日本民族「海洋渡来説」 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

この一文は、私の主催するNifty会員制歴史会議室で木村鷹太郎の「海洋渡来日本史」を紹介した際、読者からの疑問に答えたものである。

木村鷹太郎氏の名誉のため断っておきますが、「海洋渡来日本史」の中で氏は海流の速度にまでは触れておりません。

 氏はギリシャ語、ラテン語、英語を比較研究し記紀と対照し、足利時代からの謡曲や<神道五部集>と対比歴史学の手法でこの本を書いています。


黒潮暖流(日本近海では黒瀬川と言いますが)
ペルシャ湾~印度のゴアを経由して~ベンガル湾を通り~マラッカ海峡をぬけ~ベトナム~バシー海峡~日本と大まかに言えば
このルートです。

 次ぎに私がこうした考えに至った理由を記しておきます。
「筏や丸木船(安定保持のためアウトリガーのついたもの)なのか、
構造船で船団で来たのか」・「黒潮の表層速度はどのくらいなのか」
と考えました。

ここも諸説が在るのですが、私は前者の筏説をとります。というのはマンチェスター学派のエリオット・スミスの論文「古代航海民」では古代文明伝播期でも原始的であってもやはり帆を張る、とあります。

そして、逆風でも走航できる操法が開発されたのは12~13世紀と考えます。
これはリスボンの海事博物館に船の歴史が順番に出ていて、紀元前に構造船で船団を組み、大量に日本に来たとは考えにくいので、少数の集団が散々伍々やってきて居着いたと言う考え方です。

 民間の研究者の佐治芳彦氏(古代史研究、分筆業)や鹿島氏(シルクロード史、契丹史研究、弁護士)は船団による組織的移民説です。それと、造船関係者に聞くと筏や丸木船は意外と時化には強いといいます。以上の理由で私は筏説を採りました。
いずれにしても大局的に見れば<海から海流を利用して日本へ来た>という事実は動かし難いと思います。

 次ぎに黒潮の速度ですが、
海洋物理の本や水産庁、海上保安庁水路部の色々な黒潮に関する観測データに依ると(日本近海のデータが主)黒潮の表層速度は3ノット位が定説になっています。これは黒潮の主流と分流によっても、海水の塩分密度、海上の風速、大気温度、観測海面等様々な条件によって速度は異なるようです。ですから場所によって7ノット位の流速もあるといいます。

 さらにヨットで太平洋を渡った堀江謙一、鹿島郁男、牛島龍介氏らが平均3ヶ月でシスコやロスに到達しているので、これらも参考にしました。又、筏の「野生3号」の日本~北米大陸間、51日間も考慮にいれました。
(食料や飲み水の問題もありますが、長くなるのでここでは速度に限定いたします)

 日本、米国西海岸はおよそ1万キロですから90日で計算すると2.5ノット位です。海流と風向は同一ですから、筏に帆を張れば更に速くなるでしょう。

 

 それと古代と現代の黒潮の速度の違いも学会でも諸説 があるようなので(古代の方が速かったと言う説)
これも考慮にいれながら3~7ノットの結論に達した訳です。大事なのは・来た・事の立証ですからこの段階で速度に関してはアバウトでいいと思いました。 

現代我々が考えている以上に古代より海のハイウエーともいうべき黒潮の利用は盛んだったと思います。

この黒潮と日本人との関係の論考が京大の(現在は退官されていますが)河合英夫教授の物が出ておりますので、紹介しておきます。


【海の研究】Vo1、3,No3,pp.181to203,1994
●黒潮と日本人の遭遇史(第一部)
中世の頃までの和書と近世までの漢籍にもとづく論考。
●黒潮と日本人の遭遇史(第二部)
近世の和書と洋書にもとづく論考
●黒潮と日本人の遭遇史(第三部):追補論考

