古代史考察 既成古代史の真相 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

   古代史考察 

  既成古代史の真相



(引用に当たっては、旧字旧かな、カタカナを新字新かなに直し、適宜旬読点を補った)

 喜田貞吉氏は第二次世界大戦前の日本の歴史学者、文学博士である。考古学、民俗学も取り入れ、学問研究を進めた。
独自の日本民族成立論を展開し、日本民族の形成史について歴史学・考古学の立場から多くの仮説を提示し一定の学問的業績は認められる。一方、
「日鮮両民族同源論」を提出し、結果的に日韓併合(明治43年)を歴史的に正当化したと批判されてもいる。ここでは日韓併合の是非には触れないが、この博士の業績は大としても、その間違いをここで正したい。

 さて、日本書紀に拘束され、日本人はみな天孫民族とするカテゴリーの内にあって部落問題を解明してゆこうとするのは、両手足を縛られて泳ぐようなもので、喜田貞吉博士の苦労は認める。
以下は喜田貞吉説からの引用。()内赤字が喜田説。

(農耕奴隷は大御田(みた)のやからゆえオオミタカラだが、食糧耕作を絶対にしない遊牧民族の『四つ』の部族は非人とする。
先住の土着人つまり国津神系統の民や、中国や朝鮮人の帰化人の子孫が多いが、だからといってその理由で賎しむという事は、我が古史にはみえぬ)
というがこんなことは当たり前の話。
 
縄文人の後、古代日本人の内で雑色とよばれる種族が西南より漂着して列島の太平洋岸に住み着いた。
彼らは黒潮によってアブタビ海よりの四方拝種族が拝火宗徒の平家の祖先である。次に、日本海沿岸より入ってきた騎馬民族も「先住民」であって、朝鮮半島や中国よりの者は鉄武具で彼らを仆し、
縄文日本人を奴隷にしてしまって弥生時代に変えてしまったのだから、古代史にはみえぬということは当然のことにすぎまい。

 これは順序が全くの逆で、中国の郭ムソウの軍隊が進駐してきたのが西暦673年で、自分らを良とし敗戦国民の縄文日本人を賎としたことが書かれている日本書紀を金科玉条としての解説ゆえ矛盾だらけは仕方もない。
 しかし、それなりの研究もしているから、「民族と歴史」の33Pからを、ついでに引用する。

(雑戸と非人とに関係して、考えてみるべきものは、「あまべ」といふものがある。京都の三条通からは南、加茂川からは東に当つて「あまべ」という一つの部落があります。字では「天部」又は「余部」とも書きまして、
もとは皮田とも越多とも言はれて居りました。
 これは昔の「余部」という名称を継いで居るからでありませう。「余戸」といふ地名は、奈良朝時代の地誌や、平安朝頃の郷村名を書いたものによく出て居りまして、全国各地あつたのであります。
 今も諸国に其の名が残って居ります。一体どういふのかと申すに、先輩の間に種々の説がありまして、普通には余った家即ち一郷をなすには多過ぎるし、さりとて其の余ったのも独立の一郷とするにはたらぬから、
それで余戸というものにしたと云うのでありますが、恐らく農民以外の雑多の職業に従事する雑戸であらうと思います。

 ならば、なぜ雑戸を「あめべ」と言ったかという理由はよくは分りませぬけれども、思ふに普通の郷の仲間に這入らず、余った村落と云ふ事ででもありませう。
余戸の説明をした古文を見ますと、京都の栂尾(とがのお)の高山寺に伝はつて居た「和名抄」という書物がありまして、
その中に、「班田に入らざるを余戸という」とあります。班田というのは大化の改新の時の御規則に依りまして、日本の土地をみな国家の有に帰せしめ、それを均等に良の人民に分ち興へる、これを班田と申し農民は悉く、
その班田を受ける仲間に入つて居る訳であります。処が「班田に入らざるをば余戸という」とあるのを見ますれば、田地は貰はないものの、即ち農民以外のものということになります。
種々の職人や雑役に従事するものは、耕作致しませんから、土地を貰わなかった。土地を貰う権利を与へられなかったのであります。


