スペインとポルトガル日本占領計画 宣教師とキリシタン大名 伊留満(イルマン) | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

スペインとポルトガル日本占領計画

宣教師とキリシタン大名

伊留満(イルマン)

 
 <フロイス日本史>によれば、宣教師が建てた教会敷地内は治外法権で、日本人で罪をおかし追われている者たちが入りこんで身を隠し、雑用を手伝い、それら日本人がイルマンになったという。

 イエズス派記録ではパードレに次ぐ修道士位ゆえ、日本では天文二十一年に任命されたバスク人の、ルイス・アルメイダの名が出ている。
しかし日本人イルマンは日本語の文字すら読めぬ者が多く、勿論聖書なんか全く読めずただ「ドリチナキリシタン」つまり「讃えんかな神を!」の一語だけ覚え、
現代の麻薬の売人のごとく、布教費用にと持ちこまれた火薬原料の硝石を売り廻り、欲しがる戦国武将を切利支丹大名にしていたのである。

 切支丹大名には大友宗麟や高山右近はとくに有名だが、西国から九州にかけての海岸沿いに領地を持つ戦国武将は、
例外なしと言っていいくらい、聖書も読めず従って訳が判る筈もなく洗礼名をみんな有している。
当時辞書もなく、スペイン語も判らず、大河ドラマでは流暢な日本語を話す宣教師が出てくるが、あれは嘘である。
だから神の福音など判りもしないのに何故にキリスト教に入信したのかという疑問が残る。

 それは、戦国乱世に生き残るには敵に勝たねばならぬ。それには種子島伝来して雑賀や国友でも倭銃は製作されるようになったものの、弾丸を飛ばす火薬原料の硝石が日木国内どこからも鉱産されぬ。
それに目をつけ布教の費用にとイエズス派を初め各派の宣教師が持ちこんできていたのである。
それが欲しさに耶蘇坊主に、頭上に水をすこし掛けて貰い、訳のわからぬことを言われても、かしこまって、「ドリチナ・キリシタン(讃えんかな神の御名を)」と、
取り持ち役の日本人イルマンの口移しに覚えたのを繰り返し洗礼を受け、なんとしてでも鉄砲の火薬を入手せねば生き残れぬと、恰好だけに入信した。
火薬と日本人奴隷と交換したのが、当時の切支丹大名の実像なのである。高山右近らも火薬とバーター制に売られたらしい。
だからむごい話だが火薬欲しさに自分の妻や娘まで奴隷として差し出した大名も居たのである。


南蛮寺(天主堂)

 信長時代、京四条坊門の、本能寺の裏口より五十メートルの距離にあった和風教会堂を云う。宣教師はマカオを中継して火薬(硝石)を持ち込んでいた。
信長は火薬入手の手段として、キリスト教の布教を許し、「南蛮坊主」と呼ばれていた宣教師の歓心を買うため建築費の銀まで出してやり建設をしてやった。
しかもバルコニーのある三階だての建物だった故、低い本能寺の内部をらくに見降ろせて便利だった。
当時この近くの町屋の者が「南蛮寺から覗かれる」と、信長に苦情を言ったという記録もあるいわくつきの建物である。
 本能寺事件の当日、オルガンチーノ師父の許へ本能寺を包囲した丹波兵がきて、吾々は三河の家康を討つ為に召集されてきたのだと話していたとは、カリオン司教の本国への報告書の中にも書かれて現存している。
やがて、そのバルコニーから撃ちこまれたか、または壕越しに投げこまれたか判然としないが、午前四時から集っていた一万三千の兵の限前で、本能寺は午前八時すぎに爆発し信長は髪毛一本残さずに死んだ。オルガンチーノはすぐ九州の口の津まで徒歩で逃げた。やくざでいえば、相手の親分を弾いて(殺して)長いわらじを履いたのである。

後年マカオへも戻れぬ彼を豊臣秀吉は生涯面倒をみている。
何故慌てて九州くんだりまで逃げたのか、秀吉は何故保護したのかという謎を考える必要が在るのに歴史屋は全く知らぬふりである。海外の史料にはその謎を解くカギが隠されているのに、金と時間がかかり面倒くさいことには見向きもしない。

