信長は部落解放者 桶狭間は騙し討ち | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

  

  信長は部落解放者


以下は在る講演での私の話を文字起こししたものです。

 日本史では、戦国時代と幕末が庶民の憧れなのは、下克上といわれる恵まれぬ底辺の者達が浮かび上がれる唯一の機会だったからである。
つまり加藤清正にしろ虎之助とよばれ岡部又左の大工の徒弟だったのは、薮塚の加藤弾正の伜ですから居付地(原住民が差別され強制的に居住地が限定されていた)住まいの素性なのである。
それから同じく秀吉のまたいとこにあたる福島市松はササラ衆の、桶屋の職人の伜だし、これも原住系に相違なく、ササラ衆とは原住民の限定職だから居付地に入れられていた。秀吉も中村が後に遊郭になる程ゆえ、居付部落の抜け人である。

 一方の家康もまた原住系の部落の出身なのである。(秀吉は原住系木の陰族で家康は葵族との説もあるが、間違いではない)
これはもう何度も書いているけれど、明治三十五年に村岡素一郎という、直木賞をとった榛葉英治の外祖父にあたる方で、多摩書房刊の「明治論叢」にも原文で収録されている『史疑徳川家康事蹟』という本を徳富蘇峯の民友社から出した処、
当時の華族会は会長が徳川公爵だったから、その圧力でもって警保局が全部、これを押さえてしまったんです。そこでその外孫の榛葉英治が昭和三十八年に吉川弘文館からまた現代語訳で本を出した。

 処が、これも不思議なことに、どこかに全部、定価でみんな売れちゃった。その代り絶版となってしまった。
 不思議といえば正確には村岡素一郎の本が出た二年後の明治三十七年刊なのに、七年前に発行年をさかのぼらせた「松平記」が「東大蔵版」と朱印つきで青山の青山堂より木版刷り三百部が、紋入りの桐箱で各華族や歴史屋に配布された。
この内容を水増しして現代語で大河小説にしたのが、故山岡荘八の「徳川家康」で、内容はまったく松平記と同じゆえ、発禁や絶版にもならず大ベストセラーになりNHKで三度も大河ドラマとしてテレビ化された。
だからこれが現在では「徳川家康の実像」として定着している。現在放映の「どうする家康」も基本的に松平記を下敷きにしている。

 なにしろ東大をはじめ官立大学の歴史学会は、華族会の援助をうけていたので、確定史料と認知された。そのため岐阜城館主郷浩が、信長の美濃攻略は永禄七年といくら訴えても「松平記」には永禄十年とあると、いまだに相手にされない始末である。
せっかく岐阜城内の古資料を二十年も掛って調べあげた苦労も無駄である。

 さて、秀吉も最後は豊臣ではなく、平の秀吉の姓でで死んでいる。北条政子も源の頼朝の妻なのに平政子として死んでます。これは例の『大乗院寺社雑事記』という活字本にもなってますけど、あの中に、
西南より渡来せる者は堀川三条小路の囲地に収容して、僧籍に入らざるは古来より風習にて平氏とする。要するに京都はお寺が多いから、今でいうとタレントみたいに目が青いのだとか、一見毛色が変わったのを連れてって、
それぞれの寺の目玉商品にしたわけです。言葉は通じないから執事が色んなカッコウして手真似で何とかこうこうとやるわけです。達磨大師は現在のインド人で当時の天竺(てんじく)です。


 ところが、いつまでたっても不器用でノースピーキング、ノーヒアリングの者は結局、京都から追い払われ高崎へ行って、達磨さんが、面壁九年ってのも、何も壁が好きで九年も向き合ってたわけではない。
あれは全然ヒアリングもスピーキグも苦手で、だからいくらいじめられても、じっと我慢しておったからでしょう。

 さて、山芋からつくる芋アメは、これはサンカ特有のもので、ベッタラ漬もそうです。サンカ用語でベッタラっていうのは特別の意味。上野のアメ横の入口に近くに電話局があり向かえの角のところを入った通りのところまでは、
浅草からかけて朝鮮人町です。焼肉屋があったり、浅草瓢箪池の前などは堂々と朝鮮服屋が並んでいます。

