テレビは「民衆愚民化製造装置」 暴れん坊将軍の嘘 水戸黄門漫遊記の嘘 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

テレビは「民衆愚民化製造装置」

(本篇は2001年1月の再掲載である)

 誰の言葉か忘れたが、愚民教育は三つのSだと言う。スポーツ、セックス、スクリー ンである。誠に現代の日本にピッタリで言い得て妙である。
少子化による人口減少対策、地球温暖化の影響で、急務の自然災害対策、全国にある、古くなった橋梁、トンネル、道路(国土交通省調査で22万箇所という)
社会インフラの整備補修、侵略国家に急変した中国侵略(尖閣諸島)防止のための対策等々喫緊の課題が山積している。
 ここではスクリーン、 即ちテレビの公害について論じてみたい。
と言っても、オール反安倍総理派と化し、安普請建付け正義論を振りかざす軽佻浮薄で無様なコメンテーターや評論家のことではない。また、ろくに芸もないのに、テレビ業界を席巻する毒虫のような、半端者集団の漫才屋のことでもない。
NHKに代表されるテレビの時代物についての考察である。

 日本人というのは、かって陽の当たる場所にいた京で勢力のあった一握りの者の他は庶民と呼ばれてきた被征服者の子孫が国民の70から80%を占めている。アメリカ等では白人がどんどん入ってきて一見それと解る有色人の原住民インデアン を、民主主義であると一世紀も立たぬ内にあらかた殺してしまった。
だが日本列島では、大陸から入ってきたのも、当時は弁髪していたが黄色人種。百済の母国を失って自分らのナラ王朝を倒されて、新興勢力に帰順降伏し、傭兵となって忠義を尽くさんとしたのも黄色人種。
彼らに蕃族として討伐されていた縄文人から続く、日本原住民も古代民も、アマの王朝系や蘇民将来系も同じく黄色人種。
それにアメリカにはバファロと呼ぶ野生牛が群がっていた。だから新入白人も食料には困らなかった。しかし日本列島では違った。種もみをあてがわれ食料供出用の「編戸の民」として原住民は圧迫され続けだが、 生存は許されてきた。が、幕末までは居住地や職業は先祖代々から限定されていた。
現代の如く勝手に本籍を移したり、他へ転出するが如きは「逃散」の重罪で死刑にされた。また親が百姓なら倅も百姓、親が大工なら倅も大工、といったように、頼朝御判物の区分により職業も決まっていた。

 そして歴史を暗記物として教え込むような義務教育の学校は、幕末まで無かったから、「わしらは宗旨違いだ」位の処で、あまり詮索などしなかつた日本原住民の子孫共が、否応なしに学校へ通わされ、
そこで歴史を覚えさせられる段になって疑問を抱きだした。日本は世界有数の歴史関係書籍消費国なのはこの訳である。
 (向こうよりの偉い人が大陸の文字によって、 自分らこそ未開の開発途上国だった列島の始祖である)とする歴史では、いくら丸暗記して覚え込めと教わっても、すんなりゆかない。
 成人してくると疑問が色濃くなってきて、明確でないが(学校歴史と自分らのは違うのではないか?)となって、
 歴史関係書を読み漁る事にもなる。「野史」と呼ぶのが日本に在る。しかし、京の公家の歴史に対して、地家(じげ)の歴史なら良いのだが、残念ながらそうではない。
文字を信用して造語された、史実、史料、史伝等に幻惑された類が多い。

暴れん坊将軍の嘘
悲劇の尾張宗春



 さて、今やテレビは一家に二台三台の時代でスマホでも見れる。そして時代劇という奴にはほとほと困惑させられる。時代考証何某とまで出ているから頭の軽い人は本当なのだろうと思わされてしまう。
通史俗史にのっかるのが視聴率につながるからと、全くの嘘ばかりである。
ポカンと観ていると面白いのだろうが、人間が生きていくのに一番大切な判断力、 批判精神や懐疑心が喪失してしまう。
その点、以前放映していた劇画からの「浮浪雲」は、チョンマゲの主人公が巻煙草を煙管で吸つたりしていて、ハチャメチャで結構だが、
同じ局の「暴れん坊将軍」になると、尾張の徳川宗春が八代将軍吉宗と張り合う内容だけに困る。
 八代将軍候補にあがったのは宗春の兄継友の方で、将軍が紀州の吉宗に決定すると急死してしまう。
それゆえ既に奥州梁川三万石へ養子に行っていた宗春が戻って家督を継いだ。

