織田信雄はなぜ安土城を焼いたのか  奇蝶に頭の上がらなかった信長 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。


織田信雄はなぜ安土城を焼いたのか
信長正室の間違い


奇蝶に頭の上がらなかった信長
織田信長が本能寺で爆殺された時。



 織田信長が本能寺で爆殺された時。日野の城主の蒲生賢秀が、安土城の二の丸にいた婦女子は一人残らず自分の城へ引取った事になっているが、もし、城へ残留していた者があれば、それは、賢秀やその倅が知悉している筈である。
 だからこそ六月十五日に、その蒲生の倅に案内されて織田信雄が兵を進め、誰一人として城から逃れられないように、完全包囲してから放火している。
この時代、仏徒の方は、土葬だったから、寺には墓地というものがあって、そこへ亡骸を埋めたが、神信心の方は、火屋(ほや)という小さな家のようなものを作り、その中に入れて火葬にしてしまう習慣があった。

 つまり城を枕に討死といって、火をつけて自滅するのは、なにも死んで行くのに城を残していくのは勿体ないからとか、屍体を他人に見せたくないからと放火するのではない。城自体を「火屋」として、自分らの死を完遂する宗教上の慣しでもあった。
 だから信雄が火をつけて、安土城もろともに焼いた女人は、それが安土文化の殿堂であったとしても、それを火屋として、あの世へ持って行けるだけの値打ちのあった、身分の尊い高貴な女性という事になる。
 そして、その女性を焚殺してくれた事を、当時の秀吉や家康が有難がったという事は、その女性には、彼らとて頭の上がらなかった権力者という事になる。
 当時、そんなに豪い女性は一人しかいない。
 美濃の斎藤道三入道の娘と生まれ、信長をして、尾張の当主にし、やがては美濃をとらせた、奇蝶御前しかいない。
 ----安土城跡の總見寺にも、妙心寺の塔頭にも、信長や信忠の墓は後年、刻まれて建っているものの、この奇蝶の墓だけは、美濃にさえもない。嘘だと思われるが全国、何処にもない。
 彼女の死に関係した資料は全部、破却焼失処分をされ、<美濃旧記>にさえ入っていない。
 
だから歴史家は、彼女の扱いに難渋し、身代わりに、「織田信長正室は生駒将監女」と、信長二十歳、奇蝶十九歳の年に、第一子を孕ませた女をもって正室として、彼女に換えてしまっている
 しかし現代とは、あの時代は違うのである。子を産んだ女が正妻になるというには、それは今の感覚でしかない。
 ペニシリンや消毒薬がなくて、出産は女の大役とされ、産褥熱で死亡率の高かった昔は、「腹は借りもの」といって身分の低い女に産ませ、出産と同時に縁を切らせて、次は、正妻が「乳人」に抱かせて、己が子として育てさせた時代なのである。
 生駒将藍というのは尾張の名もない地侍である。そこの女を信長が、どうして正室に迎えるわけがあるだろう。当時の婚姻は、個人の感情、つまり現代のように恋愛ではない。家格と家格の取組みである。
 もし歴史家が説くように、のちの中将信忠が、生駒将監の女の腹中に入った信長二十歳の時に、奇蝶を離縁し、生駒氏を正妻にしているものなら、その三年後の弘治二年に、岡崎から駿河勢が攻めこんできたとき、

<村木の取出し攻められ候>の原文、
「信長の御舅にて候の斎藤山城道三かたへ、番手の人数を一勢乞いに遣はされ候。道三かたより正月十八日、那古屋留守居として、安東伊賀守(安藤守就)大将にて、人数千ばかり、田宮、平山、安斎、熊沢、物取新五らを相加へ、
見及ぶ様体(ようてい)、日々注進候へ(と道三入道が心配して)申しつけ、正月廿日、尾州へ着し越し候へき、陣取り御見舞として信長御出て、安東伊賀に一礼仰せられる。
一長(いちおとな=主席家老)林新五郎(林佐渡)其弟美作守ら不足を申したて、あくご(荒子)の前田与十郎城(犬千代の父)へ罷り退き候」
 