 ところがアメ横は一町入って通りまで入ると、全然もう違います。現代では終戦時の事は何も知らないから、ヤクザがアメ横を守ったなどというけれど、あれはウソで、アメリカ兵の中の日系サンカ部隊が機銃をもってきて防いだんです。
はじめは芋のアメを売っていたから、アメ屋横丁になったのですが、その頃はアメリカ製のタバコなんかも持っていると、MPにぶんなぐられ、沖縄重労働だぞと怒られた時分に、サンカのアメリカ兵がどんどんあそこにはPXから流したから、
アメリカ製のものはアメ横へ行けば買えるといわれたのも、そういうつながりがあったんです。

 アメリカのサンカと言えば不思議に思うだろうが、明治から大正の初期にかけ、日本国内で大規模なサンカ狩りが在った。
そして彼らを纏めて国外追放(アメリカやブラジル)し、移民という美名だが内実は「棄民」だったのである。
 だから彼らの二世青年がアメリカ兵として徴兵され、日本進駐時同族の多かったアメ横を守ったのです。

 ただ言いたいことは、一般庶民の家庭は子供を沢山産むと、母親の器量が落ちるからといって、一人か二人で子供をつくるのをやめます。
ところが、サンカの方では、本当の純粋な日本種族ですから民族を増やさなきゃならないため、子供を沢山つくっています。有名な方では、九州でこの間奥さんが癌で死んだ江口さんですが、あすこは子供が十六人も居た。
名古屋では伊東さんって方が十四人目の子供を産んでいます。今テレビで有名な弁護士も七人の子持ちでおそらく彼もサンカ系でしょう。
なにも彼らは計画性もなくするSEX好きや好色とは違い、民族の使命なんです。だからマンションなんか住んでいて隣同士でも口もきかない人がいるのは、まぁサンカの方達でしょう。
これを理解できぬサンカ読み物を書いた三角寛は彼らを「好色な民族」とするが全くこれは間違い。

 織田信長も原住民系で「平氏」の出自

桶狭間は騙し討ち



 そもそも信長がもう少しで天下を取れる処までいけたのは、まず桶狭間の合戦です。あの時、今川義元は何も戦争をするんだったら、尾張なんか隣国だから、まず掃討作戦を先にやっておくのが当時の常識です。
彼は「なんとかして三万五千の軍勢を無傷で京都へ連れて行かなきゃ困るわけ」なのだから、途中で道草を食って戦争なんてしたくないわけです。
当時、足利将軍家に何かあった場合「一に吉良立、二に今川立」と決まっていた。だが吉良家はこの当時東条と西条に分かれ勢力争いで疲弊していたため、
今川義元が上洛し天下に号令しようとしたのである。
(吉良は江戸時代になれば、名門故「高家」として残り、別れた東条家の末裔が、昭和の首相東条英機だった。東条は何かの折吉良の末裔だったことを出されると苦い顔をしていたととい逸話が在る)
だからあの時点においては、信長は今川義元に、とっくに降参していたわけです。尾張領の無事通過の代わり、本領安堵の約束もできていたと想われる。
さらに、今川の先手として従軍の指示も在ったのだろう。何故なら織田家の主だった者は全て知行地に帰り戦支度をしていて、城にはいなかった事実が在る。居たのは信長の近習だけだった。
ところが桶狭間というところは、今の中日グランドのあるところで、昔は平手庄といって平手政秀の領地だった。

 平手の娘が信長の母に当たるから、即ち織田信長の生家です。だからこの辺は子供の頃からの遊び場で、地形は熟知していた訳です。
今川義元が、ここで休んでいる時に雨がザアーザァー降ってきた。そこで雨が降ると、当時の鉄砲は火縄銃だから役に立たない。ただの棒キレにすぎない。
先発隊には全然一挺も鉄砲をもたせず、本陣に大事に五百挺の鉄砲をみな置いていたのを、
信長は雨がふってきたので思い切って襲った。結局は毛利小平太なんかが、今川義元の首をあげたけれど格別の出世はしてないです。