 兄の死が毒殺ではないかと疑って城中に居るより、尾張に居るときには暗殺を警戒し、 野外へ鷹狩りと称して出歩くことが多かったせいか、「何、これなる石が瀬の川原で対陣して、松平元康の軍と権現様の手勢が戦をし、相手が強くて負けて逃げ込んだゆえ、あれなる山を権現山というか」と、
次々と松平勢と権現様(家康)の合戦の遺跡を見つけだし、負けて逃げるときに、酒井忠次が世話になった木こりへ手渡した白扇なども検分した。
各地の古老を呼んで聞き取りもした。尾張宗春にとっては家康は直系の曾祖父にあたる。

 だから「徳川の世もすでに八代目である。創業の頃には三河松平入道の血脈と言った方が恰好が良かっただろうが、今となっては赤手徒拳の世良田次郎三郎が田楽狭間で、
今川方の優れた鉄砲を持って行った織田信長の引きあげた後へ行き、その残りの武具甲冑を遺骸から剥がして完全武装し、浜松の酒井や伊勢の榊原、渥美の大久保、伊賀の服部らと兵を集め、
やがて天下平定を成したのは立派なことで今更隠すこともあるまい」と、書物奉行堀田恒山の名で「章善院目録」と後に呼ばれる一冊を木刷りで刊行してのけた。

 徳川の権威だけが天下の政道と心得ていた能史大岡忠相によって、直ぐさま江戸表から、「徳川家祖先のことをみだりに書くべからず。また、刊行者の奥付に著者と発行者を明記のこと」と、
世界最初の出版統制令が発布され、尾張宗春は閉門。
また何か書くかもしれぬと紙と名の付くものは便所の紙まで支給厳禁されて生涯監禁された。

宗春の子らはみんな次々と早死にさせられ血脈は絶たれてしまい、以降尾張の殿様は一橋家と田安家から交互に送り込まれ幕末まで続いていたのが真相である。この事は「愛知県史」「名古屋史」にも明白にされている。

 その他にも水戸黄門も、竹矢来を張り巡らされて、常陸太田で生涯閉じこめの憂き目にあつていた水戸光圀の実像も知らず「アッハッハッ」と高笑いしながら日本各地を廻って歩くのも、
高視聴率ゆえやむなしと、立川文庫のテレビ版が次々とシリーズを重ね、娯楽物だからと問題にもしない見解は、金儲けの土地開発のため、各地の古墳や遺跡が取り壊され潰されて消滅してゆくのと何ら変わりがない。
それどころか映像の誤ったイメージが何千万もの人々に垂れ流されているだけに、そ の害はもっと甚だしいと言えよう。