 この林佐渡らの美濃への反感が、翌弘治三年の、信長の弟の武蔵守信行の謀叛騒ぎになるのだが、いくら道三入道がお人良しでも、娘の奇蝶の代りに、他の女を正室にされていて、信長から舅よばわりをされ応援を求められ、
すぐ派兵して「見及ぶていを日々注進しろ、兵力が不足なら、追加もしよう」と、その家来にいいつけて尾張へよこすのは、つじつまが合わなさすぎると考えられる。
 また生駒が正室なら、その一族で、名の残るような立身の者もいるべきなのに、そんな者は一人もいない。
 信孝を産んだ板御前の方は、その前夫との子(小島民部)を信長は、荒神山で名高い伊勢神戸城主にしてやっているが、生駒姓など<總見記>にも残っていない。
 生駒氏が続けて信長の子を産んでいるのは、奇蝶が、あまり違った女に信長の種つけをさせるのを好まず、専用にさせていたのではあるまいか。つまり女として、奇蝶よりも容色が劣り、詰まらなかった女だったせいらしい。
だから信長は、奇蝶の厳重な女管理の為、ホモになってしまったのである。もし、後年伝えられるように、手当たり次第に、よき女人と交われるものなら、どうして中年から、
<当代記><總見記><信長記>に、びっしり出てくるように、万見仙千代に血の途をあげて、あんなに徹底したホモになる筈はない。
 厳然として、奇蝶が正室として頑張っていて、「勝手気侭な女色は許さじ」と睨みをきかせていたからである。
 
 だが、仙千代は天正六年に死んだ。そこで一、二年は生存説もあって待っていたが、その代りとなると美少年も現われてこない。こうなると信長も、子供を産ませるために、後家ばかり用いるのは飽きがきていたらしい。
やはり彼も普通の男である。だから、「荒木摂津守逆心を企て」という<信長記>の一節に、こういう原文がある。
「御人質として、御袋様を差し上げられ、別義なく候はば、出仕候へと御諚にて候と雖も、謀叛をかまへ候の間、荒木不参候(まゐらせず)」
 つまり、仙千代のとりあいになった時に、信長が、人質として家来の荒木に、御袋をやろうというのである。歴史家の中には、信長の母と誤読している者もいるが、この御袋様というのは、
子を産ませた、その子達の御袋様なのである。いかに信長が仙千代にまいっていたかという例証になり、また、子を産ませていた女達が、どんなに詰まらん女達であったかという証拠にもなる。
 相当に、奇蝶はうるさくて、眉目よき女など、信長の側へはよせつけなかった模様が、これでもありありとわかる。
 その豪い女性の奇蝶こと「おのうの方」の墓が、日本中どこにもない。何故かというと、その真相は、昔から、「‥‥夫殺し」と思われていたからである。
つまり《悪徳の権化》の女性として、どこの寺でも拒んで、寺内へ建てさせなかったのだ。

怯える信長の反対勢力

<浅野文書>に収録されている天正十年十月十八日附の秀吉の書状で、その名宛人となっている岡本次郎左衛門というのは、良勝ともいって伊勢神戸時代からの織田信孝の家老である。
 もう一人の斎藤玄蕃允というのは、この時は、やはり信孝の家老だが天正十年六月一日までは織田信忠の家老だった。
 そして妙な話だが、<戦国戦記・山崎の戦い>によれば、
「本能寺の変があった六月二日から、二十二日までは、岐阜城主となって、たとえ二十日間とはいえ、美濃に君臨していた」という事実がある。
 もちろん、二十二日になって秀吉が、織田信孝と共に不破の長松まで押し寄せてくると、彼はあっさり降参をしてしまった。
 ところが、この玄蕃允は、幼名新五郎といって、斎藤道三が長良川で討死する前日は、その姉の奇蝶の許へ落としてやった男である。
 叛乱軍側について、美濃一国を横領していた斎藤玄蕃允だから、秀吉も普通なら首を切るところである。それなのに気兼ねして、「ご縁辺の者にて、美濃の血脈の者ゆえ、何かと御領置の差配にご利便ならん」
 と、新領主の織田信孝の家老に、また推挙している。本人も昨日まで同じ城で殿様をしていた身が、けろりとして家老になって奉公している。
なにしろ、<当代記>六月二日の条の二条御所にて信忠を守って勇戦奮闘した顔ぶれの中に、小姓頭として出陣していた、この男の跡目の「斎藤新五郎」の名も入っている。
 だから忠義者の倅をもった余栄というのか、当時も疑われていないし、今も疑われていない。