 以下からは、シルクロードに関する質問の答えになる。

 現在まで日本史解明の基礎的史料が「日本書紀」と「古事記」となっているのは衆目の一致するところである。

 この記紀は郷土史家も一般の歴史屋さんも、古代史を解明するのにこの二つを引用援用し、神典とまであがめ奉っているのが今の日本史です。何しろこれしかないと言うので、これらを唯一の原典としてしまい、本来なら歴史の解明は「零からの出発」であるべきなのに、日本では記紀を一とし「一からの出発」をしています。しかし、ゼロックスも無い時代、木版で刊行されたのは江戸期の松下見林のものからで、それ以前は筆写に筆写され続け、次々と政権が交替するたびに、桓武焚書や時宗焚書にされているのです。古代史に新しい角度から突入を試みる官立大学出でない歴史研究家も居ます。
何とか真実を追求しようとして彼らは記紀を拠り所としている歴史書を「これは正史に対する日本の偽史である」と、勇ましく従来の古代研究家に警告をします。

「日本書紀はクダラ史の漢字訳にすぎぬ」と主張する方も居り、このほうがまだ記紀を金科玉条としている歴史屋さんより、遥かに勝っているでしょう。それゆえ、日本人として真実の日本史をという学究が「古書三書」と呼ばれる<九鬼文書>・<竹内文書>・<宮下文書>の三書。「古伝四書」と称される
<ウエツフミ>・<ホマツツタエ>・<ミカサキ>・<物部四書>
の四册を出し、明治に入ってからは「富士宮下文書の研究(原題高天原)」が
工学博士神原信一郎著で「富士王朝」の実在を科学的に研究したのを出しました。また「契丹日本史」を浜名寛裕が偶然に奉天城内で入手して刊行していますがしかしこれらは学会では無視されています。

古代史を解明するには、これらの本が非常に役立ちます。

西域の商人が来たのはペルシャ付近から唐代の長安まで・・・・・

 ●仰るとおりで、私もそのように書いておりますし、西域の商人がシルクロードを通って日本まで来たとは思っていませんし書いて無いはずです。

 ●「シルクロードは日本まで」とは書いていませんし、そんな本は寡聞にして聞きません。
私は「神代の昔からシルクロード経由で何でも入ってきた」という説に疑義を提示しているのですが。

高松古墳の副葬品の中に白銅鏡が発見されています。<海獣葡萄鏡>と呼ばれ法隆寺五重塔の心礎から発見されている葡萄鏡と図柄が相似し、同じく正倉院御物の<金銀細荘唐太刀>の刀の柄と同じ唐草形の透かし彫りがやはり副葬品の中に在ります。

壁画の白虎の後足に見られる「パルメット模様」について、高名な歴史家達は筆を揃えて「シルクロードを通ってペルシャ当たりから唐へ入り、それが日本へ伝来した」との説。

祇園祭に山車に吊り下げられる古代ペルシャの布も「神代にシルクロードを通って遥々と日本へ来た物である」と注釈がつけられ、定説になっています。何れも陸路重視で、海路に触れていません。

 

●旧ソ連では怠惰とか研究不熱心を学生から告発されれば大学教授といえど罷免され、地方のウチーチェリと呼ばれる公学校の教員へ飛ばされてしまう厳しい国です。だから、そんな国のモナビスキー教授の論文は信用できるのではないでしょうか。
(学術調査の名目での軍事目的だった可能性はあります)従って、長大で困難な陸路より、海流を利用した海路の方が自然だと思うのです。

●アラブとは書きましたが、ペルシャ湾を挟むアラビア半島と、イランまでの地域と考えて下さい。

 日本とアラブの古代交流史はバビロニア学会・スメル学会共著<原題 天孫民族六千年の歴史>として大正、昭和の初期に出されていますが、今ではこれらの説は葬られています。

これは、四百Pもの分厚い本ですが、さわりの部分だけでもUPして、皆さんに検討して戴こうと考えていますが、時間が無く、頓挫しています。次ぎに一部ですが、世界史と対比して見れば以下のようになります。