 さつま芋だって種類がある。(農林1号)と(金時)ではまるで違う。日本歴史とて同様、書く人間によって全然相反する。だが人間の場合バイは在ってもノーリンは なく、これを作別銘柄に分類すると「神信仰系」の原住系と「仏信心系」の外来系に分かれて今日まで続いている。が昔は、共存共栄なんかしてきた訳ではない。
 原住系は圧迫され、歴史に残された限りでは圧倒的に外来系の独壇場である。これは勝者は己に都合良く歴史を改変出来る特権をもつからである。
 しかも外来系は、仏教と一緒に漢字や平仮名まで持ち込みである。そして歴史とは、それらの発表具象の力を借り、記録の型に於いて伝承される物なのだ。
文字がなくて口伝に頼るとアイヌ のユーカラみたいな物になってしまう。
 さて今日、「この日本の歴史」の基盤を なすのは(日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後紀 日本文徳天皇実録、日本 三代実録)を基幹となし、
それに(律、令義解、類聚三代格、延喜式、尊卑文脈)をもつて、根本史料と定められている。
だがしかしである。これが出来上がった西暦720年の年代に於いて、こうした漢字を駆使して書くことの出来たライターは はたして何処産の人間だろう。
 当時、真備や仲麿が留学していたから、唐へ勉強に行っていた学究が、 帰朝してから書いた物と言うのが通説になっている。
しかし真言天台の密教にしても、開祖と呼ぶのは4人のインド人やセイロン人、それを唐訳したという唐人の計7人で、日本人は一人も入っていない。
これは延暦寺でも高野山でも公然の話で、「大乗寺社寺雑事記」等にははっきりと、鹿園院(京の相国寺鹿苑院)に関し、「天竺人来る、住持となる」と文明十八年の条には出て いる。
つまり神様のノリトというのは聞いていても判るが、お経というのは呪文を唱えて居るみたいに、文字でなければさっぱり判らないのは、このわけなんだろう。
そして雑事記には、「天竺人は二条通りと三条坊門烏丸の間にある唐人屋敷に居住している」と書かれている。さらに、
 
「西忍入道も幼名はムスルといい、後に天次といつたもので、こうした立野に固まっている連中は昔からの風習で<平氏>の姓を賜っている」と堂々と出ている。
これを見ると季節風に乗ってアラビア姓の名をもつ者たちが、日本へ渡ってきて、 京の二条から三条にかかる烏丸の租界に居住し、立野に土地をもらい小作人に耕させて彼らは平氏と名乗っていたことが判る。

 つまり、人間はその母国語からは抜けきれないもので、これは湯川秀樹の如きノーベル賞的頭脳でさえ英語ではすらすらと論文が書けぬ事を考えてほしい。
タイトルに日本という文字がついてはいるが、それでメイド・イン・ジャパンとは断定できない。何しろ今日でもイタリアで堂々と米国西部劇が作られる程である。さて、その六七十年後でさえも、漢字はまだ一般には暗号同然だつた例証がある。

『宇喜多家譜』に「朝鮮王淋聖移住しての裔」と明記されている児島高徳が、延暦寺をも頼られた時の帝の行在所へ潜入し、
 そこえ堂々と桜の幹を削って「天勾践をむなしゅうするなかれ」と書いてきたエピ ソードだ。
もし漢字が一般化していたのなら、そんなアジテートはすぐ抹消される筈である。だが警護の侍なんかには読めはしないから安全暗号として通用したのだと考えられはしないか。
世に「史料」「資料」と呼ばれるものは多い。情報を選別し自己に都合の良いものだけを垂れ流すテレビと双璧をなす「漢字情報」にも、十分注意が必要だろう。

水戸黄門漫遊記の嘘

 元禄年間以降あらゆる出版物の統制をした徳川家のために、日本の歴史は、寄らしむべし知らしむべからずといった具合になったから、庶民には芝居とか講釈、そして、でろりん祭文の世界だけが覗き穴的に許されたに過ぎない。
 それゆえ、まるでそうしたものが、つまり過去の時代を扱ったものすべてが、さながら歴史のごとくにも誤られたので、「稗史、小説」といったいい方もされ、そして、それが、
やがて活字によって表現される講談という形になったとき、今でいうサービス精神が庶民に迎えられるような語り口となった。
このため、大衆の代弁者としての一心太助を作り、体制のパイプ役に大久保彦左が担ぎあげられたのであろう。つまり、
『水戸黄門漫遊記』といったものも、歴史なら事実ありの儘で良くても、銭をとって読ませる為には面白可笑しくといった要素がいるので、痛快がるようにと加味されたものなのである。
 だから、かいつまんで紹介してみると‥‥

