明治の奇人・宮部骸骨 イヌはスパイじゃない | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

         【宮武骸骨略歴】


この一文を書くに当たり外骨を紹介した文献を色々読んでみた。以下。(著者出版社発刊年略)「明治畸人伝」「書国畸人伝」「枠外の人々」「近代畸人伝」「柳田泉自伝」「大正畸人伝」 「ドキュメント日本人6アウトロウ」「三十六人の好色家」何しろ大変な鬼才らしい。
 
  慶応三年、四国讃岐の庄屋の四男に生まれる。幼名亀四郎。
 十八歳の時漢和辞典の亀の項「亀外骨内肉者也」から外骨と戸籍上も改名。明治二十二年、発布されたばかりの大日本帝国憲法を揶揄し、憲法を下賜する天皇を骸骨に入れ替えた劇画と条文を「大頓知協会ハ讃岐平民ノ外骨之ヲ統括す」と、書き替えた戯文を自ら発行する『頓知協会雑誌』に掲載し、不敬罪で初入獄、時に外骨二十三歳。
 官吏侮辱、秩序壊乱、風俗壊乱の罪に問われ続けた『滑稽新聞』、題名そのもので統制、
 世相を皮肉った『赤』、猥雑漢のレッテルを逆用してタブーを解き放たんと公然刊行した「猥褻」もの、残る半分の真面目を自負した雑誌『面白半分』などその活動は刮目して迎えられた。
風刺毒舌罵倒で生き生きとした文は勿論、命名の絶妙さ、挿絵、大活字の活用の奇抜さ、流行だからと本物の紙屑古新聞を新年の付録にする磊落さ。また、獄中出版、米騒動を東京に呼び寄せた集会広告、廃家廃姓宣言等々.......

その既成、権威にとらわれない表現と行動を生んだ自由の精神は、時空を越えて現代の精神を飛翔させてやまない。
(私見だが彼は百年生まれるのが早かった。日本は今や、朝日新聞的正義の氾濫である。大本営からリークされるニュースだけが連日新聞のトップを飾り、事象の本質には触れない新聞、テレビ。

記者クラブ制度に胡坐をかき、取材力の低下は目を覆うほどに 弱体化しているジャーナリズムの現代にこそ、彼の本領発揮の舞台が在ったのではなかろうか。何故なら21世紀の今こそ奇才、奇人、異能の人と呼ばれた、外骨のような異端者の時代だからである)
 
骸骨は自ら企画執筆編集刊行するスタイルを生涯貫き、独立独行のジャーナリスト、操觚者として 二百に近い雑誌、新聞、単行本を残した。その間、筆禍で入獄四回四年余、罰金刑十五回、 発行停止、発禁処分十四回。晩年、明治期の庶民の歴史ともいうべき新聞雑誌の保存を期し、 現在日本最大の資料館となった東大法学部付属の、明治新聞雑誌文庫の設立から二十三年間、初代主任を勤めた。昭和三十年東京に没す。 享年八十九歳。
              序
  斯くの如き政府者、しかも専制時代の政府者が悪辣の密偵者を使用した事は想像に難からずであろう。
 明治十年警視局出版の「警察一班」に「秘密警察の分野は、 自由政府の国に狹くして専制政府の国に大なり。何ぞや、しかし自由の国は言路開けて法律苛ならず。是を以て各人其の思う所を直筆し、公に新聞紙に揚げて之を密にせず。故に秘密警察に因て偵知するを須んや。
専制政治の国は人々法網の厳酷なるに怖れ、各々口を閉じて其所思を公にせず。
事を議する皆のを冥々裡に於てす。故に間諜を編みて、證告を得るの方法を執らざる可らず」とある。
時の警視局長大警視川路利良は之を玉條として間諜を使った。
自由政府に改むることを欲しない當路者は、法制上にまでも密偵政策を公にして、民衆を敵視した。
其の専制政府の罪悪を網羅して、ここに本書の編成を告げたのである。

 

      【解説】 
現在の民主主義とは違い、明治二十二年まで新政府を転復しようと様々な乱が起こった。
子網橋事件、佐賀の乱、秋月の乱、神風連から萩の乱、そして西南の役から日清戦争に到るまでの、政府対反体制の、これは食うか食われるかの時代に、当時の各新聞紙上より、故宮武外骨が収録した稀観本でる。
 

