日本美少年の系譜 森蘭丸は容貌魁偉 天草四郎は美少年ではない | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

天草四郎は美少年ではない
森蘭丸は容貌魁偉
忠臣蔵の大石主税は反っ歯だった
黒駒の勝蔵は勤王の大忠臣だった

 

現在赤穂浪士を有名にしたのは何かというと、江戸時代は芝居であり、明治に入ってからは桃中軒雲右衛門の浪花節である。
一般的に判りやすく文字で広まったのは、随分これは遅くて明治四十年以降のことで、浪花節や芝居で広まりそれから無慮三百余の本が出たのである。
これは今でも、活字で出して全然売れない本が、テレビ化された途端に、筋書を知ろうとする人達からプログラム代りに求められ、沢山売れるのと同じことである。
しかし唯漠然と広まったというのではない。目的意図があった事は明らかである。

これまで日本国は、建国以来一目も二目もおいていた清国を、日清戦争によって敗退させた明治軍部は、大国意識を国民に植えつけんとした。
ところが三国干渉ということが起きて、せっかく手に入れた旅順や大連を奪われた。
これは、せっかく戦勝に酔って、「富国強兵政策」を断行しようとしていた明治軍部には大打撃であった。
このとき。明治の偉人頭山満が現われた。
「全国民をあげて復仇の念に燃えさせる為」
翁は神楽坂の毘沙門さんの縁日で、「ちょぼくれ祭文」をうなっている青年を、近くの料亭の二階によび、
「オロシャ国は吾が日本より旅順大連を取りあげ、そこに難攻不落の己が要塞を作っちょる。このままでは、やがてどうなるとばい」
旅芸人の彼にいってきかせたあと、窓の下でハラハラ散る花を月の明かりで見下ろしつつ、

「われらが来るべき国難に殉ずるのは、一死奉公のまことしかない。花は桜木、人は武士といったような勇壮活発な、そして立派な仇討ちの話はないか」と翁は口にした。もちろん幕末から御一新にかけ、いわゆる世直しをした連中は、武士の恰好はしていても、坂本竜馬だって酒屋才谷の倅だし、吉村寅太郎も百姓の倅だったくらいは、翁もよく承知していた。しかし明治も三十九年になると武士というイメージは、懐かしい過去への郷愁にも似た幻想になっていた。
 だから、
「仇討ちといいますと、まずは曾我五郎や十郎の敵討があります」と、ちょぼくれ青年がいうのに、
「いや、もっと多人数のもので、それも近世の武士のものがよいな」と翁は首をふった。
「集団の総蹶起でございますか」と考えこむ青年に、翁は赤穂浪士を教え、
「お国のためじゃ、確りやらんといかんばい」激励した。この結果、青年は考えて、「赤穂義士銘々伝」をもって、
「武士道鼓吹・浪花節」というものを始め、「桃中軒雲右衛門」となった。そして国民もみな自分らが義士であるかのような気になって、日露戦役に勇ましく突入したのである。

このため芝居や映画でも、忠臣蔵をやれば絶対に当る世の中になったが、さて大東亜戦争で日本が負けて米軍の占領下になると、GHQが、また復讐精神を鼓吹されては困ると、「忠臣蔵」の上演禁止を命じたのは、これはよく知られた話である。
また、「倭訓栞」などの古文献によると、「切腹」が一般化したり美化されだしたのは、この忠臣蔵の芝居からだというので、
「なぜ浅野内匠頭が吉良上野に斬りつけたのか‥‥従来のケチ精神の結果とする通説は、誤りではないか。真実はこうである‥‥」
 と解明するつもりだったが、これまで何百と出た本にも出ていない新事実を発表するには、これは後廻しにして、芝居に出てくる大星主税。つまり、
「大石主税」を美少年とする愚説に、まず挑んでみたい。従来、天草四郎、森蘭丸の三人をもって、日本では美少年とするが、それがはたして本当だろうかという問題である。

今はそうでもないが昭和前期までは、「水死美人」という熟語があって、溺死した女は、みな美人とされて新聞に出た。
女だって土佐衛門になったら水でふくれて見るも無残な状態になるのを、死者への礼でというか、どれもこれも公平にみな「美人」という形容詞を使ったから、整形医のなかった当時はオカチメンコのブス女どもが、「せめて一度は美人とよばれたい」と願い、身投げをしたものである。さてまた、
「死せる児はミメよかりき」という言葉があって、十代で若くして死んだ少年は、みな「美少年」としてしまったようである。
 