 助さん格さんを伴にして田舎親爺然の、黄門様が諸国を廻って歩き、権力を笠にきて弱い者苛めしている連中を見つけると、「ああ、これ、これ」すぐに声をかけ、
「助けてやりなされ」と腕っ節の強い二人をさしむけ、相手をこらしめる。もし向こうが代官とか領主の時には、体制には一応は逆らわずに、「さあ縛りなされ、手向かいは致しませんぞ」
 と連れられて行き、さて向こうの親玉が出てきた処で、「やあやあ、ここに控えておられるを、誰方(どなた)かと心得おるか‥‥恐れ多くも天下の副将軍水戸光圀公にあらせられるぞ」となって平身低頭。
 助さん格さんが、びしっと一発かませる。すると向こうはびっくり仰天。真っ青になって、「知らぬ事とはいいながら、平に、平に御容赦の程を‥‥」泡をくって周章狼狽するまこと痛快な場面となるのである。
 ----しかし、この黄門漫遊記は全くの講談で、本当のところは侍臣を使いには出したが、ご老公は茨城の太田から何処へも行かなかったといわれる。
 では、何故、そうした物語が、元禄時代を背景に生まれ出たのか。以前、昭和元禄などと使われているように、元禄時代というのは泰平ムード溢れたのんびりした世の中で、なにも御老公が嘘にしろ、
てくてく諸国を見て廻る必要も、なかったろうにと想われる。
が、こうしたいわゆる常識的な見方と、その時代の本当の社会状況のところがまだ伝わっていた頃の実際の見聞とでは、どれ位までくい違うものだろうかと気になる。また元禄時代というのが表面は天下泰平であっても、一皮むけば、それは大変な世だったこともまず判って頂きたいものである。

それは、昭和元禄とまでよばれた平和そのもののようにみえた時でさえ、故三島由紀夫氏らが、「他からは狂気の沙汰にみられようとも、これぞ憂国の至情の致すところ」と割腹し介錯をうけ胴と首を別個にして、自決している反面すらもあるのである。
 さて、ターララ、タララララで始まる元禄花見踊という和洋大合奏が賑やかなので、そんな世の中だったのかとも誤られやすいが、あれとても実際は元禄時代に出来たものではない。

「元禄小袖」とよばれる派手な衣裳も、勿論あの時代に関係はなく後世の産である。では、どんな時代だったかというと、徳川時代をそのまま鵜呑みにしている歴史家が説く元禄時代とその実際は、改めて考究してゆくとまるっきり違う。
「雪と炭」といった古い形容詞が当てはまる位に相違するのではなかろうか。というのは徳川家というのは、もともと前述した平凡社『百科事典』の新田系図にあるごとく、世良田系であり修験者畑である。
 だから家康、秀忠の代には、「柴衣事件」で知られるように、仏門への風当たりが極めて強く、坊主に対しては、おもねってくるのには寛大でも、威張っている坊主には、くそみその扱いで遠島処分にさえした。

 しかしそれも、家光の代からおかしくなった。
 秀忠は、「神君東照宮」として父家康を祀ったのに、「仏式にやりかえい」と家光は、神君を権現さまに変えてしまった。だから家光の子の家綱や、その弟の綱吉の時代になると、ますます仏教傾向がひどくなってきた。
そして綱吉は、「東光の者らをかたづけい」とまでいいだし始める。東光とよばれるのは、西方極楽浄土を唱える一般の仏教に対し、「東方瑠璃光如来」をもって、東方にこそ光ありとする宗派で、
これは「医王仏」とも、また、「薬師寺派」ともいうものである。

 この信者は、かつて公家に対する地家、つまり原住系として捕虜収容所の、別所、散所、院地へ入れられていたり、または、北条氏におわれて逃げこんできた源氏の残党。つまり俘囚の裔なのである。
 だから俗に武士は俘囚の末だからと、「地家侍」などといわれるのも、この為であるが、彼らは初めは、エビス、ダイコクの七福神や、白山神、土俗八幡の信仰だった。
 しかし織田信長が天正十年六月に、本能寺で爆死をとげると世の中が一変し、今も残されている、『天正十一年裁可状』の文面にもある通り、各地の拝み堂から、修験や博士、太夫とよばれていたのがみな追われ、
僧籍をもった者が代わりに入ってそれが寺と変わったとき。

