恋愛指南書 伊勢物語 その四 | やまちゃん1のブログ

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いよいよ、高子(たかいこ)姫のストーリーに入ります。

史実の藤原高子(842〜910年)は、「第56代清和天皇の女御、のち皇太后。父は藤原長良。母は藤原乙春。子は第57代陽成天皇、貞保親王、敦子内親王。
清和天皇が東宮であったころ、天皇の祖母である皇太后藤原順子の邸にて出仕か。貞観元年(859年)9歳の清和天皇即位にともなう大嘗祭において、17歳の高子が五節舞姫をつとめ従五位下に叙された。清和天皇元服の2年後の貞観8年(866年)、25歳で入内し女御となる」
伊勢物語もほぼ史実通りです。




五節舞 (ごせちのまい)「日本の雅楽では唯一、女性が演じる舞。 大嘗祭や新嘗祭に行われる豊明節会で、大歌所の別当の指示の下、大歌所の人が歌う大歌に合わせて、4〜5人の舞姫によって舞われる(大嘗祭では5人)」







現代の五節舞

業平も大嘗祭の折は、末席にて五人の舞姫を観ております。「まだ幼さの残る帝に臆することもなく、赤色の五節舞装束の袖を大きく広げて羽ばたくばかりに舞い、扇の長い飾りを誇らしげに宙に泳がせ、それがあまりに堂々としておられたので、帝は何やら挑まれたように、仰け反られたのだとか。」

また、高子姫には、「夜の都を馬にて逍遙されているという、およそあり得ない噂。」も聞こえてきます。

「この舞姫の美しさ、ただならぬ気配が評判となり」それが京すずめの噂となっていました。

高子姫が清水詣での牛車に、業平の車が偶然隣り合わせになります。




姫と侍女の会話が聞こえる距離、業平が割って入ります。

「あやしき者ではありませぬ。いつぞやの五節舞を、遠くより拝見させて頂きました者にて」

「はて、どちらの殿方で・・」

「いずれ文など言付けたく」

「そのようなもの、要りませぬ。私が欲しいものは、かたちばかりの文ではありませぬ。真心無くても、いかようにも言の葉は繰れます」
と手厳しい。
さすがの業平も、最大のセールスポイントである和歌を、「言の葉はいかようにも繰れる」と言われたのではギャフンですね。


業平は、幾度となく歌を贈りますが、いろよい返歌は来ずじまい。

考えぬいた業平は、

「思ひあらばむぐらの宿に寝もしなん
ひしきものには袖をしつつも」

情けがあるなら、たとえ葎(むぐら:密生し藪をつくる草)が生えているようなひどい住まいでも、共寝はできますでしょう。おたがいの袖を敷きものになるでしょうが、そのような粗末な宿は、嫌われるでしょうが。

葎の歌は高子姫の心を揺さぶりました。

「高貴なお方ゆえに、生涯有り得ぬ下じもの生業(なりわい)に憧れ、動かされるものです。」

糸口を見つけた業平は、高子姫の邸宅に・・・


閑話休題。

高子姫が、「夜の都を馬にて逍遙されているという、およそあり得ない噂。」を読んだとき、ルキノ・ヴィスコンティ監督「ルートヴィヒ」(1972年)のエリザベートとルートヴィヒが、夜の雪原を馬車で疾走するシーンを思い出しました。

エリザベート(1837〜1898年:幕末・明治)は、後にオーストリア皇后となりますが、ヨーロッパ随一の美貌の持ち主でありながら、宮廷から逃避行を繰り返し、快楽に耽る奇行の姫君でもありました。
千年の時代を経て、高子姫が過剰に転生したようです。



エリザベートの肖像画



エリザベートの写真



映画 「ルートヴィヒ」ルートヴィヒとエリザベート


高子姫その二に続く

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