しかし森蘭丸(正しくは乱丸)は本能寺の変のときは、美濃金山城主の他によだ島をも拝領する五万石の殿さまで、二つ違いの兄は、「森武蔵守」とよぶ信州二十万石の大名で、「鬼武蔵」の異名があった容貌魁偉な豪傑だった。だから蘭丸も最低二十三、四歳の偉丈夫であって、美少年扱いはおかしいのである。
天草四郎こと益田四郎時貞も、美少年かどうか疑わしいのは、島原の乱で肥後細川家の足軽陣右衛門が首をとったはよいが、
「これが天草四郎の首でござる。というのが他に数十個も差出されていて、どれが本物やら生母をよび判別するのに何日もかかった」そうだが、類まれな美少年だったら、そんなに迷うこともなかったろうと想う。

大石主税にしても、義士資料の、「翁草」に、そっぱであったとある。
芝居ではピーターみたいな可愛らしい美少年だが、出っ歯の美少年というのはいない。
 となると日本には、これまで本物の美少年んはいなかったのかと首をひねる方もいられようが、「信長公記」や「当代記」といった確定史料には、はっきりとした美少年が二人でてくる。なにしろ調べに調べて書くというのは大変なことなので、これまであまり誰も書いていないが、「佐合甚五郎」とよぶ岡崎三郎信康の小姓で武田方へ潜入した抜群の美童もいるし、「万見仙千代」というすばらしい天下第一の美少年も実存、つまり現実にいたのである。

しかし学校教育だけを義務となすだけではなく出産も軍事上兵士や工員資源とみて、夫婦以外の交際は認めず男女が同伴で歩いてさえも不審訊問をするような時代が長かった。まして受胎の見込みのないホモ行為は国賊扱いでした。それゆえ甚五郎や仙千代は黙殺されたのである。
「傾城」という言葉は江戸時代、遊里の美女の最高形容詞だったが、仙千代は、「荒木村重の伊丹、摂津、尼ガ崎の三つ城まで傾けさせて失わせている」から余程美少年だったことが歴史的にも考察できる。

 

 


    われらの幻影


    なぜ蔭流か?

「日本刀こそ大和魂の発露」と大東亜戦争開始までの日本の有識階級の家には、ご真影と日本刀さもなくば刀剣銘の蔵書があったものである。テレビで、
「日本刀は切先三寸しか刃はついていまへん」と、かっての時代劇の大スターだった、嵐 寛寿郎が堂々といえるのも今だからである。昔だったら刀剣で儲けている連中、史学者や歴史作家から徹底にうちのめされた筈だ。あくまで日本刀を神聖視しカミカゼ特攻隊まで昭和刀を持ってゆくのは宣伝の行過ぎだった。
小説は虚構だし芝居や講談と同じで見せ場がいるのだから、抜きあってさしている刀を斬り合いさせても構わない。
さて話は違うが、「影丸」という存在と、その時代に始まったといわれる上泉伊勢守の神陰流、神道蔭流、柳生新蔭流、疋田陰流、天野破陰流といった刀技について、これまでは誰もいっていないが、改めて考えさせられた。

刀道に「陰」を流派に名のるのは多いが、「正」をつけたのはない。これは何故かというと、疑問である。さて、さかのぼって、
「刀」はいつ頃からの物かというと、その原形は朝鮮の鉾麻布刀らしいが、いわゆる記紀にも、刀なるものは出てこない。
<景行紀>に「みはかせる十拳(とつか)剣を抜き」とか「八握(やつか)」と、みな剣の文字であって、悪魔退治の呪術に、
(剣をふるって空中を斬る)のが、今も、「剣舞」として伝わっている。

八握とか十拳というのも、握り拳をもって寸法を計る単位としたもので、さしずめ80センチか1メートルの胴剣のことであろう。さて、今でこそ刀が一般的になって、双刃(もろは)の剣は博物館物だが、かつては日本列島占領にこれが使われたと想われる。かつて私は敗戦後、満州から引き上げてきた。
 そして、ソ連軍八路軍国府軍の三つ巴の中を三ヶ月掛りで奉天から脱出してきた疲労困憊から、内地では比較的食物のある滋賀県へ移った。
 落着いた所が何処かというと、<忍者武芸帳>の中で影丸が、仇とも敵とも狙う織田信長が天正十年五月に造営し、白目像、つまり大理石像のアポロか何かをここに祀り、「われ神なり、汝らも来りひざまずけ」
 と、天に一神しか認めないイエズス派の宣教師までかりだして膝まづかせた事実がある。

