青春の意味 綸言汗の如し | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。


     の意味 

「青春」という言葉は現代ではとても恰好の良い言葉だが、江戸時代においてはこの意味はまるで違うのである。
 江戸時代まで各地にあった寺は、己の私有財産として奴隷の在庫表とも言うべきものを付けていた。これを「寺人別帳」という。そして各寺には、春になって雪解けの季節になると、大勢の人買いが里から奴隷を買いにやってくる。
 そうすると寺の坊主共は「田吾作の娘は十三になるから今年は銭にせん」と売り払うのである。
この現象は日本全国で行われ、現在各地の祭りで少女が着飾って行列する様子が見られるがあれは娘達を少しでも高く売るため一丁裏の着物を着せて検分させた名残なのである。
 人馬の市という一種のオークションで、此処で売られた娘達は山中温泉の湯女、つまり売春婦として売られて行ったのが「青の春」つまり今言う「青春」の語源である。
さて、江上説では太古この日本列島へ渡ってきたのは、西暦663年に鴨緑江を渡って、
朝鮮の釜山から九州へ入ってきた連中を騎馬民族だとしている。そしてその子孫が中国系の藤原王朝の時代から、草だとか青と蔑称され、被差別されるということは、大きな矛盾ではなかろうか。

 朝鮮半島の、新羅、百済、高句麗の三国が日本列島を三分していた時代は馬韓、辰韓、弁韓と称していた頃の三国だったから、日本ではその頃の名残で、越前越中越後、備前備中備後と三つに分けられた名称が残っている。

飼戸の民と蔑んで奴隷にしたのは騎馬民族だというのは間違いないが、それは誰かと言えば朝鮮半島の百済である。
その百済系の日本史では奈良時代というが、その百済の母国が、新興勢力の唐に攻められたので奈良王朝は日本原住民をかり集め、シコの御盾として27000人を本国救済に送り込んだ。

 しかし我がご先祖様の原住民は戦奴として差し向けられたものの、何も百済のために命がけで戦うことは無いから逃亡したり、隠れて戦わないものも多かった。
 
これを日本では白村村の戦いというが、奈良王朝の人間は少なく、指揮官だけだから唐の軍勢に一敗地にまみれ、指揮官達は捕虜となり、原住民は奴隷となった。
そして百済を占領した唐軍は、唐の将軍鎮将劉仁軌は部下の郭将軍に降参した奈良王朝人たちを道先案内にして、日本へ進駐してきたのである。この証拠が次の有名な歌である。


       いにしへの 奈良の都の 八重桜
    けふ九重に にほひぬるかな


この歌を綺麗な桜の情景と誤解しているが、とんでもない間違いでその意味は。
 これを現代語訳では 
「いにしえの昔の、奈良の都の八重桜が、今日は九重の宮中で、
 ひときわ美しく咲き誇っております」となっていて良く知られている。だが果たしてそうだろうか?
 
 このサクラの語源は古代百済語の「群がり」の意味なのである。
 今は居なくなったが昭和35年頃までのヤクザの香具師たちの言葉で、客寄せの意味に使われていた。
  香具師たちは大道で店を開き、衣服や万年筆など様々な品を売っていた。
 「さあこれは値打ちもんだよ、実は○○工場が倒産して社員の給料が出ない、だから安く売りに出したんだよ。はーい300円でいいよ」
 
 すると何人かが近寄ってきて「ほぉーこれは安いね、俺に3個おくれ」
 「そんじゃ俺も社員を助けるためだ、5個おくれ」
 こうなると通りすがりの一般の客も集まってきて、我も我もと買っていく。
 これを<タンカバイ>というが、この客寄せ用の云わばヤラセ役がサクラという。
 
 現在でも各テレビ局の放映の際、スタジオに集められてデレクターの合図で笑ったり拍手したり、驚いたりする奥さん連中もサクラなのである。また選挙の時、労働組合員が強制的に立会演説会場に駆り集められるのもサクラという。
 
 さて、その昔はサクラとは賤の者の集まりや集団で、つまり差別され虐げられていた 日本原住民達を指す。下総の佐倉といった地名も残る。尚、ヤエとは女のことで、八重桜とは百済の女達をいう。
 これらを頭に入れてこの歌を読み解けばこうなる。
 
 朝鮮半島の百済人が奈良王朝を立てて日本に君臨していたが、本国の百済が大陸の強国唐に負け、
唐の勢力が奈良王朝に取って代わって奈良の御所に入ってきた際御所に居た百済の女達は、
キムチの臭いか放屁の臭いか、とにかく唐の男たちには臭くて堪らなかった。

 という意味。
 桜の花なんか強烈な臭いなどしないし、綺麗な歌なら「かおる」というだろう。
即ち戦勝唐勢力の百済を卑下した歌だと判る。
 閑話休題。本題に戻る。 
 
 
奈良人達は日本に着いてから彼らの御所を明け渡し、そこに居た女達は唐の将兵の現地妻にされた。
しかし日本史の大家といわれる故、和歌森太郎は此処を誤って、新羅と唐の連合軍が進駐したとしている。
 だがこれはとんでもない誤りで、何故なら百済が唐に滅ぼされた後でさえも、新羅と高句麗は未だ唐に降参せずに敵対して戦っていた史実がある。

 このことは「続日本記」にもはっきりと「新羅高麗の者らを蕃族として討伐す」と記されている。
日本では則天文字、つまり現在の漢字というのは音標文字だから、新羅は白木と変えられ白木造りとされる社(現代では神社とされるが)の前に、石造りの犬の置物、高麗狗が置かれているのは、進駐唐軍に帰順帰化した百済の軍に討伐された際、
「新羅と高麗は連帯の輪を作っている」ということを、追われる騎馬民族たちに知らせ、勇気付ける為だと考えれば理解できる。

 何しろ、昭和60年天皇陛下が韓国、全大統領を迎えた際のお言葉が、
 『紀元六、七世紀の我が国の国家形成の時代に・・・・・』と言われた。

 これは何を意味するのかというと、"神武建国"を天皇陛下が否定されたのである。
即ち、この日本列島の国家形成を白村江の敗戦からであるといわれたのである。
日本国の象徴である天皇陛下が畏れ多くも仰せられたのだから、早速その通りに謹んで歴史を書き改めなければならないのに、この国の各大学で高給を取る歴史学者共は何の行動も起こさない。
 そして相変わらず藤原氏勧学院派の「日本書紀」と本居宣長の「古事記伝」の二冊を持って金科玉条としている。
 従って「綸言汗の如し」の意味は国の最高位の天皇陛下のお言葉は、絶対の重みと責任があり、それは人間の汗の如く一度出たら元には戻せないのであるから、戦前と違い臣民とは言わないが、国民の一人である学者共は畏れ多くを忝くして従い、日本史を書き直さなければならないのである。