島原の乱は切支丹ではない  人皇百十一代後西天皇 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。


  島原の乱は切支丹ではない

 日本岩窟王・怨念の天皇
 
 人皇百十一代後西天皇
 
島原の乱は伊達騒動に繋がる

 

「丑(寛永十四年[1637])十二月二十日ごろ、天草領内の者ども何事かは知らず騒ぎたて候につき、二十二日より代官その他の村役の者々をつかわし取調べ居りし処、二十四日に至りて男女三千人程、有馬村に集結の由。
同心松田兵右衛門に侍八人相そえ差し向けたが、二十五日に有馬村八郎尾と申す所にて、一揆のごとく騒ぎたてるときき、代官林兵衛門はみな殺しにしてしまえと下知す」

 というのが発端で、島原城の松倉勝家の家来と、鉄砲で装備された一揆が衝突し、島原の一衣帯水の天草島では、益田四郎をもりたてた一隊が蜂起し、合計一万二千が唐津の富岡城へ押し寄せた。
そこで江戸表から板倉重昌に目付石谷十蔵をそえた征討軍が送られてきた。

 しかし一揆は、島原半島の端にある原城へたてこもってしまい、その数も二万を越し、寛永十五年正月元旦の二度目の総攻撃で、板倉重昌は銃弾に当って即死というのは表向きの発表で、
一揆側の落とした大石に潰されて即死という記録も残っている。当日だけでも討手の損害は、討死手負い四千余名、城の一揆方は九十人と、『徳川実紀』にでている。
 ニコラス・クールバッケルの指揮するライブ号は、その十五門の積載砲をもって、一揆のこもる原城を正月十日より二十五日まで砲撃し、二十八日に弾丸を射ちはたして平戸へ戻り、翌二月二十七日に原城は陥落したというが、
キリシタン一揆をキリスト教国の軍艦が砲撃という事があるだろうか。

 もし、そんな事をしたら、ニコラスだけでなくライブ号の乗組員一同、みな故国へ戻ればその教会から破門されてしまうは眼にみえている。
 現在と違い宗門の権勢の強かった中世では、キングと名のつく人でさえ、破門とか脅かされれば雪中で一晩中憐れみを乞うて侘立していなければならなかったというから、ニコラス以下もし如何に利をもって誘われたにしろ、異邦人の国へきていて、徳川家の為に、もし島原城に天帝の旗がはためいていたものなら、半月もの間に亘って連日これを砲撃などするわけはなかろうと想われる。

 しかし日本史では、益田四郎時貞が、天草四郎と名のって信徒を集め、賛美歌を高らかに斉唱しつつ抗戦したというのだから、まるで辻つまが合わないのである。
 それにいくら徹底抗戦といっても限度があるし、攻める側にしろ殺人鬼でもない限り、同胞なのだから女子供まで殺掠すべき筈はなかろうと思うのだが、
この島原の乱にあっては前もって降参して裏切りをしていたとされる山田右衛作一人の他は、嬰児まで皆殺しにしている。
 もちろん日本史では、彼ら篭城者は自分から殉難の道を選び、一人と雖も降人する者はなく、みなみずからの命を絶ったといわれている。
 しかし百人や千人ではない三万人からの人間がいたのである。人間は十人いれば十色という。どうして三万からの人間が各個撃破の落城時において、みな同じように揃って自決という単一行動がとれたものか、疑わしいと思うのは、
それは僻みだろうか。玉砕と伝えられた激戦地でも、サイパンや沖縄でも、死のうとして死ねずに助かってしまい生き延びるのを余儀なくされた多くの人がいた。
それを思うと手榴弾のように叩きつけたら、即死できる可能性のものを渡されていなかった筈の何万かの老若男女が、自分らから一人残らず潔く死についたという記録には信じがたいものがある。

つまりこれは、みな死んでいたとは、‥‥命令で皆殺しにされたものとしか思えない。
 本来ならばこうした叛乱事件は最終的には殺してしまうものでも、初めは生存者はみな押さえ、背後関係とか色々よく調査をし、そしてそれから処分するのが常道である。
なのに何故か、初めから皆殺しというのは、一人でも生かしておいては、何かそれらの口から洩れては困ることが攻撃側の体制軍にあったのではあるまいか。

