真説 明智光秀 明智光秀の生い立ち | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

 真説 明智光秀

 明智光秀の生い立ち



【序】以前テレビの「世界不思議発見」で、明智光秀の子孫という人物が出演して434年目の真実として、
   特集が組まれていた。しかし相変わらず(光秀犯人説)を前提に様々な考察をしているが真相とは程遠かった。
   (スペインでの史料や徳川家康との関係まで調べたことは評価に値する) 
   先ず解明の姿勢として
○本当に光秀が犯人なのか
○彼でなければ誰なのか
○では何の為に殺したのか、
   こうしたところから入らなければ解明できはしまい。この事件は当時の国家権力者を殺した大変な事件である。
   自分の先祖が「信長殺し」の汚名を434年年も背負ってきているのに、この人が本当に子孫ならば、それを晴らすのが子孫の役目である筈が、これでは先祖に対する冒涜である。よって泉下の光秀を偲んで以下に真相を記す。
   
(注)前日本歴史学会会長、故高柳光寿博士著「戦国人名事典」に拠れば、斉藤道三に関して次のように記されている。
「美濃の人、名を秀竜とも。初め永井新九郎といった。以下略」
この「戦国人名事典」では(本法寺文書・美濃国諸家系譜)によって考察されていて一世の碩学と言われた博士のこの著書は大変な労作である。
本編では明智光秀の生い立ちと、その母について、更にその妻についての考察をして見たい。
これにより、道三の娘奇蝶と、光秀と信長との、複雑に絡み合った蜘蛛の糸のような人間関係を読み解き、強いては「信長殺しの謎」に迫ることが出来よう

 

   斉藤道三の妻「小見の方」

先ず、道三の二度目の妻となった小見の方だが、東美濃の豪族、明智光継の第三女に当たる。この姉妹の内、上の姉二人は、それぞれ十五歳で縁付いている。これは当時の常識で決して早い婚姻ではない。
しかし小見御前というのは、二十一歳になるまで嫁に行かず、一生ゆかず後家の覚悟でいたらしく、土岐頼芸が無理やり四十男の道三へ嫁がせたのである。
明智光秀が生まれたのは享禄戌子の年だから、明智城内に残っていた小見の方は十七歳の時光秀が生まれたことになる。
問題はその父親だが、何の史料も残されて無いので、ここからは想像するしかなく、秀吉のように小者や足軽風情がれっきとした城主の娘と関係するはずはなくおそらく城内に居た若い武士と関係し、その男は戦死して、彼女は父無し子を産む羽目となり父や姉妹にたいしても肩身の狭い思いで暮らしていたものと想われる。

そして道三にしてみれば、当時白奇丸と呼ばれていた、幼い光秀を父に早死にされ母にも取り残された孤児を明智城に残しておくより、己が手許へ引き取った方が、東美濃の人心を己に引きつける上策と考えたのだろう。だから、
「よしよし、この道三は庄九郎とかって名乗っていたこともあるゆえ、其の方には九より一つ足して、十兵衛と名乗らせよう。わしの子として斉藤十兵衛とするもよし、明智十兵衛と里方の姓を継ぐでもよい。
いずれを用いるは心任せじゃぞ・・・・・」となった。
しかし、十兵衛とすれば、見知らぬ四十男の道三に馴染めず、さらに夫が出来た母も以前のように何時も一緒に暮らすことは出来ず、母親を取られたという子供心の寂しさと嫉妬の感情もあったろう。結局は祖父の明智光継の許へ帰ってしまう。