さはさりながら、いくら岐阜は京都に近いといっても、天正十年六月二日に、本能寺の変が勃発した日から、奇蝶の末の弟が、亡父斎藤道三入道の遺領である美濃を回復して、そこに君臨してしまうというのは、これは全く穏やかではない。
 誰がどう考えても「里方の美濃を取り戻して、亡くなった父母の供養をしたい」と願った奇蝶の差し金であることは、これ一目瞭然である。
 そして、そうなると、六月二日に、あの事件が起きる事は、奇蝶は前もって知っていたということになる。なにしろ六月二日以降は安土城へ入ってしまって、そこから一歩も出ていないのだから、まだ京都の斎藤屋敷に滞在していた六月一日以前において、
美濃の弟へは、あらかじめ司令は出されていたことになる。
 
 そして六月二日の午後、安土への通行口。
 そこは<フロイス日本史>によれば、「信長は都から安土への道が楽になるよう琵琶湖の狭くなった激流の瀬田に立派な木橋をかけ、横幅は畳四枚、全長は百八十畳、橋の中央には休憩所まで設けてあった」という瀬田の大橋を、
山岡景隆が焼き払ってしまったのも、京から引きあげ安土へ向かった奇蝶の命令によるもと判ってくる。なにしろ彼女は、山岡一族の本家である三井寺に、亡父斎藤道三をまつって大檀那だったからである。(家康の指示もあったろう)

<ゼズス会日本年報>の記載によれば、
「諸君が、その声でなく、その名を聞いただけでも、縮みあがって戦慄する人」と、ポルトガル人のバードレたちの間でも恐れられた信長。つまり、自分から「神」であると認め、
「天上天下における唯一人の全智全能を誇っていた織田信長」にとって、怖ろしい存在などは、この世にはないように、誰もが想う。
 ところが彼も、実体は人間であり、やはりアキレスの腱はあったらしい。つまり、その泣きどころを一掃するために上洛してきたのが、五月二十九日ではあるまいか。
 
 なにしろ信長は、その者に三十三年にわたって悩まされ、苦しめられていた。なんとか処置は、とりたかったろうが、信長のように別所出身の神徒系には、古来女尊系の「おかど」思想がこりかたまっている。
なんとも束縛から身動きができなかったのであろう。
「おかど」というのは、今でも野沢スキー場や上州の田舎に残っているが、旧正月に、「おっか」という女の顔と「ど」とよぶ男の顔を入口に立て、この入口を「おかどぐち」つまり「門口」といい、
当時は、現在「笑い絵」と夫婦交合の絵のことをいうように、おっかに、「ど」のつく姓行為を「わらう」という古い大和言葉でよんでいたから、元日だけは骨休めをさせてもらえるが、二日からは「姫初め」ともいって「笑う」
行事をする掟があった。
 今日は単純に「いろはかるた」に入れられて、「笑う門には福きたる」となっているが、昔の、結婚後二十年、三十年の夫にとって、それは大変な辛苦なことだったらしい。
(この「おかど」が江戸初期に転化した「お雛様」をみても判るが、女体は「内裏さま」つまり至上を意味し、男体は「親王様」と、身分が遥かに下位になっている)
 そしてなにしろ当時は、今の「夫婦」が、まだ「女夫(めおと)」と呼ばれていた時代なのである。