BC720:アッシリヤ人オリエントを統一する。

BC612:カルデア人来攻し、BC612:アッシリア人筏にて洋上に逃れる者多し<バビロニア記>新バビロニヤ王朝建国。 

BC525:ペルシャ人オリエント統一。

BC330:アレキサンダーが侵略し、BC330:ギオン神を奉じてスサの民は逃亡奴隷となる。

ペルシャの首都スサを占領する。     

BC323:アレキサンダーシャモ(シマム)方面にマレーからベトナムまで占領する。

逃れた者たちが黒潮で日本に 漂流して住み着く。


ローマ皇帝ハドリアヌスによってペルシャ湾まで占領されていたのを、ペルシャの愛国の志士ササンが逆に巻き返しを計り、ついにローマ軍を追いササン王朝誕生。が、両国の長期戦の間に、サラセンが勢力を伸ばして、ついにペルシャ教の人民をサラセンの回教下においてしまう。そしてコーランの教えに転宗しない者は、虐殺したり海へ投じた。
ためにペルシャの民は、かってアレキサンダー大王に征服されたとき、軽船や筏によって海へ逃れたごとく、又も集団となって洋上へ逃避したのは<回教全史>の記録にも在ります。

 ついで11世紀にはいるとペルシャは、セルジェク・トルコによって占領される。
だからトルコの弾圧下に、又洋上ヘ逃れ去った人々も多かったのです。

その後は宋にも攻められ、13世紀になると元に攻められ、モンゴル帝国に併呑され、15世紀末にシュートがペルシャ王朝をたて、アッパス一世が異民族を追い、ようやく独立を勝ち取る。

従って、中東の人達は白人との混血をかさね、暑い所ゆえ色の黒いのを別にすれば目鼻立ちの整った美男美女の多いのは御存知の通りです。

さて、現代はベトナム、カンボジア、タイ(ミヤンマー)、マレーシァと分かれていますが、アレキサンダーがペルシャからインドを席巻し、ビルマからマレーシァまでを植民地にした頃、西暦紀元前後にはこの一帯は大きな国だったようです。

 類蒙古人と分類されるPalae-Mongol-oid が、東アジアから新石器文化を持って、紀元前15世紀から20世紀にわたって南下して作った国です。これがパラモンゴロイドの始祖というが、紀元前に彼らは一大文化圏をもっていたのです。これをシャン文明といいますが、今でもビルマのシャン高原へ行くと赤松、黒松が茂り、桜も山桜や八重までが咲き揃い、蜜柑や桃の実がぶら下がっていて、日本の田舎の風景と変わりません。

ベトナムでもやはりそっくり同じ風景が見られます。
日本の水田耕作は中国式や朝鮮式ではなく、ベトナムを含むインドシナ方式なのは農業界では良く知られた事柄です。

●「海洋渡来日本史」の出版は明治時代です。
戦死した山本五十六連合艦隊司令長官も、この本を愛読していて、撃墜された一式陸攻の機内の長官の側に、この本が在ったという話しも在ります。

   また、英訳、独訳されたのは確か大正二年と記憶しています。


従ってペルシャ湾付近のアラビア海とベンガル湾には赤道反流、太平洋の北半球には、日本近海の黒潮、北太平洋海流、カリフォルニア海流、北赤道海流が循環しています。

ここで問題になっているのは、ペルシャ湾に続くアラビア海、ベンガル湾の赤道反流。
マラッカ海峡からベトナム、バシー海峡から日本へのコースで渡来が可能か、ということですから、海洋物理学で謂うところの <黒潮や湾流等の強い海流は全て大洋の西岸に存在している>を考えれば十分可能だと帰納します。