だから、その憎しみをかうに至った總見社がある。今では寺とよばれているが、安土のそこの宿坊の厄介になり、毎日大きな樹のある池のところへ出ていると、
当時バタバタとよばれたモーター・バイクなどで登ってくるのが、本堂へは外から叩頭し決まって濡れ縁に何か紙包をおいて行く。開けてみれば白米や、物資不足の当時としては眼をむくような肉の塊りだったりした。
そこで不審に想った私が追いかけ、迷惑がられながらもあれこれと問いつめてゆくと、

「わしらは代々、他と宗旨が違う」くらいしか初めは洩らさなかったが、そのうちに、「もう前の世の中とは違って、なんでも本当の事が洗いざらい出てくる民主主義の世になったのだから、信心の違う自分らの歴史を教えてくれる本も、出てきてええんと違うか」といったような素朴を疑問を訴えてきた。
(信長の時代に、はっきりした一大変動が起きて、かつては影のようだった存在の部族がここに陽のあたる場所へ出たが、間もなく信長の死によって蔭に追いやられる存在になった。ところが終戦で又しても再起できそうな機運になり、ヤミヤで儲けた彼らはここへ寄進にきている)
 とまで、次第に判ってきた。
「戦時中の軍部は、ヤマト民族は単一人種だといっていたが、世界中どこへ行っても同じ人種で、別個の神をもっているのはいないにもかかわらず、神道仏教その他と日本にはありすぎる」という視点からして、これは、
「剣をもつ陽の部族に征服され、片刃をもたされ使われた蔭の部族がいたのだ」と、はっきりしてきたのである。つまり、

「天孫系とよばれる船舶民族にすぐ降服して、まず農奴化された者達もいるが、抵抗を続けた者達も七世紀あたりになると、やがて征服され俘囚として各地へ分散収容され、この末裔が十一世紀初頭の刀伊(刀一)族の来攻による国防軍に徴兵された歴史」が判ってきた。
 ミナモトの頼光などといった人名や、坂田の山からの金時や渡辺の綱あたりが、史上に名を現すのはこの時点からであり、のち来攻はなくなったが、
「せっかく集めたものを勿体ない」というので転用されたのが東北侵略用で、「前九年の役」「後三年の役」では、ミナモト族も、義家をもって、ついに、傭兵隊長としての武功をたてられるようになり、平和になった後は、白河上皇の、「失業軍人救済の思召し」により1095年には、
「北面の武士」という、のちの皇宮警察官の誕生をみるようになった。しかし剣を彼らはもたされずに、片刃の刀をそのサーベルにされた。

そして信賞必罰というか、俘囚の子孫である武家(公家では地家とよび、地家侍の称はここから出る)は何か事があると、彼らは、「八」という蔑称があったから、すぐさま、八切りの目にあった。俗にいう切腹で、(八ラ切り)となっている。
この事を記した古文献もある。これは片刃の日本刀だからこそ押さえて出来るのであって、もし双刃の剣なら、両面に刃がついているから切腹など出来はしない。
 だから日本人はみな切腹するような錯覚もあるが、武家はやっても公家は古来一人の例もない。正親町帝が豊臣秀吉に御位を奪われかけたとき、みずから宝寿を絶たんとされたが、
「初めは咽喉をつかんと遊され、のち食をやめてと変られし処」
と、当時の奈良興福寺の多聞院英俊は、その日記に書き残している程である。
刀というのが、日蔭の民である原住系の限定使用だったことは、切腹を例にもってきても、またその刀工の発生地が、
「越前加賀」とか「美濃関」「相州鎌倉雪の下」といった旧別所。つまり七、八世紀頃の捕虜収容所の跡だった点でも判りうるものと想う。
 つまり被征服民となった原住系は、
「追われてみたのはいつの日ぞ」と山の中や離島へ、赤とんぼと共に追いたてをくったから、(八)を、「や」とも発音し、「厄魔」の別名があったのは「名月記」にも
あるが、YANMAと蜻蛉をよぶのも、これが訛ったためであろう。
 そして赤トンボの唄が皆に好かれるのも、占領系に比べ原住系の子孫は多いから、伝統の血の流れが今でも多くの人の感銘をよぶせいだろう。


