織田信長が目指した日本国 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

織田信長が目指した日本国

 戦国の世、下剋上のいわばピークに立ったのが織田信長だとみれば、かなり荒っぽく、その当時の既成の体制を破壊している。
だから、奈良、平安時代と続いてきた藤原体制即ち大陸勢力の、天皇を戴く御所の権力の側もかなり恐怖に陥ったと想われる。
足利体制というのは、大陸の明に臣従していたのだから、これも藤原体制と同じで、戦国時代というのは、
海洋渡来系、騎馬系、土着系日本原住民が各地で公家の荘園を奪い、旧体制の大名を追い出したから、
体制側の坊主が憎々しげに前述の如く「下剋上」とその日記に書き残した。
そして信長は平家を名乗るぐらいだから、天下布武を一つの旗印に海洋渡来系の富士王朝復活をイデオロギーに、近江王朝の昔に戻そうと安土城を建てたのだろう。

何も記録は残っていないが、信長は、天正五年十一月には一条内基に代って、
請われるまま右大臣になってはいるが僅か半年たらずで、翌天正六年四月初めにはやめている。そしてそれ以降は無位無官のままで御所には臣従していない。
歴史屋は信長を「前右府」などの言葉を使うが、間違っている。
『近世国民日本史』などには、織田信長は勤王だった、織田信長が従五位下の官を貰うために貢銭したのを、御所へ尽した事蹟とわざわざ一章を設けて説明しているのは、
任官していた事のあるのは御所へ臣従していた証拠とする当時の皇国史観の影響である。

だから、信長は、律令体制の根幹というか土台を引っくり返そうとする強烈な意図はあったと想像できる。
これは『フロイス日本史』にも出ているように、安土から京都までは幅四間の(十ニメートル)の軍用道路をつくって、もし藤原体制が背反すれば、武装部隊が、三時間で京都へ入れるようにしていた。
だから、山科言卿の日記をみると、天正十年五月二十九日に京都へ信長が早駈してきて本能寺へ入ってくると、真っ先に疎開したのは、誰あろう御所の女御たちだった。
大変事が御所で起きるだろうと周章狼狽したのである。女御たちが衣裳を牛車に積んで次々と逃げだしたくらいだから、至上も避難をなされる筈だったと想像できる。

また、信長は死ぬ前年、天正九年の馬くらべ、つまり今の観兵式が京で催おした際、信長は鉄砲隊三百を率いて御所の門から入り、バンバン実砲を射ちまくって、御所の建物を穴だらけにしてしまった程の示威運動をやっている。歴史屋は「天皇をお招きして閲兵式をやった」だから勤皇の志が篤かったと言うが、全く逆である。
後に幕末の蛤御門の変の際、松平容保が御所を警備するために入ろうとした。彼は孝明天皇の非常に信任が厚い守護職だった。
仙台というところは多賀城の後で中華系だから御所とは近い関係である。それでもなおかつ絶対に御所に鉄砲をもち込んじや困ると、公家衆はこぞって阻止したくらいだから、当時の信長のデモは驚天動地だったろう。

また織田家を越前織田庄出身と歴史書には書かれているが、「上織田」は斯波家に仕えていて織田は本家になる。
しかし信長の方は父信秀も勝幡城の城番に登用された時は八田信秀を名乗っていて、本姓は「八田」なのである。
つまり織田姓になったのは賜姓ということになる。下織田と呼ばれた信長は近江が正しい。後にそこに安土城を築いたのもそうした訳である。八田というのは弁天涯の、あの一帯の呼称で、昭和の頃でもあのへんに住んでる人のことを土地の者たちは「ヤッタモン」と呼んでいるのでも解る。だから信長を助け、天下を取らせた彼らだったが、信長の急死で彼らは落ちぶれてしまい、追われて、「近江乞食」と呼ばれたのである。

さて、こうした信長の行動から、後の秀吉のように御所の最高位「関白」にもなるつもりはなかっただろう。
さらに、怖れ多くも秀吉は居もしない人をデッチ上げ「我は、持萩中納言の忘れ形見」だと天皇にさえなろうとした。
だから信長は武家の最高位「征夷大将軍」が考えられるがどうだろう。

同じ平家である北条政権は京を避け、出身地の伊豆に近い鎌倉に幕府を置いた。
そして、北条政子は、天照女神のお告げであると、甥の泰時に三十万余の軍勢を授けて京を討ち、天皇や上皇を隠岐の島や佐渡島に流罪にしてのけている(承久の乱)。

そもそも、富士王朝の残党ともいうべき北条政子の同族は、夷頭(伊東)に逃げ、海水を汲んで製塩漁撈をし、塩魚にして銭にかえ、トウ派遣軍には非人扱いされていた積年の恨みの積み重ねの報復として、
藤と名乗る公卿の主だった者を斬首したのも、「民族の復仇」と見れば理解できる。「後北条」と云われる北条早雲が同じ伊豆で覇を唱えたのもこうした訳があるのだ。
後鳥羽上皇は鳥も通わぬといわれる隠岐の小島の石牢。順徳上皇は佐渡が島の土牢。土御門上皇は土佐へ流罪。
そして京御所を監視するため六波羅探題を南北におき徹底的に見張りをするため、侍所をおいた。