 昔の諺に「土地を得ぬ玉造」ということがありまして、玉造りの細工奴隷たちは土地を持たなかった。又今の京都の天部(あまべ)部落は、もと四条河原におりまして、これを「四条河原の細工」とも言ったとあります。
皮細工を課役とする者らの雑戸で、それで「あまべ」の名を得て居ります。
 もう一つ「出雲風土記」にも余戸の説明があります。それには、「神亀四年[727]の編戸による、天平の里」ということが書いてある。神亀というのは奈良王朝、聖武天皇の御代の初の年号です。
其の時に新に戸籍に編入せられたもので、それを神亀の次の天平年間に「里」ということにした。それを余部というのだとの事が書いてあります。
 そもそもどういう意味かというと、日本の公民の戸籍の初めは大化の時に調べまして、その戸籍の基本となるべきものは、天智天皇御代の庚午の歳の調査のもの、これを庚午年籍(かうごねんじゃく)と云ひます。
久しい間我が戸籍の標本になってその時分に村落をなし、一定の土地に住居して居た者が、我が公民の標準になったのであります。よってこの戸籍にのって居るものが公民権を得たもので、即ち我が国の臣民となり、それ以外の者らが、みな非人という訳です)
という説明が、もっともらしくされています。
 しかし御所奴隷、寺奴隷、公家奴隷と農耕する者は捕虜に限られていて、明治になる迄は土地はオカミつまり徳川氏のもので、大名は転封させられるが、領民は奴隷ゆえ生殺の権を握りえたのである。
(出雲風土記)にみる余戸は、天智天皇の時の庚午戸籍に入って居らぬもので、其の後新たに公然と認められて居なかった村落を新しく拵えたという意味である、と書き、さらに誤って、

(「里」は「さと」で、後に村という程のものに当たりませう。その村落も、新たに土地を開墾し、農業を行つた農村ならば、普通の郷となつて、班田も貰つたでありませうが、雑戸であつて見れば班田の恩恵にも預らない。
永く余部として特別の名に呼ばれた事とみえます。
余戸は諸国にあるのみではありません。昔の京の大学寮の古図を見ますと、その敷地の西北隅に一区劃をなして、「余戸」と書いてあります。思うにこれは掃除その他雑役に従事するものを置いた所で、やはり雑戸の一つでありませう。
これは大学寮ばかりでなく、大きな役所には、どこにもあつたことでありませう。
大きな役所であれば、是非さういう専任の者が必要であります。ゆえに京都三条の南の鴨川の東の天部部落にしても、この平安京時代の京内の余戸の残りで班田にもいらず、役所が潰れて扶持離れしてから、
世人の嫌がる職業をでもして、生きて行かねばなりませんから、ついに掃除によって汚物の扱いに慣れて居た所から皮細工人にもなり、越多と言われる事になつたと思われます。


 ですから、この部落は、まず暫くおきまして、出雲の余戸を里となした天平年間には、雑戸を解放して平民に同じうすとの詔のあつた頃でありますから、班田に入らない余戸だからとて、賎民ではなかつたのであります。
 新たに編戸させられた村落の中には、狩人の部落とか、漁師の部落とか、或は従来山家の様な生活をして居つた浮浪民の土着したものとか云うのもありませう。
やはり京の余戸と同じく、人の嫌う職業に従事するとか、或はどこにも材料の得やすい竹細工に従事するというような事もありまして、さういうものはどうしても世間から賎しまれる事に元来、なつたでありませう。
村が新たに起こるのはどういう場合かと申すと、前に一つの農村があって、段々と其の村に人民が数多くなる。
従来の土地を耕作したのみでは生活がし切れないとなる、又さうでなくて、これまで浮浪の生活をして居つた者が、土地にいつき新たに
農村を起こすか。雑工業を営む村落を起すとかいう場合もありませう。
 また、かれら浮浪民が、一つの村を造るだけの力がなく、既にある農村に寄生して、その村はづれに住まして貰うて、村人の用をたすという場合もありませう。
そういうものゆえ、どうしても世間から賎しまれる。そこで昔の社会状態を考へるには、まづもって浮浪民の存在をよく考へなければなりませぬ)
というのが喜田貞吉の学説です。

さはさりながら、新しく田をつくったからといって新田とはいわない。本来は南朝新田義貞の子孫を「足利氏創業に邪魔した反体制勢力」と、居付き部落に隔離したのが「新田」の称の名残りなのである。