しかし宮武外骨は、一々各新聞の引用だけに止まっているので、
 大変貴重な明治前期の史料には相違ないが、その肝心な時代背景を掴んでいない憾みがある。
 だから序として、その根本的なものを明白にしておかない事には、 まるでテレビの刑事物が密告者を犬として使っているみたいな錯覚に陥る。
 ひいては国の治安維持を司っている、警察機構に対して、百年前の確定史料だが、誤解を招く恐れさえもある。
旧刑事訴訟法の昔は、現在は全く相違している筈だからである。
さて、宮武外骨は「犬」としきりに乱用しているが、語源を解説する。

 

 

     前田犬千代はスパイだった

 

 織田信長が側小姓だった前田犬千代を、表向き追放の恰好にし、当時は今川領だった今切の浜へ潜入させた。
 というのは此処に堺経由でマカオからの硝石樽や鉄砲が輸入されていたからである。即ち今川軍団の一大武器弾薬集積所だった。
 当時織田信長は、父織田信秀の死後、その妻の父美濃の斉藤道三の援助によって跡目を継いだものの、 隣国今川義元の許へ送られてくる、硝石や鉄砲で軍備を整える今川を畏怖していた。

 だから、目端のきく犬千代を当時の間者、後に言う密偵にして、今切番所の雑役小者にして、 その報告を受けていたのである。
 それゆえ永禄三年、今川義元上洛の際に、大雨で使用できぬ火縄銃の欠点を逆手にとって、 本陣へ裏切りみたいに斬り込み、義元の首級をあげ、三百挺の鉄砲を分捕り清洲へ持ち戻った。
清洲近くの七社の村鍛冶に修理させ、おねね(後の秀吉の妻)の実兄木下雅楽助を鉄砲奉行にして、翌年から第一回の美濃攻めをした。前田犬千代も任務完了で呼び戻され、表向きは帰参がかなった事にた。
そして、昔ながらに「いぬ」「いぬ」と、利家と名乗りを変えたのに幼名で信長に呼ばれていた。
当時は乱波、素波といった身分の低い者は、草とか忍びと呼ばれた。
だから、前田犬千代のような、将校斥候ともいうべき高級密偵は、特別に「いぬ」と織豊時代から呼ばれるようになったのである。賤ヶ岳七本槍の一人でありながら、一万石にしかして貰えなかった、片桐且元が、徳川家康側となって、大阪城砲撃の指揮をしたのを、「天晴れ、いぬ片桐兄弟の働きなりと賞賛を賜れり」と「駿府雑記」には家康の言として「いぬ」の文字が堂々と出てくる。徳川時代になっても「忠功を尽くした」という、栄誉を、身分格式のある者への誉め言葉として用いられていたのである。

   

 

      綱吉が「犬公方」と呼ばれた訳

 

 

五代綱吉将軍にしても、中野や四谷に犬小屋を建て、野良犬が皮を剥がれぬように隔離しただけで、 一度も覗きに行っていないのに「犬公方」と渾名されたのには訳がある。「神仏混合令」発布と共に、従来は一人で何年も勤めた寺社奉行を一度に三人も四人も任命した。
生母の伯父隆光和尚の唱える「仏教国家案」に協力するため、日本各地の反仏教派を、宗門改めを強行して転宗させた。
しかし、隠れて転宗を拒否する者の数が多く、ここに密告制度奨励を天下に布令したのである。
だから、「告げ口公方」の意味で「犬公方」と呼ばれたのである。
だが彼は一匹も本物の犬は飼っていなかったのである。
 価値判断が時代と共に変遷するように、イヌの栄誉在る称号も、幕末になると逆にされてきた。
 つまり徳川綱吉の政治目的の「生類憐れみの令」が法制化された、貞享四年に先立ち、 当時儲かって資金的な余裕の出来てきたのが製革業者である。
 彼らの用心棒のような、刀の柄に白皮を巻いたり、神祇組と称していた三河島出身の旗本や御家人二百余名と、 家の子、家族共では二千数百が、江戸では処分された。その他、大名領、旗本知行地、天領でもそれぞれに除地と呼ばれていた、今いう処の、橋のない川へ強制的に押し込めたのは数十万といわれている。
 
