『天 正 記』(著者・大村由巳) | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

天 正 記』(著者・大村由巳)

これは正確な史料とは言えぬシロモノだが、豊臣秀吉に対して、その家臣の大村由己が、主人である秀吉に、どういうふうに書いたら満足してもらえるかという努力の参考に、
彼の〈天正記〉の内から〈惟任謀叛説〉の「本能寺」と「二条御所」を原文の儘で採録した。
読んで判るように、そのデフォルメ(目的に合わせて書き直すこと)ぷりを参考にと想うのは、この程度のものが、「信長殺しは光秀」の証言であるという情ない真相の解明でもある。


 「本能寺」

 惟任公儀を奉じて、二万余騎の人数を揃へ、備中に下らずして、密に謀反をたくむ。併しながら、当座の存念に非ず。年来の逆意。識察する所なり。
さて、五月廿八日、愛宕山に登り、一座連歌を催す。光秀、発句に云はく、「時は今あめが下しる五月かな」今、これを思惟すれば、則ち、誠に謀反の先兆なり。
何人か兼ねてこれを悟らんや。然るに、天正十年六月朔日夜半より、かの二万余騎の人数をひきい、丹波の岡亀山を打ち立ち、四条西の洞院本能寺相府の御所に押寄す。
将軍、此の事夢にも知り召されず、宵には信忠を近づけ、例より親しく語らい、吾が壮年の曹、唯今残る所なき果報を喜び、兼ねて万代長久の栄耀をたくみ、村井入道・近習・小姓以下に至るまで、
御憐愍(りんびん)の詞を加へ、深更に及ぶ間、信忠は暇乞ひありて、妙覚寺屋形に帰り入り、将軍は深閖に入りて、佳妃・好嬪を召し集め、鴛鴦(えんおう)の衾(ふすま)、連理の枕、
夜半の私語、誠に世間の夢の限りに非ずや。惟任は途中にひかえ、明智弥平次光遠・同勝兵衛・同洽右衛門・同孫十郎・斎藤内蔵助利三をかしらとなし、其の外の諸卒四方に人数を分けて、
御所の廻りを取り巻く。夜の昧爽(あけくれ)時分に、合壁を引き壊り門木戸を切り破り、一度に颯と乱れ入る。将軍の御運尺きるところ、頃天下静謐の条、御用心無し。

国々の諸侍、或は西国の出張と云ひ、或は東国の警固として残し置く、又、織田三七信孝は、四国に至りて渡海あるぺき調儀のため、惟住五郎左衛門尉長秀・蜂屋伯耆守頼隆相添へ、
泉堺の津に至りて在陣。其の外の諸侍、西国御動座御供の用意のため、在国せしめ、無人の御在京なり。偶々御供の人々も、洛中所々に打ち散り、思ひ思ひの遊興をなす。
御番所に漸く小姓衆百人に過ぎざるものなり。将軍、夜討ちの由を聞し召され、森蘭丸を召して、これを問へば、則ち、惟任が謀反の由を申し上げる。
怨みを以て恩に報ずるの謂はれ、ためしなきに非ず。生ある者は必ず滅す、是れ亦、定まれる道なり。今更に何驚くべけんや。弓をおっ取り、広縁を差して打ち出で、
向かふ兵五、六人、これを射伏せて後、十文字の鎌槍を持ち、数輩の敵を懸け倒し、門外におよびて追ひ散らし、数箇所の御疵を蒙り、茲を差して引き入り玉ふ。

森蘭丸を始め、高橋虎松・大塚又一郎こ菅原角蔵・薄川余五郎・落合小八郎等、御傍を離れざる而々なり。これに依って一番に取り合はせ、同じ如くに名乗りて出で、一足も去らず、
枕をならぺて打死す。続いて進む人々は、中尾源太郎・狩野又九郎・湯浅甚助・馬場勝介・針阿弥・此の外、兵七、八十人、思ひ思ひの働きをなし、一旦防戦すと雖も、多勢に攻め立てられ、
悉くこれを討ち果たす。将軍此頃、春の花か秋の月かと、翫び給ふ紅紫粉黛悉(こうしふんたいことこと)く、皆さし殺し、御殿に于自ら火を懸け、御腹を召されおはんぬ。
     
