戦国の武器(火薬)商人 信長澳門(マカオ)を狙う | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

戦国の武器(火薬)商人

 当時のポルトガル商人は、火薬を輸入するに当って、ヨーロッパやインドの払下げ品を集めてきて、マカオで新しい木樽に詰めかえて、さも、マカオが硝石の産地のように見せかけて、日本へ入れていた形跡がある。
これは香港政庁図書館所蔵の〈日本史料〉の中に、木樽の発注書や受取りか混っているのでも判る。
まさか日本へ樽の製作を注文する筈はないから、当地の中国人細工物師に、西洋風の樽を作らせたものだろうし、それが日本関係の古い書付束に入っているのは、日本向け容器として、新しく詰め替えされたものと想える。
 
 古文書の〈岩淵文書〉の火薬発注書にもあるように、当時の輸入火薬は、湿気をおびて発火しないような不良品も尠くなく、一々、「よき品」と但し書きをつけなくては、
注文できぬような状態だった。藤吉郎時代の秀吉も堺の商人へ「よき品の樽を送られたし」との書付も現存している。そこで良質の火薬ほしさに、切支丹に帰依した大名も多かったのである。
 
 だから、ポルトガル船の商人は「これはマカオで詰めかえてきて、樽だけは新品ですが中身は保証できません」などとはいわず、「マカオで取りたての、ほやほやです」とぐらいな事はいっていたのだろう。
 だから信長としては、鉄砲をいくら国内で増産しても、火薬がなくては始末につかないから、てっきりマカオが、硝石の原産地だとばかり、間違えて思いこんでいたと考えられる節もある。
 〈津田宗及文書〉の天正二年三月の項に、当時岐阜城主であった信長に招かれて行ったところ、非常にもてなしを受け、宗及ら堺の商人が当時マカオからの火薬輸入を一手にしていたのを目をつけた信長は、

彼らの初めだした「わびの茶」を自分もやっていると茶席をもうけてくれた。それまでの中国由来の「ばさら茶」では唐金だった茶器を、宗及らの一派が「竹の茶筅」にかえたのを目につけた信長は、
この時はじめて「茶筅まげ」とよぷ、もとどりを立てた髷に結って、その席に姿をみせ、おまけに給仕役に召した次男の信雄を、このときから「茶筅丸」と呼ばせている。

 つまり安土城を築く前から「天下布武」の目標のために、信長は、良質の火薬の輸入確保に焦っていたのである。が、従来の歴史の解明では、近江長浜の国友村で鉄砲を多量製産させたとか、
紀州の雑賀部族に量産命令を出したとか、といったような銃器の方だけに捉われていて、鉄砲というのは、火薬がなくては使いものにならないのを失念している傾きかある。

当時の火薬の配合は、七五%が輸入硝石で、こればっかりは日本では、どこを掘っても見つかっていないのである。
 そして、その硝石、当時の言葉でいえば「煙硝」だが、その原産地を、中継地とは知らず信長はマカオと思っていた。
 ふつうならば国内を平定してから、国外へ勢力を伸ばすのが常道であるが、天正十年の情勢では、九州へ輸入される硝石によって、西国の毛利や、豊前の大友、秋月、竜造寺、薩摩の島津が武装を固め、
信長に敵対をしていた。こうなると抜本塞源の策は、硝石の原産地がマカオであるならば、そこを先に奪取して、西国、九州への火薬輸入を喰い止めるしか、この場合、完全なうつ手はない。
 
 だから信長が天正八年あたりから、ポルトガル風の長いマントを羽織ったり、ラシャの大きな南蛮帽をかぷりだしたのを、今日では、「珍らしい物好き」とか[お洒落]といった観察で片づけているが、
あれは外征用の準備ではなかろうか。十九世紀末の明治初年でも、外国旅行をするとなると、横浜関内の唐物屋へ行って、洋服を注文して仕立てさせ、それを着こんで出かけたものだが、
信長の場合にも、これは当てはめて考えるべきであろう。