「日本部落史料」の本に詳しいが、八代将軍吉宗の時代に、拝火宗徒である堂、又は道の者と呼ばれる旅芸人、
行商の者たちに、目立つように朱鞘の公刀と捕縄が渡されて、五街道目付となった。
 彼らは騎馬民族の蘇我の血を引くキタさん達だが、非農耕ゆえに、昔は防人として出征させられ、奉行所や関所の捕方として出役の義務を背負わされていた。その為に捕物術、棒術、刀術を義務として稽古させられていた。
さて、幕末になると各藩から彼らが殺し屋として京へ出された。
だから薩摩の田中新兵衛は捕らえられかけると自決したし、土佐の人斬り以蔵も、 無宿人として獄門にされるのも、彼らが部落者だったからである。だが、次々と世直しのためにと、 つまり差別され続けてきた彼らが、人間並に扱ってもらえる平等な社会の実現を目指したのである。
ところが、彼らが殺した目明し文吉を京の三条大橋にさらした時に、「いぬ」と立て札をした。
折角忠義の代名詞みたいなイヌの美称を、さも侮称のごとく変えてしまった、これが第一号といえる。
 全く本物の犬には迷惑な話である。
 
  脱藩と今ではいうが、各地の除地から次々と特攻隊として送り出されて来たのが、 土佐は武市半平太門下の若者達である。
 幕末までは足利の散所奉行によって除地とされていた十津川の吉野者。
 九州ではユタ者と呼ばれていた益満休之助や伊牟田尚平。
下克上とは明治では言わぬが、もし犬を巧妙に使ったと言えば島津であり、長州、土佐の順で、彼らはその捨身立命の忠義心で新政府を樹立した。
つまり彼らは騎馬民族系飼戸の素性で、飼子として圧迫されていたのを、 世直しをするのだと吹きこまれ、頼山陽の遺児頼樹三郎によって麗々しく「志士」とされたのに気を良くし、みな鉄砲玉となって、新しき世に成ることを信じて死んでいったのである。
 明治を「シシの時代」というのはこの為で、生き残った新政府の要人達は、それゆえ皆んな改姓名をしている。
 しかし鉄砲玉の生き残りや、疎外されて自由党を結成した連中にとって面白かろう筈はなかった。
それゆえ新政府を攻撃するのに、しきりと犬々と使ったのはあながち密偵を用いたということより、大久保利通や海江田信義らはみな鹿児島鍛冶町出身のユタ者なのは、よく知られていたから、「自分らだけが豪くなって他を放りっぱなしとは何事か」と故意に嫌がらせにしきりに用いたのである。
 
 忠義、忠誠といった代名詞みたいに織田信長が前田利家をイヌイヌと愛称で呼んでいた誉め言葉が明治新政府攻撃に官途に就けなかった壮士たちによって、故意に悪用されたのである。
宮武外骨は、反体制側の新聞記事を羅列しているので、 さも戦国時代の乱破なみの低級な扱いをそのままで「註」なしで用いているが、
鹿児島へ潜入した中原尚雄らは今日では警視正位の高官に当たる明治初期の警部だから、後には彼らは総監の要職に就いたり、大阪府知事にもなっているのである。
後の総理大臣原敬が、新聞記者時代におかみ御用を勤めていたからイヌだとか、 「剣禅一如」などと、訳の判らぬ事を口にして、生涯一度も抜刀しなかった剣豪と喧伝された山岡鉄舟から、「噫無情」の訳者として知られる黒岩涙香でさえも みんなイヌとされている。
つまり明治政府から金を受け取っている者は、これ悉く誰彼無しに犬として扱い、
悪態をついて書いていたのが、明治初年の自由民権新聞の政府攻撃の唯一の論難であったのである。
 折角、誉め言葉の犬を侮称にしてしまったのは、壮士新聞の連中が歴史知らずで、外骨はその儘で掲載しただけである。私は中学生の頃に、和紙綴じの彼の「変態性欲考」を入手してから、外骨の著述は
 引用が明確にされている故、安心できて多くを参考にしてきた。
    