      江戸は死して江戸っ子を残す

蔭も陰も、影丸の影も同じ意味だが、これを、八(鉢、蜂)とよぶ他に「え」という呼称の仕方もある。もちろん日蔭のことだから、女性の肉体でも一番かくされる部分には重ねて「エイン部」といわれる所もあるのである。
しかしこれを今は、会陰部と書き、「左右から会しあって陰となる」式に当て字されているからして、もっともらしくぴいんとこぬかも知れぬが、そこから出産のときに胎児が冠ってでてきて、すぐ棄てら
れてしまうのをも、
「エナ」(胞衣)という。<続古今集>の中にも、
「エぐ(影供)し侍りしに」と、えは影に用いている。今こそ、
「ええ女を持つとってええな」といえば、(綺麗な彼女をなんして良いな)の意だが江戸時代の浄瑠璃ではまた、
「えおんな」とは「隠し女」のことで、近松門左衛門の作品でも「身うけの銀さえ払うて下されますなら、え女になって囲われてもいとやせぬ」とある。

つまり、「え=陰」だから、大村崑と小さな娘が出てくるCMで、しきりに、「ええ事しやはる」と乱発するが、本来の意味は陰事を行なう、つまり淫事をなるの意味である。
何故かというと、出雲系日本人の神話に、「天の橋立に立っていた女神がよき相手とみられる男神を見つけ給うて、『えな男や』と寄っていかれ、衝動的に立ったままで行為を遊ばされ、その落ちた樹液の雫によって、樹氷のようなオオヤシマ列島が出
来上がった」というのが話の起こりで、やがて船舶をつらねて渡海してきた文化民族のために追われ、
「えの民の逃げた島」ゆえ、「えだじま=江田島」「えのしま=江之島」といった地名や、東京みたいに、「えど」となって、えばらやえこだの地名すら今もある。

 山岡荘八の小説などでは、徳川家康が「厭離穢土」の旗をたてて進むが、穢土を好こうが嫌おうが、江戸はエドでしかない。そして今でこそ、当て字だの間違い字だのと、会社の入社試験でもうるさいが、
「珍文漢文わからない」と明治になっても、当時の団珍新聞が政府通達の漢文文字入りを批難したように、まだ大正までの漢字はみな発音の音標なみで、「edo」を発音できれば、穢土でも江戸でも構わなかった。だが江戸時代の江戸人
は、こうした意味合いで、できるだけエドとはいいたがらなかったものらしく、「ご府内」「府内」で通し、このため東京都になる以前は東京府とよばれた程である。


つまり本当のことを書くと身も蓋もないが、「江戸ッ子だァ」などとタンカをきりだしたのは、江戸がなくなった明治以後の事であるらしい。さて、おおよその見当はこれでつくらしいが、「西方の極楽浄土を望むもの」と、「東方のエドにしがみついている原住系」の二つ。
つまりカラ(韓)神を崇ぶのと、五、六世紀以降に、船連、津連といった天智八種の姓による仏教をもって渡海してきた船舶民族に大別される。

そして被占領民族であり被圧迫民族である原住民が、「陽の照る所へ出られぬ種族」となり、これが「陰」になり「影」となったというのが実相なのである。
これを判りやすく簡単に説明すると、「西暦十世紀」の頃に、「われこそはミナモト(原住系)だぞ」と、二千数百あったという捕虜収容所の院地、別所から、白旗を掲げて集まり文治革命を成功させた連中も、やがて足利時代に入ると、もはや彼らは
公文書にさえ、「白旗党余類」としか書かれなくなった。

そして、なんとかまた陽の当る場所へでて、「立身出世」をと願うのなら、彼らが嫌った坊主スタイルになって、その上、ナンマイダナンマイダと唱えさせられ、「何とか阿弥」と名乗って洗礼をうけるしか他に、官公吏に採用される道はなかった。
 それとても暴動でも起こされては大変との配慮から、茶湯、生花、能楽といった安全職種に限られていた。刀の手入れや鑑定が「本阿弥家」だったのもこのせいである。
 日本ではヨーロッパ程に芸術が尊重されていないのも、その従事者が<蔭>の民族で、役者や講釈師などが、明治に入っても、「河原者」と扱われたのはこの為で、今でもタレントが近代ビルの放送局でも昔のや
くざの慣習そのままに、あたりが真っ暗でも、「オハヨウゴザイマス」と挨拶し、すこしも働いていなくても、ねぎらって、「オツカレサマ」とやりあうのも賭場の慣習そのもので、博徒が、長脇差と称して、
長刀をさしていられたのも、やくざの語源が、「蔭の民」であり、その流れで、戦国武者の末裔である俘囚の子孫だから、寺の人別帳にも入らぬフリーみたいなもので副業に興行をしていた連中だったからである。