信長澳門(マカオ)を狙う

 さかのぼって一五七一年の九月三十日。日本暦の九月十二日に信長が延暦寺の焼打ちをした時には、〈フロイス書簡〉は、
「このような余分なものを一切滅却したもうたデウスは、讃美されるべきかな」と、天主教布教の障害であった仏教への弾圧にのりだした信長を、神の名によって、マカオからきた宣教師は褒めた。
 
この年の十月、カブラル市教長の一行は、九州の豊後から、まず堺へ入り、マカオ火薬輸入業の櫛屋町の日比屋了珪宅(ひびやりょうけい)へ泊った。河内、大和、摂津、山城と次々に廻って歓迎をうけた。といって、彼が天主教の司祭だから尊敬されたというのではない。

 マカオからきているカブラル達には、硝石という後光がさしていたからである。「良質の火薬を入手できるか、できないか」が、この時代の戦国大名の生死を握っていたから、よき硝石をマカオ商人から分けて欲しさに、
反天主教徒の三好義継や松永久秀も丁重にもてなしている。中には、宗教よりも硝石ほしさに参詣にきた武将たちも多かったという。十二月には、カブラルは、フロイス、ロレンソの使僧を従え、堺の火薬輸入代理業者に案内されて岐阜城の織田信長を訪れている。火薬がほしい信長は、彼らの機嫌とりに、庭で放ち飼いにしておいた珍らしい丹頂鶴でコンソメスープをつくらせ、当時は肯重品だった美濃紙八十連をプレゼントに贈っている。
 一五七三年四月三十日。

火薬の質が勝敗を決する

 日本暦の天正元年三月二十九日に僅か十二騎の小姓だけを引きつれた信長け、突如として岐阜から上洛し、洛北智恩院へ入った。やがて軍令を四方にだしてから、白河、祇園、六波羅、鳥羽へ翌日には、一万余の兵が結集した。
 
〈フロイス書簡〉によると、彼は信者の一人であるリュウサ(小西行長の父)を使者にたて、その陣中へ、黄金の南蛮楯と、数日後には瓶詰のキャンデー(金米糖)を贈り、「仏教徒をかばう足利義昭に勝つよう」にと、それに神の祝福を授けた旨が記録されている。

 さて本能寺事変の時、信長が小姓三十騎を連れてきたのが疑問視されているが、当時マカオからきているポルトガル人は、
「信長は、いっも小人数で出動し、そこから、すぐ兵を集めて軍隊を編成し、自分から引率して行動を開始する習價がある」の行動を知悉していた。つまり、日本側の史料では「信長は本能寺にあって、光秀らに中国攻めを命じた。だから備中へ向って進撃すべきなのに、大江山老の坂から、途中で変心して『敵は本能寺にあり』と、右折禁止を無視して出洛した」のが、
明智光秀の謀叛をした確定的な証拠であるとして主張するが、向うの資料とはこういう点がはっきり喰い違う。
 

 つまり京管区長のオルガチーノにしろ、フロイスにしろ、彼らは「五月二十九日に、安土城から三十騎を伴ってきた信長は、翌六月一日は雨降りだったが、二目には、また黒山のような軍勢を、ここに集結し、
自分から引率してゆくもの」と従来の慣習通りにみていたようである。
 
ということは、日本側の史料では、「六月二日の早暁に、丹波の軍勢一万三千が入洛、本能寺に近よったことは、これは予想外の出来事、異変」と解釈しているのに、
「本能寺の門前へ早朝から集ってきたのは、従来通りの、軍団の命令受領」と、彼らは、そういう取り方をしているようである。
 
