練馬から中村彝アトリエ記念館 | やまちゃん1のブログ

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美術、映画、文学、グルメ関係のブログです。

練馬区立美術館の後は、
中村橋から一駅の練馬で降りる

目的は、
想い出の店「チャイカ」と云う
洋風居酒屋あった場所にある
蕎麦屋「176(いちななろく)」

ネットによると、
経営者は同じらしい…
 

駅から豊島園に曲がる踏切(今は高架)を目指す…



なんと!!
定休日…

以下、ネットから写真借用



とろろに青海苔の一文字が粋
 


かけの蕎麦の入れ方がイマイチですが、汁は美味そう

次は絶対行くぞ!!と心に決め、ドトールのミラノサンドで空腹をまぎらわした…



気を取り直して、アメーバブログで教えていただいた目白(下落合)の

中村彝(つね)アトリエ記念館へ



目白駅から学習院の反対左に歩いて約10分 閑静な住宅街に発見!!


アレ?!
アニメハウス・・・



これだ
新宿区の企画 デジタルスタンプラリーらしい… 10月30日まで
https://www.kanko-shinjuku.jp/event/history/article_3328.html 

《9月21日(水)~10月30日(日)、ゲーム「文豪とアルケミスト」とタイアップし、漱石山房記念館・新宿歴史博物館・林芙美子記念館・佐伯祐三アトリエ記念館・中村彝アトリエ記念館を巡るスタンプラリー》


中村彝といえば、私のブログにもサブ的に度々登場しています…

荻原守衛、相馬黒光の後日談で触れています



中村彝(明治20年(1887)〜大正13年(1924))

旧水戸藩士の三男として水戸市に生まれる
1904年 東京陸軍中央幼年学校に入学するも結核を発病し中退
1905年 千葉県館山に転地療養 白馬会洋画研究所に入り絵画を習う
〜文展に入選する
1911年 新宿中村屋の相馬黒光・愛蔵夫婦の厚意で中村屋裏の画室に住む 
1913年 相馬家の長女俊子(当時女子聖学院の学生)をモデルにした裸婦像を制作
1914年 「小女」(三等賞)「少女裸婦像」を文展に出品

中村彝 小女 1914年
写真をみると確かに小柄です

中村彝 少女裸像 1914年

ゴヤの「裸のマハ」「着衣のマハ」の着想なんでしょうか…

文展への出品で世間に知られることとなりスキャンダルとなる
中村彝は、俊子に求婚するが、相馬黒光・愛蔵は結核を患っている中村彝との結婚は許さなかった…

中村彝は、相馬家を離れ、1916年下落合にアトリエを建てる




アトリエ内部
椅子やテーブルは当時のもの




中村彝 エロシェンコ氏の像(重要文化財) 1920年


神近市子との関係でも登場

盲目のロシア青年を街で見つけモデルを依頼、彼は新宿中村屋に寄寓していた、エスペランティストで詩人だった

病身の中村彝はアトリエで、友人の画家とそれぞれエロシェンコの肖像画を描いた







中村彝 頭蓋骨を持てる自画像 
1920年


1924年 結核のため37歳で死去


中村彝と引き離された俊子は、中村屋に身を寄せていたインドの革命家ラス・ビハリ・ボース(1886〜1945)
と1918年に結婚したが、俊子は1919年に肺炎で死去



俊子とボース


左 相馬黒光 右 相馬俊子


この時代は、特に「夭折の画家」というフレーズをよく聞きますね

菱田春草(1874〜1911)
中村彝(1887〜1924)
村山槐多(1896〜1919)
佐伯祐三(1898〜1928)
関根正二(1899〜1919)

そして

荻原守衛(1879〜1910)
がいる



荻原守衛 女 1910年

 





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