 さて、事件勃発に遡って、この島原の乱で見逃され、そして誤られている点が二つある。最初に、一揆のたてこもった原城が、
「原城跡」とか「原の古城」とよばれ無人の廃城のような受け取り方をしている事である。しかし実際は、そうではなかった。
 信長の存世中はマカオ・堺間に年一回の定期航路があったが、彼の爆死後イエズス派が追われる形で、フランシスコ派がそれに代りつつあったから、秀吉の代には口の津がその港であった。
これは『フロイス日本史』などにも、「口の津発」とでてくる地名である。そして、そこの津にあったのが原の城で、そこは輸入硝石の集積所だったのである。
 だからして其処を押さえた一揆方は、緒戦から火器を多く揃えて、現地の侍の討伐隊を手もなく追い払い撃退していた。
 つまり彼らが強かったのは、熱狂的な宗教心の為ではなく、火薬庫を押さえていたせいなのである。

 次に、口の津は、当時の外人の溜り場だったから、そこにはフランシスコ派にしろイエズス派にしろ、必ずや青い目の宣教師やその他の南蛮人がいた筈である。だったら彼らは、天草四郎時貞といった少年を担ぎ出すより、
その異邦人達をこそ主将として、「キリシタン一揆」ならば立てるべきだったろう。その方が篭城している者の士気を鼓舞したろうし、また、日本人より外人の方が、
「神の御名は讃えんかな」と扇動するにしても効果的だった筈である。なのに一揆はそれをしていない。何故だろうか。この戦いでの一揆方唯一の投降者である山田右衛門作は、
「こういう旗をたてていた」と、キリシタン一揆であることを証明するように、デウスの旗をかいている。これは、証拠品とされて、「天草四郎の旗」として今も残っている。

 しかし、おかしなことにその絵旗は、イエズス派やフランシスコ派といったカトリックの物ではなく、プロテスタントつまり新教の、「カルヴィン派」の、それは旗なのである。
 カトリックが種をまいた地方で、神の御教えを守って彼らが殉教のために、三万余が玉砕したものなら話も通じるが、プロテスタントの旗をたてて戦ったというのでは辻つまが合わない。例えていえば、
「南無妙法蓮華経」の日蓮宗の旗をたてて、本願寺派の門徒が戦をしたようなものだから、まったく変てこなのである。だから日本の、「長崎二十六聖人処刑」というのは有名で、海外でも取上げられているのに、
その千倍以上も殉死したことになっている島原一揆が、まったく無視されているというのも、その理由はこれである。

 もし伝えられているようなキリシタン一揆なら、せめて、「十字架を首にかけ捧げもっていた事になっている天草四郎」一人だけにでも、ヴァチカン法王方より、
「聖人(セイント)」の称号ぐらいは出されてもよい筈なのに、放っておかれているのは、やはり理屈に合わず殉教とは認め難いからであろう。これは宗教問題であるから、日本史よりもローマ法王庁の見解に従えば、「島原の乱はキリシタン一揆ではない事になる」のである。

 だから、その当時も、キリスト教国オランダのニコラス・クールバッケル艦長は、ライプ号に砲弾をあるだけ積んで、平戸から島原を攻撃しにゆき、二週間にわたって撃ちまくっている。
 もしキリスト教徒が異教徒の迫害に対し、レジスタンスをしていたものなら、クールバッケル艦長は、一揆の応援をして徳川勢へ弾丸を飛ばさなければ、本国へ帰ってから教会より破門をうけて、
「悪魔に味方したサバトの一味」として処刑されたろうことは間違いない。
 またライブ号の乗組員一同も、一揆の連中がデウスの御為に戦っているものなら、それを半月も腰を落ち着けドッカンドッカン撃っていられたろうか。
 