 さて話しがすこし前後するが、道三と頼芸とが仲違いした際、土地者ではない道三は、京からの流れ者だから、あまり味方する者が少なかった。だから小見の方の里の明智党や縁続きの妻木党も含めて千名近い武者で大桑城を包囲した。
狼狽した土岐頼芸は命からがら大桑城を脱出しそのまま逃亡してしまった。
このため天文十一年五月二日をもって、美濃一国は国主が居なくなって、「従五位下」に任官し山城守となった斉藤道三が取って代わって新国主となった経緯があり、道三の許へ寄り付かぬ十兵衛のために、
手柄のあった妻木党への論功行賞をしたついでに、「其の方の娘をわが子の嫁にくれろよ」と、妻木広忠の娘を貰いうけ、十兵衛光秀の嫁にした。その名を「しら」という。
後にこの広忠の倅の妻木定徳は、光秀の世話で信長に仕えたが、光秀の死後は美濃へ戻って身を隠した。
が、徳川家康は彼を探し出して関が原合戦に味方させ、光秀の徳をしのんで旧領妻木在を返し七千石で召抱えたと『寛政譜』にはある。(この一事を見ても、家康は明智光秀を信長殺しの犯人と見ていなかったことの一つの証拠である)
  
   明智十兵衛と妻しらは流浪の旅へ

さて、好事魔多しというが、天文二十年三月に、道三にとって掛けがえの無い小見の方が時病(はやりやまい)にかかって急逝してしまった。
前妻は土岐頼芸の側室だったから、その権威をかさにきて、何かと扱いにくかった三好野を失った時と違い男哭きしたと言う。 
そして葬式に十兵衛若夫婦を呼んだが「・・・・生母が亡くなった美濃になどもう居たくもない」と井の口城へは行きたがらず懊悩する若い夫に妻もすっかり同情したのか、二人揃って当てのない流浪の旅に出かけてしまった。
 しかし、己が母親を道三に奪われ、そして死なされた如くにも受け取って、葬儀にさえ姿を見せぬ十兵衛の心情など判ろう筈はないので、それからの道三は側室をどんどん作り、次々と子供が生まれた。
竜重、竜定、新五こと、後の斉藤玄蕃介が生まれている。

       道三、小見の方、奇蝶、光秀 相関図として整理しておく。

                 側室(三好野)→義竜
        
                      斉藤道三 側室(名不明)→竜重、竜定、末子新五 
                 本妻(小見の方)→信長の妻奇蝶

        
    小見の方の連れ子が後の明智光秀、従って奇蝶と光秀は異父兄妹。            

  道三の子義竜、父に背きその命を奪う

「明智の十兵衛は行方知れずでよろしいが、こう次々と男児が生まれては・・・・」と、改めて斉藤義竜を名乗るようになった豊太丸へ家臣の日根野備中が告げた。
「わが亡き母の三好野が、父と頼芸の殿とを掛け持ちしてござったとか云うて、わしの父が誰か判らぬという風評もある。事によったらわしは殺されて、弟どもの誰かが美濃の跡目を継ぐようになるかもしれぬな」と若い義竜は心配になってきた。
そこで腹心の日根野備中に、上の弟二人を殺させと、父である道三に叛いた。
「義竜様は土岐頼芸さまのお種である」との日根野備中らの宣言に、旧土岐侍は皆味方したから、他所者の道三には兵が集まらず、戦巧者で知られた道三はとうとう弘治二年四月殺された。すると義竜や日根野備中は、
「道三が己の子にした明智十兵衛は出奔し行方不明と伝わっているが、事によったら何処へ行く当てもないのだから、立ち戻って隠れているかも知れない」
「うん、今は居なくても舞い戻って来られたら、明智はその根城になる恐れがある」
「よしッ一人も残らず焼き殺してしまえ」と小さな山城へ一万余の軍勢で押しかけ、女子供まで徹底的に焼き討ちにしてのけた。
だから現在、城跡といっても明智城の旧跡には、全く何も残ってないのはこのせいなのである。
さて道三の子の中で新五だけが助かった。
彼は後信長に養われ、斉藤玄蕃介と名乗って、信長の長子中将信忠の家老となった。
本能寺の変の際、玄蕃介の子の新五郎は、信長の小姓として二条御所で焼死したが、玄蕃介は亡父道三の井口城を信長が改築した岐阜城主として、美濃に君臨していたこともある。