 さて、「民族と歴史の特殊部落の研究」の38Pには、サンカを山家と書いているけれどもこれも解明が違う。
(今日でも山家などとよばれる浮浪民は所々におります。当局者や世の特志家慈善家が、特殊部落のことに多く注意をされて居るのは無論必要ではありますが、特殊部落以外に於て、まだ部落をなすに至らぬ浮浪民の随分あることも注意せねばなりませぬ。
 彼等の中には罪を犯して逃亡したものや、或は貧乏してやむを得ずその仲間に入つたものもありますが、中には土着できず農工等の業に従事する機会を得ず、祖先以来の浮浪生活を続けて居たのも多かつたでありませう。
 今日の浮浪民たる所の山家などという類の者の中にも、この浮浪系統の者で、昔から帝国臣民の戸籍に入らず、代々浮浪生活を継続して居るのもすくなからずと思います。
山家という名は、もと山林にでも居たからの名でありませうか。或は散家の意味かとも云いますが、それは確ではありません。地方によつては越多を「山の者」という所があります。
後に申す山人と合せ考うべきものかも知れませぬが、近ごろでは普通に新聞などに「山窩」と書いて居ります。穴住居をするという事かも知れません。
今も鎌倉あたりの墓穴(横穴)に住んで居るものもあります。近ごろ石器時代の遺蹟として有名な、越中氷見郡海岸の洞窟には、毎年山家が来て住むそうです)
となっています。
しかし江戸末期になつても百姓は穴居生活でディとよぶ地面の昇り口にムシロをしき来客をもてなす時だけ、穴から這いだしてきていたのは菊池山哉の考証でも写真入りで明らかである。

(奈良朝の頃、神護景雲三年[769]に、浮浪の百姓二千五百余人を陸奥國伊治城に置くとか、平安朝の初め延暦二十一年[802]に、駿河・甲斐以東諸国の浪人四千余人を陸奥國胆沢城に配置すなどということが古書に見えて居ます)

とも記紀からの引用がでて居るが、これまた解明が違っている。
 何故かというと、これは百姓という方が「八つ」を捕らえてきて、ゲットーにいれて強制労働させたものだし、浪人は「四つ」の部族で、戦わせる奴隷として使つたのでサンカとはまったく関係はない。
 サンカは弁髪軍進駐時に女が犯される前に共に逃亡し放浪の純日本人で、捕虜にはされていぬ。
 また乞食を、乞食記を意識してか、恰好よくするために書いているが、僧はトウ系でなくては髪を剃って官僧にはなれぬ。乞食坊主と俗にいわれるのは剃れないから、法印の大五郎や法界坊みたいにイガグリ頭で、チョボクレなどを門づけに食を乞うたので、本物の僧の托鉢とは違う。

(乞食坊主というのも随分沢山出来ました。しかし本来から云えば、乞食との語は必ずしも卑しい言葉ではありません。万葉集の歌にあるように、乞食、食物以外の物を以て食物と交換する者はみな乞食であります。
前にもうした万葉集の歌に、乞食の歌というのが二つありますが、それは漁師と狩人との歌です。狩人や漁師は獣をとり、魚を捕りますけれども、その獲物のみでは生きていかれず、必ず、これでやはり農民の米を貰はねばならぬ。
それで彼らを乞食と云つたものとみえます)


となると、こうした解明そのものが、こじつけ以外の何物でもなくなる。

(普通に乞食というものは、多くは祝いごとをする。その祝言も、ただ口で目出たい事を述べるだけでは不十分でありますから、節を付けて面白く歌うとか、それを楽器に合はすとか、手振り身振りを加えて、踊をするとか人形をまはすとか、猿を使うとか、
  いろいろ工夫をして、はては人の耳目を楽しませるという方が主となつて参ります。かくて遊芸人は、多くこの仲間から出て、万歳とか、春駒とか、越後獅子とか、人形舞わしとか、猿舞わしだとか、祭文・ほめら・大神楽・うかれ節などを始めとして田楽・猿楽等の類まで、もとはみなこの仲間でありました)