日本占領の尖兵宣教師


まず〈ワリニヤノ書簡〉にも、「マカオの司祭は三千エスクードに価する一修道院の許可を、渡来したカスチリヤ人のフランシスコ修道士たちに与えました。しかし彼らは、マカオより中国本土の方を、
メキシコやフィリッピンのように、自分たちの手で征服したがっています」というのが明白に書かれてあるからである。
 
いくら神の栄光が偉大であっても、その国自体を占領するとしないとでは、布教活動がまるで違う筈である。それに当時、ポルトガルのセバスチャン一世が死ねば、まるまると、その国土が統治できたスペインである。
その三年後に、また野心を起し、当時の日本の主権者の信長を倒せば、否応なく日本列島に君臨できると考えたとしても、これはすこしも訝しくない。

 なおワリニヤノは、スペインのカスチリヤ人の中国本土征服の野心しか、書き残していないが、あの広大な中国より、どう考えたって、こぢんまりした日本列島の方が、占領する足楊としては手頃ではあるまいか。
 そして「安土か京にいる織田信長一人さえ亡きものにすれば、この国は手軽く奪えるもの」とでも、考えたのではなかろうかと想える。
 また、このワリニヤノ書簡を裏返しに判読すれば「先んずれば人を制す」のたとえで、「スペインに奪取されるくらいなら、まずポルトガル人がやろう」とも受取れる
当時、印度を東西に分けて、その勢力を二分していたポルトガルとしては、ローマ法皇に対し、
 
 「スペインが中国本土を狙うのなら我々は、対抗上、まず日本列島を頂かねばなりません」と献言していたのかもしれない。
何故にこうした疑惑を持つかと言えば、印度派密使の資格をもって、天正七年七月にマカオから、日本へ来朝したアレッサンドロ・ワリニヤノは、翌天正八年十月に、豊後府内の教会堂に於て、天主教の神父たちをあっめ、
九州協議会をひらき、続いて安土の天主堂で、中央協議会。そして天正九年十二月には、長崎のトドス・サントス会堂で密議がもたれた。

そして、これを最後にして正式の会合は姿を消し、翌天正十年の六月二日に、京都四条の三階建の天主堂から一町もない至近距離の本能寺で、いきなり突如として信長殺しは起きたのである。
 もし当時の十字軍遠征用に考案されていた折畳み分解式のイサベラ砲を、この天主堂の三階へ運び上げていて、一階だての眼下の本能寺の客殿へ撃ちこむか、もし、それでは人目をひくものならば、
その火薬を本能寺の境内へもちこんで導火させてしまえば、ドカンと一発、それで、これは容易にかたのっくことである。

疑惑の宣教師

 詳しい状況は後述するが、本能寺は午前四時に包囲されたのに、突然、火を発したのが午前七時すぎという、時間的のギャップと、前日までの大雨で湿度が上昇していたのに、火勢が強くて、
まだびしょ濡れの筈の本能寺の森の生木まで燃えつくし、民家にまで類焼したしたという状況が判っている。
 そして信長の焼死体が行方不明になってしまった位の強度の高熱状況からみても、木材や建具の燃焼温度では、火力の熱度が不審である。

つまり今日の消防法規でいう通常火災ではなく、これは化学出火の特殊火災の疑いがある。
 当時の化学発火物といえば、文字通り「火薬」しかない。だが、火縄銃などによって発射された程度のものでは、これは炸薬だから、たいしたことはない。
性能の強力な火薬による本能寺焼討ちとなれば、火裂弾しかない。
 もちろんこれは、皆目、日本側の史料にはない。だがこれは十分考えられることである。

 さて、当時のワリニヤノ協議会草稿というのは〈Cons-ulita〉の名目で、ローマのバチカン法王庁に〈Japsin1-34・40-69〉の註がついてスペイン語とポルトガル語で現存している。
 しかし、まさか神の書庫に納められているものに、今となっては殺人計画書など附記されている筈もあるまいと考えられる。