 そして、従来の日本歴史では、信長とか家康、秀吉の個人のバイタリーに重点をおき、英雄主義を謳歌するあまり、天文十二年の鉄砲伝来は認めているが、その弾丸をとばせる火薬を無視しきって、
「銃器弾薬」と併称されるものなのに、片一方をなおざりにしているのは前述したが、もってくる方の、ポルトガル人の目からすれば、「自分らがマカオから輸入している硝石によって、この日本列島の戦国時代は烈しくなり、供給している火薬の良不良で勝敗がきまっている」と、明瞭だったことだろう。
 なにしろ足利十五代将軍足利義昭にしろ、「仏教側だから、火薬を売るな」とフロイスたち宣教師に指図されると、堺のエージェントは販売を禁止にした。
鉄砲があっても火薬がなくては戦えないから、さすが強気な義昭将軍も、〈和簡礼経〉によると、四月二十七日付で、信長の申し出の通りに涙をのんで無条件降伏をしてしまう。
 こういう具合であるから、天主教では、「信長をして、今日あらしめたものは、われらの火薬供給である」という信念を抱いていたことは疑いない。
 また信長も、事実、その通りだから、天主教を守護し、安土に神学校まで建てさせている。
 のち秀吉や家光が切支丹を弾圧したり鎖国をするのも、彼らが仏教徒だったから、嫌ったということより、本質的な問題は、やはり、この輸入硝石である。他の大名の手へ宣教師を通じて入ってば困るからと、
治安上とった自衛手段である。秀吉は備前備中から、徳川家は、長崎から、自分らだけか独占的に硝石を輸入することによって、その平和を守ったのである。
 
信長は神になった
 信長がマカオを狙って、輸入にたよらず硝石を押さえたがっているのは、その部下の信者の大名たちの密告で、すでに宣教師は知っていた。
 
〈オルガチーノ書簡一五七八年。月不明〉に、
 
「昨日、日本の重要な祭日の日に、信長の艦隊七隻が、堺 へついた。私は急いで、その巨艦の群れと大なる備砲を直ちに調べにいった」とでているくらい神経質になって、彼らは用心をしていたのに、本能寺の変の一ヵ月前に、従来の友好的態度を、信長は自分から破棄しだした。
 
この豹変には「マカオ神学校」から赴任してくる宣教師たちが、「天にまします吾らの神」と教えをひろめているのに、信長は、従来は安土城の五層で祀らせていた白目石(大理石)の自分だという神像を、
この五月一日に、総見寺(当時は寺とはいってない、社であろうか)をたて、ここで一般公開し、「われこそ、まことの神なり」と宣言した。参拝人が黒山のごとく集まり、何列もの長蛇の列をなしたと伝わっている、

走狗は煮られ、邪魔者は消される
「天に、二つの神なく、地に、二つの神なし」という教義に対し、これは挑戦以外の何物でもない。
 マカオからきている宣教師にしてみれば、こうした信長の行為は、神を冒涜するものであると同時に、これは背信行為として、その目にうっったであろう。
 そして、「吾々に楯をついて、火薬をどうして入手するつもりなのか」畏れ疑っていた矢先、五月二十九日。信長は三十騎の小姓をひきいて本能寺へ現れた、そして、その日の午後、
 大坂の住吉の浦の沖合に、オルガチーノがかねて警戒していた七隻の巨艦と、夥しい軍用船が集結された。司令官として、敏腕家にして勇猛とよばれている信長の三男の織田三七信孝。
副司令は丹羽長秀で、司令部は大坂城に設けられ、本能寺の信長と絶えず伝令がゆききしている。非常事態である、
 「出帆は六月二日」と明白になってきた。日本側史料では「四国征伐のため」となっている。だが、彼らは、「マカオへ出帆ではないか?」と勘ぐったのではあるまいか。
一五七九年日本へ巡察にきたルイスーフロイスは、日本管区長コエリオより「日本歴史」の草稿を求められて、それをかいたという。だが原本がマカオにあったから十八世紀まで所在不明で、その後、モンタニヤ、アルバルズの両修道士によって
イエズス派マカオ日本管区文庫で発見されて、ポルトガル本国へ写本として送られた。
これがアジュダ図書館に保管され伝えられたが、何故か、織田東洋艦隊が建造された天正七年から、本能寺の変、及び、その後の天正十六年までの間の分け、どうしたことか、欠本にされていた。
おそらく何かと都合が悪いからであろう、
 

