日本残酷史 清水次郎長 やくざの変遷 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

【注】ここに書いた様々な『残酷な刑』は日本発祥のものなど一つもないということを理解してもらいたい。
   古くは世界最古の日本文化が花開いていた縄文時代には税も搾取、陰謀も謀略や殺人もない世界だった。それは「統治」という概念以前の相互扶助生活が長期間続いたからである。
 従って刑罰や拷問は、即ち中国大陸や朝鮮半島経由で彼ら中国人、朝鮮人によって持ち込まれ、その矛先は日本原住民だったのである。だから残酷刑が行われたのは稲作が入ってきて、税制度が持ち込まれた弥生時代以降となる。
 中世になってからはヨーロッパ列強のキリスト教の手先共宣教師が持ち込んだ磔、火炙りの刑が多かった。これを織田信長は宣教師の持ち込んだ魔女狩りの絵を見て真似て居る。
 だから日本人の残虐性をことさら強調するものではないことをここに断言しておく。


 テレビや映画に出てくるやくざの親分というのは、まことに気前よく子分に小遣いを呉れてやったり酒を呑ませる。だから、「いいなあ、あれが仁侠道なのか……」と、
 無思慮な青少年は自分に都合よく解釈してしまうらしい。
 そして今でも浪花節や講談の影響なのか、「良い親分とはいいものだ」と勘違いをするらしい。
 しかし親分が子分を集めるのは、彼らに施しをする為ではなく、親分が儲ける手段であるのはいうまでもない。今だって何処の会社にしろ社員を遊ばせてサラリーを与え、酒など振舞ってくれるような阿呆な所などはない。
 もし有ったら幽霊会社というか、いかがわしい所だろう。つまり、やくざの親分にしろ営利事業だから、遊ばせる子分など一人も置くわけはなく、働かせる為に採用するのだが、それでも、
 「親分ひとつ盃をやっちゃあ頂けませんか」「ならねえ、おめえなんかいけねえよ」といった具合に、三文小説やテレビでは、入社試験が厳しいようにでているから、
 (あれは子分になると遊んでいても小遣銭が貰え、楽をしながら男をみがけるから、なんとか難関をパスしようと志望者がわんさと押しかけるせいだろう)ぐらいに間違われているようである。
 というのも、そうした場面には決まって、
「せっかく堅気に生れてきなすった者が、どう間違ったって、こんな渡世に落ちこむこっちゃござんせん、おやめなさいまし」といったようなお為ごかしのような台辞が入るから、
 (そうなのか、親分は子分が増えると出費が多くなるから、それで拒むのか)と、うがった考えもしてしまうが、これまた変な話しである。
現在やくざは「暴力団」と呼称されるが、末端の子分が稼ぎ、月何万円かを組長に上げ、組長は上部団体の親分に何十万、何百万を上納している。
この構図は全く変わってないのである。


 さて、やくざの発生は戦国時代の足軽で、その頭分の者だけが寢ござを用いていて、その坐り場所を役座とよんで居たのが語源である。そして当時は、「宝引き」といって、ござの藁を引きあい、その長短で勝負をつけるのが價わしだったので、
ござの損料にと、足軽どもの賭博銭の一部を、「お役座さま御用」に取りあげていたのが始まりなである。
 しかし近世のやくざは、
 「享保二十年(一七三五)に大岡忠相が、道の者とよぶ街道を流して生活していた香具師や旅芸人の流しの河原者に、目立つように朱房十手朱鞘公刀を与え街道取締りに当てた」のが発端であって、
これが十八世紀に入ると、かつては「旅のつばくろは淋しかないか」と十手を振り回し歩いていたのが各地に住みっき定着しだした。

 当時の日本六十余州は大名領と幕府天領に区分されていたが、十手を持ち落ちついて各地にそれぞれ住み着いた連中は、それとは別個の「縄張り」を各自できめ合って作った。
 そして御上御用の捕物要具を揃え、下っ引きの彼らを食べさせてゆくため、つまり経費を捻出する必要上、賭博場を設けるのを黙認され、そのあがりをとっていた。
これは幕府が狡猾で彼らに一切の給与や設備費用を払わなかったからである。 
現在、競輪、競馬、競艇のギャソブルで市政の費用を棯出し、市警を賄っている土地も地方には多いが、これと似たりよったりの仕組みである。
 さて、「さかさ次郎長」という言葉かある。これは講談や、テレビ的発想で、「正義の味方、清水次郎長」の見地から、そうでない反対の者をさすのだが、丹念にさかのぼってゆくと「悪い奴ほどよく眠る」とばかり長生きしたばっかりに、
次郎長はすっかり善玉にされてはいるが、稼業が稼業ゆえ今の常識からすると、途轍もない残酷なことを平気でしていたものらしい。
 さはさりながら清水港の舟のりの伜に生まれ、米屋へ丁稚小僧にやられ、そこを飛び出した彼は、この社会でいう、「その筋の者」ではないからそれもまた仕方なかったのだろう。
   
