古事記は初めは原住民史だった 古事記は「骨事記」である | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

古事記は初めは原住民史だった
古事記は「骨事記」である


 奈良時代の忌部広成は「上書古語拾遺初旬」に、「けだし上古之世まだ書き残す文字有らざりしならん。国々に次々と相い伝えたるものならん」と太安万侶の古事記を説明している。
 安万侶の古事記表文に、「諸家の持ちたる処の帝記及び本辞はみな、まちまちで正実とは違ってきているので、旧辞を検討して誤っている処は削除して正しき記録をせんとす」と初めに書き、
「阿礼に勅語して帝皇の日つぎや先代の旧辞を誦み習わせしめるは、名は文命より高く、徳は天乙にまされりと謂うべし、ここに旧辞の誤りあるのをその侭にしては、惜しくも先代のことごとくが間違って伝わらんことを惧れ、あんじてよって先紀の錯誤している点をも統一訂正し、和銅四年(711)九月十八日をもって撰録して献上いたすものなり」

 この序文は後で書き直すこともないから、この侭で信じても良かろうが、旧辞とは古い書体を意味し、本辞とは当時の使用文字である。つまり八世紀初頭でも、今では神代文字とよばれる何種類もの文字があった事を意味し、ナラ人忌部の言うように太古に書き残す文字がなかったから、古事記を阿礼が口づたえに暗記しているのを安万侶が文字にしたというのは、嘘だと判る。

 つまり当時にあっては古代朝鮮語が、ナラ王朝の本辞つまり正式な公用語だったから、それ以前の南方文字の旧辞や沿海州文字のような判りにくいのを、阿礼に手伝わせてオンモン文字に翻訳させたのが本当らしいとみられるのである。
 だから古事記は今日いわれるように阿礼が暗記していたものを、口述筆記みたいに記録したものではなく、古い文字で書かれたものの中から、大和のナラ遷都を記念してオンモンに変え、
ナラ王朝の社史みたいなものを作ったから、安万侶は御褒美に従五位にしてもらえたのである。

 もちろん、この九年後に則天文字つまり漢字で書かれた、藤原氏こそ天孫民族なりとする日本書紀が作成され、都合の良い部分だけはピックアップされたが、他は無用とし古事記は斥けられた。
 つまりオンモン古事記は、藤原氏を日本の開祖とするのに不都合だから、宮中には保管されなかったのである。
 しかし、南方アラビア文字や雲形文字や亀甲文字、蛇行文字の沿海州語をオンモンの本辞に変えた安万侶は語学の天才ともいうべき有能な人物で、炭やき釜には木碑を放りこまれたとすれば、ナラ人つまり朝鮮人だったせいか、それとも後世に実存を示したい作為であるともみられる。
 稗田の阿礼のヒエは当時賎しいという意味の当字ゆえ、日本原住民で奴隷だったのだろうと推理される。
 

 あまりに多種類は象形文字で、江戸時代のハングル文の古事記をみていない本居宣長の子の太子の弟子伴信友は、それゆえ、古代に文字なしと主張して日本書紀を自己流に書き直したが、越後蒲原郡伊夜比古宮の、推古天皇端正己卯という年号は、モンゴル文字だが安芸伊都伎島宮の、推古帝端正五年発未と対比すれば干支が合う。
この年号は新羅神文王より百二十年前の時代になる。
 
 つまりモンゴル文字は新羅では使用され、日本海を渡っては裏日本へ入ってきて、今では神代文字の一種にされているが、蘇我蝦夷の宮殿にあった国史はこれで書かれていたのだろう。
 広い意味でいえば中国系の竹内宿弥も、沿海州北鮮より裏日本渡来の蘇我稲目も同じ出自かも知れぬが、日本書紀は同系統と誤っている。だが竹内は仏教でも、蘇我は今でも松下神社や八坂さんで「蘇民将来之子孫也」の護符を配っているように反仏派で即ち神信心である。


 なのに仏教側の勧学院派日本書紀では、百済人が日本原住民の奴隷を苛使し奈良の大仏を建立したのを祝って、願文を奉ったとしている。
奈良の町は大仏建立のために犠牲となった日本原住民の屍で埋まったと言われるし、その原住民には裏日本からの同胞もいるのに、同族蘇我稲目が祝うような事はありえない。
 勧学院は学者が中国から来たのではなく、学識のある唐僧集団が来日し建てたものゆえ、「仏果を求め仏益を願った現世利益連中が、本当の仏教徒の大伴金村が殺されたので逆に蘇我を仏教徒に変えた」のだが、
非常識すぎて辻つま合わず、不手際すぎる故に信用されないのである。


