鉄砲軽視由来記 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。



    鉄砲軽視由来記



 それは奇妙なことかも知れないが、昔から、武士の家では「槍一筋の家柄」とはいうが「鉄砲一挺の家柄」とはいわない。
「街道一の弓取り」は、立派な武将のことをさすが、「街道一の鉄砲打ち」となると、これは猟師の事となってしまう。
 それに『信長公記』などには、信長が鉄砲を習ったようにでているが、一般には、「鉄砲」というと、「足軽鉄砲」とされている。だからでもあろうか前大戦でも、アメリカ軍は、閣下とよばれる準将クラスでもいざという時は肩章をとって自動小銃を小脇にバリバリ撃ちまくって突撃してくるのに、これに対する日本軍は、下士官の軍曹や伍長あたりでも、
斬れもせぬ昭和刀をぶら下げて、「日本刀は武士の魂だ」とばかり鉄砲は足軽なみで、えらいのは刀だとやっていた。

 だから、つい弾薬の補給もおろそかになったのか、各地で弾丸がなくなってしまい、「切り込み隊を組織する」と、兵隊はゴボウ剣をもたされて敵中へ突撃させられ、バリバリ敵の弾丸にうたれて死んでしまった。
 またどうしても吾々の手で日本を守らねばならぬ時がくるかも知れないが、そのとき、やはり銃をもたされ出征させられるかも知れないが、またも同じように、「日本刀こそは日本武士道の精華」といった幻想にまきこまれ、一般大衆である兵が銃をもたされているが故に、軽視され棄て殺しにされるようでは困るのである。

 と書くと、まさかと首をひねり反撥されようとなさる向きもあろうが、日本においてはアメリカかぶれしたウエスタンクラブまであって、モデルガンが持てはやされるような今日でさえ、
銃は鉄砲は心の底では伝統的に蔑まれているのではあるまいか。なにしろテレビにしろ映画にしろ吾国のもので、鉄砲を持って姿を現すのは悪人に決まっている。

 そして時代劇では、銃口を主役に向け撃とうとするのだが、まず第一段階で間一髪を入れず弾丸より早い主役の剣さばきで斬り倒されるか、遠隔な場合は手裏剣のような主動式飛び道具の方が早くて、
これを妨げてしまい、鉄砲を持った相手は、「‥‥おのれ無念」といった表情で樹の枝などから、見苦しい格好で転げ落ちる。
 たとえ、それより増しの場合でも、弾丸の速度よりも早く脇から咄嗟に、銃の前へ主役の二枚目を好いている鳥追い女などが現れ出てきて身代わりといった具合に撃たれてしまい、
「己れッ卑怯な」といった言葉をはきつつ、女の敵とばかり大刀をふるった主役が、鉄砲を握っている相手に斬りつける。そして、(鉄砲なる卑怯未練な武器を使用した悪い奴)は、醜くもがき苦しみ、さながら天罰をうけたように悶絶して転がり、見る側は、それを因果応報といった具合にうけとめ内心ザマみあみろと痛快がる。
このパターンが日本人の思考というか趣向に合ったものとして、定型化されているおもむきがある。
 
それゆえ現代を扱ったものでも、やはり銃は冷遇されている。一般のアクションで銃をもつ悪い奴を如何にして素手の主役が、不自然でなく叩きのめすかという擬闘が、その見せ場にさえなっている。
つまりチャンバラ物の無手勝流なのである。しかし銃に向かって素手の人間が掛ってゆくというような事は、現実にあっては、精神障害か異常者でない限り有り得る筈はない。
 なのに日本では銃を軽視するがゆえに、そうした無理な設定がなされ、いかに精巧な銃をもつ相手よりも、剣道の達人の方が互角に立ち合っても、必ず勝つという具合に画面から視覚教育をしたり、
剣豪作家も平気でそうした紙芝居のようなものをかく。だから、そうした弊害によって、「銃はむなしく、剣こそわが命」といった観念が、常識的には妄想であったにしても、確固たる信条として日本人に植え付けられてしまい、それゆえに、
「鉄砲より強い日本刀」といったイメージがひろく浸透し、さて実戦にぶつかって、(日本刀は極めて至近距離まで相手に近づかねば、まったくなんの用もなさないのに、火器である鉄砲は遥か彼方からでも、
もし望遠レンズなどつけていれば、肉眼では視えぬ距離からでも狙撃できるものだ)といった判りきった現実にぶつかって挫折させられる。やがて、

 つまり観念の中の日本刀の優位さが、現実に火器の前で脆くもその幻想を崩されてしまったとき。かつての日本の軍刀をぶら下げていた人たちは、そうかわれ誤てりと落ちている銃を拾って、
武器の交換をするだけの心理的転換もできず、やけっぱちになってその日本刀を振り廻し突入し、近づけぬまま倒されてしまうか、または、もはやこれまでなりと、敵を切るつもりで吊さげてきたもので吾れと吾身を、
刺し貫くといった自虐の悲劇を演じたものである。