  道三の子、明智十兵衛(光秀)
 流浪の果て足利義昭に目見えする


当時まだ十兵衛と呼ばれていた光秀としらが、生国の美濃を出奔したのは天文二十年四月のことである。各地を流れ歩き、越前まで流れ着いて、朝倉義景の家臣の端くれに納まっていた。
そんな時思いもかけない貴人が現れた。朝倉家を頼って足利義昭が来たのである。三年前の永禄八年五月に、三好松永の徒に足利将軍義輝が襲われたとき、弟の義昭は当時奈良の一乗院の門跡で、「覚慶」を名乗っていたが、素早く脱出して近江甲賀へ逃げた。 そこからやがて矢島の六角党を頼り、翌年は若狭へ行って武田義統の許へ行ったが、協力が得られずやむなく朝倉を頼って、越前一乗谷の館へ身を寄せていたのである。

この義昭は世が世であれば足利将軍の位につける武門の頭領ともなるべき身上なのだが、こうして彼方此方流浪しているのを聞くと十兵衛は同病相哀れむというか、すっかり義昭に心引かれ何とかお目もじしたいと念じるようになった。
しかし当時、室町御所での表向きの目見得の色代というのが三十疋(一疋は銭十文)で、今の十兵衛には大変な大金で都合が出来ない。その時妻のしらが、旅へ出る際、実家の妻木の親元から何かの時の用心にと貰い受けてきた銀を、夫のために差し出し、義昭に目見得が適ったのである。
何かと不自由していた義昭は、申次衆の長岡藤孝(後の細川幽斎)に、
「身分や地位などはどうでもよい。金蔓と思うたら逃がすでないぞ。なんせこの義昭が晴れて足利将軍家になれるもいなやも、一にかかって金次第。
今の明智とか申す奴にも其の方の口より『精出して忠義を尽くすにおいては、将来直臣に取り立てて目を掛けてやらぬでもない』などと美味しいことを申し伝えておけよ」と言いつけた。

 足利義昭、十兵衛の素性を知り、利用を謀る

 なにしろ、まだこの時代に忠義などという儒教の訓育は輸入されていない。だから、
(金を貢いで持ち込んできたら・・・・)といった意味で、義昭にしてみれば、朝倉が思いの外にケチで軍資金を出さぬから、越前の上杉景虎や地方の主だった武将に対して片っ端から(兵を出してくれるか金を貸してくれるか)しきりに側衆を派遣して催促していた矢先である。たとえ無名の者でも三十疋の銭をぽんと持ってくる様な者は何としてでも自家薬籠中のものとしておきたいところだった。それゆえ、何日かして長岡藤孝が明智十兵衛の素性を調べ、その報告に来た。
「あの十兵衛と申す者は、東美濃の明智光継の孫の身上。また織田信長の室の奇蝶御前は、光継の第三女小見の方が斉藤道三入道との間にもうけられし最初の姫・・・という繋がりでございます」
「そうか。さすればどっちも明智光継の孫に当たるゆえ、信長の妻とは従兄妹どうしの間柄で、斉藤道三の種違いの子にあたるのか?」「こりゃ、とんでもない掘り出し物じゃ。巧く操れば信長をば吾が味方として此方の手足として利用できるやもしれぬ」
こうした思惑から義昭は藤孝に命じ、朝倉家に納まって居られぬよう、十兵衛の追い出し策と、信長の許へ行かざるを得ないように仕向けた。
それは信長の美濃尾張二カ国の兵力を思うがままに使え、義昭が足利将軍職になるためである。
そして、十兵衛が織田の間者だという風評を広め、朝倉家をやめるのなら、義昭の直臣に取り立てるという甘言を弄して十兵衛に信じ込ませた。だが、そうはいっても肝心の足利義昭公は、寺に住んで、目見得料をとって暮らしている境遇である。
直ぐに扶持など出る筈もなく、「武士は食わねど高楊枝」などといっている場合ではなく、妻のしらが信長の妻奇蝶に会いに行くことになった。結局は金の無心ということになる。

