地の朱雀野に移されました。その移転騒動が、九州で起きた島原の乱を思わせたところから、「島原」と呼ばれてきましたが、正式地名は西新屋敷といいます。島原は、単に遊宴を事とするにとどまらず、和歌俳諧等の文芸活動が盛んで、ことに江戸中期は島原俳壇が形成されるほどの活況を呈していました。しかし明治以降の島原はすっかりさびれてしまい、現在では、揚屋(今の料亭にあたる店)であった「角屋」と、 置屋(太夫や芸妓を派遣する店)の「輪違屋」、それに島原入口の「大門」(慶応3年・1867年再建)のわずか3箇所が往時の名残をとどめるのみとなっています。』角屋パンフレットより


【参考】輪違屋
(ネット画像借用)


3大遊郭の吉原、新町の遺構がほぼ存在しないなか、島原の角屋、輪違屋は貴重な遺構である


角屋入口




中戸口



正面右が客の入口




小さな帳場がある


台所の神様・三宝荒神をまつる飾り竈(かまど)



かまど





箱階段

西郷隆盛が使ったタライ


一階表座敷 網代の間
天井を網代組にしているところから「網代の間」と称す
網代の間 障子

網代の間

網代の間

網代の間

中庭

一階奥座敷
大座敷松の間
岸連山 襖絵 桐に鳳凰の図



岸良 衝立 布袋の図



臥龍松の庭

臥龍松の庭



以下二階の部屋は撮影禁止のため、ネット画像を借用しました
与謝蕪村 紅白梅図屏風 梅の間

八景の間(非公開)

孔雀の間(非公開)

青貝の間

青貝の間

檜垣の間

檜垣の蒔絵

馬の間

扇の間


見学は、一階、二階別料金のガイド付き鑑賞ツアーになります



【参考】あくまで参考に…


島原と吉原

『島原は江戸時代、歌舞音曲を伴う遊宴の町であり、しかも明治以降、歌舞練場を備え、「青柳踊」「温習会」を上演していたことから「花街」となります。 それに対して、吉原は周囲に10メートル幅の堀を設け、入口を一つにして厳しい管理を行い、遊女を閉じ込めるなど閉鎖的な町でした。』ネット記事より


島原と祇園

京都の六花街


『今日、京都には上七軒、祇園甲部、先斗町、祇園東、宮川町、および島原の6つの花街があり、これらを総称して京都の六花街と呼ぶことがある。』ネット記事より


つづく…



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