 さて最初の藤の日本書紀が百済人の桓武帝に焚書されたのは北畠親房の「神皇正統記」に明白にされているし、そのオンモン日本書紀を、勧学院の学僧が書き直したのが、藤原王朝の正史となしたのに対し、
「古事記」そのものは当初は野史だつたと想われるし、日本列島原住民史だった筈である、蘇我蝦夷が攻められた際の焼け残りのものを整理し、天武天皇十年三月十七日に、
「川島皇子、忍壁(おさかべの)皇子、広瀬王、竹田王、桑田王、三野王、大錦下上毛野君三千、小錦中忌部連子首(こおびと)、小錦下阿雲連稲敷(いなしき)、難波連大形(おほかた)、大山中臣連大島、大山下平群臣小首に詔して、帝紀、及び上古の諸事や住民を記さしめたまう。大島と小首(こおびと)みづから筆をとりてよってしるす」
 これは前に蘇我宮の焼かれた時に残されたものと、其他の諸種や見聞記を改めて集録せしめられたのであり、これより七年の後の持統天皇五年八月にも、大三輪、雀部、石上、藤原、石川、巨勢、膳部(かしわで)、春日、上毛野、大伴、紀伊、伊群、羽田、阿部、佐伯釆女、穂積、阿曇(あづみ)の原住系出の十八氏へ詔して、そのおやどものつぎふみをたてまつらしめさせた事があり、稗田阿礼も、これら旧記編纂の時には身分の低い舎人の一人として原住民系の子孫ゆえ、加わって居たのは当然のことであろう。

よって俗説のごとく稗田阿礼一人が、暗記していたのを口に誦したものと考えてはならないのである。
つまり前述の安万侶の古事記の今の表文は、

 

「臣安万侶申す。混沌として形がなかったものが凝り固まって、天地万物の未だ発現せず、名も無くまた何も無し。誰にしろ、その形を人類の発生前の事であるから、よって何人もこれは知らず。しこうして天地と乾坤が初めて分れて、陰陽ここに開け伊邪那岐命、伊邪那美命の二神が万物の祖神となって二霊群品の祖たり。地下黄泉に出入りし日月が目を洗ふにあらわれ、海水に浮沈して、神祇が身をすすぐにあらわれ、かれ太素の沓冥なる本教に、より而して土をはらみ島を産みしの時をしり、元祖の世の事も代々の聖人によって神が現われたる事も人の世となった事も知れる。
まこと知る鏡をかけ球をはきて、百王相続き、剣をくらい蛇を切りて、以て天照大神と須佐之男の命との御神誓にて天忍穂御身命が皇統の初めに生れまして皇統連綿として継ぎ、須佐之男命が矢俣大蛇を斬りたまひて悪神を平定された。

 安河に計りて天下を平げ、小浜にあげつらいて皇孫を天降りすべき議が安ノ河に開かれて、武甕樋神が大国主と大義を論じられて国土が統一された。よってニニギの命、初めて空より高千穂ノ嶺に降り、神倭ノ天皇、秋津島に経歴したまう。熊野浦に大熊の害ありし時高倉下の倉の中に叢雲剣が出て、熊野の悪神を平げたまい、
熊皮を着た者が出たが八咫烏が導いて吉野を巡られた。まつらわぬ賊をうち、凱歌をあげて仇を伏す。神武天皇が久米の舞をなされて長髄彦を亡ぼしたまひ、崇神天皇の時、四道将軍の一人大毘古命が少女の歌を聞き武埴安彦を討つたをいう。
境を定め邦を開きて、近き淡海を制したまひし成務天皇は大小の国境を定めたまい志賀郡を起し給ふ。

 近江の淡海は遠江国に対して云う姓を正し氏を撰する。民ともに文質同じからずと雖も、昔をかんがえ今を照しもつて典教を絶えんと欲するあたわずということ無し。
清原ノ大宮に大八州をしめせる天皇の御代に夢歌を聞き、業をつがむことを想い夜水にいたりて、基をうけむことを知ろしめすによって、東国に虎歩したまい、都を脱け出して吉野に入り又東美濃国に走り給う。
皇軍忽ち山川を渡り、六師雷の如く震ひ、三軍は電のごとくゆく矛をつき威をあげて猛士煙の如く起り、皇旗兵をかがやかして大女皇子の凶徒瓦解する」


とか、それに続けて今までのものは事実と違い、多く虚偽を加えているゆえ訂正せねばと、ゆえにこれ帝紀を撰録し、旧辞を検討して、偽を削り実を定め後世に伝えむとすとのたまう。
時に身分は賎の人あり、姓は稗田、名は阿礼、年これ二十八。人となり聡明。即ち阿礼に勅語して、帝皇の日継及び先代の旧辞を誦み習はしむ。しかれども世移り、
古事記を見ている人は書紀の天武天皇十年三月の修史や持統天皇五年八月、大三輪氏初めて十八氏に古記を徴したまひし事実を無視し天皇崩御の後は只阿礼の口に潰されたもののみと考える者が多いので、
古代文字なくして語部の口にて古事が伝へられたと即断するのである。故に此の表文にも帝紀を撰録し、旧辞を検討しとあるのさえ見逃している。
 