 『当代記』を読むと、後に本能寺の変の時に二条城で、やっぱり小姓頭で、伜の岩というのと共に一緒に討死してるわけです。
この時信長の供をした近習はほとんどが出世していない。それどころか「目撃者は消せ」と第一線に出され戦死させられている。信長の今川に対する「だまし討ち」の口封じなんです。

 信長の主目的は鉄砲をふんだくるだけでした。
永禄初年ではまだ国産はできず貴重品でした。今川義元は豊富な金を安部金山から得て、財政豊かな駿、遠、三、の大国だったから大量の鉄砲を所持していた。
さらに大切な火薬も今切の浜から南蛮坊主から入手していた。これを恐れた信長は前田犬千代(後の前田利家)を今義理浜へ密偵として潜入させ、火薬取引状況を報告させていた。
信長は犬千代を「イヌ・・・・イヌ」と呼んでいたので、密偵、即ちスパイの事を日本では「犬」と呼ぶのはここから来ている。

したがって鉄砲の恐怖ゆえに降伏していた信長の戦力は奪った鉄砲で一挙に増したことになるわけです。
 ところが、それでも、織田信長の軍勢はあんまり強くないんです。その証拠に隣国の美濃を占領したのは、四回目にやっと妻奇蝶の力で成功しているのです。
これは妻の実家の斎藤家の重臣を寝返らせたからやっと美濃を併呑し、美濃の金山を手に入れ財政的裏付けができたのです。
鉄砲は桶狭間からかっぱらってきたが、肝心の火薬樽は重くて持てぬため置いてきてしまい、破損した鉄砲は木下助左を鉄砲奉行にし、鍛冶屋を総動員して修理した。
それをコケ脅しに持たせて美濃へ攻め入ったが、美濃兵に見透かされ、織田軍は何度も負けたのが真相なのです。なんともマヌケな話です。
そのせいか永禄七年に「上総介布令」なるものが「掛川志稿」の中には残ってます。

 その内容は、「今後、印地院内のもの、つまりこれまでゲットーのものに限り商売を許すものとす。その他のものは、いくら困っても大根一本売りの商いもしてはならぬ」と、商売というものは全部、原住系の八の民に限ったわけです。
要するに当時、遠州の掛川は朝比奈三郎兵衛の城で、今川義元の伜の今川氏真がおったところです。そこへ秘かに布令を出すというのは、今でいうと、今川方の残存勢力を崩す宣伝戦です。
つまり信長が強くなったのは、次々と居付き地部落を解放し、原住系の「八の民」をみな自分の味方にしてしまい、それで結局、いわゆる天の王朝がかつてあったとされる弁天涯への道は、「八」の連中がつくったようなものです。
その象徴が「安土城」なのです。
今の、三河屋、駿河屋、越前屋等と言うヤ号はその名残りなのです。つまり天下布武とはいっても、居付地に収容されていた原住民の「八」が解放され新武器の火銃で、延暦の昔は失敗したけれども、
今度は天の王朝を復活させようと信長へ協力し守りたてたのです。しかし信長の突然の死で八の民は拠り所を失い落ちぶれてしまった。
そして彼らは全国に散らばってしまい落ちぶれ、「近江乞食(こじき)」という蔑称を今に残している。

 秀吉の頃からは、出征にはどこどこを攻めろといい軍資金は出しています。だが織田信長は軍資金なんてものは一文も出してないんです。
だから、例の勝軍地蔵といわれる、当時の金融業の愛宕山へ行って蜷川一族の金を借り、武将どもは出陣しているわけです。明智光秀もここで秀吉の中国攻略の応援に出陣するに当たって金策に行っている。