だから同族である信長も、公家や天皇の動向を探るため、京に所司代として村井貞勝を任命している。これは前述、北条幕府の六波羅探題の真似である。
 「公家」とよばれる藤原体制と結びつき、御所を利用する政権でなくては日本統治は不可能とは考えず、己が祇を信じる原住民の「祇府(岐阜)幕府」として統治しようと考えていたとも推理できる。
公家や天皇の権威など意に介さず、何時でも不穏な動きが在れば彼らを武力制圧できるよう、前述のように、安土から京まで馬五頭が並列で駆けられる、いわば御所襲撃部隊専用道路も作っていた。

余談だが実は、明智光秀も信長が本能寺で爆殺された後、京は暴徒の略奪や打ち壊しが激しく、御所の警護と治安回復の為、光秀は「大詔(おおみことのり)」を受けている。
それは秀吉に討たれるまでの一週間だが「征夷大将軍」に就任している史実がある。これを「明智の三日天下」という。(後、秀吉が御所の役職である関白になるのも、光秀の後塵を拝するのをきらったため)
これを証明できる証拠は、秀吉と戦った山崎合戦で、伊勢貞興、諏訪飛騨守、御牧三左衛門といった旧室町御所奉公衆の重だった面々が、一人残らず光秀の側にたって敢闘し討死していることが、
〈蓮成院記録〉〈言経卿記〉〈多聞院日記〉に出ているが、これとても、光秀が、征夷大将軍になっていたからこそ、その馬前において勇戦奮闘し、ついに戦死をとげたのである。
信長の一武将の地位では、信長が死に、天下人の空白時には考えられぬ行動である。

余談ついでに書いておくが、信長が本能寺に入った頃、住吉浦(大阪湾)には四国遠征軍が集結していた。
歴史屋は、長曾我部元親に四国全土平定のお墨付きを与えたのに、それを反古にしたのは「長男信忠に与えるため惜しくなった」と説くが、違う。
そもそも四国は三好長慶や、チャンスガメ(長宗我部)というように半島朝鮮系の土地柄だから、同族同士を争わせ平定させたのは、信長の深謀遠慮であり、
平定後に取り上げるのは信長の優れた戦略である。

・このイキシチ系の戦国大名には、三好、長曾我部、千葉国胤、千村良重、長重連ぐらいしか居らず、江戸時代には一人も残らず粛清されている。だから、部落(原住民)出身の徳川家康も江戸時代になると、土佐は山内一豊、阿波は蜂須賀小六、高松は松平、大洲は加藤家と四国は全て原住系で固めている。
しかし、日本中の銀を押さえている京の蜷川財閥を「……用心せねば」の気構えがたらず、自己過信がすぎて油断し、本能寺で髪の毛一本残さず吹っ飛ばされて殺されてしまう羽目になった。
 
https://ameblo.jp/yagiri2312/entry-12790002629.html 一年前の記事(もし信長が生きていたら)を参照されたい。

今でも、織田信長に非常に人気があるのは、罰するにしても男女を同権に扱ったからである。
 というと、いささか不思議に思われるかもしれないが、通俗歴史家が、戦国時代の女は、とても哀れだったなどと書くから感違いされるのであって、今とはまったく男女の価値感が根本的に当時は違っていたのである。
 ということは、その時代の女性たるや、今では想像がつかぬくらい強かったのである。なのに信長は遠慮容赦なく女を差別せずに叩っ斬ったりして、処分している点が、当時も高くかわれて男どもに好かれていたらしい。
 竹生島へ行った時に無断で抜けだした腰元の女が連れだって寺へお詣りに行ったというだけで、六人ともぶち殺し、神徒側男性の立場を明確にしている。
 つまり斬殺でなく撲殺させているぐらい露骨に示している。もちろん人的資源が大切な戦国時代のことゆえ、やむなく出産経験のある女たちを選んで、次々と産ませた子供が十何人いるけれども、
これとて彼としては、いうなれば武将としてやむなく作ったみたいなものである。

さらに当時、坊主どもを纏めて何千人も殺しているのを庶民たちは「信長様は豪気なお方」と賛美している。
これは「南蛮人に奴隷として売れば大儲けできるのに、それを殺してしまうとは勿体ない」という意味なのである。
 日本史では隠されているが、当時は火薬原料である硝石入手の為、日本原住民を奴隷としての輸出が慣例化されていて、信長はそれをしなかったからである。九州の大名たちは己の妻や娘までも奴隷として南蛮坊主どもに売り渡していた史実が在るほど、奴隷輸出は激しかった実態である。