  黒駒の勝蔵は善玉


 もともと駿河一国は安東村の文吉のものだった。
 世襲で代々が十手捕縄を預り、その反対給付で駿河一円の賭博場をもっている。だから次郎長も清水でこの渡世に入ろうとするのなら、文吉一家の盃を貰って、「お遊びに、寄ってらっしゃい」と客集めに飛び廻ったり、公用の捕物の時は向う鉢巻で、
 「神妙にしゃあがれ、御用。御用。」と、まっ先に十手を持って飛び出さればならぬが、素直に初歩からやって修業しようという、真面目さは次郎長にはなかった。
 そんな芸のないやり方では、いくら努力をしても安東一家の幹部にさえなれないのは、眼にみえていたからであろう。
「鶏頭たるも牛後たるなかれという譬えもあるから、こいつあ一番、考えなければいかん」と次郎長は一本どっこの自家営業やくざになったのである。
しかしこれは、「半可打ち」とよばれる流しのやくざである。

 余談だが、故安部譲二氏は十六歳で安藤組の若い衆になり、由来三十年間様々な修羅場を経て生き残ったが、幹部にも組長にもなれなかった。
戦後のやくざ社会では、ある組に属し親分から正式に杯を貰い二十年も現役を続けていれば大体独立し組長になれたものだ。しかし彼は珍しい存在で一家名乗りはできなかった。
何しろ親分の安藤昇は特攻隊崩れで愚連隊上がりだったから古くからのやくざから見れば次郎長と一緒で成り上がりである。一本どっこは格好はいいが周りは皆敵だらけ。
こんな中でシノギをすれば血で血を洗う抗争の連続で多くの子分が死んだ。
しかも戦後のどさくさで群雄割拠状態の東京渋谷で一家を立ち上げたのだから大変だった。横井事件で親分はパクられ組は解散。
こうなると彼は頭もよく、喧嘩も強く「胴師」としても一流で舎弟は何人も居たが食っていけない。結局足を洗って小説家になったが、これは運の良いほう。こうした不遇なやくざは今でもごまんといる。
 余談ついでに、テキヤと博徒の違いも記しておく。警察は現在ヤクザ全てを「暴力団」と括っているが、この両者は「シノギ(稼ぎ)」の内容が全く違う。
博徒は文字通り花札を使い素人集を集め「アトサキ」や、さいころ博打の「丁半」の上がりで食っていた。過去形にしたのは現在取り締まりが厳しく賭場など開いたらたちどころに逮捕だから、
金融、恐喝、薬物などで食っている。

一方の「テキヤ」は市町村の祭りやタカマチ(高市と書く。祭礼や縁日などで露店が並び、にぎわう所)で玩具や焼きそば店などの商売で稼ぐが、
近頃は暴力団と同一視され商売は難しくなっている。
テキヤ組織を北海道を例にとってみると、
ここは明治から昭和にかけ、名にし負うテキヤの金城湯池だった。道内三大組織といわれた源清田、寄居、丁字家を始め、極東、両国家、東京盛代、会津家、花又、武野、木暮、梅家、関東小松家……といった神農を祭る組織が全道にひしめいて、
博徒といえば、初代誠友会、越路家、鍛冶家、三心会等々の独立組織が在った。
その他に山口組、稲川会、住吉会、松葉会など内地の広域系列組織が一部、存するだけで、比率から見ても、圧倒的なテキヤ王国であった。
しかし今はそのほとんどが山口組系の傘下に入り、一本ドッコの組織は皆無になった。
閑話休題。