と決めつけてしまっているから、まるでサンカの先祖みたいに、読んでいて間違えるが全然誤りなのである。
 
「三河万歳は松永太夫」「尾張万歳はアジマ[味鋺]の楠木太夫」と共に「八つ」の方の限定職業であり、祝いごとをのべるのは心ならずも米を貰うためゆえ万歳の節廻しはイヤイヤみたいなリズムである。
「七変化部落」として、鋳掛け直しでも仁輪加でも農耕の田畑のない部落中が揃つて出掛けるのである。
家康がいた酒井浄賢の家も浜松の七変化部落でサンカとは違う。「栗原筋」というのが、唐進駐軍の専属劇団みたいな部族となっていたから、現代の芸能人でも、この姓をもつ人が多いのは、タレントとしての血の流れの伝統が続いているせいだろう。
子供の頃の家康が銭何百文かで人買いに売られ、獅子舞をしていたのもこの部落出身だからである。
 おかみからみれば浮浪者かも知れぬがサンカは縄文時代から列島生え抜きの原住民で、占領軍に馴染まず隷属せず、逃亡生活を余儀なくされた部族なのである。

(この浮浪民のことを昔は「うかれびと」と云つてます。一定の居所をきめずに、水草をおうて常に転居して居る者が浮かれ人であります。又その浮かれ人の女の事をうかれめと云ひました。
後に「遊女の事をうかれめ」と云ひますが、もともと此の浮かれ女というのは、
浮浪民の職業から起こつたのでありまして、奈良朝頃の歌集の万葉集などを見ますと、遊女の事を「遊行女婦」と書いて、それを「うかれめ」と読まして居ります。耕作をせぬ女が生活して行くのには、自然と媚を売る事になるのは、
やむをえなかつた事でありませう。
即ち浮かれ人や浮かれ女は、一定の居所を定めずして、次へ次へと浮かれ歩いて行く人々であつたのであります。この浮かれ人は普通どういうことをやつて居たかというと女子ならば遊女にもなりませうが、男子では狩や漁もしませうし、
簡単な工業もやつたでありませうが、又人の軒に立つて、祝言をのべて人から食物を貰つて行くというのが頗る多い。即ち一種の遊芸人です)


と騎馬系の遊牧民族と誤っている。
 浮かれといっても牧草地を廻っただけで、さっぱり何も判っていないからこうした間違いをする。
 しかしである。サンカは掟で一夫一婦で子作りに励み、決して他の男女と営みをして、その純血を乱すような事はないから、女が春をひさぐといった事例は古来から全然なく、箕直しという職業をもっていたから門付けなどしていないのである。
恐らく大江匡房の前述の「くぐつ記」からの読み誤りであるらしいが、水草とか牧草を追って次々と移るだけで、うかれではない。

「夷(生)駒」と名をのこす土地のごとくに、つまりやがては源氏と変わってゆく「四つ」の民で、遊牧民族は牧草を求め狩をするため野獣を追って旅をするので女は邪魔になるので残してゆき、やむなく今も蒙古は多夫一妻だが、
彼女らは客をとったから「源氏名」として今でもソープランドやデリヘルなどで使うが、決して本名は使わない。
 彼は部落研究家としては勉強せず、足利時代に明国経由で被差別制度が入ってきた時には、「散所奉行」とよぶのを東西に設けて、まず前体制の北条政子の末裔を刈り込み、ついで足利創業の邪魔だてをした南朝方の子孫を捕らえて、
散所(山所)の居付き部落としたのである。次に駆けの「特殊部落の成立沿革を略叙して、その解放に及ぶ」の彼の42Pを引用してその間違いを指摘する。


(河原者と同じ仲間に産所というのがあります。散所・算所などとも書いてあります。摂津の西の宮は人形遣いの起つた有名な場所でありますが、ここは附近の産所という部落賎民が西の宮の夷様の像を舞わして諸国を遍歴し、
 米銭を貰つて生計としたのがもとだと存じます。後には立派な操人形の座元が出来まして、諸国を興行して廻るという事になりました。それが淡路に移ったと見えまして、後世では本家の西の宮の方はすたれて、淡路あやつりの方が有名になつて居りますが、やはり西の宮を元祖とし、西の宮の夷神社にあたる、百太夫を祖神と仰いで居ります)

