明治維新の「志士」とは何だったのか? 徳川幕府の「御家人」とは | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

    
  明治維新の「志士」とは何だったのか?

徳川幕府の「御家人」とは

1980年代、インターネットの黎明期、日本はパソコン通信の時代だった。電話回線を使いダイヤルアップ接続でtextの世界だったが「電子掲示板」が人気だった。
当時の接続プロバイダーはNifty、Pc-VAN、アスキーネットがあり、掲示板の各種(政治、経済、歴史、科学、文化、芸術etc、etc・・・・)会議室では会員たちの熱く深い真摯で激しい議論が盛んだった。
日本史の会議室では、古代、中世、戦国、江戸、明治維新、近現代と細分化されていて、やはり邪馬台国、戦国時代に人気が在った。当時のログは全てフロッピーデスクに取り、後にSDカードに移行し保管しているが、ブログの走りだった相互通信の熱気が読み返すと懐かしい。以下は私のNifty日本史会議室での会員からの質問の回答の一部である。



  終戦後、大本営発表がほとんど嘘っ八だったと真相が明白にされました。
日本の歴史も、暴かれていない大本営発表と思えば、まあ間違いないでしょう。
在野の研究家、鹿島昇氏などは「日本は巨大な偽史シンジケートの国だ」と喝破しています。
「明治維新から百五十年」といわれる今の時点では、もう幕末の真相さえも、満足に伝わっていません。昭和の教育を受けた年代の者でも、
「明治維新とは、勤皇の志士によるクーデターで、王政復古の革命だった」式に教え込まれています。しかし、そもそも
明治維新とは何だったのか。攘夷とは、尊皇とは、勤皇尽忠とは、現代の理解のような崇高なモラルだったのだろうか。
(新選組を解明するならば、弾左衛門家との関係を徹底的に探査し、元禄十一年の弾圧時代に遡らなければ真相は捉えられません)ここで少し竜馬にも関係があるので<勤皇の志士>について触れておきます。

志士・・・・・勤皇の志を有し活躍した者。これが通説です。しかし、本当は騎馬民族の蘇我の民の残党で、後に源氏となる部族が馬飼いにされ、課役として馬の飼育を命じられ「飼戸」(しこ)と呼ばれていました。
       彼らは非農耕、非漁業の部族の末裔で武闘しか使い道が無く、防人として徴用されていたゆえ、後には「醜の御 盾」(しこのみたて)と侮称のような美名でよばれていた。
「ししど」と読めば、騎馬系は馬の四つ脚からとって、「四つ」とも呼ばれるが、屍馬から製革するなめしのアンモニアが必要なので、大はコヤシと呼んで百姓が集め、彼らは小のみを銭を払って集荷し、そうした家をよぶ。
つまり小用するのに背後へ凭たれ掛かる物など不要なのに「後架」とよぶのも、元来は高価の当て字らしい。今でこそ大小兼用だが幕末までは女でも小用は別にして、一緒に排泄するのを粗相と呼び、
地方によっては「オ」をつけて女性自身の名詞となっている。だから「志士」とはシコ、シシド(宍戸)の家の者の事なのである。
   江戸時代に「しし喰ったむくい」と言ったのは、海洋渡来系の男が騎馬民族系の私娼を買って梅毒を移された実態を戒めた言葉。だから「ししっ祓い」といって清めたものである。

御 家 人

次に質問の在った「御家人」についての解説をします。
日本史では奴隷制度は無かったことにされているが、奴隷という言葉は維新以後のもので、それまでは奴(ド)とか奴(ヤッコ)と云われていた。だから彼ら奴隷の悲哀を唄った「やっこさんは辛いねぇ」という江戸の端唄にも残っている。

平安時代から家人制度はあって、家人というのは私奴の意味です。つまりその家に買われてきた奴隷の子孫で、生殺は七人に握られていた。だから戦国時代も戦の時はまっ先にかけ、命がけで働き、手柄をたてれば妻帯を許された。
こういう存在の彼らを、徳川家康は江戸に移り人手不足の為もあり、荒川の三河島周辺で囲い地(徐地)に入れられていた者たちを同族として開放し、家臣とした。しかし旗本になった者は少なく、江戸期になると家禄は二百六十石より、給金は年四両一分までとしたお目見得以下の者を称した。
享保以降は生活苦から、同族どうしで伝達をつけて貰い、各地の除地を抜け出した者たちが江戸に流入し、御家人株を買って侍人別長に入ることができた。

幕末、貧乏御家人だった勝海舟も、長崎海軍伝習所に入り役扶持が付くと父親の子吉が「ご先祖様、息子がお役に就けました」と、泣いて喜んだという。
実際の勝は、四っも年上の女で深川の芸者上がりの”おたみ”と一緒になったのも、今でいえばひも、をして小遣いをたかっていたが、塾が開きたくて、金をひっぱり出す為に一緒になったような男だが、
要領よく敵側に寝返り、明治の元勲となり、妾を五人も抱え晩年を全うしたのは運の良さだろう。

つまり藤原王朝によって滅ぼされた者たちではなく、自分たちはれっきとした蘇我系なりと「その筋の者」とされ、江戸期になっても被差別されていた連中が、昔からシシと呼ばれていたゆえ、坂本竜馬にしろ中岡慎太郎も近藤勇も土方歳三も、その素性から皆そう謂われていたにすぎない。