黒駒勝三は勤皇家

こうした次郎長は、十手捕縄を授っていないから、表だってはもぐりといわれる部類で、自分の土地では、開違っても火場所つまり賭博場は開けない。そこで旅へでて諸国貸元に目をかけて貰って、人手不足のところで働かせて頂くという渡世だった。
 処が、昔の映画や講談は、まったくいい加減なもので、今でいえば、「地方警察」にも当ろうという一定の住居を構え、お上から十手を預かるまともな親分を、「二足草鞋」だと悪者扱いにしてしまい、それより住所不定の浮浪者の旅鴉の方を、
「此方のほうが話の筋立てが自由になるし、背景も次々と入れ換えられて面白いから」といった都合で、これを主役にして善玉の二枚目にし、本可打とよばれる縄張りをもつ十手預りの本物を悪玉の敵役にしてしまっている。
 さて、駿河を縄張りにする安東村文吉と、川を境にした遠州は大和田の見付宿蔵小路の友蔵の、「しま」とよばれる支配下だった。友蔵はもともと大和田一家の舎弟分で、先代の実子ではなかったが後継ぎがなく、各地の貸元立合いの上で跡目をついだ男である。

 さて文久三年(一八六三)のこと。甲州郡代加藤余十郎の差紙が遠州中泉代官所へ届き、「黒駒の勝三一味を御用弁にせえ」と呼び出された友蔵は、代官手代の佐藤忠之進に対し、受け書を入れてその命令をうけた。
 ふだん賭博を開いて、がっぽり儲けているのは、こういうときの為だから否応はない。「へえッ」とかしこまって戻ってくるなり、「おい、お代官さまお指図の大捕物だ。野郎ども覚悟しやあがれ」となったが、「ちょっと待っておくんなせえ」と、今でいえば大幹部の中泉の太郎という角力取あがりの子分が友蔵をいさめた。
 というのは今でこそ黒駒の勝蔵といえば、(次郎長を善玉にする為の引立て役の悪玉)だが、当時の評価はまるで違っていたのである。
 
 大和十津川で後討死した天誅組の那須信吾も勝蔵の友達だったが、長州の木梨精一郎の息の掛った討幕派の大物として知られていた。
 だから中泉代官所が直接に、「謀叛人召捕」を指図をしたのだろうが、勝蔵の家の筋目は古く、黒駒の里が天皇家御牧場だった頃からの家柄で、江戸時代も、「伯家(はくけ)」とよばれ、王とたてられる日御門の白川卿に代々仕え、
この頃も従弟は古川但馬守の名で随身していた。勝蔵も三年後には、白川卿の推挙で縁辺の内堪木町の四条卿に仕え、維新の役では越後へ転戦し長岡の兵と戦っている。
 こうした黒駒一家ゆえ、うっかり召捕りに向ったら、大和田一家としては飛んでもない目にあおうと、太郎が、「ねえ金で済むことは金て片付けましょうや」と、大きな身休を屈めて諫めにかかった。
 「向うの子分のやつらに毒をかって、勝蔵を御用弁にするんか」と友蔵がいえば、「とんだおっしゃりかただ……黒駒のやつらは御親政の世の中になるまではと女を絶ち、だれ一人嫁とりもしてねえって奴らだ。
彼奴らに金をばらまいたって、勝蔵を裏切るこっちゃねえ」首をふりつつ、「まあ、まかせておくんなせえやし」と、太郎は七島ござ一つの身軽ないでたちで、すぐさま東へ飛んだ。
といって、(清水港にや鬼よりこわい大政小政……)がといった故広沢虎造の浪花節をきいて、「ひとつ力を貸してやっちゃあ頂けませんかえ……」と依頼をだしたのではない。
 次郎長の若かった頃は浪花節どころか、「でろりん祭文」もまだなく「ちょぼくれ」の時代だが、まるで関係はない。これは、「甲州黒駒一家なんて呆れた野郎共をしょっ引くのに、自分らが手を出すことはねえ。
これは半可打ちの清水一家に下請けさせたら、ええずらよ」と銭をもって行ったまでである。
 つまり今日でいえば警察が手一杯だから、「民間の警備会社へ依頼」するようなもので、清水港の次郎長一家は、ガードマンか殺し屋なみに扱われたものである。
 と書くと、今でも多い次郎長びいきから、「そんな事はあらすか」と、さか棯じをくらいそうだがフィクションと史実は違うのである。

     海さらえの謎

 次郎長は半可打ち


 いくら立派な素ぶりより人は、食うには米が必要で生きてゆくには、銭がなくてはならぬ。しかし清水港で賭場をもてない次郎長は、「あがりがのうては、やってゆけんずら」の状態だった。
 もちろん遅まきながらでも、改めて駿河一円の束ねをする文吉親分の許へ、「ひとつお盃を……」と頼んでゆけば、何んとかして貰える見通しはあったろうが、
 「それじゃあ、男の意地が立たんずら」と、この頃は遠く四国まで旅廻りをしていた。たにしろ遠くへゆけば顔を知られていないから、素知らぬ顔で賭場へ紛れ込み、
 「ひとつ遊ばせておくんなせえ」と駿河弁をかくして器用に賽の目をだす。「野郎ッいかさましやぁがったな」と追ってこられても叩っ斬って逃げる。
 時には草鞋をぬいだところで、「ここの親分には伜さんがないから、行く先は幹部の内から跡目をつぐのだが、そうなると邪魔になるのは彼奴だが……」と話をもってこられると、即座に、
 「何両だして下さるんなら、良うがしょう」今でいう殺し屋をやって金儲けをする。
 