となっているがこれは全くの逆である。

 瀬戸内海から阿波の鳴戸へ抜けてゆく海流によって突きあたる土地は古代アラブの水の意味のアマ、アワを上につける。淡路島につき当たって阿波に流れてゆくから、そこから神戸や西の宮のゲットーへ連行された古代海人族が奉じていったもの。
阿波浄瑠璃のトトントンの拍子をとって見得をきるのが、フラメンコと同じ訳もこれなのである。フラメンコを踊るジプシーは白人ではなく、古代ヨーロッパを占領していたアラブ系の有色人なのである。
それゆえ、ここの所は次に書き直すようにして、喜田文学博士も訂正しているのもある。


(西の宮から起こったというよりも、淡路に於ける同類の産所のものが、それを真似たというのでありませう。淡路ではその村を三条と云つてますが、そこも、もとはやはり産所でありました。産所・算所などという地名は方々にありまして、
 その住民は多くは一種の賎民扱いにされて居り、現に丹後では今も算所という特殊部落があります。しかし他の産所では住民が他に移つて今は絶えて無くなつたのが多い様であります。
 産所がなぜさう賎しまれたものかというと、大体産所というは、その文字の通り婦人がお産をする所であつたと思ひます。
 一説これは算所で、算を置く陰陽師の部落であらうとの説もありますが、私はそれを信じません。今日でも我が日本の風習としてお産の汚れを忌むということは、なほ一般に行はれて居るところで、産婦は神様の前に近づけないとか、
 火を別にするとか、居を別にするとか、居を別にしない迄も座敷の畳を揚げて、板敷に藁を敷いた上で子を産ませるの風習は、まだ田舎へ参りますと各地に残つて居ります)


彼は、漢字はすべて当て字で発音さえ同じならば意味はみな同じという西暦663年の郭ムソウ藤原鎌足の使用命令を忘れ、当て字で意味づけしてゆくとこういう間違いを大真面目にするのである。


(越中のトウナイという部落民は、産婆代りに取上げを行うそうで、「周遊奇談」には、出雲美保関では産婦がそこから二十町ばかり離れたハチヤの部落へ行つて、そこでお産をする例であつて、さうすれば決して難産ということがないとあります。
 ハチヤとはまた一種の特殊民で、やはり竹細工をしたり、万歳などの遊芸をする仲間であります。特殊民がお産の世話をするのが、お産の世話をするが故に特殊民になつたのか、その本末は明らかではありませんが、他にもこんな例を聞いた事がありまして、
 お産を自宅でするようになつても、やはりその汚れ物はエナも片づけて呉れる。
 要するに、お産と特殊民との間には、十分な因縁のあつた事が認められます。しからば、産所という賎民は、産小屋に住みついた浮浪民でなくして、もと産所に居つてお産の世話をしたものと解した方がやからうかと存じます。
 無論その中には、産所という地名が出来て、それが汚れたエナなどを捨てられている所へ、新に特殊民が住み着いたというものもありませうが、一般の見解としては産所の者というのが当たつてるのでありませう)


とまず間違いの説明をされ、ついで、
 
(サンジョという名称は随分古くからありまして、既に平安朝の頃、京都の西の桂河辺に散所があって、他の土地へ来て勝手に住んで困るという苦情を書いたものがありますが、今もその地方の梅津や鶏冠井(かいで)に産所という所があって、
 そこの人はもと、やはり賎まれて居りました。産所即ち山陰地方でいうハチヤ或はハチと同類で、越中でトウナイというのもつまりは「十無い」で、「八(はち)」ということを避けた隠し言葉でありませう。
 京都の東寺にも昔散所法師というのがありまして、寺の境内の掃除を拠当し、汚物取り片付けなどをする賎しい身分のものでありました。
 これは産所の者を連れて来て、寺の掃除人足に使つたか、或は同じく賎役に従事するものだから散所と云ったか、いづれにしても、産所は賎しいもので、それが掃除人足であったということは、河原者等と同じ程度のものであつたと察せられます。
 産所の者が世の風俗の変化と共に、お産の世話をするという独占の職業を失うようになり、一方では人口が増殖して参りましたならば、掃除人足にもなつたり、遊芸人(あやつり)にもなつたりして、世渡りをするのは自然です。
 かくて遂には西の宮の産所のように祝言即ちホニカを述べるホカヒビトになり、次に夷舞わしから遂に操人形の座ともなるに至った)



とあるが、トウナイは「唐でない」が正しく、契丹系の者に使われ海洋渡来の「八」ではない。
「八ゆえ十ないの隠し言葉」というのはひどい。芝居の「和藤内」みたいに、トウナイとは垣内と同じ意味で、ゲットー収容の非人間つまり除外された者をさす言葉であり、ハチヤは八の民のことである。