だから二百石取りだった自分を誇りにして<勤皇の志士桂小五郎>等と呼ばれるのを嫌ったので「木戸孝充」と改名。佐世八十郎も「前原一誠」、有村俊斎が「海江田信義」と明治になった途端に、
シシと呼ばれるのを忌んでその名をすっかり変えてしまうのである。
つまり文字通りシコの御楯となった者らが東側にしろ西側にしろ幕末のシシだったのである。

郷  士

 歴史とは恰好良く美化するものではなく、よし厭がられても本当の事を明白にし、真実を追求するのが、その目的追求ではなかろうかと言いたい。なのに明治は遠くなりにけりで、まだ百数十年しかたっていないのに、もう霧の彼方である。
尤もらしく出回っているものは、新政府だった薩長サイドの都合のよいものばかりである。
いったい何処までが本当で、又は何が隠しこまれているのかさえ、最早定かではない。シシとは、有り体は、幕末、治安が悪化して”殺しの時代”が来ると彼らは駆り出されて京へ送りこまれ、
たいして学の無い連中ゆえ、飼子でも宍子でもさっぱり判らず「志士」などとおだてられて勇んで人斬りを志願して利用されたにすぎない。

 が、もし幕府側に召捕られても寺人別にも入っていないのが侍交名帳、つまり藩の武士名簿にある訳はない。勿論本当の事を言っては身も蓋もないから「脱藩」といったようにする。
つまり徳川綱吉の時代から仏教が国教となって、各藩とも寺を建て藩士の家族も皆登録しているが、こうした人別には関わり無しの連中なのである。

藩を出てくれば脱藩だろうが、帳面上では藩籍者ではなかったのゆえ、恰好だけの誤魔化しにすぎない。さらに言えば「郷士」なる名称にしても、貞享以降になって、やむなく寺側に帰依した反仏教派の家門を指すだけの事である。
つまり、幕末の志士なる連中は誰彼なしに、あらかた何処そこの郷士の出なり、と言った具合にされているのも、この点が良く判っていない事には、維新史の真実は判らないのである。

老婆心ながら、明治維新の百姓側のテーゼを土佐藩の例を記して終わりにします。
 

1837年4月。大陸系の土佐藩に於いて<天保庄屋同盟>が結成された。
その1841年に起草された<同盟談話五十二条>に於いて、「一天四海の内、棟梁は唯一。受け継ぐ処は三段にて、これを合わせて四等というべし。総主は天皇尊(すめらみこと)、
御代官は将軍、御組頭は大名、小頭は百姓の庄屋なり」と明言している。

つまり南国土佐の百姓は武者の子孫のサムライや商工業者を認めていない。
そして百姓を指揮監督している自分らこそ、新興ブルジョワジーの座を確保すべきだという庄屋のイデオロギーを、ここに明白に打ち出している。
そしてそのためには「邪魔者は消せ」と「打倒サムライ」つまり神徒系の排撃が村の寺の人別帳(戸籍簿)で拘束された仏教系百姓の革命のスローガンになったのである。だから今日、鎧を着て血刀を揮い、大和で激戦をした天誅組の首領、吉村寅太郎などは士分と間違われやすいが、彼はれっきとした百姓である。
鋤を揮る手つきで刀を振り回したにすぎない。そして寅太郎の出身は、
土佐高岡郡柚原村の庄屋の倅であって<1862年4月23日付吉村寅太郎文書>には、彼は伏見挙兵の暴動に参加する理由として、家父に対して、
「諸侯と里正(庄屋)は先駆けすべきが理なり」と、当時はっきり書き送っている。

さて長くなりました。従来の幕末維新史の解明は、勤皇の志士をスター扱いにするか、さもなくば一部の諸藩主の行動を帰納的に演繹する方式、つまり
個人的バイタリティーに依存する講談的論理しかなく、肝腎な民衆を等閑視しているが、世界中何処へ行ったとて民衆の参加しない革命など有り得ない。
それゆえ幕末史の鍵を解くには、
<伊勢へ無銭旅行のお蔭参り>と、<各神社の守札を各地にばらまいて、神の民と自認していた原住民系の純日本人を煽動し、ええじゃないか!騒動を惹起させ、戦国期同様に、外来の仏教徒追放をスローガンにして結集させたエネルギー>これをもっと検討すべきなのである。

最後に明治維新の謎の一端を解明した鹿島昇著「裏切られた三人の天皇」新国民社、があります。この本を読めば、維新以降の官学合同の偽史シンジケートによって常識となっている明治維新とその聖なる天皇像が、
著者の真実に迫らんとするあくなき洞察力によって粉破微塵に破壊されるでしょう。
そして「通説俗説の範疇で良いのだ」と言う人にとって、この本は驚天動地の本であり、カルチャーショックを受けるでしょう
だから○○さんが「真実を知りたい」と考えたならぜひ読む価値はあります。
そうでなければ読まない方がよいでしょう。

【追記】
(官武通記・桜田騒動記、幕末確定資史料大成)があります。
従来の維新史は明治になってから薩長側の人々によって作成された一方的な見方によるものでしかない。が、これは薩長側でない東北の仙台の頭取、玉虫左太夫が、その江戸屋敷、京屋敷、大阪屋敷の情報網によって蒐集したのを
刻明に報告書に基づき状勢判断のため書き連ねたもので、これをみなくては公正公平な幕末史は掴めないといえる。
「桜田門の変」にしても、全く勤皇行動とは無関係だったことが一目瞭然で、奇書として古書店では数万円はするが、こうした書こそ幕末までの確定資料と見るべきである。