エントランスに碌山の言葉
LOVE IS ART. STRUGGLE IS BEAUTY.
愛は芸術なり、相克は美なり。
美は愛の相克から生まれる。
それを描くことが芸術なのである。
碌山
碌山(ろくざん)とは、荻原守衛(1879〜1910)の画号です。
わずか30年の短い生涯だった画家・彫刻家の荻原守衛。
彼の生まれ故郷、安曇野に「碌山美術館」がある。
松本から車で約40分、安曇野には日本の原風景と芸術があった…
教会のような美術館は、碌山の生涯をコンセプトに設計された
重要文化財
まさに愛の相克から生まれたのがこの「女」です。
大地に埋まるような膝下と後ろ手に組んだ両手、立ち上がろうと天に向って螺旋を描く肉体。
何かを希求しているのか、法悦の表情にも見える…
「女」には、碌山が愛した、新宿中村屋の女主人「相馬黒光(こっこう)」が描かれている。
相馬黒光(1870〜1954)は、仙台藩士の娘に生まれ、14歳で洗礼を受けた。
仙台、横浜のキリスト教系女学校に学び、東京の「明治女学校」の時、教頭から旧姓「星 良」を『(性格の激しさから)溢れる才気を黒で隠しなさい』と言われ「黒光」と名付けられた。
黒光は、仙台にキリスト教の布教に来ていた相馬愛蔵(1870〜1954)と出会い結婚する。
相馬愛蔵は安曇野の豪農の家に生まれ、養蚕の本を出版するなど、地域産業のリーダーであり、キリスト教に基づく社会事業家でもあった。
碌山は愛蔵を尊敬しキリスト教信者となった。
黒光は、安曇野に住み愛蔵の仕事を手伝っていた。その頃、17歳の碌山に出会い碌山は黒光から芸術の薫陶を受けた。
しかし、黒光は村の気風に合わず、健康も害して療養のため上京した。
碌山は、芸術家の道を志し、ニューヨーク、パリに留学し、パリでロダンに会い彫刻家をめざした。
碌山の海外遊学は7年におよんだ。
相馬愛蔵は、本郷にあったパン屋「中村屋」を1901年に従業員ごと買い取り、1907年に新宿に移転し「新宿中村屋」とした。
差別化のため、洋風文化を全面に出し文化芸術の香りがする「中村屋サロン」を展開した。
愛蔵と黒光は、店の裏にアトリエを作り、パリから帰国した碌山、中村彝、中原悌二郎などが集まり、彼らを支援した。
碌山は、同郷で尊敬する相馬愛蔵とその妻で碌山を芸術の道に導いた黒光への愛に苦悩する。
ある日、碌山は黒光から夫愛蔵の浮気で苦しんでいる事を告白される。
「文覚」とは、「鎌倉殿の13人」にも登場する怪僧で、ドラマでは猿之助が演じた。
出家前の文覚は親友の美人妻(袈裟御前)に横恋慕し、ついには親友の殺害を企てる。
袈裟御前から聞いた親友の寝所に忍び込み首をかいたが、灯りで顔を見ると、それは袈裟御前その人だった。
御前は貞操を守るため自分を殺すよう仕向けたのだった。
文覚は、自分の行いに恐れおののき出家する…
碌山は、文覚に自身を写した。
1909年
碌山は黒光に浮気している愛蔵と「なぜ別れないのか」と迫るが、その時、黒光には新たな命が宿っていた。
「デスペア」は碌山の絶望を表しているのでは…
そして、1910年 碌山の遺作「女」がうまれる。
「…四月の夜ふけに肺がやぶけた。
新宿中村屋の奥の壁をまっ赤にして
荻原守衛は血の塊を一升はいた。
彫刻家はさうして死んだ
―日本の底で。」
昭和十一年 高村光太郎 作
後日談…
モデルは愛蔵・黒光の長女 俊子(1897〜1925)当時16歳で女子聖学院の学生だった。二人は恋仲になっていた。
「少女裸像」は第8回文展に出品され、女子聖学院に知られることとなりスキャンダルとなった。
愛蔵と黒光は、中村彝と俊子を引き離し、彝は相馬家を恨みながら絶縁した。
1915年、「玄洋社」の頭山満の懇願で、インド独立の亡命志士 ラス・ビバリ・ボースを新宿中村屋のアトリエにかくまった。
1918年、中村彝と別れた俊子がボースと結婚する。
俊子は26歳で病死、息子は日本人として沖縄戦で戦死。
ボースもインド独立前夜日本で病死する。
相馬黒光には、ミューズでありファム・ファタールの要素もあるのではないか…
碌山は黒光によって身を滅ぼされたともいえる(中村彝も…)
ファム・ファタール
アルマ・マーラー
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