 

       大小捨て槍一筋に

 天保五年版芝神明前和泉屋吉兵衛刊行の「武道初心集」の、従僕着具の部に、「小身の武士は不慮の変の時といえど、家来を沢山つれて行けるわけではないから、槍一本の他は持ってはならない。が多少でも供を連れてゆける者ならば、持槍が折れ
損した時の用心に、槍の身の予備を袋に入れて持ってゆけば、いざという時は竹の先に縛りつけても使える。なお刀というのは相手が甲冑をつけていると、殆んど打ち折れてしまうものゆえ、これを持ってゆく者は差しかえを若党に持たせ、若党の刀は草
履とりや馬の口取り仲間に、移動刀掛けのごとく差させてゆくべし」とでている。つまり従来のように武士というのは必ず戦国期でも大小を腰にさして歩くというのは、あれは絵空事でしかない。

いざという時、腰にジュラルミン製ならぬ本身の大小などさしていては、重いし邪魔で走れもしない。だから武士というのが、「槍一筋」といわれるのはこれによるのである。
 では大小は差さなかったかというと、礼装用には用いていた。大刀を預けねばならぬ場所では換って小刀を腰にさしたのだが、幕末は物騒になったので一遍に二本ともぶちこむようになった。斎藤竹基の著では、
「嘉永三年」つまり国定忠治が死刑にされた年あたりからだという。なのに一般に、「武士は二本差し」という観念を、何故与え始めたかというと、これは村方の八部衆の風俗によったものらしい。
 というのは、
「俘囚の裔」で武士になった者の他に、捕方や牢役人になった連中は、代官が田畑見廻りをする時や、神輿が出るとき、今でいえばガードマンとして先導役にたったが、差換えを持たせる若党や仲間を伴っていないから、重いのを二本さした上に六尺棒ま
で手にした。そこで、「え」とよぶ連中の多い江戸以東ではそうでもなかったろうが、京阪以西の百姓は、中国語からとって、
「両個(リャンコ)」と蔑み、また二は、三と一の中間ゆえ、これをサンピンとよんだ。さて、
「江戸時代の武士の扶持の最低は三両一分だったから、それからとってサンピンという」
 などと説明する「武家事典」もあるが、「江戸時代の士分の最低は、一人扶持つまり玄米一日五合」これは年にして一石八斗の扶持勘定で、「何両」というのは士分ではなく仲間小者の計算である。

 そして云わずもがなかも知れないが、箱根の関をもって東は金本位で西は銀本位制だったゆえ、江戸時代は一両といっても、小田原以西は(銀目一両)で、これは(金一両)
に対して六掛か五掛だった。つまり三両一分といっても、箱根の向こうでは一両二分か、一両二分一朱の勘定で、今でもこの為に間違わぬように領収書には、金か銀を上につけ、
「一金何円」と書く習慣が残っている。だから武家事典の類などはこじつけにすぎない。しかし、
「さんぴん(三一)とよばれた八部衆の連中(岡山から福山方面では三八とよぶ)は刀を二本もさして威張っていたが、明治七年に警察権を薩長閥に奪われるとこれが大変なことになり、
「よくも今迄は威張りくさったな」とばかり百姓から苛められ、つまはじきにされて、これが、「村八部」今の「村八分」の起りになるのは前述した。

 だからして、こうした匿された史実を掘り起こしてゆくと、いまテレビや三文小説で、「刀は武士の魂」などといわせているのも、あれは廃刀令で刀の売物の山を抱えた刀剣商が、明治から大正にかけて、なんとか売ろうとして考えついたCMではなかろう
かといった疑さえもてる。というのは、刀は公刀とよばれ扶持を与える主人から、その防衛用にと腰に差すことを義務づけられているもので、時には折れたり曲がりやすい日本刀の性質上、スペアが必要だったから江戸中期の大道寺友山の説くように、
「士は自分の主人の替え差料を、生きた刀架けとしておびて供をしていた」という実際談からすると、主人は刀のことを武士の魂といってもよかろうが、家臣は、「刀は武士の腰にさし運ぶもの」にすぎなくなる。
 つまり一人一人の侍が自分の刀を己が腰にさしていたというのは嘘ということになる。大道寺友山の「岩淵夜話」にはさる大身の旗本が、刀自慢でいつも十握り程の刀を、自分は重たいから無刀だが、供の者に一本ずつささせて引きつれて歩いていた話がでて
いる。明治初年の「廃刀令」というのも、武士の扶持がなくなったので、もう公刀を重い思いをして差して歩かなくともよいというのであって、やくざのような私刀を差して歩き廻る連中には無関係だったのもこのためである。
では、武士の魂とは何かといえば、これは槍の穂先だったらしく、心得のある武士は己れの頭上の長押(なげし)に槍を掲げておき、これを日課に砥ぎ磨いたものだと、
「武道用心集」には明白にでている。