(特殊民の一部族に夙(しゅく)の者というのがあります。ハチヤとか、ちやせんとか、産所という類で「シュク」守戸で、昔の番人だという説があります。反対説もありますが、やはり守戸の説を取りたいと思います。
 守戸は同じく陵墓の番人でも、賎民であつた陵戸(りょうこ)とは違つて、いづれ罪人とかその他の社会の落伍者をあてたのでありませうが、守戸はそうではありませぬ。
 陵戸は賎民として疎外されますから、逃亡したりなどしてだんだんと減ってくる。
 これに反して陵墓の数は次第に増して、墓守の需要は益々多くなつて来る。そこで持統天皇の時に、陵墓の附近の良民を徴発して、三年交替にして陵戸の代理をさせた。無論その間課役を免ぜられるのであります。大宝令の頃には、それが十年交替となりました。
 これ即ち守戸であります。其の守戸の十年交替が、ついに永久的のものとなったと存じます。課役を免ぜられ、生活の安定が保障されて居りますと、その職務はよし賎くとも、乞食を三日すれば忘れられぬという諺の通りで、三年が十年になり、遂に永久的のものになるのは自然の勢でありませう)


と喜田貞吉説は、ここでも間違える。
だが、守戸は初めから被征服のシュクの「四つ」の騎馬民族で、初めは墓のそばに生ける埋葬品とされたが、後には埴輪で代用の陵戸も守戸も同じだが、後者は奈良朝の頃は飼戸つまり馬飼い奴隷にされていて、その馬で稼ぎ主人に銭を奉らねばならぬゆえ、旅人の集まりそうな処に集まった。
「宿場」とかいて、シュクバと読ませるのも、シュクの者が駄賃馬を曳いてきて集まってきたから名称はうまれたのである。つまり「四つ」は江戸の弾左衛門支配と同じ源氏ゆえ馬子は源氏の民族色の白褌である。


(悲田院の仲間と同じく、市中や村落の警固、盗賊追補などの事をもやりました。兵庫の夙の如きは、それでもつて、毎年町から五貫文、湯屋・風呂屋・傾城屋から各二百文宛、金持の祝儀・不祝儀の際にも各二百文宛を、権利として徴収することを認められ、又盗賊を捕えた時には、その身に付いた衣服をも貰う権利を興へられて居ました。
 これは慶長十七年[1612]の片桐且元のお墨附がありまして、徳川時代になっても。確かにそれが元禄頃まで実行されて居た証拠の書類があります。この点に於ては町木戸の番太なども同じものであったのであります)

との説明に続き、また、

(夙が守戸だとの説の反対者は、例の本居内遠翁の「賎者考」で、今もこの説を採って居る学者もあります。内遠翁は紀州の夙部落の実際を調査して。夙の名のあるもの十の中で、一つは皮多、二つは附近に陵墓があるが、他の七つは全く陵墓は関係がない。
 さらばそれが守戸だという説は認め難い。思うに夙はもと「宿」とも書き、産所と同じく産婦がそこへ行き止宿した所で、その宿の場所が汚れたとし捨てられた所へ、浮浪民等が住み付いたのではなかろうかと云っております)


 よく何々によればと勿体をつける為に引用され、援用するけれど「賎者考」にしても、とんでもない勘違いというか誤っているのだから、決して頭ごなしに信用してはならぬ。
 大阪でも五ヶとよばれる「四ツ」のシュクの部落者が、御用ッ御用ッと棄て殺しの捕方にされる課役報酬に、人頭税として興行のあがりを取ったり、今いう風俗営業の課徴金もかけていた。
 「八っ」は居付部落に入れられ働かされていたが、絶対に「四っ」は農耕も漁業もしなかったから血税で奉公させられたのである。「頼朝御判42種」に坪立という植木職が入っているというに、