 しかし、今日行って銀行の窓口と一緒で、今日すぐは貸してくれない。そこで待たせている間に、あんまり金がかかることやって、ご馳走するのはもったいないからというので、費用のかからぬ連歌の会かなんかをしていた。
つまり愛宕詣りするということは、当時は金借りに行くことです。武将はある土地を攻め占領すると、何かそこの物資を奪うと、銀にかえてそれで借銀を返しているわけです。
「切り取り強盗武士の習い」とはここから来ている。
 それが秀吉の時代になると、各武将に、銀をちゃんと軍資金に与えています。家康の時になると、もうまた違うんです。やはり原住系の武将をを使っても吝な男ゆえ貸したのはちゃんと証文をとって、がっちり返させています。
つまり信長の天下布武というのは結局のところ「八」の連中たちが信長に協力し、盛り立ててやった仕事なのです。
だから、信長には一つの明確な、藤原体制(中国大陸勢力)とは別個の枠組みたいなものがあったと思われる。だから彼は公家の位である中納言や大納言などは嫌いました。
よく信長を「右府様」というが、かれは仕方なく妥協して右大臣にはなったが、一年もしないうち辞めています。
しかし、こうした裏づけといえる書面などは全く残っていない。

 何故なら、何もかも秀吉の代で焼かれてしまい残っていません。それに信長という存在は江戸時代においても、絶対に避けられていた人物なのです。
秀吉の方は『絵本太閤記』みたいに、茶化したものは許されたけれど、いま桑田忠親の『信長公記』の本が出てますが、これは全部彼の鑑定用の茶器茶道具の宣伝です。
よく読めばまこと呆れてしまうが、朽木越えに信長が浅井長政に裏切られて逃げる敗戦の大変な時なのに、『信長公記』では「お茶会を召さり松風の茶碗や何とか何とかの名器を集められて」と、まったく考えられぬことが出ているし、
それから本能寺の変の時だって、「その晩は、お茶会を開いて夜分遅くまでなしたからやられたのである」というように書かれているが、これはやはり茶器の宣伝と、忠臣蔵の芝居からの思いつきでしょう。

 だから歴史家〇〇の箱書きで「天正時代、信長栃木越えの際の茶器」として三百万円などとして売って儲けている。
テレビのお宝鑑定団も酷いもので、怪しげな先生が太鼓判を押せば高額になり、素人は大喜びでまことに結構である。
大体地震国の日本が、猫の飯茶碗よりも割れやすい土器が何百年も残っているという理不尽に疑問を抱かないこの国の国民性に唖然とします。
ちなみに、こんな茶器をアメリカやヨーロッパへ持っていきオークションにかけてみればいい。誰も買わないし呆れられるのがオチ。日本でしか通用しない美術品など世界的にはありえないのです。

次に切腹についての質問が在りましたので、簡単に解説します。
    
嘘だらけの切腹

 さて切腹は、出血多量で死なせる酷い刑罰である。腹には分厚い脂肪が在り、血管もあまり通っていません。
そこに小刀を突き刺しても死にはしないのが医学の常識です。
小刀を背中まで突き通すほど刺し、内臓をかき回せば、臓器不全で死ぬことはできるが、人間はそこまでやる前に気絶してしまい、これは無理です。
だから二、三センチ、突き刺し横へ傷口を広げ、毛細血管しかない皮下脂肪の腹からの出血多量で死を待つ残酷な刑の一つなので、何時間も塗炭の苦しみに耐えなければならない。
だから一瞬で死に至るよう首を落とす「介錯」という行為が必要なのである。
明治の乃木将軍の切腹も、介錯人が居なかったのでそれは凄惨なものだったと伝わっている。
大東亜戦争敗戦時、大東塾生が代々木練兵場で天皇に敗戦を詫びて14名が割腹自決を行っているが、これもすぐ死ねず惨たらしい惨状だったと記録にある。
だから昭和の三島由紀夫の切腹も、事前に森田君を介錯人として伴っている。しかし素人の森田君は、一度で斬首できず何度か切りつけたので三島は随分と苦しみ、これも凄惨な現場だったという。


さて、その作法というと全部これまた芝居の、「仮名手本忠臣蔵」の塩谷判官の腹切りの場からの模倣で、三宝を尻にあてる。
 だが、あの三宝というのはデパートへ行って、結婚結納売場へ行けば実物が桧の薄皮で作ってあるのが判る。あんなものを尻の下に敷いたら、ペチャンコになってひっくり返るだけである。
あれは芝居の場合は、マス席といって一番前のお客が高い金を払ってるからお腹を切って血綿を引っ張りだしたところをよく見せなきゃならないので、背後から黒子が黒塗りの風呂の腰掛けみたいなのを後ろから腰にあてがって見せるから、薄い桧の三宝でも潰れず恰好がつきます。
テレビでも小説でも切腹作法とされているのは、全部この芝居からきているわけです。