「他行」といって子分達も、それぞれ各地に散らばって稼いでは銭を持ち帰ってこさせる。しかし旅ばかり年中してもいられぬから、時には清水へ次郎長も子分心戻ってくる。
 しかし、帰ってきては地元では殺し屋もいかさまもできぬ。では何をして生計を立てていたかという疑問がここで起きてくる。いくら賭場がもてないからといって、次郎長一家が屋台のそばやをしていたわけでもない。
かねて不思議に思っていたら、『国頭記』という明治初期の小冊子を入手しか。筆者の杉浦大蔵という人は、浜松市利町の諏訪神社の宮司で、戊辰戦争には「遠州報国隊」の隊長だったのだから、その内容は信頼できると思われるが、
「江尻海さらえは次郎長の仕事なり」という一章が在る。
 すると次郎長以下は、清水へ戻ってきて収入のないのをカバーする為に、海をさらっていたのかとなる。これは現代の浚渫業かと思うとそうでもない。

しかし、「がえん」と当時よばれた火消しの事を、「我焉(がえん)」と言ったが、字の如く「わが事終わる」という残酷な呼称で「溝さらえ」ともいっている。
が、これは、「清掃」の意味などすこしもなく、火事は消すが燃えかすの焼木などを放りこんだ儘で立ち去ってしまうから、
後で住民が溝をさらわねばならぬという悪口なのである。
 すると、海さらえも掃除ではないらしい。ならば次郎長一家は海で何をしていたかという命題に突き当たる。
 これをとく鍵は、かつて読売新聞に連載された『富嶽百景』の終りの方に、「江尻のおやき屋の娘の話に、その母の幼い頃……江尻の浜から沼津へ船がでる桟橋の先まで、次郎長一家の若衆が、
泣き喚く人間を棒でさして獣のように四つ足に運んでゆくのが毎夜恐しかっか」と紹介されている部分ではなかろうか。
 つまり陸でも化学肥料のなかった頃は、「屁も肥やしのたしになる。己が田畑の風上へ行って放つべし」といわれ、恥しがった若嫁が他人に音をきかせまいと、田畑はさけて木立の茂みに落し屁をしにいったのを見つかり、
「大事な物を無駄にこく嫁女だ」と、離縁された農村の話が明治時代まである。

漁師の利権は江戸期から


 農家だけで『なく漁家の場合も同じことで、ディーゼルエンジンの発動機船で魚を追ったり、遠洋漁業に乗り出す現代とは違うチョンマゲ時代は、一本釣りにしろ定置綱にしろ、己れの浜から真っ直ぐみえる沖合までが、その浜の漁師の領分だったのである。
 たとえば遠江の江尻の浜の場合は、「庵原川の松原」が、袖志ケ浦の漁師部落との境界線で、たとえ一センチでも袖志よりを泳ぐ魚は、江尻の漁師は捕えられない掟があった。
 処が、袖志ケ浦の者も領分は、はた打ち川の流れまでで、その先は興津川の川口まで清見寺に漁業権。そして向うは田子浦の領海。
 つまり遠洋まで魚をとりに行けなかった時代は、浜を土地土地の漁師が部落ごとに網分けして、そこへ魚を誘きよせるのが、大事な仕事だった。しかしプランクトンとか、暖流寒流などといった知識のなかった頃なので、
 「彼方の水は苦いぞ、此方の水は甘いぞ」とまるで螢狩りでもするみたいな具合に、「己れの浜へ魚類誘致」を心掛け、これが、「海さらえ」と、当時はよばれたらしい。