 こうした事態が過去に何千何万の有為な人たちによって、幾度となくくり返されてきた悲劇たるや、日本武士道、日本精神をうたい文句にした刀剣商の商魂のせいだったのかも知れない。
値よく売れればそれでよいというので、鋳物同然の昭和刀まで、もっともらしい銘を刻みこませ、それを堂々と、
(刀剣商の推奨する刀さえ求めて戦地へ行けば、それが護身の役割をはたす)といったような煽り方までして売りまくられたせいなのであろうか。まあ戦争というのは何処でも誰かが儲けるために企画されるといった裏面がないでもないから、道具屋もそれに便乗して儲けるのだろうが、踊らされ死なされる方は堪ったものではない。
 が、それにしても、こうした日本刀を扱う業者の剣豪作家まで使う派手な売りこみで、つい、そちらを過信しすぎてしまい、鉄砲が軽視されるような過ちはもうくり返して貰いたくはない。
 目には目、歯には歯をで銃で向かうように、神がかり的なものから常識的な観点に戻って、何故にそれ程までに、この国では銃を卑しみ軽んずるの傾向があるかを探す必要もでてこよう。

 織田信長が設楽原で木柵を三段構えに結んで、武田勝頼の騎馬隊を近づけず、これを銃撃でほぼ全滅させたことは有名である。
 だから歴史書などでは、「天文十二年(1543)に種が島へ鉄砲が伝来してから、この新しい武器は戦国時代の日本各地に、瞬く間に広まった」といったように説明される。
 しかし本当はどうだったろうか。たとえば徳川家康などは、鉄砲隊の入用のときは信長から借りていたという史実がある。上杉謙信や武田信玄は、ろくに備えていなかったのは有名。
比較的利用していたのは、太平洋沿岸に城をもつ中国、九州の大名に限られていただけではないかといった疑いも持てる。

 また旧日本陸軍が、銃を軽視して、それより斬れなくても昭和刀を愛好したのは、「銃器を生産していた軍需工廠や、その下請けの軍需産業は、なにも宣伝広告しなくとも、軍需局が一括購入してくれ、
日銀払出し小切手で支払いもまるまる貰えた」のに対して、刀は、刀伊来攻の時のようにお上での買上げではなく、「古美術商」などと看板を掲げた骨董屋であるから、この際がぼっと儲けようと、
正札をどんどん吊り上げ、「日本刀物語」とか『名刀名工談』といった類の、もっともらしいPR版を何千部か買取り契約で書店から出させた。
前述のごとくこれまでの歴史作家と称する者に、この種の著書が多くあるのはこの為のものとみてよかろう。

 つまり世間知らずの一般の軍人は、単純というか純粋なので広告しない銃器よりも、どうしても、「今宵の虎徹は血に飢えているぞ」といった刀や、いわゆる名刀と宣伝されている方に、心が傾き、
使ってみる迄は切れ味も判らぬから、大量生産の当時の昭和刀でも、外見の拵えさえ一人前なら満足してぶら下げ、「剣だ」「剣だ」と吉川英治の宮本武蔵でも読みつつハッスルしていたのだろう。
となると、いわゆる剣豪作家なる者も、まんざらこれに対して責任がないとはいい切れぬかも知れなかろう。

 しかし日本において銃たるものが実際は初めからまるで重視されなかったことは、江戸時代の初期に難破して千代田城へ招かれたフィリッピン長官ドン・ロドリゴの見聞録にも、
「太子(徳川秀忠)の護衛隊は長槍、短槍を林のごとく立てた四百人。そして中近東のアラバルダに似たナンキナ(薙刀)を抱えた三百人。そして半弓、大弓の射手五百人が遠巻きにして、櫓の上に整列して守備していた」
 鉄砲伝来六十六年たっている割りには、あまりにこの国では鉄砲が重要視されておらず、城の入口に立っていた銃隊だけしか見かけていないから、それは儀式的なものかも知れぬと書いている。
 だから、
「へぼ将棋、王より飛車を大事がり」というが、まだ弓矢の方が大切にされていた日本では、この慶長十四年(1609)頃でさえ、あまり鉄砲は重要視されていなかったとみえる。
 まさか、剣だ、剣だとはいっていないが、もっぱら当時は弓と槍に重点をおいていたようである。また、つまりこういう具合だったから、この二百五十九年後に、上海帰りのリルならぬグラバーによって輸入されたアメリカ南部の廃銃に、
鳥羽伏見でいともあっさり負けるのである。
(実態は、大阪城天満や江戸城西の丸に貯蔵されていた古い火薬のために不発が多かった。そして薩長は新火薬を上海から輸入していた為、十倍もいた幕府軍は敗走。これを観た徳川慶喜は一早く大阪城を小姓に化けて江戸へ逃げかえり恭順したのである)