 フランシスコ派の宣教師シリングが1930年3月に、その前半をドゥルーズで、翌年リズボアにて、後半を見つけ、ここに、昭和の満州事変の頃になって、〈フロイス日本史〉は神の恩寵により定本になったという。
だが、肝心な原本は、マカオで焼かれてしまっている。
 二百年もたって同一人のシリングが相ついで欠本を見つけられるなんて信じ難い話だから、その問のものは何処までが真実か判らない。

それが何より証拠には、織田艦隊のことはすこし出ているが、こんな大事件なのに肝心な「信長殺し」は完全に抜けてとばされている。そんな「日本史」なんてあるものではない。
 〈老人雑話〉というのに、明智光秀の言葉として「武者の嘘を、計略といい、仏の嘘を、方便という」とあるが「神さまの嘘は恩寵というのだろう」とさえも言いたくなる。
 さて「何か知って居られては都合の悪いことを、知って居る者」は、民主主義の本場でも、次々と死んでしまうものだと、テキサス州のダラス市民について、アメリカの二ユーヨークーポスト紙は書いているけれど、
天正年間の日本に於ても、やはり同じことであった。ジュスト高山右近は、二度と戻ってこないように、フィリッピンヘ追放されている。また、シメアン・池田父子は、本能寺の変から一年十ヵ月目に、なんの御手柄か、一躍、岐阜城主、大垣城主と栄転させて貰えたのに、長久手合戦で「討死」という形式で共に抹消された。
 ジュニアン・中川は、もっと早く、本能寺の変後、十ヵ月で、大岩山で消されている。残ったものは誰もいない。
 
だが俗説では、「六月二日に上洛したのは、丹波亀山衆一万三千」と、どの本にも出ている。これが第二の答で、定説である。もちろん光秀も、丹波亀山から彼らを率いてきたと、(途中で六時間ぐらい光秀がいなくなってしまって、
辻つまが合わないが)そういうことになっている。
 しかし、もし亀山から、丹波衆を率いて光秀が上洛したものなら、そちらへ戻るべきなのに、同日午後四時、瀬田から右折せずに、光秀は坂本へ左折している点は、さきに指摘した。

だが、こんな明白な事実さえも、誰からも、今日まで問題にもされていない。
 そして、もっと奇怪なことは、その次の日も、次の日も、光秀は死ぬまで一度も、丹波亀山へ戻っていない。
 
(もし一万三千の亀山衆というものが、光秀の命令で勣いたものなら、亀山は光秀の本城でもあるし、何故それを掌握せずに放りっぱなしにして、三千の兵力しかない坂本城を、その後の根拠地にしたのか、さっぱり判らない)
だが、何人も疑いを抱かない。変に想わない。
 
 もちろん直属であるべき丹波亀山のこの兵力が、信長殺しのあと光秀から離れてしまった為に、六月十二日、十三日の山崎円明寺川の決戦において、光秀軍は、旧室町幕府の奉公衆まで加えても一万にみたぬ寡兵となってしまい、
三万に近い秀吉軍に対して破れ去ってしまうのである。そうでなくて、もし、この六月二日の上洛軍の一万三千を光秀が掌握していたら、安土城守備に廻していた秀満らの、坂本二千は別計算にしても、
天王山の険を押えることも出来たし、これに前述した旧室町奉公衆の伊勢与三郎、諏訪飛騨守、御牧三左衛門ら約四千と、新たに味方に加わった近江衆三千をみれば、
山崎合戦での光秀は、旧部下師団の中川、高山、池田、筒井、細川の全部に離反され孤立したにしても、なおかっ二万の直属部隊をもって、この決戦に臨めたわけである。
 なにしろ奇怪なのが、この丹波亀山衆の一万三千の正体である。これを誰が指揮し、誰が尻押ししたかということも、やはり「信長殺しの謎をとく」大きな鍵なのではあるまいか。