畏きあたりから信長へ降嫁 

 信長は天正十年五月一日に自分から「神」になると、この際「ど」のほうもやめてしまおうと、うるさい古女房を一掃するために、二十九日に出洛したのであろう。
と書くと経験のない人には判るまいが、なにしろ女性自身でさえ、結婚の条件に「ババァ抜き」というぐらい、女の古手の口やかましいのは、同性でさえ怖れをなすものである。
まして男。しかも信長のように押さえつけられてきた人間にとって、彼女を一掃する事は(当時奇蝶は四十八歳であるが、現在の六十八ぐらいに、よい化粧品もない時代だから、ふけていたであろう)これは、多年の懸案でもあったろう。
 そこで、つい心浮々として「京へ、一掃にゆく、そして、中国へ向かおう」と、しきりに洩らして吹聴してしまったのであろう。だからこそ、これが広まってしまって、
<当代記>にも、「一左右次第中国へ可罷立之旨曰(まかりたつべくのいわく)」とあるし、<信長公記>にも「御一左右次第、罷り立つべきの旨、おふれにて」と、みんな書いてある。
 ところが、
 世の中には幸せな男もいて、「女の恐ろしさ」など知らずにいる者も、割りといるものである。だから、この連中は、まさか、その名を聞くだに身の毛もよだつ恐ろしい織田信長が、京にいる古女房の奇蝶を掴まえハムレットみたいに、「尼寺へ行きやれ」と一掃しに来たとは知らないから、
互いに脛に傷ある連中は、それぞれ、「‥‥一掃しに来た、われらであろう」と脅えきってしまった。

 まず御所では、女嫌いの信長ゆえ(奇蝶に虐められてきたしっぺ返しか、非常に彼は女にはきつくあたっていた)女御が、二十九日に、お里へ緊急避難をされた<言経卿記>
 翌六月一日になると、「一掃されるのは、我々宮廷勢力ではないか」というので、関白太政大臣以下、右府、左府、内相、一人残らず、御所を空っぽにして、本能寺へ雨中のデモをかけてきた。
玄関払いをしたのに上り込まれて、五時間も六時間も自分の事を各自に喋舌り込まれ、信長はうんざりしただろう。
 それまで自分の結婚に懲りて、倅の信忠や信雄には、決まった嫁を持たせなかった信長も、皇女のご降嫁には将来を考えて心が動いたのか、夜になって、信忠の考えを聞こうと、跡目の当人を呼ばせた。

 奇蝶は、五月には京にいたから「信長が一掃にくるのは、御所の事ではあるまいか」と公卿どもが心配して、誠仁親王の妹姫を織田家へ降嫁させる話も耳にしたであろう。
それが、義理の子とはいえ信忠と判っていたら、別に暴挙はしなかったろうが、てっきり夫の信長の許へ降嫁と、女だから客観的に考えず、自分本位に判断して周章てたのだろう。
 側室の上臈(じょうろう)なら、何人つくられたところで、子作りのためだし差支えはないが、畏きあたりからの御降嫁とあっては、自分が妻の座を放逐されるのは目にみえている。とても、いくら美濃の今は亡き斎藤道三入道の娘であっても、これには太刀打ちできたものではない。
 そこで、美濃衆の稲葉一鉄の娘である斎藤内蔵介の妻を呼んだ。そして、「美濃人の手で、美濃を取り戻すため」とでも言ったであろう。

 家康は「一掃されるのは自分らではあるまいか」と噂に狼狽し、信長が五月二十九日、京へ近づくと知るや、直ちに、その日、京から脱出。船便のある堺へ、まず避難した。
 斎藤内蔵介は、かねてより実力をもってしても、なんとか四国討伐をくい止め、義弟にあたる長曽我部元親の危機を救おうとしていた矢先だから、「三河から援兵をもって、すぐ駆けつけてくる」という家康の申出を、すぐさまのんだ。
 奇蝶からの話も、まさか(ものはついででござる)とは言わなかったろうが、すぐさま承知して、光秀が愛宕山へ上っているのを幸いに、丹波亀山へ急行したのであろう。