      光秀の妻しらが奇蝶に会う
  奇蝶は十兵衛の為に金を出す

 
この当時の奇蝶の境遇は、岐阜城の二の丸に暮らしていた。それは信長が美濃を占領したので、新しく美濃で領地を貰った尾張侍と、これまでの美濃者との間で争いの公事の裁きをしていたためである。
これはいわば占領軍と占領された側の紛争で、元々奇蝶は美濃の道三の娘だから、彼女の所に双方が裁定を願いに来るのは必然である。従って双方からの夥しい銀や銭が集まっていた。
ここにしらの兄の妻木将監に伴われて願いに顔を出した。そして実はかくかく、しかじかと、夫の十兵衛の事、足利義昭のこと、長岡藤孝との関係を奇蝶に話し縋った。
奇蝶は一部始終を聞くと「義昭さまというは・・・・それ程のお人ではないかも知れぬが、長岡藤孝というのは仲々の策士と聞くゆえ、用心さっしゅりませ」と口にした。奇蝶が用心を喚起したのには、訳がある。

 先年、長岡藤孝が長島の一向門徒の手をへて、斉藤竜興に助力するよう、森石兵衛入道という者を使者に立てて信長のもとへやって来た。だが信長が竜興を攻め落とし、また長島の一向宗と共に攻め込んできたのも追い散らしてしまったから、
森入道は捕虜となっていたこともあったのである。
「長岡藤孝が十兵衛どのに目をつけ、義昭公の直臣にというは、おそらく斉藤竜興が失脚した今日、この織田家を利用せんとの企みじゃろう。が、こないな内幕を教えたところで、あの一本気で石頭の十兵衛どのには、とても判って貰えまいのう」と、思案にくれていたが、暫くして、
「これまで十兵衛殿は意地になって、わが夫の織田信長には近づくまいと避けていられたが、義昭どのの御家来ともなれば・・・・向こうさまはその為にお傭いになるのゆえ、
もう否応無しにわが夫と逢わねばならぬ仕儀になるじゃろう・・・その時十兵衛どのにみすぼらしくされていては、うちの信長どのは、すぐ他人を小馬鹿になさるお人ゆえ始末につかぬ」

 光秀、京に大邸宅を購入して貰い、家臣も集める

「幸い、この岐阜城の二の丸に戻ってきてからは銀も銭もどしどし入ってくる。これを悉皆そちらへ送り届けるによって、先ずもって京で大きな邸を求めて引き移り、名のある牢人にて素性のよき者など集めるがよい」と指図するように教えた。
そして、奇蝶の腹心の者に銀を持たせ、京の二条小路に一町四方もある大邸宅を買い取ってくれた。次の日からは、三々五々見知らぬ武者がやってきて、館の裏の武者長屋に納まった。
さて、この後の明智十兵衛のことを『細川家記』永禄十一年七月十日の条を引用すると、
「明智光秀の家来溝尾庄兵衛と三宅籐兵衛が二十人余の共武者を持って阿波口にて待ち、七月十六日に一乗谷を出た足利義昭の一行の共をなして穴間の谷から若子橋へ出ると、京より明智光秀が仏が原のところで五百余の家来を率いてこれを迎え、それより織田信長の家臣の不破河内守、村井民部、島田所之助らの待つ近江犬上郡多摩へおもむき、二十五日には美濃の立政寺へ道中無事に義昭の一行は、光秀主従に護衛されて到着した」とある。