  足利時代の尋尊僧正が書き残した「大乗院寺社雑事記」の中に「西南より渡来の者、古来のしきたり通り、平の姓を賜る」の一文が在ります。

京の相国寺鹿苑院に関して「天竺人来る、住持となる」と文明18年の条に出ています。そして真言天台の密教の開祖とされるのは、四人の印度人、七人は全て唐人です。これは延暦寺ゃ高野山では公然の話しです。

少し詳説しますと、西南とあれば中国大陸や朝鮮半島は考えられず、これはどうしてもベトナム方面を見るしかありません。

従って「西南から(海流、黒潮とは書いていませんが)渡海してきた人たちを京堀川三条の囲地に収容して、日本語や風習に慣れさせ、各寺に配置した。

また工人や武人になる者には、平の姓を与えた。達磨大師はインド人ですが、<面壁九年>の意味は、なかなか日本語が覚えられず、やむなく大きな目をぎょろつかせ、無口に徹した。しかし大きな体と黒い肌、厳粛な容貌が当時の庶民に有難がられた」

 「古来」の文字から、日本には相当古くから、ペルシャ、ベトナム方面からの海からの流入は在った。と帰納するのは無理でしょうか。

次に「起点」と言う言葉を使い工場排水の問題を批判した部分ですが、ご指摘の通り海流に起点も終点も在りません。訂正します。私が言いたかったことは次の点です。

「企業が海流というものを良く理解していれば、水俣やイタイイタイ病の様な悲劇は避けられただろう。又判っていてやったなら悪質この上ない」海水に浄化作用が在ると思ったのは企業の方ではないでしょうか。

 

海に入った汚染物質は物理的な移流、拡散によって海洋中に広がってゆきます。
有機物はこの過程でバクテリアにより分解され、無機質に変化したり、生体内に取り込まれ、食物連鎖を通じて魚類や人間にも重大な影響を及ぼす事は広く現在は知られております。海洋汚染を含む環境汚染問題が広く関心をもたれるようになったのは近年のことではあります。しかし、昭和31年には熊本大学は<工場排水が原因>と結論を出しています。

 しかし、企業も行政も汚染源については何の結論も出さず、事後対策も不十分なまま、40年には新潟県阿賀野川流域で、第二の水俣病が発生しています。45年、やっと公害被害者救済法が制定され、その後の経緯はマスコミ報道の通りですですから、ご存知のことと思います。
企業や行政が素直に迅速な対応をしていれば、後遺症も含めた何千もの犠牲者は防げたと思います。

従って海に流す前に、コストは掛かりますが、無害な物に変化させ、安全性を十分確認できるまで、浄化するのが、企業の社会的責任ではないでしょうか。それにしても、一企業がまき散らす害毒を<公害>と定義するこの国の倒錯した論理には、何ともやり切れなさを感じるのは私だけでしょうか?


さて、私が副題に「シルクロードは海の道」としたには訳があります。

その前に日本で有名な、マルコ・ポーロの「東方見聞録」なるものについて考えて見る必要があります。彼が「東方の洋上の大きな島に黄金が満ちあふれている云々」とヨーロッパに紹介したということですが、勿論彼は実地に日本へ見に来たわけでは有りません。明国の朝廷に黄金が山積されているのを見て、「何処からの物か」と尋ねたところ
「東方の島国からである。彼の国は山金がごろごろしている黄金の島である」このことを紹介したということに、日本では定説化されています。かなり誇張部分はあつても、これは肯定して良いでしょう。

私は「シルクロードの嘘」では、海路と陸路の違いの部分を強調して、現在定説化流布されている通説から、あまり大きく外れないよう、無難な書き方をしましたが、次にコインブラ大学歴史学博士、オロラ・ケント女史の説を引用して紹介します。