信長爆殺の実行者
本能寺事件を知っていた秀吉


 京都教区長のオルガンチノは、かつて、その<オルガンチノ書簡>に、「日本の重要な祭日に、信長の船の大いなる七隻が海に並んだ。私は、すぐ堺へ行って、それらの艦隊と備砲を調べた」と、マカオへは報告してやっていたが、その後、
また倍加された織田艦隊が、大坂の住吉浦に勢揃いしているのを調査し、信長が軽装のまま上洛しているのは、これは乗船するためとにらんだ。そして、
「六月四日に四国征伐に出帆」というのを、オルガチーノは、てっきりカモフラージュと思った。

 そこで、東インド管区巡察師ヴァリニヤーノが、この二月に少年を引率して日本を去る前に言い残した言葉を想い出し、ヴァリニヤーノに同行してきた者が、書き残していった、
<ロレンソーメシア書簡>を再びひろげた。
「‥‥このゼンチョ(異教徒)信長は、すこぶる尊大で、さながら神の如く扱われ、尊貴の念をうけ、まるで世界に彼に肩を並べる者は、よし天上にあっても何もないと信ぜられている。なにしろ長子の信忠も彼にならって尊厳であり、何者でも直接に話などは許されない。
しこうして彼らは殺掠を好み残酷である」と、それには信長の残忍さが、いろいろと例をあげて綴られていた。
(あの織田艦隊が南支那海へ向かったら、神の名による都市マカオが危ない。吾々は、今こそ、神のおんために、身を捧げるべきである)
 と、オルガチーノはすぐさま準備にとりかかった。なにしろ信長がいつも京へ来て泊るのは、いつも最近は、本能寺であるし、そのため、わざと数十メートルと離れていない此処へ三階建の教会をもっている彼らである。
 ----オルガチーノは「神の栄光」のために、自分を犠牲にすると誓った。だが、いざとなると部下に後をまかせ、遥か九州の沖の島へ逃げてしまった。
事前に秀吉の密使との打合わせがあった模様だが、その詳細は伝わっていない。

 だが、激怒されたフェリッペ二世陛下のために、マカオへも戻れなくなった彼を、秀吉は生涯保護し、他の宣教師は追放しても、彼だけは静かに日本で死なせてやった。
「殺られるのは、きっと自分であろう」とばかり、共同謀議はしていないが、結果的にはそうなって、実行兵力は、斎藤内蔵介の指揮する丹波亀山衆。内訳は、丹波船津桑田の細川隊(指揮者は加賀山隼人正)福知山の杉原隊(指揮者は小野木縫殿助)亀山内藤党(指揮者は、木村弥一右衛門)と認定される。
 本能寺を包囲したまま三時間も三時間半も待っていたのは、奇蝶の使いが明智光秀を探しに行って「彼を名義人」当時の言葉でいうところの、「名代」にしないことには、斎藤内蔵介としては「家老の私では身分からいっても今後の運営に差支えがござる」と言い出したので、当てもなく、それで待機していたのであろう。
 ところが目と鼻の一町もない「ドチリナベルダデイラ(天主教真聖教会)」から秘かに持ち出されて轟然と一発。
 最新舶来のチリー硝石による新黒色火薬の爆裂弾が、ドカンと本能寺へ投げ込まれ、すべての計画が齟齬してしまった。光秀が上洛する前に、一切合財が終ってしまったのである。
かねてから秀吉は保身のため、信長側近の長谷川秀をスパイとして信長の動静情報を逐一把握していたからこそ、この知らせが入ると、途端に、備中高松で、
「これで、すべて秀吉の殿の思い通りになられましたな」などと黒田官兵衛に言われてしまうのである。
秀吉の、有名な備中大返しというのも、この事あるを以前から把握していたため、毛利との和睦も早くからできていたのである。