 これまでの俗説のように、明智光秀は朝倉家へ奉公中も五百貫どり、信長に仕えた後も初任給五百貫であったというのは、全くの誤りである。一貫一石として換算しても五百余の家臣というと、これはたいしたもので、後年三万五千石だった浅野内匠守などは塩田が在って裕福だったが、それでも士分の他に足軽小者を入れても、三百といなかった。
これは「浅野家侍帳」でも明白で、少なくとも光秀は最初から六、七万石の格式だったのである。

 当初、信長と光秀は対等の関係だった

それに当時の日記である『言継卿記』『兼見卿記』『中山家記』『宣教卿記』には、
「元亀元年(1570)二月三十日、信長の一行は岐阜より上洛し光秀邸に泊まり翌三月一日、光秀に案内されて禁裏へ伺候」とか、
「同年七月四日、姉川合戦に勝利を得て織田信長は、その旗本どもと二条の光秀屋敷に逗留し、七日に岐阜へ戻る」等とでている。そしてこの時代は、明智十兵衛光秀はまだ足利義昭の方の直臣であって、信長の家来になどなっていない。
つまり、この当時の階級制度からゆくと、武門の頭領は室町御所を二条城に移した足利義昭だから、その直臣の光秀は格からゆくと信長と同列ということになるのである。
だから現存している、織田信長から足利義昭へ出した諌言の書簡でもはっきり信長はそれに「明智十兵衛尉殿」と、殿という敬称を書き込んでいるのを見ても判る。だから上洛の時信長が光秀の館を宿所に当てたというのも、
当時の京には今のようなホテルもなく、何百という兵を宿泊させるところは、洛中何処にもなかったせいだろう。それゆえ信長は、その豪壮な邸宅が妻奇蝶のスポンサーによるものとは知らず、
「何時も大変ご厄介をかけて・・・・」などと礼を言っていただろうし、また、
(かかる大邸宅を持ち、五百余の家来をもつとは、光秀はなかなかの者である)
と、今も昔も信用というのは、やはり金だから、すっかり買いかぶってしまい、これは人材であると見込まれたらしい。そこで、
「足利義昭より、この信長の客分になりなされ」とスカウトされ、足利の臣であっても、織田家から知行地として近江の志賀に貰っていた。
つまり明智光秀は、天正元年三月に足利義昭が信長と衝突して都落ちをするまで、足利と織田の双方から、ひっぱりだこの恰好で、両方からサラリーを押し付けられていたのである。だから秀吉あたりが近江長浜で初めて城持ちになった頃は、
光秀はとっくに近江宇佐山の志賀城を壊し、坂本に自力で城を築き、すでに一国一城の主にまでなっていた。
 それゆえ小者として奉公し努力を重ね立身してきた秀吉には、客分として入り込んできた光秀は、はじめから煙たい存在であったらしい。
 
     光秀は「信長殺し」の罪を被った悲劇の武将

 また光秀は恰好をよく付けるために、奇蝶から夥しい銀や銭を貰っていた義理から、天正十年六月二日の本能寺の変が起きると、部下の斉藤内蔵介の仕業で自分は無関係だったにもかかわらず、その黒幕が奇蝶だったと聞かされると、
仕方なく名目人になったりして、まんまと長岡藤孝のもうけた罠に落ちてしまい信長殺しの犯人にされてしまっている。
なにしろ秀吉にすれば、かねて面白くない競争相手だったから、これを山崎円明寺川の合戦で、騙まし討ちにして殺し、さも光秀が信長殺しで、自分が仇討ちをしたように宣伝した。
また徳川三百年の間は、この信長殺しというのは、徳川家のタブーであったらしい。
「神君家康公のおんため」を慮って頼山陽も体制べったりで「敵は本能寺にあり」といった光秀謀叛説を強調するものをつくり、これを世に流行させてしまった。
が、徳川政権はその後潰れてしまったから、もう家康に気兼ねすることもないのだが、いまだに江戸時代と同様に、「夕顔棚の彼方より現れ出たる明智光秀」と芝居そのままに、信長殺しの犯人と誤っている歴史屋や読み物が氾濫している。