 博士はヨーロッパの史学総会で、アングロサクソン白人優先史学の誤りを、反省すべきだと、卓を叩いて糾弾したと言われる、ヨーロッパでも数少ない女性歴史学の教授です。博士は何度も来日し、日本史も研究し、イゼズス派資料によって、独自の日本史を書いています。ヨーロッパの良識で冷静に日本を眺めれば、こうなります。
 ベニスから福州へ往復とも船で行ったのをば、彼の「東方見聞録」が勝手に書き直されてシルクロードで月の砂漠を遥々行かせてしまい、単純日本人はアメリカCIAに踊らせられ、今はシルクロードに浮かされていると聞いた。(中略)

 それに日本人はシルクロードを、キターイ(中国)からシルクの布地を運び出したものと間違えて教え込まれているけれど、冗談ではありません。

カラ絹と呼んで、日本ではチャイナシルクを昔は有り難がったでしょうが、今ではデパートの店内で高級シルクタイとされ、売られているのはイタリア産のシルクで、その街頭でつりさげみたいに広げ、風呂敷位のケバケバしいネッカチーフが、メイドインホンコン、つまり中国絹なのであります。

 つまりシルクロードとは、イタリアの絹布を長安へ運び、ヨーロッパでは全然採鉱されぬ黄金を求めに来たのが本当の処です。ジャポネでもファッション関係の人ならば、イタリアシルクが今でも世界一だと皆知っています。

 多分来るときはシルクは軽いから仲次便のように各領分の頭目に通関税みたいのを支払っても来られたでしょうが、帰りは黄金で重たいから春から夏にかけて吹く風によって黒潮暖流で、中国の福州からイタリアのベニスまでの定期航路で運んだだけの話しです。つまりアメリカ占領後になって俄にマスコミに取り上げられたシルクロードが今は「日本への文化進入路」とされるのは、シルクロードの全地域は今や完全にソ連領内に入っているからです。

もし日本人が発奮して、かっての文化進入路を取り戻すようになれば、対ソ戦略上極めて有利になろうとアメリカ国益から、CIAやFBIが宣伝しているような感じがするのは、米ソとは全く無関係のポルトウゲースとしての感じであるのでしょうか。(後略)

この博士の説を何と見るかですが。
黒潮があたかもイタリアまで連続しているような部分は奇異に感じますが、これは私が前記したように、海流を利用したとすればいいと思います。裏付けとなる史実が在ります。

”エリンケ”はポルトガルの航海王として有名ですが、彼はポルトガル南端のセント・ヴィンセント岬のサガレスに海洋研究所を創設し、数学、天文学、海流を徹底的に研究させた。
そして海には巾数百mから数キロに及ぶ、相当速い海流の在ることを発見。
これを利用した航行法で1445年にはアフリカのセネガル、ついでヴェルデ岬を廻って、山金がゴロゴロしているギネアに到着し、次々と金を運び出す。


彼の死後も喜望峰を発見。1498年にはインドのゴア、そしてゴアからマカオ。
マカオから日本の堺まで定期航路をスペインと共にもち、大航海時代となった。
(ちなみに、この時代から白人万能の世界になる訳ですが、トインビー史観はこの時代から始まっているため、搾取されたり奴隷にされた側の視点が欠けているのは否めません)


この後、ヨーロッパ諸国は植民地支配に必要な金を求め、一斉に東洋(日本)向け大型帆船を出します。日本史ではキリスト教の布教目的と言いますが、黄金確保が主目的だったのは、間違いのない事実でしょう。


この頃日本は戦国時代に入り、日本からは金が(奴隷として日本人が輸出されてい形跡もありますが、これは後ほど)白人は鉄砲に不可欠な火薬(硝石)を、という図式になります。

 さて長くなりました。私はシルクロードを、ステップルートやオアシスルートしか考えない説より「海のシルクロード」即ち海流や季節風を重要視する立場のほうが自然だと思います。

 このシルクロード一つとっても、通史とはこんなに乖離しているのです。世界史にリンクしない、日本独自の歴史は一体いつまで続くのでしょうか。地球は七大陸七海洋が在ります。大胆な仮説で真実をこの手にしてみませんか。