夫殺しの汚名を着た奇蝶

 そして天正十年六月十三日。つまり事件後十一日目に、光秀を山崎円明寺川で破ってしまったものの、これは単なる勢力争いのようなものに見られがちで、当時としては、信長の仇討ちという事にはなりそうもなかった。
 といって「誰が信長殺し」かを突っつきだしたら、自分も脛に傷があるから、「女天下」である当時の社会情勢において、秀吉は、「信長殺しは、奇蝶である」という結論をうちたてた。そして、その真犯人とされた奇蝶を泪をのんで葬った。つまり、

「親の仇討ち」をするため安土城を焼いた織田信雄をもってして、山崎合戦から十二日目の清洲会議では、これを殊勲甲として二ヵ国の太守にしたのである。そして秀吉は、「だが‥‥どうも不審である」などと当日、怪しむ口吻を洩らした柴田勝家、丹羽長秀、池田勝入斎、織田信孝を一人残らず次々と、みな消していったが、奇蝶を下手人にしておくために、安土城を焼いた信雄だけは、自分の弁護人として、生涯、殺せなかったのである。
 家康は「これ一重に斎藤内蔵介の志であった」と、その娘の阿福を、春日局にしたり、「細川の働きも、あだには想えぬ」と五十四万石の褒美をやってもよいと遺言したりした。
(三代将軍家光の時、諸大名の取り潰しが激しさを増す頃、細川だけは「大御所様の遺言だ」と肥後熊本を与えられている)
 国家主権者の暗殺などというものは、白昼公然とパレード中の大統領を狙撃しても、背後関係が政治的にややこしく、二十世紀の今日でも判らぬものなのである。まして十六世紀の信長殺しとなると、調べに調べても謎は深い。

 つまり、「信長殺しは誰か」というのは、元禄時代までの女権の天下では「奇蝶こと、お濃の仕業である」として一般には通用されていたのが、その後の男尊女卑の時代がきて、「男は強く、女は優しいものだ」という封建制が固まってくると、
「織田信長を殺したのが女ではおかしい」と、明智光秀にすり換えられて、その侭で俗説が罷り通ってしまったのです。そして、この事件の鍵を握る徳川政権が、徹底的に、この史料を握りつぶしてしまったので、謎のまま四百年も経過してしまったのである。
 そして生前、とても偉大であったように、より良き誤解を与えてしまった為に、天正十年六月二日に、各方面から、その「一掃の目的」が自分ではないかと、より悪く誤解され、その連中が、期せずして共同作業の形で「信長殺し」を国際的なスケールで敢行したようです。
勿論、徳川家康には、信長を殺したい必然性は確固としてあったのですが、これはまた後日にしましょう。
 
さて最後に申し上げたいのは、いずれ機会を改めて書きますが、奇蝶こと「おのうの方」を、どうか、気の毒ですから、悪く想わないで下さい。
 女にとって、愛というのは血の流れだけに限定されるものです。生涯、子供を産まなかった(現在の経口避妊薬ですか中絶薬ですか‥‥江戸期までは「月ざらえ御くすり」の名で馬琴の本にも広告があるくらい流布していました)彼女にとって、愛する者は、父の斎藤道三だけでした。
その父の死が、信長の謀略だったとしたら、彼女が復仇したのも無理からぬ事でしょう。だが、結果的にはプランを立てたくらいで、秀吉とか家康といった、役者が上の男どもに利用されて焚死となれば、これこそ歴史家の諸先生がお書きになる御本のように、
「戦国時代の女人は哀れであった」と、いうことになるのでしょうか。偉大なるが故に不幸な女性でした。
「竜は、女を怒りて、その裔(すえ)の残れるもの、即ち、神の戒しめを守り、イエスの証しを有(も)てる者に、戦いを挑まんとて出でゆきぬ」<ヨハネ黙示録第十二章第十七節>
----というような結末になったのです。