宮武外骨はスッパは英語のスパイ、ポルトガル語のスッパイからの、外来語なりと、上編の概説では言っているが、間違っている。スッパ、ラッパは草の葉の事である。
つまり菖蒲の葉の如くスウッとしているのがスッパ、ヨモギやツタのごとく乱れて絡んだのがラッパであると「和漠図絵」にも詳しく絵入りで説明されている。
大宝律令で区分された「良賤」が藤原王朝の末からは「民草」となる。つまり今日の一般庶民の先祖が「草」なのである。
草ゆえ葉っぱがつき、葭や葦の茂みに隠れていて、すっと飛び出して行くのがスッパ。
 敵を錯乱のため混じり込んでいるのがラッパ。後にはホラ貝吹きの事をもいう。
 「うかみ」は王朝時代の「放免」つまり受牢者の中から役立ちそうな者を選んで検非違使の下役に使ったのをいう。
 
「さぐり」「かまり」は足利時代に南朝方遺臣の残党が隠れ住んでいる地帯を、散所奉行を新設して、そうした地域に網を掛けるように、特殊部落にした。
その際その下調べに探りを入れたり、かまをかけるというか、探しに行った者たちで、室町御所文書では「覗人」としている。
 忍び目付、横目、徒士目付はMPのような士分の役向きである。
「でか」は「手下」のことを「てか」と呼んでいた訛りである。今では刑事のことを「デカ」と呼んでいるがここから来ている。
 
「目明かし」は慶安の変で由井正雪の屍体検分の為に、江戸から生前の顔見知りの者が目ききに駿府まで出かけていったのが始まりで当初は密偵ではない。
江戸の吉原は幕府公認の売春地帯で、上納金を納めていた。
 
 しかし、売春は当時も儲かる商売なので、女さえ集めれば営業できると、モグリの岡場所が増えて吉原の営業権を圧迫した。いわば岡場所は商売敵である。
 だから吉原会所は裏の四郎兵衛溜まりの者たちに、江戸市中を廻らせ、 岡場所を摘発して、女達を引っ張ってきて、吉原の奴女郎にした。
 岡場所から女を引っ張って来て、吉原に引き渡す故「岡っ引き」と呼ばれ、 どうせ鵜の目鷹の目で市中を廻って歩くついでだからと、南北両町奉行の常廻り同心から盆暮れに一朱の手当で、出入り鑑札を持たされていた。
彼らが町屋の金の在りそうな店を狙い、番屋が使えたので店の丁稚を連れ込んで脅かし、口書きを取ってからそこの店を強請って金をせびったり、同じ商売屋からの「頼まれ事件」として丁稚を挙げては偽りの証拠を作くったので、「でっちあげ」という言葉を現代に残している。
「総会屋」のハシリのようなものである。そして彼らは常習だったので「その筋の者」と疎まれていたが、これは国家目的とは違う。
 テレビや映画の「銭形平次」や「半七捕物帳」など、岡っ引きを庶民の味方として美化しているが、あんなのは真っ赤な嘘で、彼ら如きは庶民にたかるヒルのような者達で、今で言えば極悪警官なのである。
 (補記)
 さてこの本に高島炭坑の坑夫達が写真入りで載っている。そして炭坑夫虐待を訴える雑誌「日本人」に三宅雪嶺が「三千の奴隷を如何にすべきか」という論文を掲げ、その救済を訴えて以来、大きなセンセイションをまきおこした。
監獄部屋と言うほど苛酷な労働だったらしい。
また、「りんりき鉄道」が小田原、熱海間にあり、この間は人間が押す鉄道で、これも又苛酷な労働で、これには拝火宗の部落民が強制的に当てられ、就寝時には部屋の真ん中の柱から、綱で縛られて寝たのでこれを「蛸部屋」という。
「四民平等」を謳った明治維新だが、こうした本を読めば、士、農、工、商の枠外にいた八や四っの民は相変わらず奴隷視され、被差別されていた事が判る。
また、ビゴーの風刺画も載っていて、自由を叫ぶ民衆を「非国民的言動」として保安条例で逮捕する羅卒。
印刷所を急襲して自由主義文書を検閲し、没収してゆく羅卒達。芸者の三味線担ぐハコヤに化けた密偵も、花柳界に入り込み、野党の見張りをしている図。 ビゴーはフランス人だから、ドイツ一辺倒の伊藤博文を皮肉って「ル・モンド紙」へも送っていた。