 日本の歴史は全部、芝居とテレビからといわれるのもこの訳です。信長は後年ポルトガル船の船首についていたアポロの神像を自分に似ていると、日本人は勿論、外国人の宣教師にまで、安土城で礼拝させてたから、
『フロイス日本史』には、カリオン神父は「悪魔の如くおそれられていた信長が、ついに髪の毛一本残さずふっとんだ」と、ああよかったよかったとは書いてないけれども、そういうふうになっているのが読みとれる。

 と言ってまさか信長が己れの神像だとアポロを弁天涯の安土城で拝ませる訳はない。恐らくこれまで藤原体制によって奴隷とされ酷使され殺掠された先祖の霊として祀り、解放運動に成功した信長は一般に礼拝させたのを、
日本の古代史を知らぬイエズス派の宣教師が、イエスこそ唯一の神と信じこんでいるから異教を崇めると批難して悪魔として本国に報告していたのでだろう。
信長につき従って天下布武をしたのは「八」の連中であって代々の臣ではない。それに「八」の殺された先祖を拝礼するのゆえ民族的儀礼だから、信長を拝む気遣いではなく誤報であるといえます。
徳川中期以降の近世ではなく、まだ宗教戦争の中世紀のことである。そこをよく考えねばならぬようであります。
秀吉も藤吉郎の頃は、自分も「八の部族出身」だと、丸に八の字を入れた旗指物を背中に刺して戦っていたから、郷土が生んだ英雄を讃えて、名古屋市はその丸八を其のまま市章にしているほどです。

      徳川家康も部落解放をした

 さて家康も部落解放をして同族を助け登用した。だが三代家光から反対になった徳川だが、松平元康ではない世良田の二郎三郎が松平元康だと偽って、守山崩れで元康が殺されたあと築山御前から頼まれ、
人質になって熱田の加藤図書頭のところへ行っていた後の岡崎三郎信康を、清洲城へ受け取りに行きました。その際、
信長の面前で、熊野権現や熱田神宮の誓書を書いて、信康を取り戻すために彼は松平元康として欺き通した。
しかし家康は信長にこの身代わりをしている事が露見していると後には気づき、弱みを握られているため、何事も彼の言いなりに臣従したのです。戦国期に珍しい固い同盟はこの訳なのです。
天正十年五月には、許しを乞うため首代として金五千両をもって安土へ行った。

 しかし信長は許すといわず家康一行を京へ送った。だからカリオン神父は六月二日早朝に本能寺に集まった一万三千の丹波兵は、家康を討つためだといっていたと本国へレポートを送っている。
もちろん家康も戻された黄金を「信長を討ってくれたら、斎藤の血脈に徳川家を継がせる」と斉藤内蔵介にわたし、五月二十九日の夕刻に信長が上洛するや挨拶にもゆかず即刻京を逃げ出している。
堺から船で逃げようとしたが、堺の政所松井友閑にとめられ、やむなく伊勢のカブト山越えに服部半蔵らに守られ白子浦まで逃げ、渥美湾へでて本国へ戻り、すぐさま兵を集め斉藤内蔵介救援の軍勢を、酒井忠次を先手にして津島まで出しているのである。
これは歴史的にも確認されている。だから後年娘の於福を探し出し、彼女に種付けして家光を産ませ、三代将軍にしています。
この点を見れば家康は男の約束を守った律儀な男といえます。
(しかし、家光を家康は己の種だと思い込んでいたが、実は春日局と天海僧正の種だった。ここから徳川家の混沌の歴史が始まる。天海の素性は明智光秀の女婿明智秀光の子で白妙丸といい、本能寺の変の後
 一命は助けられ延暦寺へ預けられ成長した。)


