徳川史観の無謬性を暴く 女帝春日局 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

徳川史観の無謬性を暴く



 春日局/斎藤福(かすが の つぼね/さいとう ふく、天正7年〈1579年〉 - 寛永20年9月14日〈1643年10月26日〉)は、安土桃山時代から江戸時代前期の江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号である。
父は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であった斎藤利三、母は稲葉良通(一鉄)の娘である安、又は稲葉一鉄の姉の娘於阿牟(おあむ)、養父は稲葉重通。稲葉正成の妻で、正勝・正定・正利の母。
養子に堀田正俊。江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱・柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられた。また、朝廷との交渉の前面に立つ等、徳川政権の安定化に寄与した。


上記が徳川史観により「通説」とされこれが史実として美化され、現在人口に膾炙されている春日局の虚像である。
 この女は、本能寺の変で信長を殺した実行部隊を率いていた、斎藤内蔵介の末娘で、俗説とは違い三代将軍家光の実母だったのである。つまり父親は家康ということになる。
そのために先に産んでいた稲葉正則は小田原十万石の大名となり、孫娘の夫は大老職ともなり幕閣を押えた。
 
 寛永江戸北の丸絵図によれば、田安門内にあった春日局邸は、間口百メートル奥行八十メートルもあり、総建坪七千百五十坪の豪邸で、将軍家の御成玄関や御成広間や寝所まであったのは、
春日局が死ぬ問際になって家光や、彼女の孫にあたる家綱が何度も見舞ったように伝わっているが、実際は春日局の元気な頃から、何度も泊りがけで将軍家光や綱吉は訪れてきて、
母子水人らずで仲睦じくしていたらしいからとみられる。

蒸し風呂、菓子部屋に続く呉服の間は東の長屋を通しでしめているし、女中部屋が十区画の長局(ながつぼね)となっているゆえ、百名以上の侍女が住込みで奉公していたとみられる。
この規模は二十万から三十万石の大名の屋敷より規模が大きいゆえ、それ以上の格式だったらしいことが窺える。

 現存する川越の喜多院に、春日局の寝所の2階建の建物が移築されていて、現に実在しているが、金目の装飾は明治初年の廃仏毀釈の時に奪われ、今は形骸のみとなっている。
往時は贅を尽した豪華なものだったろう。春日局の孫、若年寄稲葉正体が外孫堀田大老を千代田城で刺殺したのも、春口局の遺産が今の五百億円位なのを奪われた怨みからである。

 そしてこの稲葉正休は、春日局が阿福と呼ばれていた頃、つまり家康に呼ばれ伏見城へあがる前に、稲葉佐渡守との間に産んでいた4人の男児の内の一人である正吉の子供で、
御局の孫ということで幕閣で立身し、若年寄になっている。しかし貞亨元年8月28日に千代田城で刃傷におよんでいる。
刺殺された堀田正俊も春日局の孫娘を妻に迎えているから義理従兄弟に当たる。

 明治になって江戸城三の丸の門外不出の紅葉山文庫が民間へ流失した。その内容は家康が口述筆記させた<松のさかえ>も活字本になった。
 それに書かれていた内容は、家光が春日局の実子であり、従って家綱、綱吉はその孫にあたっているとある。
こうした春日局の血脈一門の専横と、幕政壟断に危機感を覚えた酒井大老や水戸光圀は、幕政を安定させようと京から有栖川幸仁親王を五代将軍に擁立しようとした。
光圀は家康の直系の孫にあたるため、自分が武家を代表して天下の副将軍となり、武家に慣れぬ新将軍を補佐しようとしたのである。
しかし、下馬将軍とまで呼ばれていた酒井忠清も水戸光圀も失脚し光圀は御三家ということで常陸西山へ生涯押し込め隠居させられた。この詳細は以下のリンクから。

https://ameblo.jp/yagiri2312/entry-12824786690.html

さてここに問題となったのは、今なら何百億円にもあたる春日局の遺産であった。
正休にすれば自分が春日局直系なのにたったの一万二千石、なのに莫大な遺産まで大老職を笠にきて堀田が独り占めするとは怪しからんと、
前日も談判に行ったが交渉は決裂した。よって千代田城で二番目の刃傷沙汰となったのである。