ちょいと南側にわんさかあるのはあまり知られておりませんが、私のようにフラフラと散歩するモノにとっては正に川崎駅前の『Default』‼️
まぁ、興味がある方は是非、下記に載せた『YouTube』動画を見ていただき、なぜ私が『川崎区(川崎國)』やそこに隣接する横浜市鶴見区が嫌いなのかを理解する事ができると思いますよ ( ̄ー ̄)
因みに川崎市にはその昔、江戸から西へ向かう街道の船渡し場があり、変更や多摩川の水嵩により多摩川が渡らない事がある為、多摩川の両岸には簡易な旅籠があり、当然セットで前述した『飯盛女』を抱える旅籠もあり、私の住む武蔵小杉の多摩川側に位置する東急・東横線『新丸子駅』には私が小学生時代には『ニュー丸子劇場』という名の『ストリップ小屋』があったり、現在では一部を除き全滅したラブホテルもたくさんあり、渡場らしい施設が昭和時代にはてんこ盛りでした ┐(´∀`)┌
ですが平成、令和と時代が推移して行くにつれ、その点風景は消滅してしまい、現在ではシャレオツな街と変わってしまいましたが、当時を知っている世代にとってはなんとも寂しい風景となったモノですが、そんな庶民の生活とは別格のなのが今回訪れた神奈川県横須賀市であり、
中でも今迄『ダークツーリズム』で紹介してきたような貧相なこの地区の庶民の生活視点ではなく、明治、昭和(太平洋戦争前、中)と終戦後に多くの日米の輩が集まった横須賀軍港には、その輩達を間にする女性が居る『遊廓』があったというのが今回のお話となります。
現代の地図に前述した『遊廓跡』を記するとこんな感じとなりますが、
終戦当時(1945年)の地図に『遊廓跡』を記述してみるとこんな感じとなり、火災により消失した『大瀧遊郭』から少し離れた丘陵地帯に造られた『柏木田遊廓』が、戦後も『政府公認赤線地帯』として生き残った場所となります。
という事で『(株)中華飯店』で腹ごしらえをしたADV君と私は愛車に跨り、目的地である当時の『柏木田(現在は上町)』にある『穴守稲荷大明神』に無事到着‼️
前述した『穴守稲荷大明神』の横には何やら平屋の建屋があり、よくみると『柏木田町内会』の看板が掛かっていてちょいとビックリ‼️
戦後の昭和25年8月1日に『町界町名地盤整理』が実施され、これを機に町名を『柏木田』から『上町』に変わったにも関わらず、未だに『柏木田』を名乗るのは私らには理解不能な『何か‼️』があるんでしょう〜っ ┐(´∀`)┌
さて、ちょいと町内会の建屋で先制パンチを喰らっちゃいましたが、こちらが目的地である『穴守稲荷大明神』‼️
一つ目の『鳥居』には普通『穴守稲荷』の社札があるようなものですが、現在ではすでに存在してないようで、ちょっと寂しい感じがします・・・
そんなパッとしない稲荷独特の赤鳥居をくぐり抜け、正面に出てきたのがこの稲荷の本殿。
残念ながら本殿にも『穴守稲荷』の痕跡はなく、小さな折り紙でおられた『千羽鶴』と位置がズレた『紙垂』、そしてワンカップ酒が二つとちょいと寂しい感じが否めません ┐(´∀`)┌
私は基本的に狐は信用していないので通常は賽銭をすることはないのですが、この時は歴史的(遊廓敷地内で遊女慰安)なことを含めてうん十年振りに賽銭をさせて頂きました・・・
参拝終了後に本殿周りを探索すると、現在の安っぽい『赤鳥居』の前に建っていたと思われる石の『鳥居』が放置されていて、
既に雨風で文字も風化してしまっていて判読は不可でしたが、
調べてみるとこの『穴守稲荷大明神』は江戸時代の『弘化二年(1845年)』に建立されたとされ、海からの災害から守る目的で建立されたらしいですが、前述した火事で消失した『大瀧遊廓』をこの『柏木田』に移転してからは、『柏木田遊廓』の遊女達の『女性の病気』から守る意味合いで祀られたと考えられているそうです・・・
更に周りを見渡すと水を入れる石器なども散見することができ、現在でも少人数よりこの社が維持されているんだなぁ〜っ痛感いたしました。
また、参道の脇に立つ数本の俗に言う『のぼり旗』にも名称が書かれて寄贈されているものがあり、
このあたりを踏まえ、今でも特定の地元民に信仰されていると言うことがわかる訳です・・・
因みにこの二つのお名前は、現在では『旧柏木田遊廓』跡に存在しておりました‼️
そんな『穴守稲荷大明神』を後にした私とADV君は、2分ほど歩いてようやく今回の探索地である『旧柏木田遊廓』の入り口に当たる場所に到着‼️
現在の地図で見るとこんな感じで、
明らかに周りの周りの区画と違い、遊廓内の本通りの左右に遊廓が立ち並んでいたことが分かると思います。
因みに下の写真は明治中期の『柏木田遊廓』の本通りを私が写した場所とほぼ変わらぬ位置から撮影した風景で、
遊廓の数は資料として見つけることができませんでしたが、戦前戦中は日本海軍軍人、戦後は進駐したアメリカ軍人を相手にしていたのは事実で、公認公娼街(1946年廃止後、赤線となる)だった当地区が1958年に施行された『売春防止法』により完全に廃業となり、昔は『赤線』で働く娼婦やそれを買いにくる客相手の店舗も数多くあったそうですが、現在ではその雰囲気を残す建屋はまるで存在しないのも事実で、例えばこちらのシャレオツな低層マンションが建っていた場所には
かつてはラブホ、
その前はアメリカ軍人相手の娼婦屋があった事を
現在住んでいるもの達の中に何人この事実を知っている者いるのか、興味が尽きないところでもあります ( ̄ー ̄)
日本各地にこの様な人知れず消えていった沢山の遊女が死に絶えた場所があると言う事を紹介するのが今回の記事の趣旨であり、日本の首都圏である東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県にはこの様な場所が数多くあり、中には私の地元である川崎市の川崎駅周辺の様な今でも現役な風俗街もありますが、このブログの前半に書いた今ではその痕跡もない江戸時代の主要街道宿場町の遊廓の『女郎』や川渡し場などに多くいた私娼である『飯盛女』が、遊廓裏の小屋や河原などで性病により大勢他界している事実を知って頂けたら何よりだと思っております・・・
最後に今回訪れた『旧・柏木田遊廓』に昭和後期まで存在した店舗の写真があったので記載して、今回のお話を終わりたいと思います m(_ _)m