棒術は捕物用 柳生は将軍直属諜報機関 知られざる「庭番」とと「新潟奉行」 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

棒術は捕物用

柳生は将軍直属諜報機関

知られざる「庭番」とと「新潟奉行



 大和の柳生谷から出た柳生一族は、柳生但馬より大名となって明治に到り子爵となった。
しかし、他の大名のごとく一度も転封という事がなく、ずっと同地に世襲として続いたのは、ここが特殊な地域のせいだった。

柳生家の姓の由来をその家臣が尋ねられた時の話として、堂々と、殿が江戸より帰国の途中に柳の枝を手折られ持ち帰ったのが、地面にさし植えたら大木に育ったせいなどと出ているのである。
 しかし、八代吉宗将軍が彼らとは宗旨違いの道の者の拝火宗徒に街道目付として朱鞘の公刀と捕縄をわたし、警察権をもたせるまでは、日本全国の「草」とよぶ同族組織で蔭の権力をきずいていた由緒ある家門である。
古くは、捕えられ大和興福寺へ寄進された騎馬民族の末孫共の収容地だった。

夜支布(やぎゅう)とよぶ新羅神信仰の除地だったから、俗に四つ足の里とか四つ谷とされて差別されていたのを、吉宗以降になると一肩身が狭く思い、適当に家臣共が話をはぐらかしてきたのだろう。
有名な柳生新陰流にしても、公家の中国種の人間が、陽のあたる側ならば日本原住民系は蔭の人種とされ、つまり雑賀と同じように藤原政権によって扱われてきた土地柄ゆえ、
間宮林蔵や松尾芭蕉が公家の密偵に使われたごとく、柳生も同じように徳川幕府に利用され秘密警察として用いられたのである。

将軍直属ゆえ命令を受けたり報告する際に密室では壁に耳あり障子に目ありゆえ、開けっぱなしの広い道場で太刀合わせの恰好をしあって
囁き合うのが上策とされたとみるのが正しかろう。何故なら木刀剣術の稽古など不要の筈の将軍家が密談をごまかすには格好の形態だったのが本当のところだろう。

山田流棒術 

棒術というのは、六尺棒を操っての捕物術のことだが、亨保以降の柳生に伝わっていたのはこの山田流のみである。
つまり新蔭流を有名にしたのは桃林が演じた講談本からで、これははっきり言って小説で、歴史でも何でもない。

<武家諸法度>の法制化に伴い寛政以降は殿中だけでなく、町場でも武士は鯉ロ三寸拔いたなら士籍にある者は身分を失い抜刀罪ととして厳罰にあったのが本当。
だから刀は腰の飾り物の泰平の世というのも、このせいで「文武両道」などと言うのは講釈師の張り扇から叩きだされた語呂のよい話にすぎない。

チャンバラ物とよぶのが活劇見世物化し、江戸期の芝居を真似た映画からである。それを証明する例として、
播州赤穂の浅野の前の城主池田のごときは木刀の素ぶりだけではものたらぬと剣術の相手を召し抱えたのが幕府に露見。

今でいうなら謀叛予備罪容疑で大目付に取調べをうけ御家断絶。身柄は妻の里方へ預けられた。
後年旗本白柄組の水野十郎左衛門の処分もこれと同じで、妻の里方へ身柄預りだったのに抜刀をしたのが発覚し死罪となっている。

つまり武上は刀をさしているから剣道師範がいて稽古していたという短絡思考は、寛永以降から幕末の黒船騒ぎの天保以前には有り得ないことなのである。
つまり泰平の世の武術は、役人が召捕りの際の捕縛術しかなく、これを棒術と称して捕方に訓練していたゆえ、柳生でも新蔭流ではなく山田流が実用日的で幕末まで引き続き伝わってきたのである。
白戸三平の漫画や、故五味康介、山田風太郎など小説家が書き飛ばした「忍術物」は全てフィクション。

なお、居合というのは自分の刀を素早く抜くことだが、抜刀というのは「相手の刀を無理に抜き罪の既成事実を作るため」即ち冤罪をでっち上げる手段で、その道具が十手なのである。
十手の実相は以下を参照されたし。
これもまた間違えられているが、この十手と同じ役目の道具で「刺 股(さすまた)」がある。
映画テレビで捕物側が犯人の首を挟み込み捕まえる設定になっている。しかし本物は樫の柄の先にV字型の鉄を付ける捕物道具で、芝居では由井正雪の乱を題材に関西大将だった丸橋忠弥の
首根っこを押さえて見せるが、その内幅が10㎝で、太い首では無理である。
実際は刀の鯉口に嵌めて抜刀の既成事実を作るためのもので、十手と同じなのである。
無理にこじ開けて抜かせて抑え込めば現行犯逮捕となる。琴柱棒で引くとか、絡ませるなどと言い使用した。
現在、体がすっぽり入るほど大きなU字型刺股が暴漢や犯人逮捕に警察や、民間でも使用されているが、道具の間違った利用法でもこれは良いことである。

https://ameblo.jp/yagiri2312/entry-12666506760.html

庭      番

映画テレビで「御庭番」は忍者として登場するが、実像は全く違う。
八代将軍徳川吉宗が、紀州から伴ってきた村垣左太夫に命じて新設された将軍直属の諜報機関(現在のCIAに当たる)である。
従来から将軍直属のCIA的なものは前述の柳生がその任務にあたっていたが、吉宗は彼らを信ぜず新設したのである。

組織として若年寄支配で、百俵高七人扶持の両番格だった。
部屋住みで無役の者も諸国探索の為飛ぶために二十人扶持の給与を受け、村垣家が代々にわたり世襲で幕末まで「国家諜報省」の役割をなしていた。

新潟奉行

昔から新潟は白山島と呼ばれ、夷島と呼ばれていた佐渡島も目の前にある特殊な地域だった。
昭和には旧ソ連ナホトカからバイカル号が航路を開いていたほどだから、江戸時代もロシア人の来朝も多かったらしい。
従って徳川幕府はここに老中支配で芙蓉の間詰め千石高の旗本を「新潟奉行」として任命していた。
役料は千石だがエビス奉行と呼ばれていたのは、現在知られていない。