   島原の乱は伊達騒動に繋がる 

つまりこの真相たるや、
「一揆側は、口の津へ乱入して、その当時は硝石の輸入業者をかねていた青い目の宣教師を、みな殺しにして火薬庫を奪取した」のに起因してしまいたかった。だからこそ、その仇討ちに、ライプ号も攻撃側に協力したのだろう。
 しかしである。徳川方では、こうした騒動が各地に波及しては困るから、局地解決をして他へ伝播しないように、後に切支丹くずれも加入しにいっているのに眼をつけ、これを一緒くたにして、
「キリシタン一揆」としてしまい、その裏づけのため、クールバッケルから借りた聖旗を、山田右衛門作に、模写させたのだろうが、その際、「キリスト教に新教と旧教の別のあること」まで、さすがの智慧伊豆も気づかず、
オランダのカルヴィン派のものを今に残してしまったのだろう。
 さて松平伊豆守が、なぜ、そのような窮余の手をうち、『島原文書』として残されている当時の公文書に、みなキリスト教徒の叛乱のような扱いをさせねばならなかったかというと、それにはそれなりの理由がある。

 表面は紫下賜事件だが、その実は櫛笥(くしげ)中将の姫を寵愛なさり、御子を設けられたのが、徳川秀忠の娘和子の悋気にふれ、退位を余儀なくされていた後水尾上皇に、そのとき、
「討幕の院宣を出される」という動きがあったからである。
 もちろん徳川家は素早く数万の兵を京へ送り込み、用心して御所を取り囲んだ。この時、それら兵の慰安所として、それまで大角にあった廓が丹波口へ拡張されて移転させた。
奈良本辻や大坂ひょうたん町の遊里からも女をよびよせ、でき上がったのが、今でも、「島原」とよばれる廓のあった地である。

 さて、伊豆守の手腕により、島原騒動は局地的解決でかたがつき、上皇の院宣はとうとう出ずじまいで済んだ。
 しかしそのうちに上皇と櫛笥中将の姫の間に誕生された良仁(よしひと)親王が、やがて後西天皇さまになられた。
 さて、その頃、中将の末姫貝姫が仙台へ売られてゆき、そこで生んだ巳之助が成人し、「伊達綱宗」となっていたので、伝奏園地中納言をもって、帝は討幕の策をめぐらされた。しかしそれも事前に洩れてしまい、
「綱宗は二十二歳で若隠居を命ぜられ」やがて、帝も、そのとき十歳の霊元天皇さまに御即位となるのである。
 しかし綱宗の志をつぎ原田甲斐らは討幕に志すが、伊達家の佐幕派伊達安芸に訴えられ、「寛文十年事件となって、原田甲斐の伜や孫まで斬刑、母は餓死」という悲惨な結末をみるが、俗に、
「伊達騒動は、島原一揆の後日譚」といわれる謎も、このことによるとみるのは誤りであろうか。

 が、そうなると徳川家の立場では、島原の古城へ立て篭った輩は反体制の暴徒にすぎなかろうが、日本全体からみれば、彼らはかつて金剛や千早の天嶮によって御醍醐帝の御為に旗上げした楠木一族となんら変りがないことになる。
 なのに皆殺しにされてしまって、もはや証拠がないからとはいえ、「切支丹一揆」といった扱いだけで葬り去られてしまうのは、余りにも哀れではなかろうか。
 歴史というものは、その時の権力者によって、如何ようにもなるものだとはいいながら、島原で殺された三万の同胞が、時の天朝さまの御為に散華していったものなら、合掌してその冥福を心から祈らずにはいられないのである。


 日本岩窟王・怨念の天皇
 
 人皇百十一代後西天皇



「樅の木は残った」のテレビは大原誠ディレクターらの努力で美しい画面が見られたが、終ってしまうと伊達騒動も次第に人々から忘れ去られてゆく。
 すると恐れ多いが、おいたわしい天皇さまの事を書く機会もやはり遠のくかも知れない。
 それでは、せっかく、「天皇さまがいつの世も体制側にあったよう、誤り伝えられてきた歴史常識に対し、そういう事はなく天皇さまといえど庶民同様、時には体制側に苛められ給い、よって民草はお尽くし申し上げる事に意義を感じ、無宗教だといわれる吾々日本人は、勿体ないが天皇教のような信仰を故に心に秘めているのだ」
 という解明のため、今まで誰も判らずだったこの帝の御事績を明らかにする折りも、やがて、これでは逸してしまう恐れすらあろう。