スペインの陰謀

さて、ここに、もう一つ、訝しげな事実がある。
ワリニヤノは天正九年十二月の長崎会議のあと、翌年二月二十日。つまり本能寺事件の起きる百日前に、九州の大友、大村、有馬の三侯の子息を伴って、秘かに日本脱出をしている。
 これは信長を倒したあとの、日本列島のロボット君主に、この中の一人を、ローマ法皇グレゴリオ十三世に選ばせる為ではなかろうか。昔から、「三つに一つ」とか「三位一体」というように、カトリックでは、
ものを選ぶときに、同じようなものを三個ならべてその一つを、神の啓示にもとづいて採決する古教義が伝わっているからである。 (日本史では、天正遣欧少年使節とされていて、豊臣秀吉のバテレン追放令などで一時帰国できなくなるが、1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって、日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれた。となっており少年たちの渡欧目的はうやむやにされている)


ところがである。マカオへ彼がわたったとき、
 「ポルトガル王統断絶によって、従来は委任統治形式であったスペイン国王フェリッペニ世が、新たにポルトガル国王フェリッペ一世を名のって、ここに改めて、二つの王を正式に継承した」
 つまり二国が完全に合併した、という知らせが届いたのである。
 
だからポルトガルの勢力を、一挙にもり返そうとしたワリニヤノの計画は挫折した。しかし、当時は無線も航空便もない。そして、季節風をつかまえないと船も進めないから、日本列島へ指令をだして、
計画変更を訓令する暇かなかったのではあるまいか。
 
 かくて同年六月二日。本能寺の変となる。
 そしてワリニヤノは、ローマヘゆく筈だったのに、急に日本の異変によって禁足され、印度管区長に任命され、途中で雄図空しく足止めされてしまった。
だから九州三侯の子息たちは、日本語の通ずる彼と別れて、パードレのロドリーゲスに伴われてヨーロッパへゆき、手土産の屏風などをプレゼントして歩いた。何をしに出かけたのか、今だに訪欧の目的は判らない。疑問とされている。

 さて、さらに奇怪な現象が、ここに発生する。
 本能寺にて信長が殺害されたという日本列島の政変が本国へ伝わった後、直ちに、新しくポルトガル王になったフェリッペー世は、印度副王のドン・ドアルテ・デ・メチーゼスに対し、
(スペインとポルトガルは今や合併し、一つの国になっているにも拘らず)スペイン領のフィリッピンと、旧ポルトガル領のマカオの交通を、まったく、だしぬけに断固として、固く禁止させてしまった。
マカオの力ピタン・モール宛に対し、〈マカオ政庁図書館所蔵〉「陛下の御名により、特に許されしパードレ以外の者は、いかなる聖職者や修道者も、これが日本へ渡航することを禁止する。
支那人の司教と言えども、マカオに、いま居る宣教師は、一人と言えど、これを日本へ行かせてはならない。もし彼らの中で、既に日本へ赴いた者あると耳にしたら、陛下の御名によって余が命令するところであるから、

如何なる方法をもってしても、直ちに追いかけ引っ捕えて、これをマカオに送還せよ。本命令は、何等の疑念故障を、これに插まずして完全に履行することを命じ、
その命令通りするよう通告する。尚本書は、フェリッペー世陛下の御名に於いて認可され、陛下の御玉章を捺印されたものと、まったく同一効力を有するものである」と発令をしている。

スペイン国王の当惑

もちろん表向きの理由は、いろいろの宗派の宣教師か日本へ入りこんでは混乱するからだと言うのである。
 しかし、この当時フイリッピンのマニラへは、ドミニコ派のサラザールか初代司教として、スペインの国策として、本国から集団で来ていた。もちろん日本列島に勢力をうえつけるためである。
あまたの戦闘的な托鉢修道士も率いていた。
 
 だから、それゆえ当初は、マカオのゼズス教派のポルトガル人は邪魔をした。しかし国王の戦死によってスペイン統治下におかれていたから、本能寺の変の後では、もう反対の余地もなかった筈である。
 だったらサラザールの率いる宣教修道士の一行は、堂々とマカオへ渡り、そこから日本へ行くべきである。それなのにサラザールを保護する立場のスペインの王様が、あべこべに、これを断固として禁止してしまったのである。
 一体何を危惧したのであろうか。続いてマカオ在住者の禁足。日本へ行った者は、逮捕してでも、つれ戻せという緊急命令。こんな不審な話があるだろうか。