(産所や夙以外に、河原者も賎民の一つになつて居ります。河原者とは前に申した通り、京都鴨川の河原に小屋掛けをして居た浮浪民や、或は河原で皮革を晒らした皮作りなどから起つた名称でありませうが、
 室町時代には掃除人足や植木屋・庭造りなどに河原者を雇った記事などがあるのを見ますれば、今日で云わば手伝とか、立ちん坊とか、日雇いとか云う類で、もとは夙や散所とも似たものであつたでありませう。
 そのうちから例によって遊芸人も出ます。遊女なども出て来ます。その中に皮革関係者は越多となり、河原者の名は後世専ら役者への称になりました。この沿革も詳しく申さば余程こみ入つたものですが今は問題のあまりに枝葉にわたるを避けます)


こうして「四っ」も「八っ」も判らずごったにしているけれど、皮革業や遊女だは源氏系の「四っ」だから「八っ」はなっていない。
(阿部貞任・清原武則・藤原清衡のやうな英雄・豪傑、佐藤忠信・西行法師の如き勇士・歌人なども、家柄を尋ねたなら即ち皆蝦夷の一族でありました。此以外にも蝦夷出身の鎌倉武士は多かつたことでありませう。
 こういう連中が源頼朝の御家人になりその主君と仰ぐ頼朝の立身と共に出世して、もと制度上からは賎民の筈の家人や、賎しい給仕階級の侍が運がよいと大名にもなる。そうでなくても御家人・侍は四民の上に立つて、「おほみたから」たる農民を卑賎のもののやうに見下してしまうようになりました。
 しかしもともと武士には蝦夷即ちエビス出身が多かつたから、徒然草などを始として、鎌倉南北朝頃の書物を見ますと、武士のことを「夷(えびす)」と云つて居ります。また鎌倉武士の事を「大えびす」と云つてます)


と、前置きをしてから喜田貞吉文学博士は、

(大和大峰山中、一番奥にある前鬼村の人々は、鬼の子孫と云われてまして、紀伊粉河の北の中津川にも、その子孫と称する者が五家に分れて居るさうであります。又京都の東北の八瀬の者が、みづから鬼の子孫だと認めて居つたのは有名な話で、
 彼等は他村の者と縁組もしなかったとも言われ、先祖の鬼が居たという鬼の洞が今もある。
 同じ京都の北の貴布禰神社の旧祠宮舌氏も、鬼の子孫だと言われて居た。大和の宇智郡地方には、鬼筋という家柄もあるさうです。この外にも鬼の子孫だという旧家は所々にあつたが、要するに彼らは、先住民の子孫だということを認めて居つたものでありませう。
 山人が山間に残つた様に、海浜にも海人(あま)が残る。もつとも平地続きの海浜には、豊後のシヤアとか、日向のドンキユウとか、一種異つたものとして認められて居るのも少なくありません。
 又特殊部落とまで区別しなくても、他から結婚するのを嫌がるところは各地にありました。出雲の北海岸地方に居る者は、近傍の人が之を夜叉と云ひます。夜叉とは鬼の事で、つまり山人を鬼というのと同じことで、
鬼が島のお噺も、もとはこれと同じ発想です)


 この「鬼」についての間違いは酷い。
桃太郎の昔話は有名だが、あれは日本に君臨していた桃原、つまり大陸系藤原氏の貴公子が、猿(さるめという如く百済人)と雉(キージーは偵察の意味で新羅人)、犬(狛犬というが高麗人)共の占領した三韓人を使い、
まつろわず、抵抗する日本原住民を、岡山地方(吉備)で採れる唐黍をキビダンゴにし、三韓人に食料支給して討伐した・・・・・という話なのである。
そして隠れ住んでいた日本原住民たちを穏忍(鬼)と蔑んでいたのである。
だから節分も、食料がなくなり飢えた原住民を仏教に強制入信させるため、坊主に豆を投げられ必死に拾い喰いする哀れなご先祖たちの姿。さらに薄いコーリャン粥をお情けで振舞うことを「施餓鬼」というのもここからきている。
正しく雄々しい桃太郎様は善で、悪いやつは鬼だというが、話はアベコベになっている。これを倒錯といわず何という。
追い立てられた原住民の多い愛知県では、今でもこの話の真相は理解していて、「この話は嘘じゃ。俺たちに角が生えとるか?」と桃太郎伝説は禁句になっている。
しかし鬼といっても、飢えて施餓鬼をうけたり、節分の投げられた豆を拾い食いの鬼は日本原住民であり、隠忍(隠れ忍ぶ者たち)

なのであり、居付き部落より脱出すると殺される者なのである。