明智軍法から見える武士の生き方 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

明智軍法から見える武士の生き方

まえがき……
 「明智光秀の軍法二十一条」なるものが、彼を祭神とする京都福知山御霊社に伝わっている。
 武士が主君に仕える心得をことこまやかに書きつらねたものである。
だが、江戸時代の『老人雑話』には、光秀の言葉として、
 
「仏の嘘は方便といい、武人の嘘を武略という」などとも出ている。だから誠心誠意に信長に奉公し、決して自分はおこたることはないなどと書きつらねてある二十一条なるものは、
 (御霊社とは無実の汚名をかぶせられて、非業の死をとげたものが、迷ってでて祟りをするのを防ぐために祀るものである)とする定義からすれば引っ掛るものもある。
 後世の人間つまりこの御霊社のできた頃の元禄時代の者が、光秀の濡衣をはらしたさに、こんなに彼は誠実な人柄であったと裏付けの証拠として作ったものであるらしいと思われるが、
 「ほととぎす、いくたび森の木のまかな」とか、「夏は今朝、島隠れ行く波のみかな」「立のぼれ、末は九重の春がすみ」といった心やさしい発句を残している光秀は、
 

「槍の才蔵」とうたわれた同郷の当時の豪傑の可児才蔵を縁あって召し抱えたとき、「ひとはやたらに死んだり殺しあったりしてはいかぬものである」と教えたという。
 それゆえ才蔵は、その光秀の就職処世戦法を守ったゆえ、生涯十三回の主取りをなして元和元年の大坂夏の陣まで生きながらえた。つまりこうした就職の心得は現在でも「転職」の心得として利用できよう。
                                
昔の武士の給与体系

 現在、どうも誤り伝えられているが江戸時代の武士の給与は今日考えるようなものではない。
 「家禄」と称されるものは、その山田とか加藤という家格に対して払われている世襲扶持なのである。つまり、これは現代でいうならば年金に当るか、さもなくば、祖先の働きに対する恩給が、子や孫まで続いていたにすぎない。
 だから、殿様の御手許が不如竟になり、不作で収納が減じた時には御借り上げとか半知減らしなどと極端な減俸制をとる。
が、今日考えているような基本給や固定給のものだったら、いくら経済上やむを得ぬ処置とはいえ、そんな無茶なことは出来ぬ筈である。

では、今日のサラリーマンの給与に当たるものは何かといえば、御役扶持とか御加米と称するのかそれである。
 一つの城があってそれに五百から千人ぐらいの家臣がいて、その城下に全部か住っていても、彼らが全部登城するようなことは江戸期ではなかった。元日と、八月一日の八朔(さく)の両日だけは大手門から入って行けたが、それ以外は、たとえば、
 「御主君内匠頭さま殿中で刃傷」といった重大事が突発して、全員総登城といった触れ太鼓が、どおんどんどん鳴り響く時は別だが、そうでもない限り、自分の主君の御城が眼前にあっても、
門を潜って無役の者は入れなかった。
 戦国時代はたえず全員をかり集めヽ馬出曲輪に並べそこから出陣させていたが平和になると役につかぬ者まで登城させて居ては、坐らせる場所もなかったからであるらしい。


 だから家中一般には、捨て扶持のごとき年俸を与えて放っておき、役付きだけが別の手当を貰って、大手をふって出勤していたのである。
 つまり、変な引例だが前に放映された『天下御免』のテレビの中で、二十余年間にわたって真面目に勤めあげ、五十石の扶持が八十石に昇給したきりで、「わしは、しみじみいやになったのじやよ」と、
蒸発してきて、橋の下に暮している浪人者がでてきたが、そんな事は有り得べからざる事であった。何故かなれば昔は定年制もなく終身雇用だったから給与体系が現在とは違うせいなのである。
 もし仮りに、初めに三十石をアップしてしまったらその男の生涯はもとより、子や孫の代に至るまで未来永久にそれだけの支払いをしなくてはならぬ。これでは払う側はやっかいである。
 ゆえに、もし昇給というのかあれば、それは家禄の何石というのには関係なしに、「切米」と区別されていた役扶持の手当の方だけの昇俸でないと可笑しいのである。

有名な、柳沢美濃守の父親の十左衛門は甲州韮崎村の先の、百六十石収穫があることに検地されていた柳沢村の土地を、家禄として貰っていたが、打ち続く日照りで不作が続き、四分六分の割合で納めさせていた年貢を、
五分五分に負けても、小作百姓共は、「とても、そんなに出せません」と拒んできた。