 奇蝶と光秀、しらとの皮肉な関係

さて「人生は禍福をあざなえる縄のごとし」というが、十兵衛の妻しらが、岐阜城へ奇蝶を訪れさえしなければ、よし貧乏であったにしろ、流れ者の暮らしであったにしろ、この夫婦はもっと穏やかに人生を送り、
天寿を全うできたかも知れない。また光秀が四十をすぎるまで、縁続きの奇蝶を嫌がって近づかず、その夫の信長の許へも行かなかった理由は、
(接近すると将来ろくにことにならない)といった予感が初めから在ったのか、はた又、奇蝶の烈しい性格をよく知っていて、
(剣呑ではある)と用心して側へ行かぬ算段をしていたのか、これは明らかではない。
だがなにしろ、美濃から尾張へ嫁入りしたので、当時の風習として「美濃御前」と呼ばれ、その「美」は「み」と呼べば、敬語に通じるというので略されて、
「のうの方」とか「のう御前」と呼ばれていた奇蝶は、徳川家の都合で江戸時代は「夫殺し」とされ、日本全国どこにも墓や碑は残っていない。
文献らしきものと言えば『美濃諸日記』というものの中に、遠慮して書かれたのか、それともとぼけてあるのか、
「帰蝶(奇蝶)と明智光秀は従妹なりとも云う。これ奇聞なり」とあるくらいである。(合掌)

だが従兄妹どうし程度では、奇蝶が光秀の為になって出した銀は巨額にすぎる。
父親は違っても同じ小見の方の同腹の間柄でなければ、どうしてそこまで奇蝶が信長に見栄を張って光秀を立派に見せたがったのか、納得しかねるものがある。
しかし奇蝶と光秀が異父兄弟であったことが明白になると、どうしても「信長殺しは光秀」というのが複雑になってきて疑惑の種をまきやすい。だからこの繋がりも徳川時代には秘密にされていた。
しかし光秀の長男十五郎が産まれた時、奇蝶は自分の名の一字を付け「白奇丸」と命名している。
また奇蝶はその以前にも、生駒の娘に信長が産ませた後の織田中将信忠をも「奇妙丸」と己の名からつけて自分で育てている。
やはり光秀とは肉親の間柄だったことがこれでも明白だろう。

 光秀の妻しらの壮絶な最期

光秀の妻しらは山崎合戦が十三日に終わったあと、安土城守備に回っていた娘婿の光満が兵をまとめて琵琶湖畔を迂回して、坂本城へ引き上げてきたところ、十五日になって秀吉方の堀久太郎に包囲され、そこで一族もろともに生害してから、城を爆破しているが、『兼見卿記』天正四年十月十四日の条に、
「惟任女房衆(つまり光秀の夫人)が病気になったから、回復するようにと平癒の祈祷をして欲しいと、光秀からの依頼があったので加持祈祷した」
という記載と、その十日後に「光秀はその夫人が、お陰で病気が治ったからといって、家臣の非在軒という者に、平癒の礼であると銀一枚を届けてよこした」というのが伝わっている。
これでみると、光秀夫婦は最期は互いに離れ離れになって非業死をとげたが、生きとして生きている間は妻は夫を庇い、夫の光秀も妻を労って仲良く共に暮らしていたらしい。
しかし結果は最期になって現れてくるものである。
存命中の光秀や、その妻しら、そして奇蝶にしても、まさか生涯拭いきれず死んでも何百年も汚名が付きまとうような運命に、やがてはなるとは、まさか想いも及ばなかったろう。(深く合掌)
長文の本稿を愛読して下さった読者に満腔の謝辞を表します。
また、世界にも類のない歴史書とも言えぬ神話と史書との混合した「記紀」を金科玉条とする日本史。
徳川家の都合で書かれた「徳川史観」、これらを根底に置いた通説俗説を離れ、怜悧な目で日本史を見直す機会の一助になることを願って。