 さて、私が初めて、この天皇さまに奇異を感じたのは、明治大正の国史教科書編纂官であった重田定一が、大正五年刊の、『史説史話』に書かれた次の文からである。

「明治になってから歴代天皇に院号をつけるのは廃止になったのに、なぜか人皇百十一代後西帝御一方だけに、後西院天皇と院号がつくのかと、宮内庁にも色々御伺いし調べて貰ったが、一切不明である。
まこと奇怪な謎だが判らない」
とあるのに眼を止めてからである。
 が大正の末年からは、なんの説明もなく院号をとられ目立たなくなり、その後の八代国治の国史大辞典では、「読書喫茶優遊戯を卒(お)えらる」とある。
 これでは優雅な生涯をおえられた天皇さまのようだが、それでは何故、特殊な扱いで、「院」をつけ差別されたのか私は不思議でならなかった。
 処が満州事変に突入した昭和六年、黒板勝美が編集した『国史大系』の各巻頭には、それぞれ、

「京都御所東山御文庫の、日本書紀を始とする六国史は、後西天皇がおんみずから筆をとって著作された尊いもので、この御本を拝観でき校訂できたのは、まこと無上の光栄なり」
 天皇さまの御直筆ゆえ、間違えのないものとうたってある。

『六国史』は、日本書記、続日本書紀、日本後紀、文徳実録、三代実録と、膨大なものである。
 これをみずから書写されたとは、「優遊戯ばかりされていた御方」の出来る事ではなくなる。
 そこで矛盾を感じている内に京都御苑拝観の機会をえた。「桂宮邸趾」の史蹟の日蔭に、「後西院天皇の仙洞凝華洞趾」棒杭みたいな標識があった。
 北向きの陰湿な地面にかつて存在した凝華洞とは何なのか?
 歴代の帝は退位後は仙洞御所へ入らせ給う慣しなのに、この帝のみが畳十四、五枚の狭隘な、「凝華洞」に入れられ給うた謎はなんであるのか。それに、ことさらに、
こうした標識が残されているのは、余程それが特殊な建物であったろうし、また一面それは見せしめの為といった感じさえする。そこで管理の役人にきいたが判らなかった。
 処が、それから二年程して、『近世文芸叢書』の中の、「京都叢書」に入っている、
「京羽二重」の底本が、寛文五年刊の著者不明の『京すずめ』と判って原本を探していると、その初版の写本が入手できた。
「御苑にて雀や鳥をかいたもうにや、あみ張りの小屋ありて」の一節が、その冒頭にある。

「そうか‥‥」私は謎がとけた喜びよりも、おいたわしくて涙がこぼれた。
「凝華洞」とは、恐れ多くも京所司代牧野佐渡守が、二十七歳の帝を退位させ十歳の霊元帝を御位につけた後、二十二年の長きに渡って幽屏(ゆうへい)し奉った獄舎だったのである。
『京すずめ』が書かれた寛文五年は、御退位後三年目ゆえ、作者は、先帝救出の悲願から、
「あみ張りの御小屋」と、竹矢来を張られた状況を、謎かけのように書いたものであろう。
 もちろん京所司代は躍気になって揉み消しを計ったらしい。体制側の儒臣を動員し、これを叩いたらしく『古語辞典』では、
「京すずめ=口さがなき者の取るにたらぬ流言蜚語」とある。だから今でも、「口さがなき京雀」といったような書き方をしたのをよく見かけるのは、この時のせいによるらしいのである。

 では後西さまは何故に、そうした目にあわれたかとなるが、一言にしていえば、「謀叛の帝」しかも史上ただ御一方の、挫折された例だからであろう。
 天皇さまで時の体制を倒さんとされた方は、あえて後西さまだけではなく、清和帝の御子陽成さまも旗上げなされかけたが、藤原氏に終われ山奥深く身を匿され木地師の祖となり、「後醍醐帝」も、
その当時、やぎゅう者と呼ばれていた大柳生小柳生俘囚郷の者らをたよられ、笠置山に旗を立てられたが、やがて北条氏を打ち滅ぼされた。
 が後西さまだけは不運にも失敗なされ、捕らえられ他への見せしめに竹矢来の中に入れられ、「岩窟王」ともいうべき、「凝華洞王」として幽屏され給うたのであろう。
 しかも徳川体制は幕末まで、
「天皇さまと申せ公儀へ弓引かんとなさるにおいては、かくのごとき目にあいまするぞ」恫喝のために、洞の跡を故意に残していたのは酷にすぎる。
 明治維新となって体制が変わった時、本来ならば後西さまの事も明るみに出て、凝華洞趾の棒杭も撤去せられるべきだった。
 処が、講談で有名な大岡越前守忠相が、出版統制令と共に、「ご当家(徳川)に益なきの書は一切無用のこと」を発令した為に、京所司代土岐丹後守が、恐れ多くも御所内の後西さま一件書類をも没取焼却した。
 よって、明治から大正に変わっても、何故、後西さまにだけ、「院」を徳川家の命令で付け御所に伝わってきたか、皆目不明の儘うやむやになった。