 しかし秀吉が早手廻しに光秀の娘婿の細川忠興の山崎円明寺川畔の勝竜寺城で、まんまと瞞し討ちにして光秀勢を始末し、京に入ると、謀反随一の斉藤内蔵介を討ちとった。
 まぁ毛利との和平交渉は相当早くしていないと、六月二日に本能寺の変があった翌日に、備中高松を開城させられるものではない。早々に姫路城へ戻った秀吉が、どうも信長殺しの黒幕としては、やはり臭い‥‥と言われたのも、あまりにも早手まわしのせいである。
これは用心深い秀吉は、信長の近習長谷川秀を手なずけ、信長の動静を常に報告させ、信長が家康を討つという情報を早くから掴んでいたのです。

後年、秀吉が天皇の位を狙ったことについての質問について。
 
明智光秀が庇っていた時の正親町天皇の後継ぎの誠仁親王を秀吉が疱瘡と称し殺したと、「多聞院日記」の中にも明白にでている。そして、である。
 今までの御所では狭苦しいと京の中央の人家や社寺を取り払って豪華な聚楽第を建て、己が新御所とし、自分は後奈良帝の遺児なりと帝位を求め、自分が日本国は統治するからと、
兵を出し中国を征服して、御所にはお里帰りをしてもらおうと進言し、御所には中国の中央にて四ヶ国、各公家にも、それぞれ一ヶ国ずつ進呈しますといって‥‥承認をうけているのです。
中国よりの藤原政権に日本原住民が長年苛められた仕返しだと思ったんでしょう。フランシスコ派から新開発のチリー新硝石を入手できるものと九州の名護屋で自分も渡海するため待機していたんです。
しかし、スペインはアジアの植民地政策上から、日本の中国進出に危機感を抱き、逆に中国側に新火薬を渡した。
為に、最初は破竹の進撃を続けた日本軍は、北京に迫ることが出来ないで終わっている。日本史では「征韓の役」と言いますが、朝鮮は大陸への通り道で朝鮮占領は秀吉の計画にはなかった。
だから安全に通過するため、同族がよかろうと朝鮮の血を引く小西行長を先発にしたのです。加藤清正は今でいう橋頭保造りの為の工兵隊です。
しかし、久しぶりの故郷だと喜んだ朝鮮人部隊は寝返って、今度は日本人部隊を攻撃した。これを「降和」と言っています。


      桶狭間は信長の裏切り行為

   根岸直利の『四戦紀聞』によれば、信長が桶狭間でしたのは裏切りだと書かれている。和平交渉が進んでいるのに裏切ったんだから、この時の生き証人は佐脇甚八、山口飛騨守らの側近の四人だが全部、第一線にもってゆき棄て殺しにしようとしているのに、
彼ら四人は気づき、家康のところへ逃げ込んだ。信長には弱みのある家康は、いざという時の生き証人として彼らを庇護したわけです。
ですから、高天神城合戦の時などは、信長は家康にいくら求められても援兵を出さず、この四人を仕方なく家康は第一線へ出して殺してしまって、はじめて信長は生き証人の四人が死んだのを確認してから、
ようやく本腰を入れて長篠の合戦で、武田方を三段構えの鉄砲隊で信長は討ちとり、家康の味方をして勝ってのけたのである。
 

   秀吉は自分こそが、後奈良帝の遺児だと自称した程ゆえ千の宗易に味方するササラ衆を「茶せん」とし部落へ収容したけれど、信長に次いで部落解放を部分的だが敢行したのは家康であったといえる。
このことの裏づけとして、小田原征伐後関東へ移された家康は、江戸の荒川というのは、現在の川幅の四倍ぐらい大きい川だったわけで、そこの中州島には武蔵七党のくずれ、
つまり騎馬民族の「四つ」の三河島衆が前述のごとく何千と押しこめ居付限定地の橋のない川の処だった。
 領地が三倍から四倍に増えて、人手もない時だから、これを全部、御家人とか旗本にしたわけです。
よく小説や映画では「三河譜代の名門だ」というセリフが出てきて、三河出身者が多いと誤解されるが、
実際の三河譜代の旗本というのは太郎左と与五郎の二人だけです。これはいつの間にか、三河譜代というのは島の字を抜いたせいで、本当は江戸創業に働いた三河島譜代衆が本当の意味です。

