豊臣家の裏切り者「伊 東 長 次」黄 母 衣 衆 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

 

 


 豊臣家の裏切り者「伊 東 長 次」

2024年2月。以下の文から始まる片桐且元の実像を一部・二部として掲載した。
 

2016年に放映されたNHKの大河ドラマ真田丸では佳境に入ってきて、片桐且元も登場して来た。片桐且元・史実にのっとって豊臣家に尽くし最後は敵になった悲運の武将 として描かれている。しかしこれは史実でもないし、明治時代の芝居その儘で、実像とは全く違う。豊臣家臣団の中で裏切ったり、日和見した武将は数多く居る中で、この男ほど悪質で酷い仕打ちをした者は他に居ない。後段で詳細を記すが、難攻不落の大阪城が落城したのも片桐のせいなのである。何故ならこの男、徳川方の大砲の射程距離内に秀頼や淀君の住む天守閣を入れるため、城の図面を渡している。家康が英国から輸入したカルバリン大砲は射程が450mでしかない。それでも国産大砲よりはより射程は長かった。このため休戦という謀略で城の外堀と、どさくさ紛れに内堀までも埋めてしまった。これで裸城同然となった大阪城の秀頼や淀君の住む天守閣まで砲弾が届き、これが原因で落城となった。(以下略)

このほかにも豊臣家の中堅幹部で「密告」という卑怯な手段で徳川方に貢献した武将が居る。その名を伊東長次という。
伊東長次は1560年生まれで幼名を長実という。父親は長久といい、天正元年ごろから親子して秀吉に仕えている。
まず父親の伊東七蔵長久だが、始めは信長の赤母衣衆として仕えた。

尾張三本木合戦のとき、兜をつける隙もなく、近くにあった編笠を被って奮闘したところから、編笠七蔵の異名をとった。
天正元年近江小谷城攻撃のとき、秀吉麾下として出陣し、同年九月腰母衣衆となり、また旗奉行も務めている。
十二年四月小牧に従軍した(武家事紀・浅野家文書)。十三年八月越中佐々成政退治のとき従軍したが、加賀金沢で発病し死去した、五十三。死んだのは金沢でなく小松だという説もある。(寛政譜)
 
さて長次だが、親子して天正元年頃には、秀吉に仕えている。
本能寺で信長が爆死する九年前だから、秀吉も羽柴を名乗り脂の乗っていた時期で、この時期、伊東親子のような武勇の者を多く召し抱えている。
天正四年、大母衣衆。のち馬廻組頭となり、遥か後に大坂城七手組頭の一人となって、豊臣家の中堅幹部として活躍している。
天正十一年越前の内六百石を支給され、十二年四月三日に若干の加増が在ったと(小川栄一氏所蔵文言)には記されている。
十八年の小田原の陣には組衆六百人を引率して従軍(備中岡田薄記・伊達家文書)


天正の末頃になると、備中川辺一万三百石に加増され、一躍大名になる。その理由は不明だが前記六百人の組頭とは、旧日本陸軍では大隊長にも当たる。それが一躍師団長各の大名だから相当の手柄が在り、秀吉に認められていたと想われる。

朝鮮の役では、渡海はしなかったが、文禄元年秀吉と共に肥前名護屋城に駐屯し石田三成の許で後方支援(兵站)に当たっている。
この功績により、文禄三年三月二十一日、播磨山国村等を加増された。
文禄四年正月、豊臣秀吉の草津湯治のとき、沿道野尻宿の警戒任務に就く。
こうした秀吉の信頼は厚く、また優れた中堅幹部であった長次だったが、秀吉が死ぬと、何が不満か判然としないが態度が一変する。慶長五年、東西対立が激化し関ケ原合戦勃発前の六月十六日、家康の元へ出向き、石田三成一派の挙兵を密告したのである。

この行動は推理するしかないのだが、どうも以前から、家康とは通じていたのではなかろうか。
何故なら関ケ原合戦、大阪夏冬の陣とも、長次は豊臣の家臣として西軍陣営に残っている。おそらく敵中に残置諜報員のごとく行動して、様々な情報を家康に送っていたのだろう。
しかし良心が咎めた訳ではなかろうが、大阪落城で淀君と秀頼が死ぬと、大坂城を出て、子長昌と高野山へ遞れ、一時身を隠すがこれもアリバイ作りだろう。
それが証拠にこの後、家康に招かれて川辺の旧領を与えられている。そして寛永六年二月十七日、七十歳で死ぬ。(浅野家文言・伊東家譜・寛政譜)
男の生きざまはさまざまだが、同じ裏切り者の片桐且元は、家康に毒殺された。組織や個人に忠誠を誓うか裏切るかは個人の選択だが、人間の生も死も自身で完結できようはずもなく、これを運命というのだろう。


黄 母 衣 衆
豊臣秀吉は何でも信長の真似をしたが、自分の馬廻りから選抜した武者で、歴史書には「武者揃えの際に名誉となる黄色の母衣指物の着用を許された者。」とある。
しかしそんな名誉だけの武者ではない。
信長の近習や小姓は、信長の分身的存在だった。だから、戦場での千変する切処で緊急判断を迫られた際「上さまなら、こうするだろう」と最適の作戦を採れるように、
参謀教育をするための幼年学校の生徒のような存在だった。
だから信長の本陣から、信長の命令を伝える「派遣参謀」的な存在だった。
戦場を騎馬で駆け抜ける関係で、母衣は物理的に遠矢を避ける意味から風圧で膨らむ構造になっている。
戦場でも目立つ色の、黄色、赤、を使用したが、赤母衣や大母衣は高級参謀の意味だったのである。
だから信長の小姓の中で森蘭丸は出世して美濃金山五万五千石の大名になっている。