 いきなり頭ごなしに、西方極楽浄土も受けつけまいと、それらが、いわゆるお薬師派になったので、それまでの原住系のあらかたは、東光の信者になったのである。
『天正日記』とよぶ徳川家康の臣が、刻明につけたものにも、小田原から江戸へ初めて入ってきた家康が、まず東光の御堂を拝み、寄進をした旨をかいているが、この派の信者は関東には多かった。
 もちろん何時の時代、何処の場所でも、以前のオキナワにしてもアメリカ人より県民の方が遥かに多いのは常識だが、徳川時代でも、西方極楽浄土の門徒より、東光信者の方が数では圧倒的に多かった。
 しかも彼らは、皮はぎという専売業をもっていた。
 戦国時代は終り、冑鎧の需要はなくなったが、ビニールも合成レザーもない時代ゆえ、元禄期になっても皮革は高価に取引きされていた。
 だから製皮業者を信者にもっている薬師寺派の方は、寄進喜捨が多く、掘立て小屋みたいな拝み堂だったのが、次々と山門つきの立派な普請に変わっていった。
令和の今日でも、「お寺言葉」で、裕福な檀家のことを、「肉の厚い」とか、「皮の良い」というのは、これから来ているのである。さて、こうなると西方極楽浄土側の方では、「面白くないこと、おびただしいものがある。怪しからん」と将軍家の生母お玉の方をつつき、しきりと運動をした。
 そして考え出された名案というのが、「皮をはいで儲けるな」とは法令が出せぬからして、「生きものを憐れめ」という、生類憐れみの令である。
 日本では獣といっても虎やバファローはいない。比較的捕えやすく皮を剥がしやすいのは犬である。
 そこで動物を愛護する為ではなく、製革業者を弾圧する必要上、各地に犬小屋を作って片っ端から収容した。しかし係りの役人の中には、その法令の真の目的までは判っておらぬ者もいたからして、
「雀をとってはいかぬ。鳥類も生きとるから、生類の内に入るのである」と、畑で野荒らしの雀をとった子供さえ牢に入れられた。さて、これが地方へ行くと、ますます役人は融通がきかなくなるものだから、余計に厳しくなってしまい、
「なに鼠を、猫が捕えて食したと申すか‥‥それなる猫を召捕って牢へ入れい‥‥うん、猫も生類の内か。それでは捕えた身共の手落ちとなり、責任問題になるやも知れんな。では猫の飼主をつかまえい。
人間ならお叱りはあるまい」といった事態が各地におきた。こうなっては野良へ出ても、吸いつくひるさえむしり取れない。
 
そこで、誰か、役人や代官より豪い人が見廻りにきて、「助けてくれぬものか」といった願望が、『水戸黄門漫遊記』となって現れ、庶民の夢と憧れになったのだろう。
もちろん講釈になった時期はずれるが、この元禄時代が如何に大変であったかは、孫子の代まで語り伝えられていたので、「そうか、黄門さんが廻って皆を助けて下されていたのか」
 と一般大衆は涙を流して喜んで聞いていたのだろう。だから『講談水戸黄門』の方も、そこは抜かりなく、「ご老公におかせられては、犬より人間の方が粗末に扱われるとは何事かと、くだんの死んだ犬の皮をはがさせ、
血まみれなものを役人に渡してやり、わしは光圀なるぞと仰せられて‥‥」と、そういう挿話までが書き込まれている。
 さて、俘囚の裔の原住系の中には武士となっている者が多いから、「暴動、一揆、叛乱」という心配をしたのだろう。それまで知行所に住まうことも、その行ききは自由だったのが、この元禄年間から禁止されてしまったのである。
 やがて、この結果名主とか庄屋が、自分の宰領で年貢を出すようになったから、武士を軽視しだし、天誅組の吉村寅太郎のような庄屋の伜が、「天皇さまの下に大百姓が揃って政務をとり、武士階級をなしにする時代」を夢みて
旗あげするようにもなるのだが、これは後の物語である。