  日本原住民の中でも、外来の血を一切受け入れず純血を通し続けた民族が「サンカ」なのである。 
だから、それを庶民と分けて、日本純民と名付けたわけです。今でこそ、庶民は妻の容貌が落ちるからとか何とかいって、子供一人か二人のところが多くても、総人口の八割五分おるけど、
片っ方のサンカ系の民族は平気で十人以上の子供を作っているわけですから、何年かたてば比律は違ってくる。だけど、かつてナポレオン戦争の時にオランダがナポレオンに負けて、世界中どこにもオランダの旗は立っていなかったのに、
日本の出島だけがオランダの旗を立てていた歴史があるが、唐が契丹に滅ぼされても(日本史ではこれを「宋」としている)、唐は藤原氏として、日本では厳然たる勢力を発揮しておったのです。

   それに七福神は七曜神風俗ですが、今はアラブじゃなくサンカの信仰です。だから、渥美半島になぜ米軍のサンカ部隊が上陸した意味は、伊良子岬で有名な半島全体が、今も毘沙門さん大黒さんと七福神の御旗がはためく土地。
今でこそ鯨のことで騒ぐけれど、江戸時代はアメリカの捕鯨船がみな日本へきていて、あそこだけは特別地域で薪とか水をアメリカ捕鯨船に配るのを大目に認められておったせいです。
だから田原藩の家老だった渡辺華山が、「慎機論」や「西洋事情御答書」を書いて、蛮社の獄に連座して割腹している。
つまり半島全体が、江戸時代にあっては特殊地でした。それに、家康四天王の大久保一族の出身地で半島の中間にはバス停で兵助畑っていうのがあるんです。
大久保彦左衛門が若い頃、女の子を引っ張ってレイプしていた畑だといいます。

  日本では古代史はテレビや芝居であまりしないから、判らぬ侭で今になってます。
が書かれているからといって全くひどすぎるものが多い。徳川時代の朝廷の歴史を書いたものに『皇統紹運録』という本があるけれど、これは監督官庁の京都所司代の検閲のものだから全部デタラメで、徳川に都合よく書かれている。
この当然の事も知らず、これを一級史料としているのだから、全く救われない。

   明治維新後、華族令が出た時に、畏れ多くも明治大帝が、華族は皇室の藩屏なりと仰せられ、為に徳川時代の歴史は何ひとつ解明されず、みな嘘ばかり今もまかり通っている。
明治の歴史屋は華族さま御抱えゆえ解明もしてない。ローマのバチカン法皇庁の法皇みたいに至上は今では象徴でいらっしゃるから、たとえば自民党の世の中だと自民党の天皇でいらっしゃるのは仕方のない話です。
 七世紀の白村江の戦いで郭ムソウ将軍が日本へ入ってきて占領してから、日本が中国大陸と対等になれたのは、秀吉の朝鮮征伐で明兵と対決した時と、明治の日清戦争からです。
今だってアメリカにもフォードもあるし、コダックもあります。失業率がいまや三割だの四割ともなれば日本は邪魔というか不用でしょう。
 といって、また原爆を落としてしまうよりは、アメリカの国益のために活かして使おうとしているのが現在です。そのうちには海外派兵も命じてくるだろう。敗戦国民ゆえ「ノオ」とはいえまい。
その時に、まさかアメちゃん万歳と叫んで死んでゆけぬ。
どうしても昔通りだろう。

 今は敗戦の結果、国ぐるみでアメリカの奴隷だが、日本の古代史をよく見直せば、やはり、原住民古代史は、どうしても奴隷史といえよう。となると、せめて外国の為に戦死せねばならぬ者たちの為にも、隠さない真実の日本の古代史を、
よく知っておかない事には、殺される日本人の若者としても、どうしても、やはり死んでも死にきれまい。