 百六十石とれる土地だったのに、三十石きりしか納入がなかったという記録が今も残っている。
 つまり、家禄の何石というのは、それだけ取れる見込みの土地というだけで、米がそれだけ人ってくるというのではない。よくて四分が小作人の取り分で六十パーセントの百石が実収。
人候不順で不作ともなれば三十石しか手に入らなかったのである。そこで彼は、「これでは困ります。何んとか御役につきなされませ」と、妻にいびられて運動した結果が、千代田城大広敷番頭という役につくことができた。
 

 三の丸にある大広問に詰めて、見廻りをする警護役で、その役扶持七十俵がついた。これは石でなく、何俵と書いてある切手で貰えるのだから、まるまるの手取りである。
しかしいくら、そっくり頂けても米ばかりを受け取っていては、それでは家が米倉になってしまう。
 そこで、今の浅草蔵前にある札差しというのが今日でいえば手形割引業者のようなもので、その加米切手を、時々の米相場に合せて現金化して払ってくれるという仕組みになっていた。
が十左の妻は、
 「ないよりは増しでございますが、近頃のような物価高では、これ位の御役扶持では致し方もありますまい」と、夫にうるさく発奮を求めた。
 よくある話である。これが一夫一婦制の悲劇だが、日ごと夜ごと当人の妻からうるさくいわれては、相手が一人ではどうにもならなくなり夫もっい仕方なく、そこで、
 「では撃剣のレッスンでも受けにゆくか」となった。すると、「情けなや、こなさんは……」軽蔑するごとく憐れむごとき瞳を十左へ投げかけてきて、そこへ坐り直すと恐い顔をして、
 「泰平の世に棒ふりなどなされて……なんとなりましょうぞ」と、己が嫁入り道具の中から大きな算盤を持ち出してきた。そして、
 「さて二一天作の五……を初めなされましょう」とそれからというもの、夫としての玉をはじかされるばかりでなく算盤玉もはじかされた。

柳沢家の出世術

おおいに特訓というのをとっくりやらされた結果、今でいえば三級は無理だろうが、四級位の腕前になった。
 そこで将軍家光の第四子の綱告が、新しく上州館林十万石となった際に、当時としては特殊技能の持主というので、実禄百六十石はそのままだが御役扶持の方は一大ベースアップして三百俵となり、上州侯勘定頭の新役に引き抜かれることとなった。
 このため十左は嬉しいような妙な顔をして、「夫のために尽して立身出世させるのが、柳沢家の嫁の勤めIと、わか家憲を定めようぞ」と、その伜の嫁とりにも気を配った。

だから伜の柳沢吉保の嫁は、俗説の『柳沢騒動』などによれば、それは、みみず千匹どころか万匹も這い廻るような稀代な秘器の持主だったといい、
 (わし一身で堪能するのは果報がすぎるによって)と、夫にいわれ、それもそうかと考えて、「これも忠義の為である」と夫に説得されたから、
 (ご奉公の助けとなり、それで夫が立身するのであれば、婦徳は不得要領では巧くやるべし)と、綱吉にも、その妙なる名器のお裾分けをした。


そこで綱吉もすっかり感服してしまい、「博愛衆へ及ぼすとは、まことに立派である」千代田城から五十八回も、お忍びで柳沢の許へ行った。このために柳沢十左の伜の美濃守は、
甲府十五万石の大守にまでなった……とする俗説があるが、こうなると、まさか、御裾分け扶持というわけにもゆかぬから、この場合は本高となり、のちに柳沢家は郡山へ移り分家は一万石ずっだが、越後に二家残って、みな明治まで続き子爵になっている。(もちろんこの真相は別にあるのだが、興味のある方は「柳沢吉保」で検索されたい)
 
が、これは極めて特異な例で、普通は家禄など増えるものではない。一と口に徳川三百年といってしまえばそれ迄だが、昭和二十年から、平成、令和までの物価の移り変りを考えてみても、三百年間
 ずっと五十石は五十石でしかなかった、というのは暮してゆくのに大変なことだったろう。
 