         黒駒の先駆け

   黒駒の勝蔵は勤王の大忠臣だった

幕末のやくざで、清水次郎長と黒駒の勝蔵との争いは有名で、現在でも芝居や映画でも盛んである。
これは皆故子母沢寛の書いたものが下敷きになっている。

しかし「どうして清水次郎長と黒駒の勝蔵は、富士川や天竜川で退陣しあったり、あれほどまでに激しく戦わねばならなかったのか」と、徹底的に調べてみたところ、黒駒という土地は、大和十津川と同じように、かつては天朝さま直領で年貢もなくて勤王の慕情あつい土地だったということが判った。
 そして官軍史料にはでてこないが、賊軍として処罰された仙台藩家老の手記(大正二年十二月非売品として活字本刊行)(千部限定の『幕末確定史料大成』(日本シェル
出版)4800円の中にある)では、「甲府郡代加藤余十郎ふれ書」が収録され、勝蔵が王政復古の先駆けとして甲府城占領のため、その一味の黒駒党を投入し、このため徳川家より謀反人として指名手配さ
れ遠州へ逃亡すると、中泉代官所の命令をうけた見付の友蔵が捕らえようとしたが、なにしろ、


「王政復古までは一人も妻帯しない」と女絶ちまでして、結集している黒駒青年団なので手のつけようがなく、一人銀三両の日当で、「清水の次郎長と、そのメンバー」を、ガードマンというか、御用の尖兵に雇用した。
 そこで、かたや銭儲けのため。黒駒一家は天朝さまの為というので、長州の木梨精一郎や薩摩の西郷隆盛のバックアップで対戦したものらしい。
 しかし明治四年に勝蔵が殺されてしまうと薩長は知らぬ顔。そして、「悪い奴ほど長生きする」というのか、ずっと生きのびた次郎長は善玉、黒駒一家は悪玉とされてしまった一部始終が判った。「われ王事に尽す、なんぞ刀をもたん」と勝蔵は、やくざのはずなのに長脇差をささず、六尺槍を振り廻した話が残っている。


 米屋の倅でろくに文字もよめなかった次郎長と違い、勝蔵の方はその従兄も、「古川但馬守」の名で白川卿に随身し、自分ものちには四条卿に、親兵隊長として奉公した位だから、当時としては有識階級で、天誅組の那須信吾の友人でもあったから、
(刀は日陰者の持つもので、晴れて天朝さまにお尽くしする自分は、そんな物は持たん)
といった気概があったのであろうか。
また新徴組が結成された時も、丁日つまり偶数日は徹底的に槍術の指南をしている。
なにしろ、
「皮を切らせて肉をきり、肉を斬らせて向こうの骨をきる」のが刀法の極意というから、それでは斬りこんでゆく方も安全とはいえなく大変である。それより三米もある長い槍の先で遠くから突く方が有利に決まっている。だから幕末でも槍の方が重視さ
れたのだろう。
 また、刀道、刀客、刀家とはいわず、「剣道」「剣客」「剣豪」などと恰好をつけるのも、カタナとツルギは違うから、これまた変な話だが、では何故一般に、「刀と刀のチャンバラ」が、さも当然のごとく
普及したかとなると、これの真因は、江戸末期の聖天町三座によるのではなかろうか。
 幕末の刀道流行に、芝居も便乗したといってしまえばそれまでだが、なにしろ昔は、国立劇場もなかったから芝居の舞台がせいぜい三米か四米しかなかった。
 そこで三米の槍をもった役者を出しては、一人で舞台が一杯になって立ち廻りなど出来ない。ところが刀ならば、双方で雪月花山形と、「チャンチャン、チャチャ、チャンチャン」と振付がつけられ何人も絡みあって見せ場になる。だから芝居からして
一般に、間違えられて伝えられてしまったのではなかろうか。
 これはまた今日伝えられる「切腹作法」が、「白砂をしいた上に裏返しの黄色い畳。青の上下に白衣の切腹者が、そこへ座って赤い血綿を効果的に腹から出してみせる」
 という絵画的な芝居の場面から、引き移しにされているのと同じことであろうと想う。