 さて、「クダラにあらざれば人にあらず」とか「クダラない奴」「クダラない事を言う」と、今でもこの言葉は残っていて、これは、かって百済が日本に君臨していた頃の名残なのだが、その桓武天皇の時代は、現代金大中の出身地の全羅南道なのだが、
周防とか安芸のように岡山に接近している中ツ国の近くは、魏の時代に多く移ってきた中国大陸人に接収されたから、大内の多々良も鉄屑精練をしていたことでここは大陸系であるが正しい。

なにしろ皆だれも黄色人種ゆえに区別をはっきりさせるのは、当て字の逆転しかないだろうとは、タタラを踏むの言葉からの考究である。
 皇国史観の頃は、えらいさまの歴史ばかりなので帰化族などといっても、日本列島にやってきた進駐権力に対して百済の人間が帰化帰順したのが正しく、白村江の戦いで母国を喪失してしまった百済人らがそうで、
彼らは忠誠を示そうと、同じ朝鮮民族なのに、高麗系や新羅系を蕃族として、日本原住民を追討目標にして人間狩りを行った。
よって高麗系は遥か昔の移住では日本書紀に合わないというのが、これまでの日本の古代史である。それに五代将軍の徳川綱吉の神仏混合令によって生まれた吉田習合神道が、異也を夷也としてしまった。
が、今では稲荷で、狐とされている。伏見稲荷の神官荷田春満は出府して、赤穂の討入りを徳川幕府の、つまり当局のヤラセとはみずに、加担するようは反体制志向に走ったのも、やむにやまれぬ原住民の血の流れであるといえよう。
つまりこれまでの古代史はみな作為されている。


 また淀川畔に幕末まであった淀姫宮の御神体はサマとワカとオノさまの御三体で、貝原益軒の紀行文には、淀殿と秀頼と大野修理の木像三体が、ご神体として信仰をあつめていると書かれてある。
昔は淀殿と大野修理の間に生まれた子が秀頼だったことは公然の秘密だったのです。
だから大阪落城の際三人は親子として、紅蓮の炎の中で仲良く死んでいったのです。これを庶民は憐れんで淀姫宮を建て信仰の対象とした。
いわば、この信仰は女上位の原住民のもので、オカミのいう賎民の臭いがつきまとって興味深い。
同時に信長は部落解放をしたが秀吉は部落差別を非常に強化したゆえ、淀殿は大野修理の子を産んで、秀頼を立て、日本原住民系の世にしようとしていたことが窺われる。


部落出身の人は出自を隠すためか部落の人を非常に嫌うものです。いま何とかリサーチとかいうところで、部落別の判る本を何万円で売ってるとかっていって、騒ぎまくっているが、
部落出身で成功した社長は、絶対に己が会社には部落の人間は採用したがらぬ方針のゆえだそうです。
成功したのだから、自分が部落だろうが、寒村の出だろうが、世間は一向に気にせず、むしろその努力や苦労を讃えるはずなのに、己が素性を隠したがるわけです。
しかし案外と民間では随筆などで明記しているようです。初めは部落解放をした家康も、大坂落城後は豊臣一族の再起を恐れ死期が近かったせいか、主だった生き残りを集め、九州に「豊臣松園」といった新しい部落さえも作っています。

 さて、蘇民将来すらも訳もわからずに、俳句の季題にさえも奇麗事にされて今は入れられている。が、それならば伊勢二見ヶ浦の「蘇民将来、来福之守」などという御札は、現代でも配布されていて、
伊勢市の各戸の入口に掲げられ出ている筈はないのにも気づかないらしい。
「蘇民将来とは、後に源氏系になる蘇我の民の後裔をさすもの」と、真実を解釈しなくては、まるで辻つまが合わぬ。
それを疫病除けなどとゴマカシはコジツケも甚だしいもので、ただ兄弟だなどと美化したり恰好づけだけしていては、全く話にも何にもならぬ。
 己れらの生まれ育った国は、愛し護ってゆかねばならぬ。それには明治大正みたいな押しつけの義務教育では駄目。
いい加減なゴマ化し歴史で恰好づけなどせず、真実の古代史をはっきりさせることが大切なのです。