 現在でもこの風潮は残っていて、二十年前私の若い頃の部下の実家が函館市の根崎海岸にあった。私はカレイ釣りの餌である海ミミズを彼の実家の砂浜で採っていた。
夢中になって採っていて数十メートル移動したら、部下のお婆さんにえらく叱られ面食らったものである。
後で訳を聞くと、浜に面する家の前浜は全て区割りされていて、ここで採れるもの全て(昆布、ワカメ、ウニ、アワビ、カレイ、磯カニ、等)ミミズまでもが権利物だという。
だから、隣の家に一センチでも侵入すればトラブルになると聞いて驚いた記憶が在る。
さらに全国に二千八百もある漁港は全て税金で造られ、ここで一般の庶民は釣りもできず、ボートやヨットも係船できない。海岸はほとんどが漁業権で抑えられ、何かといえば「政府保証金」で肥え太っているのが漁師の実態なのである。
福島原発から出た放射線による汚染水の海洋投棄も五百億円もの莫大な保証金で地元漁港のごり押しで遅れている現実をみても漁師のエゴサが解る。

     簀巻(すまき)きのわけ

 つまり、水清ければ魚すまずというから、いくら海さらえの名目でも、まさか、「ワッショイ、ワッショイ」と水中へ潜って、流木や海草の類をむしって片づけ、清掃していたのではないらしいと考えられる。
 というのは、やくざが賭場荒しを、「この野郎。太い奴だ。簀巻きにして水中へ沈めてしまえ」というセリフも、放りこんでしまうのなら勿体ないから古俵や叺でもよいのにと考えられるが、「簀」というのは水中に生える葭草だから、
藁と違って水にふやけたり腐らない。
 だから簀で巻いて沈めると水底の草に絡みついて、いつ迄も他へ流されずに定着する性質が在る。
 昔の人は、何んでも物を粗末にせず、親兄弟が死んでも、「蜜柑の木のこやしには一番よい」と山へもって行って埋めたり、猟師は鳥寄にと、「風葬」といって死骸を樹に吊したりしたのだから、いかさまをした奴は魚の餌用に、
「これで前非をつぐなえ」としていたのかもしれないし、次郎長一家も江尻の網元から礼を貰って、生かしておいても仕様のない奴を沈めていたのだろう。
 
なにしろ終戦直後に、『日本残酷物語』という本がでて、日本の漁村では暴風雨の時、「故意に灯台を消して船を難破させ、その積荷を奪い取っていた土地が多い」とあった。
 そこで、衝撃的な暴露として話題になったが、あれもこうした解明をしてゆくと、「もっと実際は、それより残酷なものではなかったろうか」と、どうしても考えざるを得ない。
 というのは、運んできた積荷がみな軽くドンブラコと浮いていたとは限らないし、それに五百石積み干石積みといった大きな船でさえ、転覆してしまう激浪の中へ、積荷を奪おうとしても浜から漕ぎ出す小舟が近よれるわけとてない。これは、
 「田畑に肥やしをやらぬと作物が育たぬように、浜でも水中へ時たま餌づけしてやらぬと魚がとれぬ」という考えから、(難破させる本当の目的)は、船を己れの浜の近くで沈め魚の巣にし、
乗組員を魚へのご馳走の生き餌にと狙ったのではあるまいか。
 つまり今でこそ、海浜の観光ホテルでは、「生き作りの活魚料理」とか「残酷料理」を看板にして客をよんでいるが、次郎長の若かった頃は、まるっきり反対で魚を浜へよぶために、人間の生き作りが出されていたものらしい。

これは嘘みたいだが本当の話で、『日本霊験記』などみると、架橋する時に杭の下へ、人柱といって生きている人間を、やはり葭草などで編んだ簀にまいて、
「水神さまへの供養である」と沈めたのも、そうしておけば大雨の時にも、(生き餌の御馳走になった恩返し)にと水神の命令で、魚たちが橋杭を守るのだと説明されているが、これとても、
「橋の下に魚が集れば、釣人も降りてゆき、杭がいたんだ時の早期発見の役に立つ」といった昔の生活の知恵ではあるまいか。
 
 たにしろ簀というのは、今日のシート代りに昔は防水用に使われていたもので、叺や古俵とは違い、茶店などに立てかけてある葭簀でも二問幅のもので天保銭三枚だったというから三百文もしたものである。
そうした値打ちのあるものを使うからには、それだけの訳があったのだろう。さて次郎長一家の面々も、その当時は、「神隠し」といった言葉があったから、通行中の人間が蒸発して簑巻きにされ水底の酊にされても、
今のようにテレビで探される亊もなく気楽だったろうが、あまり寝覚めはよくなかったろう。
 だから富士川天竜川での黒駒との決戦。そして荒(高)神山への殴りこみで、法印の大五郎を初め主たった子分はみな敵陣へ突きこみあっさりと討死をとげているのもそのせいかも知れない。
しかし、唯ひとり次郎長だけは、天寿を全うし長生きをしている。これも早や死した哀れな子分達からみれば残酷きわまる話である。