「二条御所の陥落」

村井入道春長軒、御門外に家あり。御所の震動を聞きて、初め喧嘩かと心得、物の具も取り敢へず走り出で、相鎮めんと欲して、
これを見れば、惟任が人数二干余騎囲みをなす。かけ入るべき術計を尽くすと雖も、叶はず、これに依って、信忠の御陣所の妙見寺に馳せ参じて、此の旨を言上す。
信忠は、是非、本能寺に懸け入り、諸共に腹切るべき由、僉議ありと雖も、敵軍重々堅固の囲ひ、天を翔る翼に非ざれば、通路をなし難し、寔にこれ咫尺干里の歎き、なほ余りあり。
と然るに、妙覚寺は浅間敷陣取りなり。近辺において何方か腹を切るべきの館、これあるべしと、御尋ねありしに、春長軒承って、忝くも、親王の御座、二条の御所然るべき自言上仕り、
二条の御所へ案内申す。忝くも、春宮は、輦(てぐるま)に召し、内裏に移し奉り、信忠僅かに五百ばかり、二条の御所に入る。

将軍の御馬廻、惟仟が残党に隔てられ、二条の御所に馳せ加わる者一千余騎。御前にこれある人々、御舎弟御坊織田又十郎長則・村井春長父子三人・団平八景春・菅屋九右衛門父子・
福住平左衛門・猪子兵助・下石彦右衛門・野々村三十郎幸久・走沢七郎右衛門・斎藤新五・津田九郎次郎元秀・佐々川兵庫・毛利新介・塙伝三郎・桑原古蔵・水野九蔬・桜木伝七・伊丹新三・小山田弥太郎・小胯与吉・春日源八、此の外、歴々の諸侍、思ひ切って、惟任が寄せ来たれるを待ち懸けたり。惟任は、将軍御腹を召 し、御殿に火焔の上るを見て、安堵の思ひをなし、
信忠の御陣所を尋ぬれば、二条の御所に楯籠らるる由、これを聞きて、武士(もののふ)の息を続がせず、二条の御所に押寄す。

御所には勿論、覚悟の前、大手の門戸を開き置き、弓・鉄炮前に立て、内にひかえる軍兵は思ひ思ひの得道具を持ち、前後を鎮め居たりけり。魁(さきがけ)の兵、面もふらず、懸かりたり。前に立てる弓・鉄炮、差し取り引き取り射退け、たじろぐところについて出で、追払ひ推し込み、数刻ぎ戦ふ。敵は六具をしめ固め、荒手を入れ替へ入れ替へ、数剋防ぎ戦ふ。敵は六具をしめ固め、荒手を入れ替へ入れ替へ、攻め来たる。味方は素膚に帷(かたびら)一重、心は剛く勇むと雖も、長太刀・大打物、刃を揃へて攻め入れば、此には五十人、彼には百余、残り少なに打ちなされ、御殿間近く詰め寄せたり。
信忠御兄弟、御腹巻を召され、御傍にこれある面々百人許り具足を着け、信忠一番に切って出で、面に進む兵十七、八人これを切り伏す。御傍の人人、われ劣らじと、火花を散らし相戦ひ、四方に颯と追ひ散らす。
其の時、明智孫十郎・松生三右衛門・加成清次、其の外、究竟(くっきょう)の兵数百人、名乗り、取って返し、切って懸かる。信忠御覧じて、真中に切って入り、此頃稽古仕給ふ兵法の古流、当流秘伝の術、
英傑の一太刀の奥儀を尽くし、切って廻り、薙ぎ伏す。孫十郎清次・三右衛門、首丁々と打ち落とす。御近習の面々、力の限り切り合い、内に攻め入る敵の人数、悉くこれを討ち果たす。
最後の合戦、残る所なく、将軍の御伴を申すべしと、御殿の四方に火を懸け、真ん中に取り籠め、腹を十文字に切り給へば、其の外の精兵、敷皮をならべ、腹を切り、「一度に諂となりぬ」将軍御歳四十九、
信忠御歳二十六、悼むべく、惜しむべし。上下万民に至るまで、皆、愁涙を滴らしけり。


・・・・・・云わいでもがなのことであるが「兵法の古流、当流秘伝の術」「一太刀の奥儀」というのは、幕末天保十四年に〈新選武術流祖録〉という硬派本が出てから、
弘化・喜永の木版刷の「剣客伝」にきまって出てくる「当時の流行語」である。
文中の「将軍は深閖に入りて、佳妃・好嬪を召し集め、鴛鴦(えんおう)の衾、連理の枕」は、中国古典の引用で、信長に対する悪意に満ちた記述で、
(信長が、本能寺で夜を徹して女を侍らせ、酒池肉林の乱行をし、油断していたから夜明けに乱入され殺されたのだ)というもので、こうした記述が秀吉に喜ばれたのであろう。
そして様々な事を信長から学び真似をして成功し、立身させてもらった秀吉だが、内心信長を畏怖していても実際は軽侮していたことが読み取れる。
なにしろ、信長の遺児は皆殺しにし、その妹(お市)を妾にしていた事実からもそれは確かな事実である。
こに転載した原文も、天正十年の作とは伝わるが、これまた、やはり幕末の二百七十年後のリライトもののようである。