  日本に在る二百二十の大小の教会に、ポルトガル人の師父か数名で、あとは改宗した日本人の俄か助司祭。それも合計して八十名。これでは、あとの百四十の教会は、信者が集っても、それを司って、アーメンを言う者もいない。つまり二千人の信徒に一人の宣教師では、手がたらないのは判りきった話なのに、沢山日本へ渡航しては混乱するから、一人もやるなと言う、
この弾圧は、まったく奇怪である。といわざるをえない。
 しかも、こうした宗教上の問題ならば、(ローマ法皇のグレゴリオ十三世から、ゴアの王立印度参事会をへて)マカオのゼズス教会の大司祭へ通達されるのが、当時としては順序というものである。
それなのに、この命令系統は無視され、まったく違う。

「カピタン」というと、江戸期に入って長崎の出島へきていたオランダ商船の船長を考えがちだが、信長の頃の「カピタン」とは、何十門かの青銅砲をつんだ軍艦の艦長で、
「マカオのカピタン」といえば、今日の「マカオ海軍総督」に当るものである。
国王から印度副王。そして海軍総督という伝達は、これは宗教問題というよりどうみても、明白な軍事命令としか受けとれぬ。
 まるでマカオに一大異変でも発生したように、(フィリッピンからは渡航を厳禁し、マカオ在住者は一人も日本へやるな)という、この武力通達は、何に起因しているのだろうか。
 

これを(本能寺の変)は、スペイン人であるフェリッペ国王は、前もって聞いていない寝耳の水のことなので「東洋の利権を失ってはならぬ」と警愕した。と考える。
 そこで陛下は善後策をとるため、新法皇に連絡して帰国中のワリニヤノを途中の印度に足止めさせた。
 ついで、その部下として日本にあって、京都四条坊門にある天主堂から本能寺を爆発させたのをみて、その場からマカオへ逃げ戻ってきたポルトガル人と日本人のパードレやイルマンを、他と接触させては厄介であると、監禁させた。

 そして、その秘密の洩れるのを警戒し、マニラに待機中のスペイン神父らの渡航を禁じた。もちろんマカオは非常警戒で、もはや天主教の大司祭などに委せてはおけぬから、モール海軍総督の兵力によって、
戒厳令をしいて、ポルトガル人の謀叛事件を、極力これを隠蔽しようとした。といった具合にも解釈できるのである。
 これに関してポルトガル系の史料はないが、マカオ及び日本への渡航を禁止されたフィリッピンのドミニコ派の宣教師が、同じスペイン人であるフェリッペ陛下へ送った陳情書は、今も残っている。
天正十八年、つまり、これ能寺の変から、八年目のものである。
 
〈1590年6月23日附・フイリッピンのマニラに於て、フランシスコ教派監督フライ・ペトロ・バフチスタより、陛下に奉つる上訴文〉という書簡である。
 「当地からマカオへ渡る途が絶えてしまってから、もはや本国からくる宣教師もいなくなりました。ですから、すでに受洗させた信者も放りっぱなしの有様で、これでは新しい芽として育て、
その徳行を増すための教理の伝道にもことかきます。なんとか本国の修道士たちが当地へ来てくれるよう、つまりマカオや日本へ入れるように理解を加えられ、
どうか渡航禁止の軍令を解除して頂きたく、ここに神の御名により、切に懇願するものであります」
 (Porez、Cartas-y Relacioneel収録)とある。
 

この当時、スペイン船はマカオへ行って、中国の生糸や絹布。そして日本から運んできた金銀や銅の地金を求め、メキシコやインドへ運んで巨利をしめていた。
渡航禁止というのは、宣教師だけではなく、船舶自体の航行を遮断したのであるから、スペイン兼ポルトガル国王として、フェリッペ陛下の損害は、きわめて莫大なものだったろうと想像される。

 それなのに天正十八年の時点でさえ、まだ禁止はとかれていない。つまり陛下は、極東貿易の巨利を、すっかり放擲されているのである。スペインの国策が、本能寺の変を境にして、こんな変更を余儀なくされたのは、何故であろうか。
これでは、マカオへ戻っていったのは、単なる目撃者ではなくて、殺害者自身ではなかろうか。そんな疑問さえ抱かざるを得ない。本能寺の変を解明するのなら、こうした側面からの取り組みが必要で、国内史料より信頼できるものも多いのである。