 だから後西さまの討幕の確定史料は、今となってはない。が、推理してゆくとなると、帝の御生母は、四条家より分かれた櫛笥家の一の姫である。
 さて、彼女への後水尾帝の寵愛を憤った徳川秀忠の娘の中宮和子は、寛永六年十一月八日に帝に退位を迫り、己れがうみ奉った七歳の女一宮に譲位を求め明正帝として即位させた。
 そして和子が宮中で権勢をますます振るったから、櫛笥家は生活に窮し末の娘を、奥州へ身売り同然に銀子引換えで送っている。この貝姫のうんだ己之助が長兄次兄若死のため、やがて伊達綱宗となるのである。
 そして、その四年前には‥‥
 先帝に御子がなかったため、高松宮家をつぎ、そこの明子姫と既に婚儀をあげられていた良仁親王さまが帝位を継がれていた。
 この親王が後西さまで、櫛笥左中将一の姫の御子なのである。

 二十二歳の若き帝が、従弟にあたる十九歳の綱宗が仙台六十二万石の当主、となったと聞こし召されたとき。後水尾帝のご無念を知り、徳川の圧政に立腹しておられただけに、共に、
「討幕」を志されたとしても、これは無理もない事だろう。しかし京所司代の知る処となり、先に綱宗が二十二歳の若さをもって、小石川堀工事中なるも隠退させられて処分。
ついで後西さまも、十歳の霊元帝に譲位せられる結果となった。

 もし退位された後西さまが、仙洞御所へ入られ優遊戯にあけくれするような、優雅な余生を送られたものなら、隠居させられた綱宗もその儘だったろう。
 が、凝華洞に閉じこめられ給うというのを洩れ聞いては、「恐れ多し、なんとか致さねば」となったのであろう。テレビでは、伊達兵部が悪役で御家乗っ取りの騒動になっているが、
実際は原田甲斐も兵部も日本人として勤皇の至誠を尽し、それを佐幕派というか御家大事の伊達安芸が幕閣へ訴えたらしい。
 なにも幕末になって初めて、勤皇の士が現れ討幕運動が起こったのではない。仙台城には、「帝座の間」または「上々段間」とよばれた御座所さえ作られていた程である。
これは後西さまを凝華洞から救い奉って、お移し申し上げる為だったらしい。しかし維新の頃になると、もうこれも判らなくなって、「朝敵となり抗命した仙台城に菊花御紋の御座所はおかしい」という事になってしまった。
『宮城県史』においても、「聚楽第を模して作ったものか用途は不明」となっている。が、歴代の藩主は、その帝座の間に必ず拝礼してから一段下った席についていたものだと、『伊達史料』には出ている。

 つまり公儀の眼目が取潰しならば、六十二万石没取も訳なかったものを、伊達騒動の決着が泰山鳴動に終ったのは、その蔭に後西さまがもう処分済みになっていた故もあるだろう。
しかし原田甲斐の遺児は二十五歳の帯刀(たてわき)以下四名、その帯刀の長男で五歳の采女(うぬめ)、当歳の伊織(いおり)までが、公儀目付佐藤作右衛門立会の下に酷たらしく殺された。
 しかし、これを耳に入れ給うた後西さまの御心境は如何であったろう。この年、寛文十一年より、不幸な生涯をおえられた貞享二年二月二十二日まで、十五年間の歳月は、その怨念を、「徳川体制は誤っているのだ」
 と、これに抗議なされる為、かの『神皇正統記』にも比すべき天皇制の正しさを主張なさるため、自ら書写されたのが『日本書紀』以下のご労作であった事を想うと、民草の一人としてまこと恐れ多い極みである。