 紫宸にありては徳は馬蹄のきわまる所にかうむり、陽浮びて輝やきを重ね、雲散りても曇にあらず。峰火をつらね訳を重ぬる頁は、府に空しき月なく名は文命よりも高く、徳は中国の天乙にまされりとも謂うべし、
ここに於て旧辞の誤りたがえるを惜み、先紀のあやまりの、まじれるをば正さむとして、和銅四年九月十八日臣安万侶に詔して、稗田ノ阿礼が誦む所の勅語の旧辞を採録して、以て献上せしめたまえり。
 
 謹みて詔旨に随い詳細にとりひろう。しかるに上古の時、言意は朴にして、句をかまえること、今の文字にはきわめて難しく、すでに訓によりて述べたるは詞心に及ばず、まったく音だけで連ねたるは、事のおもむき更に長し。
これをもって、或は一句の中、音訓を交え用い、或は一事の内に、まったく訓を以て録す。即ち辞理見えがたきは、難解なり。

 姓の日下を玖沙河と謂い、名の帯を多羅斯(たらし)という。かくのごときの類は本によつて改めぬ。
 本に従い改めると云う処に阿礼が口伝のみに依らざることを示す。その記す所に天地の始めより始めて、以て小治田の推古天皇の御世に到る。故に天御中主神より以下、
日子波限建鵜草葺不合尊より以前を上巻となし、神倭伊波礼毘古天皇より以下、品陀の御世より以前を、中巻となし、大雀皇帝より以下、小治田の大宮より以前を下巻となし、あわせて三巻を録し、
謹みて献上し奉る。太安万侶、誠惶誠恐、頓首頓首。
和銅五年正月二十八日                
    


 さて、古事記全三巻を僅か百三十余日で纏めあげたとあるが、賎の舎人に日本原住民の阿礼が中国の故事を知っていてべらべらしゃべる筈もないし、
今の速記でも清書して四ヵ月で完成というのはプロでなくては出来ぬ仕事である。それに「本によって照らし合わせ」という個所があるのをみると、天武帝八年の修史の勅によって下敷になる草稿はすでにあり、
安万侶は日本人ではなくて、どうも大陸から渡来してきたが、新羅か高麗系の当時賎の舶来人だったらしい。
 それに、こうした今みられるようなものだったら御所に保管されていてもよい筈なのに、御所には最初から原本もなかったとは、いったいどういう事を意味するのだろう。

つまり御所におく価値もなかったものだったのだと判る。
 序文にあたる上記のものの中に、日本書紀よりの引用が各所にある。確か学校歴史では、古事記は西暦712年にでき、その八年後に日本書紀は出来たと教えている。
だが、これでは順序が逆でどう考えても可笑しいと思われる。
 私は学生時代に「骨事記」とよぶ紺色の写本を古本市で求めたことがある。その内容は、返り点もない白文の上下二巻本で、体制側の立場から、被征服の日本原住民が、飢えて食なく骨だらけになって彷徨しているのを嘲り、食を乞い得られずして餓死している状態を蔑むような調子で書かれたものだった。
 読めない字句も多かったが、「こつじ(乞食)施餓鬼」と渋紙に反古紙で細長い題名のついた文政戊子(1828)の奥書きだけの筆者不明の国文学者の筆らしく、万葉仮名のまじった分厚い一冊だった。

 つまり日本書紀が征服者の勝利者側の歴史書とみれば「こじき」は当初は被征服の日本原住民の飢鬼ぶりを揶揄して書かれた野史ということに、どうしてもなってくる。
 だから御所には賎のものとして一部の写本もなかったのはうなずける。
それを賀茂真淵に宝暦十三年に入門した本居宣長が「歴史とは美化するものなり」と教えられ、一握りの豆を地面へ放られて這いつくばって食ったり、
仏教に転向させるために施餓鬼と称して薄いコーリャン粥を一碗ずつ恵まれる隠鬼(おに)とよばれていた原住民の乞食史を、恰好のよい「古事記伝」に書き直し今に伝わっているのである。
「アメリカ建国史」は占領した白人が英語で書かれたものだが、文字を持たない被占領側の原住民である「インデアン史」が無いのと状況は似ている。

 なにしろ獣の毛を竹につけ筆とする物書きは原住民の限定職で(注・鎌倉時代から決まっていたことで、源頼朝頼朝御判二十八種では、細工人つまり職人はみな日本原住系の限定職種となっているのである。
平たく言えば、日本列島に自然にある動植物や鉱物を採取したり加工する権利は、原住民のものという権利を与えた。これは幕末まで続いた制度であった)、
徳川時代はすこしでも御政道に反すれば手錠遠島の重課の課せられた時代ゆえ、吉田垂加道を無難にとり入れて創作したのだろう。そうでなく今みられるような古事記であるならば、日本書紀と双輪みたいなものであって、御所で忌み嫌われる訳とてない筈である。だから「日本書紀」によればとか「古事記」にはとするような古代史は、まったく荒唐無稽というしかなく、歴史屋は不勉強のそしりは免れない。
これから研究してゆこうとする人は絶対に資料としてはならぬと戒め、後学が誤ることのないよう忠告する。