出世するには


 しかし、せっかく就職をして禄を得ても、その子孫の代で、その給与体系がめためたになるとは、まさか戦国時代の武者たちに、そこまでの洞察力や達見があろう筈はない。
 ここに下総忍の城主成田長泰という大名が居た。関東管領上杉修理大夫憲政に初め仕えていたか、どうもぱっとしない。そこで、いろいろと考えた結果が、
(これでは辛抱して奉公していてもたいした事はない……反って、巻き添えにされて、せっかくの領地や城も失うやも知れん)と迷いを生じた。
 
今でいうなら経理内容が悪化し、うちの会社は粉飾決算らしいから、人材銀行へ登録して他ヘスカウトされるのを待とうという処である。さて、その内に天文二十一年正月のこと。
 小田原の北条氏康に攻められた上杉憲政は、己れの上野白井城を守り切れんことになって、「なんともならぬ」と、越後の鉢が峰にある春日山の城へ逃げこんでしまった。さてこうなると、
 「……これは困った、何んと致そうぞ」と成田長泰も思わず天を仰いで歎息した。まるで自分より先に主人筋の上杉憲政が、他へ就職してしまった恰好になったからである。
 が、うかうかしては居られない。そこで長泰も困ってしまって、「わしも就職せねば……」
 遅ればせながらすぐさま仕度して、春日城主の長尾景虎が好むという唐織りの布や反物を揃え、「……てまえも、ひとつよろしゅうに」と、こうなっては見栄も張りもなく、自分で越後まで売
りこみにいった。というのは、景虎という武将はお何城主として当時その武威は越後で鳴り響いてい、そこで女の好む反物を持参したのである。
さて景虎の方にしてみれば、就職を頼みにきたとはいえ、相手も城持ち大名でサラリーを払うわけではなく、逆に、いくらか徴収出来るのだから、
 「よろしい、望みとあらば……」と、二つ返事ですぐ承諾した。
 

つまり、就職は思いの外に、簡単に決った。そこで長泰はほっとし、「案ずるより生むがは易し……とはこの事ならん」と、にこにこして忍の城へ戻ってきた。
 処がである。永禄三年、東では織田信長が今川義元を討った年に当るが、春日城の景虎は上杉憲政よりその姓氏をば奪ってしまい、己れか上杉を名のって、「われこそは新しき関東管領なるぞ」とばかり相州小田原へと怒濤の進撃をした。
 さて、春日城の手勢だけが戦をしに行くのなら一向に構わないのだが、忍の城へも伝令がきて、
 「すぐさまに仕度して、まず小田原へ駈け向いなされ」と命じてきた。そこで長泰は、こんな筈ではなかったと、すっかりむくれてしまった。
 
春日城へ就職したのは、己が城と領土を確保し安全に保つためにしたことである。何も好きこのんで他人のため戦などしたくてではなかった。そこで、
 (これは失敗した……うっかり先陣に出され北条氏と戦わされたら危なっかしい)と心配したが、(景虎とは甲斐の武田信玄にも劣らぬ軍さの巧みな大将ときく。もし、北条氏を倒して相州一帯が入手できたら、
わしにも分け前の配分があって、がっぽり領地が増えるかも知れんぞ……)と、その反面、捕らぬ狸の皮算用もした長泰は、すっかり張り切って、
 「いざ行けつわもの……日本男児」と中には、人手不足で女も混っていたが、どっちみち男か女か判らぬようなものばかりゆえ、それらを集めて引張ってゆくように進ませて行き、
 「さあ突きこみそうらえ」と、みゆきが浜の辺りから攻めこもうとした。が、北条早雲以来の堅城である。


「来るなら来てみろ」と、雨あられと横殴りの矢が束になって飛んできた。さてこれでは一気に突きこめず、もたもたしている内に十日になった。
 すると、毎月のことだそうだが、本陣から伝騎が、息せき切って駈け寄ってきて、
「おん大将の景虎さまは、おさわりのため、陣休みに引き払いなされるによって……」と、成田勢にも陣払いして兵を戻すよう命じてきた。
 せっかく猛攻し手柄にせんと、城近くまで押し寄せていた成田長泰はむくれてしまい、
「毎月十日になれば馬にのれんと五、六日も休みをとられる大将の下に、大の男が付いて居られるものか」と、城の方へ向かってからが、大音声を張りあげ、
「昨日の敵は今日の友……とも申すで、仲良うに致さん」と申し送って、北条方へさっさと馬をよせ鞍替えをしてしまった。
「成田系図」「藩翰譜」にはこの間の事情は「景虎の態度に不満を抱き背いた」となっているが、真相は不明である。
(景虎は死後の戒名で「謙信」とされ男とされているが、本来は女城主だった。だから戦の最中も毎月十日になれば必ず月経の為「馬に乗れぬ」と下馬し休んでしまう。
 長尾家生え抜きの家臣は「いつもの事・・・・・」と判りきっているが、新規に味方に付いた者には、「折角の手柄がふいになる」との不満が在ったのだろう)


光秀の就職戦術

 さて北条氏についた成田長泰は亡くなり、その子の氏長の代となっていたが、忍城から小田原へ彼が来ていた天正十八年のこと。かねて噂はたっていたが、豊臣秀吉の大軍が攻めこんできた。
びっくりしたものの成田氏長はとうとう小田原から、己れの忍城へ戻れぬことになった。
 が、見廻して秀吉の大軍に仰天した彼は、すぐさま秀吉の側衆の長谷川秀一と面識があったから、すぐさま使いをだして秀吉の方へ、「てまえは手向かい致す気はありませんから……」と、改めて就職したい旨を申し送った。
 すると秀吉も、これに否応はない。「よろしい……」と承諾の旨に合図の烽火を上げさせた。それを見上げて氏長はやれやれとして、
 
(父長泰は上杉憲政どのから越後景虎、そして北条氏と三代に主取りを変えたのだ。わしが豊臣家へ移る位はなんともなかろう)と、直ぐにも投降しようとその機会を待った。
 ところが親の心子知らずというが、忍城に残された家来共は、氏長がまたもや主取り変えをしようとしている……などとは誰一人として気づきようもない。そこで、

 「豊臣方の石田三成の軍勢が押し寄せて来たぞ」と伝わると留守居の城中の家来共は、「われらの殿が小田原へ行かれた留守に、この城を敵の手に奪われては申訳けないぞ」
 「そうじゃ、かくなる上は城内が一つになって、火の玉となって防ぎ侯わん」となった。
 (こんな筈はなかった……)と、攻めあぐんだ石田三成は困ってしまい、城に向って、
 「……成田氏長は吾らに味方し太閤殿下へ奉公したい旨を、ちゃんと申し送ってきているのだぞ」大声でいい送ったのだが、城では、
 「そんな事は有ろう筈はない、こりゃ陰謀じゃ」「うん。その手にのるな……たとえ最後の一兵になるまで、何がなんでも頑張ろう」
 開城するどころか逆に石田方へ夜討ちをかけてきた。そこで三成は持て余して、ついに堤防を切って川の水で忍城を浮かしてしまった。

が、それでも城兵は濡れネズミになって本城の小田原が落城しても、まだ頑張った。だから取次役をした長谷川秀一も、かんかんになって、
 「わしの面目が丸潰れではないか」と、氏長を取っちめ腹を切らせようとした。そこで氏長は、「首代に」と、黄金九百枚と、かねて秘蔵の唐渡りのやく毛の胄十八個をさしだして、
 「……命ばかりは」と、秀吉に取りなしを頼んだ。いわゆる首の〈落し前〉である。
 
しかし、それだけでは心許なくて、十六歳の一人娘甲斐殿も付けて差出すことにした。が氏長は、その娘を送り出すときには、
 「男の就職は何度してもよく、巧くさえやれば立身も出来る、しかし、女ごは違うぞ。肝心な個所は黒っぽく色変りして、はみ出るように変化するものぞ。よいか……かまえて女ごは就職変えをし、あまり男移りしてはいかんぞよ」と、
しみじみ洩したという。
 が、ここまでのべたのは話のさわりで実は、よく江戸時代になってからは、
 「忠臣は二君に仕えず」というが戦国時代にあっては花房助兵衛か浮田家と秀吉の双方から同時に給与をうけていたように、明智光秀にしても、初めは足利義昭と織田信長の両方からサラリーを貰っていた。

これは、今のサラリーマンがサイドビジネスで己が会社から貰う他に、別途に収入を得ているのと同じことだが、彼は己が愛していた朱槍を与えた可児の才蔵に対しても、
 「就職とはまず相手に信用を先に植えつけること。武士はプロゆえやたらに死なぬこと」と教え、それを同じ可児生れの才蔵が守ったという戦国武者修業を、永禄年間の正確な史実の許に書いたのである。